2010/06/15

平城京で起きた最初の政変・長屋王の変(ながやおうのへん)

六衛府の兵によって突然取り囲まれた左大臣・長屋王の邸宅

発掘中の長屋王邸跡(東南から)
発掘中の長屋王邸跡(東南から)
(イトーヨーカドー奈良店正面に置かれた説明板より)

長屋王邸の位置
長屋王邸の位置

■ 神亀6年(729)2月10日の夜半、上弦の月が冷たく照らし出す平城京の都大路を、六衛府(衛門府、左・右衛士府、左・右兵衛府、中衛府)の兵士たちが足早に駆け抜けた。彼らが目指したのは、左大臣として政府首班の座に君臨する長屋王の広大な邸宅である。

■ 長屋王の邸宅は、平城京の左京三条二坊にあった。左京三条二坊とは、左京の二条大路と三条大路、および東一坊大路と東二坊大路に囲まれた坊をいう。その坊の内部は、さらに東西・南北に各三本通る小路によって一辺130m程度の16区画に分けられていた。それぞれの区画を当時は”坪”といい、朱雀大路側の北端の坪から順に千鳥式に1から16までの番号で呼ばれていた、長屋王邸はそのうちの1・2・7・8の四坪分を占拠していた。現代流に言えば、260mx260mの敷地を占めていたことになる。

イトーヨーカドー奈良店
イトーヨーカドー奈良店
■ 長屋王の邸宅跡には、現在イトーヨーカドー奈良店が建っている。以前、この建物は奈良そごうデパートのものだった。奈良文化財研究所は昭61年(1986)9月から平成元年(1989)にかけて、そごうデパート建設予定地の発掘調査を実施し、夥しい数の木簡を発見した。それらの木簡の解析から、この場所は和銅3年(710)から神亀6年(729)までの19年間長屋王の一家が居住していた邸宅の跡であることが判明した。発見された木簡は、長屋王家木簡と呼ばれ、4万点にも達する。

■ 周囲を築地塀で囲まれた4坪分の敷地は、中央から南よりは居住・儀式空間で内郭(ないかく)と呼ばれ、中央から北側は家政空間になっていた。内郭の中央には床面積360平米の正殿とその脇殿が建ち、西側の区画を占める西宮は、妃の吉備内親王や子供たちの居住空間だった。一方、東側の区画は儀式空間で瓦葺きの建物が建っていた。

長屋王邸復元図(東南から)
東南方向から見た長屋王邸の復元図(イトーヨーカドー奈良店正面に置かれた説明板より)

■ 長屋王邸の正門は南門だったが、二条大路に面しても北門を開いていた。二条大路は平城宮の南面を東西に横切るメインストリートである。したがって二条大路に面して個人の邸宅の門を開くことは禁じられていた。長屋王邸だけは別格だったようだ。

■ 六衛府の兵を総動員して長屋王邸を囲ませたのは、式部卿の藤原宇合(うまかい、694-737)だった。彼に従ったのは、衛門佐(えもんのすけ)の佐味虫麻呂(さみのむしまろ)、左衛士佐(さえじのすけ)の津島家道(つしまのいえみち)、右衛士佐(うえじのすけ)の紀佐比物(きのさひもち)らだった。

■ これらの衛府の次官たちから兵が所定の配置に着いたとの報告を受けると、宇合は馬を北門の前に進めて、部下に開門を命じた。二人の兵が北門の堅い扉を槍の石突きで叩き、大声で「開門、開門」と叫んだ。その声に答えるように、やがて門が内側に開き、一人の痩躯の老人が姿を現した。

■ 兵士たちの矢衾(やぶすま)に囲まれながら、老人は鎧甲で身を包み栗毛の馬上で手綱を握る宇合の姿に鋭い視線を向けると、野太い声でこう聞いた。
「これは、これは・・・、藤原の宇合殿ではないか。当家の家令、赤染豊嶋(あかぞめのとよしま)でござる。このような夜更けに、これはいったい何の騒ぎでござろうか?」

