2010/06/02

子孫が語る藤原不比等の顕彰シンポジウム

名前を「(ふひと)」から「不比等(ふひと)」に変えた男の子孫と関係者の集い

藤原不比等像
藤原不比等像
■ 自分に匹敵するほどこの世を変革できる人物など誰もいない。今から1300年前、そう考えて不遜にも自分の名前を変えた男がいる。その名を藤原不比等(ふじわらのふひと)という。日本の基礎を作り上げた人物として、歴史学者からは不比等の評価が高い。それでいながら、まるで政治フィクサーのような存在だ。政治の表舞台にはあまり登場せず、彼の実像や業績はいまだに謎の部分が多い。

■ 藤原不比等は「大宝律令」の編纂や「平城京」遷都などで、現代の日本につながる律令国家の骨組みを作りあげた人物とされている。しかし知名度は、「大化改新」の功労者である父の中臣鎌足(なかとみのかまたり)ほどは高くはない。折から今年は平城遷都1300年祭で、奈良県ではさまざまな記念行事が催されている。これを機会に、不比等の子孫たちや関係者を一同に会して、不比等の業績を顕彰しようではないか。そう考えた人物がいる。春日大社の宮司・花山院 弘匡(かさんのいん ひろただ)氏だ。

■ 花山院氏の呼びかけで、「子孫が語る藤原不比等公」と題する春日大社主催のシンポジウムが企画された。「平城京」創建に大きな役割を果たした藤原不比等をテーマに、不比等の子孫や奈良の社寺の代表が集い、「平城京」を中心に育まれた文化などについて大いに語ろうというのがその趣旨である。日時は本日の6月2日、午後1時開場、1時半開始。場所は奈良県文化会館国際ホール。募集人数1200。筆者は埼玉の自宅に戻っていて、このシンポジウムの開催予告について何も知らなかった。だが、友人のサンチョ君が参加申し込みをしてくれていた。

■ そのサンチョ君から一昨日メールが届き、参加者多数のため開場を正午に早めると春日神社からハガキで通知してきたという。そして奈良行きの時間を早めようかと聞いてきた。すでに予約番号を貰っているなら、それほど急ぐこともないだろう、1時間も前に会場に着けばよいのでは・・・と答えておいた。

会場となった奈良県文化会館 国際ホールの受付風
会場となった奈良県文化会館 国際ホールの受付風景

■ ところが、12時半に会場に着いてみて驚いた。1階の席はほぼ埋まっており、二人並んで座れる空席は、舞台の袖に近い所しかない。やむを得ずその席に坐ることにしたが、主催者側に開場を1時間早めた理由を聞いてみた。すると、開場前から炎天下に長蛇の列ができることが十分予想され、せっかくお越しいただいた皆さんにそんな不自由はおかけできない、そのため時間を早めたとのことだった。幸い、開演前に二階席も解放されることになったので、そちらの最前列に移った。

■ 今朝のテレビは、鳩山内閣総理大臣と小沢民主党幹事長が辞意を表明したというニュースを流していた。昨年の夏の衆議院選では、国民は国の舵取りを民主党に付託したのに、相変わらずの「金と政治」の問題で国民の支持を失い、米軍基地移転の問題での鳩山首相の迷走ぶりで、国民はすっかり民主党政権にサジを投げてしまった。辞任して当たり前である。

パネルディスカッションの会場風景
パネルディスカッションの会場風景

■ 我が国には、議員という立場を利用して蓄財を図る「政治屋」はいても、国家百年の大計を立てて国の舵取りができる「政治家」はいない。1300年前の大”政治家”藤原不比等は、資質の点で現代の政治屋と何がちがうのだろうか。そんな興味を抱きながら会場入りした。受付で渡されたプログラムに、パネルディスカッションのパネラーが紹介されていた。その陣容と経歴を見て驚いた。以下のそうそうたるメンバーが名を連ねていた。

