2010/06/09

史上初めて開扉された當麻寺の東西三重塔

聖徳太子の異母弟・麻呂子皇子の創建伝承をもつ古刹

當麻寺の仁王門へと導く参道
當麻寺の仁王門へと導く参道

鉄南大阪線の「たいまでら」駅で電車を降りると、駅前から黄褐色の土を敷き詰めた道が一直線に西に延びている。葛城市相撲館の前を通り、国道165号線の端にあたる「當麻寺」交差点を過ぎると、道は緩やかな登り勾配になる。坂の突き当たりに見える仁王門から視線を少し左に転じると、国宝の東塔と西塔の屋根を麻呂子山の山麓に望むことができる。視線を右に転ずると、民家の間から時々二上山の山頂付近が顔を出す。

石段の上に聳える仁王門
石段の上に聳える仁王門
ながらのこの狭い参道は、いつ来ても古刹へ誘う一種独特の雰囲気を醸し出している。その雰囲気を味わいながらゆっくり歩いても、駅から15分ほどで寺の仁王門に着く。途中には、門前町のような土産物屋がほとんどない。普通の民家が軒を並べているだけの参道であるが、いわば古代へタイムスリップする仕掛けのようなもの、筆者の好きな道の一つだ。

麻寺は古くは正史に登場しないため、詳しいことがよくわからない。筆者が當麻寺に関心を抱いたのは、その創建に関わる寺伝にある。寺伝によれば、この寺は用明天皇の第三皇子の麻呂子皇子(まろこのみこ)よって推古天皇20年(612)に創建され、「萬法蔵院禅林寺」と号したという。麻呂子皇子は、用明天皇と葛城直磐村(かつらぎのあたいいわむら)の娘・広子との間に生まれた皇子で、聖徳太子の異母弟にあたる當麻皇子(たいまのみこ)を指す。

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當麻寺の伽藍配置
古天皇10年(602)、聖徳太子は実弟の来目皇子(くめのみこ)を新羅征討将軍に任命して軍2万5千を授けて筑紫に派遣した。しかし、新羅へ進軍する前に、皇子は病を得て筑紫で死去した。そこで、代わりの征新羅将軍として聖徳太子が翌年任命したのが、異母弟の當麻皇子である。彼は難波から船で出発したが、播磨国明石で妻の舎人(とねり)皇女が没したことから、皇女を明石に葬った後引き返したという。なんとも頼りない将軍だが、その9年後にこの寺を建てたことになる。

際は、この地方にいた豪族の當麻氏が氏寺として建てた寺だったようだ。當麻氏は淳仁天皇の生母や平安初期になっても嵯峨天皇に娘を入内させていて、当時はそれができるほどの有力氏族の一つだった。

在の當麻寺の伽藍配置は特異である。創建当初は多くの古代寺院と同じく南を正面とする金堂と講堂が一直線に並び、その前方に東西二つの三重塔を配した薬師寺に近い配置だったようだ。しかし、現在は東の仁王門が正面であり、東を正面とする本堂が、金堂や講堂に接して建っている。

當麻曼荼羅
當麻曼荼羅
建当時は、金堂に安置した弥勒仏を本尊とする南都六宗の一つである三論宗を奉じていた。しかし、その後の浄土信仰の展開に呼応して、現在信仰の中心となっているのは、中将姫が蓮糸で編んだとの伝説で知られる當麻曼荼羅である。この西方極楽浄土の様子を表した曼荼羅は本堂に安置されている。當麻寺の宗派も、高野山真言宗と浄土宗の並立とのことだ。

者は今まで何回も當麻寺を訪れている。3年前には艶やかさを競うボタンの花を見ようと當麻寺の奥の院を訪れた。2年前には荘厳な練り供養会式の見学に訪れた。今回また當麻寺を訪れる気になったのは、平城遷都1300年を記念して、国宝の東西両塔の内部が初めて一般公開されていると知ったためである。

塔の内部は、清掃などで寺関係者が入るほかは、これまで一度も一般公開されたことがなかった。1300年祭を主催する記念事業協会の打診を受けて、當麻寺は公開に踏み切った。両塔の扉が開かれ、内部に安置された仏像や塔の心柱などを外部から見学できるという。一般公開期間は5月20日から6月20日までの1ヶ月間である。

国宝の梵鐘 石灯籠
国宝の梵鐘 重要文化財の石灯籠

回當麻寺を訪れたのは6月6日の日曜日である。仁王門をくぐると、正面に鐘楼が見えた。そこに、国宝の梵鐘が木枠の上に乗せてある。第二次世界大戦中に供出を求められ、溶かされる寸前で終戦を迎えたため、一部破損した状態で寺に返された鐘である。その先に進んで金堂の脇を南に向かうと、重要文化財に指定されている石灯籠が立っている。日本最古の石灯籠で、白鳳時代に松香石で作られたものだそうだ。

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朝の逆光の中にそびえ立つ東塔
灯籠の横を通り抜けてさらに南に向かうと、墓地で有名な當麻寺念仏院にぶつかる。念仏院の前を左に折れると、国宝の東塔が朝の逆光の中に高々と聳えていた。