長屋王邸の位置
長屋王邸の位置
■ 赤染豊嶋は、長屋王の父・高市皇子(たけちのみこ)に従って壬申の乱を戦った猛者である。すでに齢は六十に達していたが、長屋王家の家政を預かる長官として、その声の鋭さは衰えを見せていない。彼の非難を込めた視線を受けた司令官は、藤原不比等(ふひと)の三男でこの時36歳である。12年前の養老元年(717)に養老の遣唐使が派遣された際、遣唐副使として入唐し、帰国して名を馬養(うまかい)から宇合に改めた。

■ 「我らが兵を動かしたは、帝のご命令でござる。本日、ある者からの密告があり、そこもとの主、長屋親王どのに国家転覆罪の嫌疑がかけられた。よって明朝、取り調べのために朝廷から窮問使が派遣されることになった。取り調べが終わるまでは、何人も当家への出入りを禁止せよとの命令である。よって、我らは当家を取り囲む仕儀と相成った。その旨、親王どのにお伝え願いたい」

■ 親子ほども年の違う豊嶋に向かって、宇合は少しも臆せず整然と言い放った。彼は神亀元年(724)に式部卿(しきぶきょう)に任命され、すでに5年もその要職にある。式部卿とは、文官の人事考課や叙位、任官、行賞などを司る重要な式部省の長官である。彼が式部卿を拝命した年には、持節大将軍として蝦夷に出兵し、反乱を平定して帰還した。その功により、従三位に昇叙されている。また、3年前には、式部卿のまま難波宮造営の責任者にもなっていて、その辣腕ぶりは広く知れ渡っていた。藤原四兄弟の一人として、藤原式家を開いた人物である。

長屋王家系図
長屋王家系図
■ 「ほほう、これは異なことを承った。わが主が国家転覆罪を企てたとな。ご承知の通り、長屋王は今上帝の即位と共に、左大臣を拝命され、国家を守る側の重鎮である。その主が国家を傾けようとする企てなど起こすはずがなかろうが・・・。そのことは、日頃の主の言動から、家令たるこの吾が一番よく存じておる。何かの間違いであろう」
さすがは壬申の乱の生き残りである。大勢の兵たちの矢衾など眼中にないように、豊嶋は平然と言い放った。一兵たりとも屋敷内には入れさせないとの気迫が全身にみなぎっていた。

■ 「間違いかどうかの取り調べは、夜明けを待って行われる。親王の処遇が決定するまでは、何人もこの邸宅の出入りを禁じられた。我らは今より以後、その監視の任にあたる」
「それはご苦労なことでござる。事の成り行きは、親王どのにお伝え申そう。だが、我らが許可なく一歩でも邸内に侵入する兵があれば、応分の対応を取らせていただく。ご承知あれ」
そう言って、豊嶋は後ろを振り返った。

長屋王邸跡から出土した木簡
長屋王邸跡から出土した木簡)
(イトーヨーカドー奈良店正面に置かれた説明板より)
■ それが合図のように、若い武将が10人ほどの私兵を門の内側に整列させると、槍を構えさせた。その若い武将は大伴氏の一族で、名を大伴子虫(おおとものこむし)と言った(後で述べるように、彼の名は9年後に再び史書に登場する)。豊嶋が屋敷内に入ると、長屋王家の北門がピタリと閉じられた。後は、数百の兵士に取り囲まれているのが嘘のように、夜の静寂があたりを支配していった。

■ 赤染豊嶋は実在の人物である。後年、長屋王邸跡から出土した木簡の中にも、彼の名を記したものが見つかっている。



事件の発端は2月10日の左京の住人の密告にあり

イトーヨーカドー奈良店の説明板
長屋王邸跡の説明板
■ 事の発端は2月10日の早朝に起きた密告にあった。平城京の左京の行政をあずかる左京識に、「恐れながら」と出頭してきた二人の男がいた。いずれも左京の住人で、従七位下の漆部君足(うるしべのきみたり)と無位の中臣宮処東人(なかとみのみやどころのあずまひと)である。彼らはこう訴え出たという。
「左大臣で正二位の長屋王様は、ひそかに左道を学んで、国家を傾けようとなさっています」