<パネラー>
・神宮大宮司 鷹司 尚武(たかつかさ なおたけ)氏
・東大寺別当 北河原 公敬(きたかわら こうけい)氏
・興福寺貫首 多川 俊映(たかわ しゅんえい)氏
・春日大社宮司 花山院 弘匡(かさんのいん ひろただ)氏
・奈良国立博物館館長 湯山 賢一(ゆやま けんいち)氏
<司会>
・京都女子大学教授 瀧浪 貞子(たきなみ さだこ)氏

■ 鷹司家は藤原北家の嫡流である。鷹司尚武氏は、昭和天皇の三女で神宮祭主も務めた故鷹司和子さんの養子。1972年に慶応大大学院修士課程修了後、NECなどを経て、2003年からNEC通信システム社長を務められた。2007年退任され、同年伊勢神宮の大宮司に就任された。

■ 花山院家は藤原北家の清華家の一つで、花山院弘匡氏は花山院家の嫡流をつぐ第33代目当主である。春日大社宮司としては明治以降第11代目にあたられる。不比等の子孫としてはこのお二人だが、東大寺別当の北河原公敬氏や興福寺貫首の多川俊映氏も、宗教家として奈良時代の仏教に造詣が深い。奈良国立博物館館長の湯山賢氏も同様である。パネラーの皆さんからは、専門の歴史学者とはまた違った視点から不比等像を語って頂けものと楽しみだった。



基調講演は千田稔氏の「平城京と藤原不比等」

国際ホールの舞台の緞帳
国際ホールの舞台の緞帳

■ 二階席の最前列に着席すると、舞台を見下ろしながらサンチョ君が言った。
「なんだか変な雰囲気だな。ここは平城の都だよね?」
彼が指さした先には、舞台の緞帳が重く垂れ下がっていた。そこに描かれているのは、平山郁夫画伯の屏風絵「高燿く藤原京の大殿」をベースにした刺繍である。画伯は現存しない藤原京を想像して、昭和44年(1969)にこの大作をものにされた。深い緑の中に大和三山に囲まれてぼんやりと浮かび上がった広大な藤原京は、構図的にはイマイチであり、おそらく画伯の脳裏に浮かんだ心象風景であろう。藤原京ではなく平城京に築かれた文化会館の大ホールの緞帳としては、絵柄にもう一工夫あっても良いのでは・・・と、サンチョ君は言いたかったにちがいない。

千田 稔氏
千田 稔氏
■ 午後1時半からの基調講演に先立って、主催者の春日大社宮司の花山院氏の挨拶と奈良県副知事の祝辞の挨拶があった。その後に演壇に立たれたのは、奈良県立図書情報館館長の千田 稔(せんだ みのる)氏である。演題は「平城京と藤原不比等」となっている。千田氏には「平城京遷都 女帝・皇后と「ヤマト」の時代』」(中公新書、2008年)という著作があり、その中ではかなり厳しく藤原不比等を論評しておられる。辛口の不比等評が聞けるのでは、と期待したが、話の内容は予想に反して意外と平板だった。不比等の子孫たちが背後に控えている状況の中では、いささか遠慮された趣がある。

■ 不比等は平城京を作り、そこで外孫の首皇子(おびとのみこ)を即位させ、天皇を中心とした二官八省の官僚機構を骨格に据えた中央集権的法治国家の建設を目指した。彼が思い描いた法治国家は律令制の崩壊で瓦解したが、明治維新の王政復古でその官僚機構が現在によみがえった。そうした意味では、不比等が確立した中央集権国家は現在の日本につながる基礎だったと言えよう。

菊池容斎が描いた藤原不比等
菊池容斎が描いた藤原不比等
■ 千田氏の講演で、特に筆者の関心を引いたのは、不比等は左脳が発達した法律家ではなかったかという指摘である。不比等は、壬申の乱以後中臣氏が不遇をかこった時代、山科の田辺史 大隈(たなべのふひと おおすみ)の家で養育され、史(ふひと)と呼ばれていた。田辺史は文書に秀でた家柄で、彼はそこで論理的な思考を身につけ、法律に関心を持った。それ故に、持統天皇3年(689)に刑部(ぎょうぶ)省の判事に任命され官人としてスタートして以来、法律に関する知識が評価され、大宝律令の制定作業のリーダまたは主要人物に選ばれたと推測してよい。その証拠に、現存する我が国最古の漢詩集『懐風藻』には不比等の漢詩が収録されているが、『万葉集』には一首も記載されていない。つまり、彼は情緒的人間ではなく、物事を論理的に推論できる左脳人間だったというわけだ。

