2010/05/28

平城京左京三条二坊宮跡庭園という名の特別史跡

イトーヨーカドー奈良店の正面に位置する国の特別史跡&特別名勝

平城京左京三条二坊宮跡庭園
特別史跡・特別名勝 平城京左京三条二坊宮跡庭園


■ 奈良市内には”平城京左京三条二坊宮跡庭園”という変わった名前の庭園がある。奈良時代に作られた庭園を復元したもので、昭和53年(19787)に国の特別史跡に、さらに平成4年(1992)には国の特別名勝に指定されている庭園だが、一般には余り知られていないようだ。お恥ずかしい話だが、筆者も本日までこの庭園の存在を全く知らなかった。その存在を知ったのは、別の目的で近くを訪れた偶然による。

平城京の条坊と長屋王邸の位置
平城京の条坊と長屋王邸の位置
■ 平城京左京三条二坊と聞いてピンとこられる方は、かなりの古代史通であろう。奈良時代の悲劇の宰相・長屋王の邸宅のあった場所なのだ。平城京遷都の際、長屋王は二条大路と三条大路、および東一坊大路と東二坊大路に囲まれた左京三条二坊を東西・南北に各三本通る小路によって十六に分けられた一辺130m程度の坪のうち、1・2・7・8の四坪(=町)を国から邸宅の敷地として与えられた。

■ 現在、平城宮跡で東院庭園として復元されている史跡の南に位置し、国道24号線が平城宮跡を避けるために大きくカーブしている付近である。長屋王の一族は、あの悲劇が起きるまでは、和銅3年(710)から神亀6年(729)までの10年間この場所で居住していた。もっとも、この場所が長屋王の邸宅跡だと判明したのは、それほど古いことではない。

イトーヨーカドー奈良店
イトーヨーカドー奈良店
■ この場所に、奈良そごうデパートの建設が計画され、奈良文化財研究所が昭61年(1986)9月から平成元年(1989)にかけて発掘調査を実施した。その結果、夥しい数の木簡が出土し、その解析によって長屋王の邸宅があったことが判明した。しかし、遺跡はつぶされ、地上5階(一部7階)建ての奈良そごうデパートが建設された。その後(長屋王の怨霊で?)奈良そごうデパートは倒産し、現在は2003年7月に開業したイトーヨーカドー奈良店に代わっている。

■ 本日、友人のサンチョ君を誘って、平城遷都1300年祭で賑わう平城宮跡を訪れた。ついでに、長屋王邸がどの様な場所にあったのか見ておこうと思って、イトーヨーカドーを訪れた。デパートの正面入口に長屋王邸跡の説明板が置かれていると聞いていたからだ。

イトーヨーカドー奈良店の説明板
イトーヨーカドー奈良店前の説明板
■ イトーヨーカドーの正面玄関前の道路脇には、確かに「長屋王邸跡」と書かれた説明板が置かれ、発掘時の様子や長屋王邸の復元イメージなどが示されていた。その中の一枚に平城宮と長屋王邸との位置関係を示す略図が示されており、それを見て「オヤッ」と思った。長屋王邸の南に隣接して「特別史跡 宮跡庭園」と表示されている場所がある。最初は、長屋王邸に付随した庭園の跡かと錯覚した。しかし、長屋王邸の庭園なら宮跡とは言わないはずだ。

■ 場所は道路を挟んで、デパートの反対側である。バス停の前に歩道橋が設置してあり、それを渡れば交通量の激しい大宮通りを横断しなくても簡単にアクセスできる。さっそく訪れてみることにした。



宮跡庭園は奈良時代中頃に造営された庭園を復元した遺跡

宮跡庭園の表示
宮跡庭園の表示
■ 遊歩道を渡ると、庭園の入口に奈良市教育委員会が立てた「特別史跡・特別名勝 平城京左京三条二坊 宮跡庭園」の標識があった。かなり古びていたが、しっかりした墨書はまだはっきり読める。近くに小さな小屋があり、男性が一人窮屈そうに坐っている。声をかけると、施錠を外して窓を開けてくれた。入園料を聞いたが、入園は無料とのことだった。そして、四つ折りの簡単な説明書を渡してくれた。

■ その説明書によると、この場所は発掘調査で昭和50年(1975)に発見された庭園遺跡だそうだ。奈良時代の前期には、このあたりは菰川(こもかわ)の旧河道を踏襲した水路が流れていたにすぎなかったが、奈良時代の中頃(750年頃)に石組みの池を中心とする庭園が築かれことが、発掘調査で判明した。池の底には20cm〜30cm大の玉石を敷き詰め、汀(みぎわ)には縁石を立てて並べ、池の輪郭を描いている。縁石の外側の州浜には、玉石や礫(れき)を敷き、池がカーブを描くところには大きな庭石を配置して風景にアクセントがつけてあった。