■ 「左道」とは国家が許可していない邪(よこしま)な術のことをいう。当時は仏教側から見て道術や符禁のたぐいが邪な術と見なされていた。おそらく長屋王は密かに道教の呪術を学んで、国家を傾けようとしていると訴え出たのであろう。天武天皇は道教に心酔した君主として有名である。その孫世代にあたる長屋王も、神仙を夢み、道教に凝っていたことはありうることだ。

■ だが、密告の内容は具体的でない。時の天皇は聖武天皇(在位724 - 749)である。まだ29歳の若き天皇を呪詛によって呪い殺し、代わって長屋王自身が登極しようとしたというのだろうか。しかし、当時の長屋王の政界における地位を考慮すると、およそ考えられないことである。5年前の神亀元年(724)2月4日、首皇子(おびとのみこ)が聖武天皇として即位した日、長屋王は左大臣となり朝堂の頂点に立った。

長屋王邸の発掘写真
長屋王邸の発掘写真
■ さらに、長屋王邸から出土した木簡によって、長屋王は”長屋親王”と呼ばれていたことが判明している。律令制度では、「親王」は天皇の息子または孫に天皇から直接「親王宣下」されない限り名乗れなかったとされている。

■ よく知られているように、長屋王の祖父は天武天皇、父の高市皇子は天武天皇の第一皇子で、壬申の乱の立役者だった。本来ならば、草壁皇子以上に有力な皇位継承資格者だったが、母親が地方豪族の胸形尼子(むなかたのあまこ)の娘だったため皇位を継ぐことはできなかった。しかし、高市皇子は皇親政治を行った天武朝の有力なブレーンだったし、持統朝では太政大臣の要職にあり別格扱いの皇族だった。長屋王はその長子である。

■ 一方、長屋王の妃の吉備(きび)内親王は、草壁皇子阿閉皇女(あべのひめみこ、=元明天皇)との間に生まれた次女で、氷高皇女(ひたかのひめみこ、=元正天皇)の妹、軽皇子(かるのみこ、=文武天皇)の姉だった。そのため、霊亀元年(715)2月、元明天皇は吉備内親王が生んだ子女はすべて皇孫として扱うとの勅を出している。したがって、その父である長屋王も、親王の処遇を受けることになったものと思われる。

藤原氏の略系図
藤原氏の略系図
■ だが、養老4年(720)8月に父・藤原不比等(ふじわらのふひと)を失った藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)から見れば、太政官政治を領導する長屋王の存在は一族の繁栄を遮る巨大な壁に見えたに違いない。四兄弟のいずれもが、機会があればいつかは排除しなければならない存在として長屋王を見ていたとしても不思議はない。

■ 漆部君足と中臣宮処東人が訴え出た左京識の当時の長官・左京大夫(さきょうのだいぶ)は、藤原四兄弟の末弟・藤原麻呂(ふじわらのまろ)、当時35歳だった。二人の告訴の内容が下級役人から上がってきたとき、麻呂はそれが長屋王を罪に陥れようとする虚偽の告訴、すなわち誣告(ぶこく)であることを、おそらく気付いたであろう。

■ だが、麻呂はこの密告を長屋王の失脚に利用できるのでは・・・と即座に判断したに違いない。直ちに、彼は他の三兄弟に密告の仔細を知らせた。四兄弟は長男の武智麻呂(むちまろ)の邸宅に集まると、問題の処理と対策を練ったであろう。なにしろ相手は、政府首班の座にある左大臣である。その失脚を狙うには、練りに練った謀略が必要である。

