聖徳太子の異母弟・麻呂子皇子の創建伝承をもつ古刹
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| 當麻寺の仁王門へと導く参道 |
近鉄南大阪線の「たいまでら」駅で電車を降りると、駅前から黄褐色の土を敷き詰めた道が一直線に西に延びている。葛城市相撲館の前を通り、国道165号線の端にあたる「當麻寺」交差点を過ぎると、道は緩やかな登り勾配になる。坂の突き当たりに見える仁王門から視線を少し左に転じると、国宝の東塔と西塔の屋根を麻呂子山の山麓に望むことができる。視線を右に転ずると、民家の間から時々二上山の山頂付近が顔を出す。
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| 石段の上に聳える仁王門 |
昔ながらのこの狭い参道は、いつ来ても古刹へ誘う一種独特の雰囲気を醸し出している。その雰囲気を味わいながらゆっくり歩いても、駅から15分ほどで寺の仁王門に着く。途中には、門前町のような土産物屋がほとんどない。普通の民家が軒を並べているだけの参道であるが、いわば古代へタイムスリップする仕掛けのようなもの、筆者の好きな道の一つだ。
當麻寺は古くは正史に登場しないため、詳しいことがよくわからない。筆者が當麻寺に関心を抱いたのは、その創建に関わる寺伝にある。寺伝によれば、この寺は用明天皇の第三皇子の麻呂子皇子(まろこのみこ)よって推古天皇20年(612)に創建され、「萬法蔵院禅林寺」と号したという。麻呂子皇子は、用明天皇と葛城直磐村(かつらぎのあたいいわむら)の娘・広子との間に生まれた皇子で、聖徳太子の異母弟にあたる當麻皇子(たいまのみこ)を指す。
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| 當麻寺の伽藍配置 |
推古天皇10年(602)、聖徳太子は実弟の来目皇子(くめのみこ)を新羅征討将軍に任命して軍2万5千を授けて筑紫に派遣した。しかし、新羅へ進軍する前に、皇子は病を得て筑紫で死去した。そこで、代わりの征新羅将軍として聖徳太子が翌年任命したのが、異母弟の當麻皇子である。彼は難波から船で出発したが、播磨国明石で妻の舎人(とねり)皇女が没したことから、皇女を明石に葬った後引き返したという。なんとも頼りない将軍だが、その9年後にこの寺を建てたことになる。
実際は、この地方にいた豪族の當麻氏が氏寺として建てた寺だったようだ。當麻氏は淳仁天皇の生母や平安初期になっても嵯峨天皇に娘を入内させていて、当時はそれができるほどの有力氏族の一つだった。
現在の當麻寺の伽藍配置は特異である。創建当初は多くの古代寺院と同じく南を正面とする金堂と講堂が一直線に並び、その前方に東西二つの三重塔を配した薬師寺に近い配置だったようだ。しかし、現在は東の仁王門が正面であり、東を正面とする本堂が、金堂や講堂に接して建っている。
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| 當麻曼荼羅 |
創建当時は、金堂に安置した弥勒仏を本尊とする南都六宗の一つである三論宗を奉じていた。しかし、その後の浄土信仰の展開に呼応して、現在信仰の中心となっているのは、中将姫が蓮糸で編んだとの伝説で知られる當麻曼荼羅である。この西方極楽浄土の様子を表した曼荼羅は本堂に安置されている。當麻寺の宗派も、高野山真言宗と浄土宗の並立とのことだ。
筆者は今まで何回も當麻寺を訪れている。3年前には艶やかさを競うボタンの花を見ようと當麻寺の奥の院を訪れた。2年前には荘厳な練り供養会式の見学に訪れた。今回また當麻寺を訪れる気になったのは、平城遷都1300年を記念して、国宝の東西両塔の内部が初めて一般公開されていると知ったためである。
両塔の内部は、清掃などで寺関係者が入るほかは、これまで一度も一般公開されたことがなかった。1300年祭を主催する記念事業協会の打診を受けて、當麻寺は公開に踏み切った。両塔の扉が開かれ、内部に安置された仏像や塔の心柱などを外部から見学できるという。一般公開期間は5月20日から6月20日までの1ヶ月間である。
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| 国宝の梵鐘 |
重要文化財の石灯籠 |
今回當麻寺を訪れたのは6月6日の日曜日である。仁王門をくぐると、正面に鐘楼が見えた。そこに、国宝の梵鐘が木枠の上に乗せてある。第二次世界大戦中に供出を求められ、溶かされる寸前で終戦を迎えたため、一部破損した状態で寺に返された鐘である。その先に進んで金堂の脇を南に向かうと、重要文化財に指定されている石灯籠が立っている。日本最古の石灯籠で、白鳳時代に松香石で作られたものだそうだ。
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| 朝の逆光の中にそびえ立つ東塔 |
石灯籠の横を通り抜けてさらに南に向かうと、墓地で有名な當麻寺念仏院にぶつかる。念仏院の前を左に折れると、国宝の東塔が朝の逆光の中に高々と聳えていた。
東塔は奈良時代後期、西塔は平安時代前期の建立とされている。いずれも三重の塔でありながら、東塔の初層は三間だが、二層と三層は二間に減っていてやや細身に感じられる。一方、西塔は各層とも三間で横幅があり、東塔とは設計が異なる。
當麻寺が當麻氏の氏寺として建立されたと考えた場合、當麻氏の財力をもってしても二基の塔を一度に建てるのは苦しかったのだろう。したがって両塔の間には建立時期のタイムラグがある。また設計が異なるのは、その時代の最も新しい技術を取り入れたからであろう。それにしても奈良時代から平安時代にかけて建立された三重塔が二基とも現在に残っているのは、なんと幸運なことか。
平安時代末期の治承4年(1180年)12月、平重衡(たいらのしげひら)による南都焼き討ちがあった。その際、重衡軍は當麻寺のすぐ横の竹内街道を通って當麻寺を襲い、奈良の都へと進んだというが、當麻寺の塔は被災を免れたようだ。
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