■ もう一点、筆者の興味を引いたのは、不比等と女性との関係の指摘である。彼の人生でターニングポイントになる時期は、必ず女帝の時代だったというのがその趣旨だ。例えば、不比等が誕生した659年は斉明天皇の時代、初めて官人として採用された689年は持統天皇の治世、そして、外孫の首皇子の成長を待って天皇に即位させるために、不比等が仕組んだのが元明・元正と2代続く中継ぎ女帝だったというのだ。

法隆寺所蔵の橘婦人念持仏
法隆寺所蔵の橘婦人念持仏
■ しかし、千田氏の講演を聴きながら、氏が本当に話したかったのは別のことのような気がした。不比等が天皇家との関係を築く上で重要な役割を演じた女性がいた。天武天皇の時代から命婦として宮中に仕え、軽皇子の乳母を務めて後宮で勢力を振るった県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ、後の橘三千代)である。三千代は美努王(みぬおう)と結婚し、葛城王(後の橘諸兄)・佐為王・牟漏女王を生んでいる。その美努王が持統天皇8年(694)大宰帥として筑紫に赴任した後、彼女は不比等の後妻に入り、光明子(後の光明皇后)を生んでいる。

■ 下卑た想像が許されるならば、夫の地方赴任に随行しなかった三千代を不比等が誘ったのかもしれない。それとも、鋭利な頭脳をもちハンサムな不比等に三千代が惹かれたのかもしれない。いずれにせよ、後宮に大きな影響力を持つ県犬養三千代を妻としたことで、不比等は天皇家との太いパイプを築き、彼の将来が開けたと言って良い。不比等の娘・宮子を軽皇子(のちの文武天皇)の夫人として入内させたのも、また不比等と三千代との間にできた娘・安宿姫(光明子)を首皇子(のちの聖武天皇)にめあわせたのも、二人の謀略であった。



パネルディスカッションの会場に飾られた藤原不比等の肖像

藤原不比等肖像
鷹司家所蔵の藤原不比等肖像
■ パネルディスカッションは定刻通り午後二時に開始された。開始に先立って、ちょっとしたハプニングがあった。場内アナウンスで参加者全員の起立を求められた。壇上を見ると、中央に一枚の掛け軸が掛けられている。鷹司家秘蔵の室町時代に描かれた藤原不比等の肖像画である。パネリストの一人である鷹司尚武氏の特別の好意で、会場に展示することにしたそうだ。

■ 主催者側としては、せっかくの我らが共通のご先祖さまである藤原不比等を顕彰するシンポジウムに、不比等本人が出席して貰って当然である、との意図があったのであろう。場内アナウンスは、不比等の肖像に対して、全員が一礼することを求めた。

■ パネルディスカッションは、司会者の瀧浪女史に指名された順に意見を述べるという形で行われた。したがって各自の意見をぶっつけあうバトル形式のディスカッションではなかった。奈良国立博物館館長の湯山氏を除いて、他のパネラーはいずれも寺社の代表者である。宗教的観点にからめて不比等像を語られるのかと思ったが、意外にも不比等の生きた時代を的確に捉えて大局的に不比等像を語られるのには、感心した。一般の歴史学者の談話を聞くよりも、しっかりした口調と明快な論理で話されるのは、さすがは職業柄、説法上手である。