聖武天皇
聖武天皇
■ 2月10日の夕方になって中納言の武智麻呂は内裏に参内すると、聖武天皇の拝謁を願い出て、長屋王謀反(むへん)の密告があったことを奏上した。その話を聞いたとき、聖武天皇はとても信じられないといった顔をした。長屋王を良く知る天皇は、まさか左大臣が己を亡き者にしようと企んでいるとは咄嗟に思えなかった。だが、天皇には思い当たることがあった。2年前の神亀4年(727)閏9月29日、天皇と夫人(ぶにん)の光明子(こうみょうし、後の光明皇后)の間に待望の男子が産まれた。その皇子は基(もとい)皇子と名付けられ、直ちにに皇太子に立てられたが、翌年の9月13日、満1歳に満たないであえなく夭折してしまった。長屋王の事件が起きるわずか5ヶ月前のことである。

■ その悲しみからまだ立ち直れないでいる天皇は、その死因がひょっとして長屋王の呪詛によるものかもしれないと考えたとき、冷静な判断力を失って怒りがこみ上げてきた。天皇はただちに固関(こげん)を命じた。固関とは、平城京内での不穏な動きが発生した場合、それが東国や北陸に波及しないように三関(鈴鹿、不破、愛発)を封鎖することである。天皇はまた、式部卿の藤原宇合に六衛の兵を用いて長屋王の屋敷を包囲すること命じる勅許を下し、武智麻呂に対しては政府の高官を率いて長屋王邸に乗り込み、密告の真偽について取り調べるよう指示した。



2月11日、窮問使が長屋王邸に乗り込む

平城宮の朱雀門
平城宮の朱雀門

■ 神亀5年(729)2月11日の朝は重苦しい雰囲気の中に明けた。出勤のため日の出前に朱雀門前の広場に参集してきた官人たちの顔は一様に緊張していた。詳しい事情は分からなかったが、昨夜の内に重大な事件が起きたことを各自は肌で感じ取っていた。朝堂院に入ると、左大臣に重大な容疑が掛けられたため、政府高官を補充する3名の「参議」が新たに任命されたことを知らされた。太宰大弐の多治比県守(たじひのあがたもり)、左大弁の石川石足(いしかわのいしたり)、および弾正尹の大伴道足(おおとものみちたり)である。

■ 午前10時、政府の高官が窮問使(きゅうもんし)として輿で長屋王邸に乗り込んできた。天皇家の長老で一品の舎人親王(とねりしんのう、676 - 735)と新田部親王(にいたべしんのう、? - 735)の両名、さらに大納言の多治比池守、中納言の藤原武智麻呂、右中弁の小野牛養(おののうしかい)、少納言の巨勢宿奈麻呂(こせのすくなまろ)の6人である。一行は、藤原宇合が警護する長屋王邸の北門から邸内に入った。

長屋王邸の正殿跡復元イメージ
長屋王邸の正殿跡復元イメージ
■ 長屋王は窮問使の一行を邸宅の正殿に迎えると、上座への着席を進めた。長屋王自身は下座の席の前に立つと、
「お役目、ご苦労でござる」
と、舎人親王と新田部親王に向かって慇懃に叩頭した。他の4人は長屋王の眼中にはなかった。朝堂でいつも顔を合わせている部下たちである。

■ 家令の赤染豊嶋(あかぞめのとよしま)はすでに昨夜の内に、長屋王に謀反の容疑がかけられ窮問使の来訪があることを告げていた。身に覚えのないことである。自分が天皇を呪詛する人間でないことぐらいは、日頃朝堂で一緒に政治を行っている彼らが一番良く分かっているはずだ。したがって形式的な窮問で容疑はすぐに氷塊すると思われ、長屋王の仕草にゆとりを与えた。

■ 「吾が左道で国家を傾けようとしているとの”誣告”があったそうだが、その詳しい内容をまず拝聴いたしたい」
 長屋王は、正面に座った藤原武智麻呂に向かって微笑むと、自らこう切り出した。6人の窮問使が派遣されてきたが、皇族で高齢の舎人親王と新田部親王は飾りにすぎない。実質的な窮問使は、藤原不比等亡き後藤原一族の中心的存在となった40歳の中納言・武智麻呂であることを見抜いての問いかけだった。彼は”密告”ではなく”誣告"という言葉を使った。この手の訴えが、特定の人物を陥れようとする虚偽の訴えであることぐらいは、とっくに見抜いておられるであろう、と言外に匂わせた。

