『日本書紀』●持統3年(689)2月26日、浄広肆の竹田王、直広肆の土師宿禰根麻呂・大宅朝臣麻呂・藤原朝臣史、務大肆の当麻真人桜井・穂積朝臣山守・中臣朝臣臣麻呂・巨勢朝臣多益須・大三輪朝臣安麻呂を判事となす。 ●持統10年(696)10月22日、正広参位の右大臣丹比真人に仮に資人一百二十人を使用することを許された。正広肆の大納言阿倍朝臣御主人・大伴宿禰御行にはそれぞれ八十人を、直広壱の石上朝臣麻呂・直広弐(48階の12位)の藤原朝臣不比等などにそれぞれ資人五十人を使用することを許された。
『続日本紀』●文武2年(698)8月19日、」次のように詔された。藤原朝臣に賜った姓は、その子の不比等に継承させる。ただし意美麻呂は、氏族本来の仁義のことを司っているから、急性の中臣にもどすべきである。 ●文武4年(700)6月17日、浄大参の刑部親王・直広壱の藤原朝臣不比等、(以下、略)らに勅して律令を選定させられた、その人々に対して、身分に応じて物を賜った。 ●大宝元年(701)正月15日、大納言で正広参(正三位相当)の大伴宿禰御行が薨じた。天皇はその死を大変惜しんで直広肆(従五位相当)の榎井朝臣倭麻呂らを使わして葬儀を指揮させられた。直広壱(正四位相当)の藤原朝臣不比等らを邸に使わして詔を告げさせ、正広弐(正二位相当)の位と右大臣の官を追贈された。 ●大宝元年(701)3月21日、対馬が金を献じた。そこで新しく元号を立てて大宝元年とした。初めて新令(大宝令)に基づいて、官名と位号の制を改正した。(以下略)。 左大臣で正広弐)正二位相当)の治比真人嶋正に正冠の二位。大納言で正広参(従二位相当)の阿倍朝臣御主人に正冠の従二位、中納言で直大壱(正四位上相当)の石上朝臣麻呂と直広壱(正四位下相当)の藤原朝臣不比等ら正冠の正三位、直大壱の大伴宿禰安麻呂と直広弐(従四位下相当)の紀朝臣麻呂に正冠の従三位を授けた。また諸王十四人と諸臣百五人については、それぞれの位号おをあらため、地位に応じて位階を昇進させた。 大納言で正冠従二位の阿倍朝臣御主人を右大臣に任じ、中納言で正冠正三位の石上朝臣麻呂・藤原朝臣不比等・正冠従三位の紀朝臣麻呂をともに大納言に任じた。大宝令の発足でこの日中納言の官職を廃止した。 ●大宝元年(701)8月3日、三品の刑部親王・正三位の藤原朝臣不比等・従四位下の下毛野朝臣古麻呂・従五位下の伊吉連博徳・伊余部連馬養らに命じて、大宝律令を選定させていたが、ここに初めて完成した。大略は飛鳥浄御原の朝廷の制度を基本とした。この仕事に携わった官人に、身分に応じて禄を賜った。 ●慶雲元年(704)正月11日、二品の長親王・舍人親王・穂積親王、三品の刑部親王の封戸を、それぞれ百戸宛増加させた。益封各二百戸。三品の新田部親王・四品の志紀親王にそれぞれ百戸宛を、右大臣・従二位の石上朝臣麻呂には二千一百七十戸を、大納言で従二位の藤原朝臣不比等には八百戸を、その他の三位以下、五位以上の14人には、それぞれ差はあったが増封された。 ●和銅元年(708)3月13日、従四位上の中臣朝臣意美麻呂を神祇伯に任じ、右大臣・正二位の石上朝臣麻呂を左大臣に、大納言で正二位の藤原朝臣不比等を右大臣に任じる。 ●和銅元年(708)7月15日、二品の穂積親王、左大臣の石上朝臣麻呂、右大臣の藤原朝臣不比等を御前にお召しになって、天皇は次のように詔した。(以下略)
●和銅2年5月27日、(新羅使)の金金信福らを朝堂でもてなされ、地位に応じた禄を賜った。(中略)この日、右大臣の藤原朝臣不比等が、新羅使を弁官の庁内に招き、次のように語った。 ●養老4年(720)3月12日、勅を出して、特別に右大臣正二位の藤原朝臣不比等に、授刀資人30人を加えた。
●養老4年(720)8月1日、右大臣・正二位の藤原朝臣不比等が病気になった。平癒を祈るため、得度する人30人を与えられ、次のように詔した。 ●養老4年(720)8月3日、右大臣正二位の藤原朝臣不比等が薨じた。天皇はこれを深く悼み惜しまれた。ためにこの日は政務はみず、内殿で悲しみの声をあげる礼を行ない、特別に手厚い天皇の勅があった。大臣は近江朝廷の内大臣・大織冠であった鎌足の第二子である。
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[出典] 宇治谷 孟著 前現代語訳『日本書紀(下)』、『続日本紀(上)(中)』