■ 不比等が育った時代は、百済救援が名目であったとは言え、東アジアの超大国・唐と戦火を交え、しかも白村江の戦いで完膚無きまでたたきのめされた時期である。軍事力ではとても唐と対抗できないと思い知らされた時期と言って良い。軍事力で駄目なら、文化力で対抗する以外に術はない。そのためには、相手の先進文化や制度を徹底的に取り入れなければならない。まずは国の骨格を築き上げるために、律令の制定が急務である。天武・持統天皇の時代に飛鳥浄御原令が成ったが、いろいろと不備があった。不比等を中心とする精鋭は大宝律令の制定に日夜を惜しまず血の出るような努力をしたに違いない。

上海に向かう平成の遣唐使船
上海に向かう平成の遣唐使船
■ 694年には国家の体面を保つ藤原京への遷都が行われ、701年には律令制度の根幹をなす大宝律令が完成した。これでやっと大国・唐と対等に付き合える国造りが終わった。藤原不比等を中心とする時の為政者たちは、まがりなりにも律令国家をようやく作り上げたという自負があったのであろう。そこで、663年の白村江の戦い以来実に39年ぶりに粟田真人を遣唐執節使とする本格的な遣唐使を派遣することにした。702年6月、遣唐使は大宝律令を携えて唐に向かった。彼らは、唐との国交回復や律令制度の整備の報告、倭から日本への国号変更の通達など、様々な任務を帯びての渡航だった。

■ ところが、遣唐使が到着した大陸では、唐は存在しておらず、武則天が新たに建てた武周が繁栄していた。その都・長安城も、藤原京とは違って皇城が北辺に位置していた。粟田真人は武則天にいたく気に入られ、大明宮の麟徳殿の盛宴に招かれたのみならず、司膳卿という名誉職まで授けられた。しかし、彼の基調報告は政府首脳部に強烈なカルチャショックを与えたようだ。長安城に倣った新しい王都の建設が計画され、大宝律令を改定して新しく養老律令をつくることになった。その先頭に立ったのは、藤原不比等だったことは皆の意見が一致するところだ。

大明宮の麟徳殿の復元イメージ
大明宮麟徳殿の復元イメージ
■ パネリストの総体的な不比等像は、内政・外交を問わず国家百年の先を見据えた大政治家であるとし、その政治的手腕を高く評価された。翻って、現在の東アジア世界を俯瞰するに、新制中国が破竹の勢いで急成長しているのに対して、我が国は内政も外交もまったく手つまりの状態にある。このままの情勢が推移すれば、やがて不比等の時代と同じように、日本が中国の驚異に曝されることになることは目に見えている。それにも関わらず、我が国の国政は内閣が1年も持たないテイタラクである。とてもではないが、国の舵取りを任せられる政治家などいない。せめて不比等の爪のアカでも飲んで、日本の将来を真剣に考える政治家が出現して欲しい、それがパネリストたち各自の願いだった。同感、同感。



藤原一族の栄枯盛衰

藤原不比等像
藤原不比等像(伝九条家旧蔵)
■ 参考までに、史書で判明している藤原不比等の略伝を以下に記しておこう。

  • 斉明天皇5年(659)、「大化改新」の功臣・中臣鎌足の次男として誕生。母は車持与志古娘(車持国子の娘)(ただし、母は鏡皇女とする説や天智天皇の皇子とする説もある)。兄に16歳も歳が離れた定恵(じょうえ、643 - 665)がいる。兄は白雉4年(653)に11歳で留学僧として入唐し、天智天皇4年(664)年9月に百済を経て帰国したが、その年の12月に現在の明日香村小原で亡くなっている。

  • 天智天皇8年(669)、数え年で11歳のとき父・鎌足を失う。壬申の乱のとき14歳だったため何の関与もせず、中臣金をはじめとする同族は近江朝についたため、天武天皇の時代には中臣(藤原)氏は朝廷の中枢から一掃されていた。

  • 持統天皇3年(689)2月26日、刑部(ぎょうぶ)省の判事に任命された。その時の位階は直広肆(じきこうし)、天武天皇14年(685)に施行された冠位四十八階の諸臣の部の第十六階である。時に不比等31歳。有力な後ろ盾を持たない不比等は、下級官人からの立身を余儀なくされ、この時はじめて史書にその名が登場する。