■ 「されば・・・」と、武智麻呂も軽く一礼すると、口元に微笑を浮かべながら、左京の住人二人が昨日左京識に出頭してきた経緯を淡々と話した。その微笑は、取るに足らぬ訴えでご心労遊ばすなと言っているようにも、長屋王を意識的に油断させようとする演技にもとれた。
武智麻呂の話を聞き終わると、長屋王は腹を抱えて笑いながらいった。
「なるほど、なるほど。二人の訴状によると、吾は呪詛によって帝に危害を加えようとした謀反(むへん)の罪を犯したことになりますかな。謀反は国家や社会の秩序を揺るがす重罪の中でも第一とされるもの。この長屋も大変な罪を背負うことになったものだ」

元興寺極楽坊
元興寺極楽坊
■ だが、武智麻呂は厳しい目を長屋王に向けた。そして、聞いた。
「親王どのは2日前、元興寺の大法会で沙弥(しゃみ、在家の仏教信仰者)を笏で打たれましたかな?」
 話の矛先が急に変わって、その意図が見えなかったのか、長屋王はしばし言葉に詰まった。
「ああ、その日は吾が大法会の司となり、衆僧に食事を供える役目を担っていた。食事の準備の様子を見ようと配膳所に行くと、見苦しい姿の沙弥が施しを受けていた。それで、その場を立ち去るように叱責して手にした笏で頭を打った。打ち所が悪かったのか、頭が切れて血が噴き出し、沙弥は恨めしげに涙を流しながらその場を立ち去った。それがどうかしたというのか?」
「それはまずかったですな。実は、その沙弥は親王を訴え出た二人とは昵懇の間柄でした。沙弥の話を聞いた二人は、これはひどいと親王の仕打ちに義憤を感じ、親王の悪事をさらけ出そうと心に決めたそうです」

■ 「それで、その二人は吾が呪詛によって天皇の命を縮めようとしたと訴え出たというのか?」
「いいえ、彼らは親王どのが今上帝を亡きものにしようとなされたと訴えたのではありません」
「ン?」
「彼らは、親王どのが厭魅(えんみ) によって次期天皇を亡き者にされたと訴え出たのです」
 厭魅とは、呪いをかける相手に見立てた人形を作り、その人形の急所にあたる部分を責めることによって、相手を病気にさせたり、命を奪ったりする呪術のことをいう。
「何と・・・ 吾が厭魅の術で皇太子を呪い殺したと言われるのか?」
長屋王は唖然として、開いた口が塞がらなかった。
「左様。彼らはそのように訴え出たのです。そして、これは立派な国家転覆罪にあたるのではないかと・・・」

元興寺極楽坊
光明皇后をモデルにしたと伝えられる
法華寺の本尊十一面観世音菩薩立像
■ かっての右大臣・藤原不比等の邸宅で夫人(ぶにん)の光明子が男子を出産したのは、1昨年の閏月の9月末である。聖武天皇と光明子の間には、養老2年(718)に阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が生まれていた。だが、皇子にはなかなか恵まれなかった。やっと待望の男子が出産したのである。天皇の喜びは尋常なものではなかった。10月5日、天皇は中宮に出御し皇子誕生を祝って大赦を行なった。翌日には親王以下、下級の女官に至るまで身分に応じて物を賜った。

■ 10月に入るとすぐに、長屋王も不比等邸を訪れて皇子の無事出産を祝っている。その直後である。長屋王は天皇に呼び出されて、ある相談を持ちかけられた。基(もとい)皇子と名付けられたその赤子を皇太子に立てたいが、左大臣としての意見はどうか、というのである。乳飲み子の立太子など聞いたことはない、もう少し皇子の成長を待ってからでもよいのでは・・・、と長屋王は思った。と言うのも、立太子を急ぐ背景には藤原四兄弟の思惑があることは、うすうす感じられたからである。だが、天皇の喜ぶ姿を目の当たりにすると、むげに反対する訳にはいかなかった。