宮跡庭園の表示
宮跡庭園の表示
■ 通常、発掘された遺跡はもろくて弱いため、大抵の場合は埋め戻して保護している。したがって、遺跡があった場所には発掘時の写真や復元したイメージが展示されていて、見学者は当時の様子をイメージするだけである。幸いにも、この遺跡では石組みの池ががっしり作られており、また長期間土に埋まっていたため保存状態も良く造営当時の状態を露出展示することが可能だった。

■ 池の北西にあたる場所には、5棟の掘立柱建物と2基の井戸が築かれていた。これらの建物と井戸の跡は埋め戻されたが、その位置と規模が分かるように平面表示されている。建物の中で最大のものは、池を鑑賞するために池の流れにそって南北に長く築かれた高床式の建物で、この建物だけは当時の建物の研究に参考になるように復元されている。

S字状の池の向こうに復元建物を望む
S字状の池の向こうに復元建物を望む(説明書より転記)
■ 奈良時代の中頃に築かれた庭園であれば、長屋王の邸宅とは何のつながりもない。長屋王の変は神亀6年(729)2月12日に起きている。この事件で長屋王の一族は滅ぼされたが、邸宅は残った。その邸宅を光明皇后が皇后宮としたことが、出土した木簡から分かっている。光明皇后は天平宝字4年(760)まで存命だった。これは勝手な推測だが、おそらく彼女は皇后宮で様々な宴会を催す施設として、宮の南にこうした庭園を造営させたのであろう。

■ 発掘調査によって、奈良時代中期に造営されたこの庭園は、池の改修や建物の建て替えを重ねながら、平安時代の初めまで存続したことが分かっている。そのため、奈良時代の庭園の意匠や作庭技法を知るための貴重な遺跡と評価され「宮跡庭園」と命名され、昭和53年(1978)に国の特別史跡に指定された。

■ 復元された大型の建物は、背後から高床の板の間に上がることができる。板の間は広く、大規模な宴会も十分に可能である。東に開いた窓越しに、玉石を敷き詰めたS字状の池を見下すことができる。池の向こうには、春日山や三笠山など東の山並みを借景として眺めることができる。そのため、平成4年(1992)には、国の特別名勝にも指定された。


池の取水口付近
池の取水口付近
建物と井戸の平面表示
建物と井戸の平面表示
復元された大型建物
復元された大型建物
■ 庭園入口を入ると、すぐの所が池の北側で、そこに取水施設が復元されている。柱の位置と、土に埋まっていた木の樋の様子が分かるように、地面の一部を切り取って示してある。その場所に立つと、周囲を屋根付きの築地塀に囲われた池が眼前に広がる。

■ 飛鳥時代の庭園遺構としては、蘇我馬子の邸宅跡に付随した方形池や飛鳥京跡の苑池がよく知られているが、S字形ではない。一見した印象では平城宮の東院庭園に似ているように思えた。州浜に敷かれた玉石や礫の美しさのせいであろう。汀(みぎわ)線に沿った場所や州浜の外側には、石組みが築かれており、これらは海岸または渓流の景観を模したものだとのことだ。

■ その先に、5棟の掘立柱建物と2基の井戸の平面表示があった。これらの建物群は庇(ひさし)付きで、広場の周囲に計画的に配置されていて、宴会の食事などを用意する施設か、庭園を管理するための施設だったのではと推測されている。

■ 復元された大型建物の背後に回り、高床式の板の間に上がってみた。建物の東側の端に立つと、幅2〜7mの池が長さ55mにわたってゆったりのS字を描いているのが見える。

■ 静かに目をつむると、この大広間で繰り広げられた宴会の様子が忽然とまぶたの裏に浮かんだ。夕闇が降りる頃庭園にあちこちに焚かれたカガリ火が池の面を照らし、東の空を見上げると御笠山の頂の上に夕月が輝いている。建物の内部に目を転じるは、背後に控えた楽師が静かな曲を奏で、皇后の臨席のもと公達たちが盛んに杯を酌み交わしている。まさに春宵値千金の夕べの光景である。

■ ちなみに、この宮跡遺跡は奈良市三条大路1丁目5−37に所在している。平城宮朱雀門前の史跡朱雀大路跡から東へ約1km、近鉄「新大宮」駅からだと、西へ約1kmの位置にある。大宮通りを挟んでイトーヨーカドーの南側であり、アクセスするには奈良交通バスを利用して「宮跡庭園」で下車すれば良い。ここを訪れたとき、我々以外に見学者の人影はほとんどなかった。駐車場がなく、アクセスするにも少し難がある上に、知名度もそれほど高くないせいだろう。平城宮跡の喧噪に比べれば、対照的なほど物静かな史跡だった。




2010/05/31作成 by pancho_de_ohsei return