塔は奈良時代後期、西塔は平安時代前期の建立とされている。いずれも三重の塔でありながら、東塔の初層は三間だが、二層と三層は二間に減っていてやや細身に感じられる。一方、西塔は各層とも三間で横幅があり、東塔とは設計が異なる。

麻寺が當麻氏の氏寺として建立されたと考えた場合、當麻氏の財力をもってしても二基の塔を一度に建てるのは苦しかったのだろう。したがって両塔の間には建立時期のタイムラグがある。また設計が異なるのは、その時代の最も新しい技術を取り入れたからであろう。それにしても奈良時代から平安時代にかけて建立された三重塔が二基とも現在に残っているのは、なんと幸運なことか。

安時代末期の治承4年(1180年)12月、平重衡(たいらのしげひら)による南都焼き討ちがあった。その際、重衡軍は當麻寺のすぐ横の竹内街道を通って當麻寺を襲い、奈良の都へと進んだというが、當麻寺の塔は被災を免れたようだ。



東西両塔の初層内の大日如来を拝す

東側から見上げた東塔 東塔の相輪
東側から見上げた東塔 東塔の相輪
良時代に建てられた東塔は、基壇からの高さが17.72m、屋根から天に向かって突き出た相輪を含めれば24.39mに達する。古代の三重塔の標準的なものと見なされ、数少ない天平時代の貴重な建築として国宝に指定されている。その初層の扉が開かれ、内部が初めて一般公開されている。

前10時前に来たので、基壇を取り巻く柵がまだ施錠されていた。すでに何人かの見学者が塔の前に集まっていた。施錠は10時に外され、見学者は柵内に入って塔の初層内部を外から見学できるという。塔の扉は東側と西側が開かれており、内部を覗き込むと、太い心柱を背にして、西面と東面にそれぞれ一体の大日如来像が安置されている。

塔の西面に安置された大日如来像
塔の西面に安置された大日如来像
西面の大日如来はすでに金箔が剥がれ、塔内の光の中ではくすんでしか見えなかったが、東面の像は小型だが、まだ光背にも金箔が残っていて、差し込む光を浴びて妖しく輝いていた。塔の周りを一周すると、柱の節などは風化して柔らかい部分はそぎ落とされ、いかにも1300年の風雪に耐えた古木といった印象を与える。上を見上げると、雲肘木や雲斗、垂木などに朱色が残っていて、後世の補修がうかがえる。

空に向かって聳える相輪を見上げると、宝珠と竜車の下に位置する水煙が魚の骨のように見える。水煙とは本来火炎をデザインしたものだが、火事を避けるために水煙と呼んでいる。水煙の下に位置する宝輪は通常9つであるが、何故か當麻寺のものは八輪となっている。

西塔の見学風景
西塔の見学風景
西塔は、本堂脇の西南院と護念院の間に建っている。塔の高さは17.39m、相輪を含めれば25.21mと東塔より若干高い。残念なことに、西塔の基壇は弱っていて柵の中に入って塔内を見学することはできない。柵の外に仮設の階段が設けられ、見学者はその上から初層の内部を遠くから見やるだけである。

西塔の初層の心柱は板で四角に囲われていた。東側の板には三千仏が描かれていたが、剥落がひどく現在はかろうじて痕跡が見えるだけとのことだ。心柱を背にして、四面にそれぞれ大日如来が安置されているとの説明を受けたが、見学できるのは北面に置かれた像だけである。こちらの仏像は東塔で見学したものより大きく、しかも金箔で輝いていた。

北側から見上げた西塔 西塔の相輪
北側から見上げた西塔 西塔の相輪

西塔は平安時代初期の建築と聞いていた。しかし、見上げた感じでは朱の色もはげ落ち古色蒼然としていて、素人目にはこちらの方が東塔より古いのでは・・・との印象を与えた。この塔に関して、後述のような新しいニュースが昨日メディアを通して配信された。



橿考研が新説、西塔の創建は白鳳時代

ボタンの咲く頃、奥の院から見た東西両塔
ボタンの咲く頃、奥の院から見た東塔(左)と西塔(右)

西塔の西側と南側の約40平米の区画を発掘調査していた県立橿原考古学研究所(=橿考研)は、去る7日、西塔の創建が定説の平安時代より古く、寺の創建と同じ白鳳時代までさかのぼる可能性がある、と発表した。

拠は、塔のそばから出土した7世紀後半の軒丸瓦である。調査地で、江戸時代に掘られたとみられる廃棄坑が見つかった。そこから出土した奈良〜江戸時代の瓦にまぎれて、寺が現在の場所に創建されたとされる680年代の軒丸瓦が含まれていた。

當麻寺の西塔
當麻寺の西塔
築様式などから、東塔は750年ごろの奈良中期、西塔は平安前期に創建されたとされてきた。調査地からは、9〜10世紀の土器が埋められた柱穴約30基も見つかっている。これらの柱穴は西塔を建設した際の足場跡と考えられる。以前から西塔再建説が唱えられていたが、これで白鳳年間に建てられた西塔が平安時代に再建されたことが裏付けられたことになる。

調査を担当した橿考研の学芸員によれば、伽藍(がらん)の建物の配置から割り出した基準線に照らしても、東塔より西塔が先に建設されたと考えられるとのことだ。




2010/06/09作成 by pancho_de_ohsei return