■ 皇子誕生から1ケ月が過ぎたばかりの11月2日、聖武天皇は基皇子を皇太子に立てることを天下に宣した。しかし、明けて神亀5年(728)8月、皇太子が病気になり、病は日を重ねても治らなかった。8月21日、天皇は仏法の力を借りて我が子の病気を治そうと、観世音菩薩像177体を作り、観音経177部を写して、一日行道を行なうことを命じた。また大赦を行ない、病気平癒を祈願した。8月23日には皇祖の諸陵に平癒祈願の幣帛を奉らせた。しかし、そうした甲斐もなく、皇太子は9月13日に薨じた。

■ 天皇という最高権威者の立場をなぐり捨て、一人の親として我が子の病気平癒に狂奔する姿を間近に見て、長屋王も聖武天皇に深い同情を抱いていた。だが、皇太子病没の原因は己の厭魅によると世情で噂されていようとは・・・。まったく予期せぬ言いがかりだった。
「武智麻呂どの、言って良い冗談と悪い冗談がござる。吾が呪術で皇太子のお命を縮めたとは聞き捨てならぬ。事と次第によっては、こちらも許しませんぞ。何を証拠にそのような風評を信じられる?」
 長屋王は、いままでの余裕あるポーズから一転して、厳しい視線を武智麻呂をはじめ窮問使の一人一人に向けた。
「証拠ならござる。訴人たちは、その証拠となる品をもって左京識に訴え出てまいった。それが何かとお思いか?」
「・・・・・」

元興寺極楽坊
平城京出土の人形代と斎串(いぐし)
■「お分かりにならないようなら、お教えしよう。木製の人形代(ひとかたしろ)でござる。心の臓の部分に釘穴があり、裏側に「基」と判読できる墨書がござった。訴人たちは、その形代をこの邸宅のゴミ捨て場で偶然見つけたと申しております。邸宅内で皇太子を呪い殺す呪術が行われた何よりの証拠でござる」
「たかが坊主の頭一つを叩いたくらいで、この左大臣を逆恨みして讒言しようとは、不届きな。確かに吾は道教に惹かれてはいるが、厭魅で人を呪い殺したなどとは、濡れ衣もよいところだ。この上は、帝にお目にかかって身の潔白を証明いたす」
「いや、それはなりませぬ。帝のご命令は、われら6人で親王どのの嫌疑を確認した上で断罪せよとのことでござった。親王どの嫌疑が晴れぬなら、この屋敷から一歩も出ることは許されませぬ」


■ 藤原武智麻呂を中心とする窮問使の厳しい詮議は、こうした調子でおそらく夜半まで続いたであろう。事件の背後には長屋王の失脚を狙う藤原一族の策謀があったことは否めない。左京の住人二人の密告内容の詮議という建前を取りながら、その目的は、藤原氏の進出を阻止しようとする左大臣の失脚である。密告があったことは単なるとっかかりに過ぎず、藤原氏にとっては願ってもない好機だったにちがいない。あるいは、歴史の深読みが許されるなら、密告自体も藤原氏が後ろで糸をひく策略だったかもしれない。

■ 基皇子の突然の病死は、多くの人々から不審を抱かれたようだ。単なる病魔による死亡ではなく、他に何か原因があるのでは・・・との疑心を世間に植え付けていた。藤原一族はそうした世情を巧く利用した。当時、長屋王には吉備内親王所生の4人の男子がいた。従四位下の膳夫(かしわで)王、無位の桑田王葛木(かづらき)王鉤取(かぎとり)王である。 元明天皇によって吉備内親王が生んだ子供はすべて皇孫として扱うとされていて、天皇の直系ではないけれど皇位継承権を有していた。それだけに、長屋王家の存在は微妙だった。