  • 文武天皇元年(697)8月20日、娘宮子を入内させる。軽皇子(文武天皇)の擁立に功績があり、その後見として政治の表舞台に出てくる。また後室に迎えた県犬養三千代の力添えにより、皇室との関係を深め、文武天皇に娘宮子を嫁がせている。

  • 大宝元年(701)3月21日、中納言より正三位大納言に昇進。刑部親王・粟田真人・下毛野古麻呂らと大宝律令の選定に携わり、8月3日これを完成させる。12月27日、外孫、首皇子(おびとのみこ、後の聖武天皇)誕生。この年、県犬養三千代が不比等の第三女・安宿媛(あすかひめ、後の光明子)を生む(安宿媛は霊亀2年(716)、16歳のとき首皇子の妃となり、養老2年(718)阿倍内親王(後の孝謙天皇)を生み、神亀4年(727)には基親王を出産している)。

  • 和銅元年(708)1月11日、従二位の石上麻呂(いそのかみまろ)とともに正二位に叙せられる。さらに3月13日、右大臣の石上麻呂は長く空席であった左大臣に、不比等がその後を継いで右大臣に任ぜられた。しかしながら左大臣の石上麻呂はすでに69歳、この頃に実際に政治を主導したのは、51歳の不比等だったと考えられている。

  • 養老4年(720)8月3日、死去(63歳)。10月23日、正一位太政大臣を追贈される。

    天皇家・藤原氏・橘氏系図
    天皇家・藤原氏・橘氏系図
    ■ 上記のように、藤原不比等は斉明天皇5年(659)に鎌足の次男としてこの世に生をうけ、養老4年(720)に病を得て62歳の生涯を閉じた。彼の人生は、律令制度に基づいた政治を具体化していく時代のまっただ中にあったと言ってよい。律令国家の三本の柱とされる律令の制定(大宝律令)、律令国家にふさわしい王都の建設(平城京遷都)、そして国家の成り立ちを記した史書(『日本書紀』)は、すべて彼の存命中のイベントである。

    ■ 『日本書紀』や『続日本紀』などの史書からは、持統天皇3年(689)に刑部省の判事として官人の道を歩み始めたのを皮切りに、最後は大納言となり、さらに右大臣となって、律令政治家としての波乱に富んだ一生を送ったことが推察できる。だが、不比等は左大臣になることを避けた。

    ■ 霊亀3年(717)3月、左大臣の石上麻呂(いそのかみまろ)が78歳の高齢で亡くなった。左大臣の地位が空席となり、不比等は左大臣就任を要請されたが、ついに右大臣にとどまった。太政大臣との要請も、これを固辞して受諾しなかった。不比等に正一位太政大臣を追贈されたのは彼の死後のことである。

    ■ どうやら彼が欲したのは地位や名誉よりも、実力であり実権であったようだ。そのため、後室に迎えたの県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)の力添えにより、皇室との関係を深め、文武天皇に娘の宮子を嫁がせ首皇子を産ませている。さらに三千代との間の娘である安宿姫(あすかひめ、光明子)も首皇子(後の聖武天皇)に嫁がせて、天皇の姻戚としての地位を確立している。

    興福寺の境内
    710年、厩坂寺から移された興福寺の境内
    ■ 不比等と天皇家の結びつきを象徴する重要な記録が、天平勝宝8年(756)に作製された「東大寺献物帳」の中に残っている。草壁皇子が日ごろ珮持(はいじ)していた黒作懸珮刀(くろずくりかけはきのかたな)に関するもので、持統天皇3年(689)4月、天武天皇と持統天皇の皇子だった草壁皇子(くさかべのみこ)が28歳で病死したとき、皇子は愛用の珮刀が不比等に与え、わずか7歳の息子の軽皇子(かるのみこ)の将来を不比等に頼んだという。