■ こうした皇位継承の先行きを見越して、藤原一族はすでに次の手を打ち始めていた。聖武天皇の皇太子時代に結婚し、天皇の即位とともに夫人(ぶにん)の待遇を得た光明子は、上記のように神亀4年に基皇子を産んだが、翌年夭折してしまった。これを期に藤原一族は光明子を皇后に冊立するよう盛んに運動を展開しだした。天武天皇の後を継いだ持統天皇の前例もあり、光明子を皇后に冊立できれば、今後皇子を出産できなくても、聖武天皇が薨去したとき皇后が次期天皇として登極することが可能になり、藤原一族は安泰である。

■ 長屋王は皇親政治家の立場から、当然こうした藤原一族の野望に正面から反対した。藤原一族から見れば、長屋王は不倶戴天の存在であり、なんとしても失脚させなければならない。そう決めた以上、舎人親王と新田部親王を除く他の3人の窮問使(きゅうもんし)を抱き込むことは、武智麻呂にとって容易だった。見方によっては、窮問使が長屋王邸に到着した時点で、王家の運命はすでに定まったと言って良い。



長屋王の変の結末

復元された平城宮の第一大極殿
復元された平城宮の第一大極殿

■ 夜半までの審議の結果、長屋王の行為は謀反(むへん)に当たると窮問使は断定した。謀反とは、大宝令に定められた国家や社会の秩序を揺るがす八つの重大な犯罪(八逆:謀反、謀大逆、謀叛、悪逆、不道、大不敬、不孝、不義 )の第一をいう。皇親や五位以上の官人が八逆の罪を犯しても、それが第四の悪逆以上でなければ家での自尽は許された。長屋王の罪状が謀反と断定された以上、当然自邸での自尽は許されない。

■ 長屋王は、武智麻呂との激しい口論の応酬の中で、この糾問劇が藤原一族が仕組んだ巧妙な罠であることをはっきり自覚した。長屋王とて、己の存在が藤原四兄弟にとって煙たい存在であることぐらいは自覚していた。しかし吾はかっての太政大臣・高市皇子直系の皇親である。さらに、藤原不比等の娘・藤原長娥子(ふじわらのながこ)を妃としていて、生前の藤原不比等とは良好な親戚関係を維持してきた。たとえ藤原四兄弟と政治的に対決するようなことになっても、妹の連れ合いを失脚させるほど激しい牙をむくとは予想もしなかった。そこに長屋王の油断があった。

■ 断罪を言い渡されて、長屋王はキーッと唇を噛んだ。今更動き出した歯車を止められないと覚悟したのだろう。
「これは藤原一族の謀略でござる。吾は断じて無罪だ。厭魅で人を呪い殺そうなどとは一度も考えたことがない。そのことは吾が誰よりよく知っている。天も、そして地もそのことを知っている。歴史はやがてそのことを証明してくれるであろう。各々がたは間違っている」
 だが、長屋王の最後の言葉を、武智麻呂は平然と聞き流し、勝ち誇ったように言った。
「帝の特別な計らいによって、邸宅での自尽を許すとのお言葉である。いかがなされるか?」
しかし、長屋王はそれには答えずに席を立つと、ふらついた足取りで正殿を出た。


■ 長屋王は刑殺されるより自殺した方がよいと考えたのであろう。2月12日、妻で二品の吉備内親王と息子の膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王らに毒を飲ませた上で絞殺し、その後、長屋王は自ら首をくくった。一説には長屋王も服毒自殺したとも伝えられている。長屋王の死亡年は『懐風藻』によれば54歳、『公卿補任』によれば46歳だった。
(注:桑田皇子は吉備内親王の子ではなく、石川夫人の子とする説がある)
長屋王墓に比定されている梨本南2号墳
長屋王墓に比定されている梨本南2号墳
吉備内親王墓墳
吉備内親王墓