    ■ 持統天皇11年(697)8月、祖母・持統天皇から譲位されて軽皇子が文武天皇として即位したとき、不比等はその珮刀を文武天皇に献じた。しかし、慶雲4年(707)6月、文武天皇が崩御するとき、珮刀は再び不比等に賜り、養老4年(720)8月、不比等が亡くなるとき、首皇子に献じられたという。皇太子(草壁)にはじまって皇太子(軽、首)に継承された伝世珮刀のありようは、不比等の後半生を象徴しているようだ。残念ながら、この珮刀はすでに失われ正倉院御物の中にはない。

    ■ かって蘇我稲目(そがのいなめ)は、娘の堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)を次々と欽明天皇に嫁がせることにより、天皇家の外戚となって政治の実権を握っていった。不比等が狙ったのも、蘇我氏に倣って天皇の外戚となり一族の繁栄を導くことだったようだ。不比等のもくろみどおり、外孫の首皇子は不比等の死後4年目に聖武天皇として皇位を継いだ。だが、彼の存命中、首皇子の妃となった娘の安宿媛は女子の阿倍内親王を出産したが、次の天皇となる男子はまだ出産していなかった。

    春日大社
    768年創建の春日大社
    ■ 安宿媛が基親王(もといのみこ)を出産したのは、神亀4年(727)である。不比等の死後、息子の藤原四兄弟は、それぞれ武智麻呂(むちまろ)の南家、房前(ふささき)の北家、宇合(うまかい)の式家、麻呂(まろ)の京家の4家に分かれ、藤原四家の祖となった。藤原四兄弟は結束して、生後一カ月の基親王を聖武天皇の後継者とすべく皇太子に立てた。だが病弱だった親王は満1歳に満たず夭折してしまう。

    ■ 藤原一族の将来に不安を抱いた藤原四兄弟は、不比等亡き後の政界を主導する皇親政治家・長屋王を讒言で退け、聖武天皇の夫人だった光明子を人臣初の皇后として即位させた。このように、不比等とその息子たちによって、藤原氏の繁栄の基礎が固められるとともに、最初の黄金時代が作り上げられたと言って良い。


    ■ その後の藤原一族の盛衰を追ってみよう。天平9年(737)は藤原一族にとって思いもかけぬ不幸な年だった。天然痘の大流行で、藤原四兄弟が相次いで病死してしまったのである。その結果台頭してきたのが、唐帰りの玄ム(げんぼう)や吉備真備(きびのまきび)をブレーンに登用した橘諸兄(たちばなのもろえ)である。橘政権は藤原氏の突出を抑えようと努めたが、光明皇太后の後ろ盾を得て南家の武智麻呂の子・藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が急速に勢力を伸ばしてきた。

    ■ 仲麻呂の専横に不満を持ったのは、諸兄の子の橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)である。天平宝字元年(757)仲麻呂排斥クーデターを計画するが失敗に終わる。しかし、仲麻呂も道鏡を寵愛するようになった孝謙太上上皇によって疎まれ、天平宝字8年(764)9月に乱を起こして敗死する。

    ■ 藤原四家は、初めは京家は振るわず、他の三家が争いつつ朝廷の廟堂に参画したようだ。一時期は南家や式家が栄えたが、政争や一族の反乱で、平安時代前期にはいずれも衰退し、平安時代中期から北家のみが栄えた。藤原良房は清和天皇の外戚となり、人臣で初めての摂政となった。皇室と姻戚関係を結ぶことにより他氏を排斥し権力を増強する路線は、良房の養子藤原基経に引き継がれ陽成天皇の外戚として幼帝の摂政、成人してからは関白を務め、さらに10世紀の安和の変で藤原北家による他氏排斥が完了すると、藤原道長・頼通父子が摂関政治の最盛期を極めた。

    ■ 平安時代後期になると藤原氏と姻戚関係を持たない上皇による院政がはじまった。さらに源平両氏の武家政権へと移行するにつれて、藤原氏の権勢は後退していった。それでも、江戸時代末期に至るまで摂政関白は藤原北家の系統に限られていた。




2010/06/03作成 by pancho_de_ohsei return