■ 長屋王邸に仕えた家令帳内(ちょうだい、王家の職員や従者)は全員が即日捕らえられて、左右衛士府や左右兵衛府に拘禁された。しかし、彼らには罪はないと、翌日釈放された。また、長屋王と交流があった外従五位下の上毛野宿奈麻呂(かみつけぬのすくなまろ)ら100人近くの人々も捕らえられた。だが、宿奈麻呂ら7名が流罪になっただけで、その他は全員赦免された。

■ 長屋王が亡くなった翌日の2月13日、聖武天皇は長屋王と吉備内親王の遺骸を生駒山に埋葬することを許した。その勅には、「吉備内親王には罪がないから、例に準じて葬送せよ。ただ笛や太鼓による葬楽はやめよ。長屋王は犯した罪により誅せられたのであるから罪人である。とは言え、皇族なのでその葬り方を醜いものにしてはならない」とある。しかし、葬地は明確に示されておらず、『延喜式』にも長屋王の墓については記録されていない。現在、奈良県の平群町梨本にある梨本南2号墳が長屋王墓に比定されている。長屋王墓から北西約150mの住宅に囲まれた丘陵斜面には、吉備内親王墓がある。

■ 2月21日になって、長屋王の犯罪を密告した従七位下の漆部君足(うるしべのきみたり)と無位の中臣宮処東人(なかとみのみやどころのあずまひと)に対して、外従五位下の位が授けられ、さらに食封(じきふ)30戸、田30町が報償として下賜された。『続日本紀(しょくにほんぎ)』はさらに、このとき漆部駒(うるしべのこま)にも従七位下を授け、物を賜ったと記す。漆部駒は漆部の長と思われ、君足たちが長屋王を密告するとき相談にあずかった人物だろう。

■ 長屋王の犯罪を密告したことが誣告であったことは、当時の人々には自明だったであろう。だが、藤原一族の権勢を恐れて誰も公には語らなかった。長屋王を失脚させた藤原四兄弟が、聖武天皇の夫人・光明子(当時29歳)を皇后に冊立することに成功したのは、事件から半年の後である。8月24日、聖武天皇は五位以上の官人を内裏に招集し、詔を発して光明子を夫人から皇后に格上げすることを宣した。

■ 長屋王の変が誣告によるものだったことが判明するのは、9年後の天平10年(738)のことである。その年の7月10日、平城宮である事件が起きた。右兵庫頭(うひょうごのかみ)で外従五位下の中臣宮処東人が、左兵庫少属(さひょうごのしょうぞく)で従八位下の大伴子虫(おおとものこむし)に殺された。二人は碁がたきで、仕事の合間によく碁を囲んだ。その場に居合わせた者の証言によると、碁の最中に話題が長屋王の事件に及んだとき、子虫が激怒して剣を抜き東人を切り殺したという。

■ 取り調べの結果、子虫は以前長屋王に仕えて恩遇を受けていた帳内だったことが分かった。一方、東人は神亀6年(729)2月に長屋王を讒訴した一人だった。子虫は、長屋王自殺後に東人が褒章として外従五位下を授けられ、封戸・功田を与えられたことを恨んでいた。それが争いの原因だったという。『続日本紀』は、この事件の記述の中で「東人は長屋王の事を誣告せし人なり」と記している。誣告とは、上記のごとく「故意に事実を曲げて訴えること」だ。『続日本紀』の完成は平安時代初期の延暦16年(797)とされている。その頃には、長屋王殺害は藤原氏の陰謀だったことがおおやけになっていたのだろう。『続日本紀』の編者も、長屋王の変が誣告によるものであったことを正式に認めている。



[参考文献]
『平城京と木簡の世紀』(渡部晃宏著、講談社刊 日本の歴史04)、『続日本紀』(岩波書店刊 新日本古典文学大系)、『続日本紀』(宇治谷 孟現代語訳、講談社学術文庫)、『検証 平城京の政変と内乱』(遠山美都男著、学研新書)


2010/06/16作成 by pancho_de_ohsei return