特別展で特に目を引いた展示品
■ 県立橿原考古学研究所の附属博物館では、特別展はエントランスホールから続く2部屋を使って通常行われる。ところが今回は、中国から借用した展示品が多いせいか、縄文時代の出土品の常設展示室から展示品をエントランスホールに移し、その部屋を第三の特別展示室としている。
恵陵の墓道に描かれた壁画「青龍図」と「白虎図」
■ 第一特別展示室に入ると唐十八陵の写真パネルが並び、それぞれの皇帝陵が概説されている。だが、この部屋の圧巻は2面の壁に貼られた巨大な壁画「青龍図」と「白虎図」の模写である。いずれの壁画も長さ7m、幅3mと大きい。出所は玄宗に位を譲ったことから「譲皇帝」の称号が贈られ、その墓も皇帝陵の規格に準じて造営された李憲の恵陵で、その墓道には、入口近くの漆喰を塗った東西の壁に青龍と白虎がそれぞれ描かれていた。青龍の体長は590cm、白虎の体長は600cmを測り、いずれも頭を入り口側の南を向け、前肢を前に伸ばして天空を飛翔する姿で描かれていた。
 |
| 恵陵の墓道に描かれた壁画「青龍図」(左)と「白虎図」(右)(*) |
■ 恵陵は、2000年に大がかりな盗掘の被害を受けた。それを契機に陝西省考古研究院が緊急の発掘調査を実施した。これらの壁画はその時発見されたものである。皇帝陵にふさわしい偉容を誇るこの2幅の壁画を、陝西省考古研究院は特別展の目玉として日本に航空機で輸送するつもりでいた。しかし、大きすぎて輸送が困難なことが明らかになり、急遽実物大の模写が制作された。模写を担当したのは、考古研究院絵画室の趙富康(ちょうふこう)氏(52歳)である。
 |
| 恵陵の玄宮断面模式図(*) |
■ 四神獣を描いた古墳としては、我が国には高松塚古墳とキトラ古墳がある。いずれの古墳も四神獣は石槨の内側に描かれている。しかし、恵陵では、青龍と白虎を墓道入口に描き、朱雀と玄武は墓室の南壁と北壁に描かれているという。しかも描かれている神獣の規模が桁違いに違う。李憲が亡くなったのは 開元29年(741)、
恵陵の築造時期は高松塚やキトラとは40〜50年ほど遅い。
恵陵から出土した跪拝俑(きはいよう)
 |
| 恵陵から出土した跪拝俑(きはいよう)(*) |
■ 2000年に緊急発掘調査された恵陵からは壁画だけでなく、おびただしい量の俑(よう)も見つかっている。今回の特別展では、彩色した騎馬女子俑や男装女子立俑、索駝胡人俑、駱駝、馬など13点が出典されている。
■ これらの展示品の中で特に人目を引いているのが、両肘・両膝を地につけて跪(ひざまず)いて何かを奏上している正装の文官が姿を表した珍しい陶俑で、その姿から「跪拝俑」とも「匍匐俑」とも呼ばれている。高さ42.7cm、長さ102.5cm、幅72cmと割と大柄な俑である。
■ 頭に進賢冠(しんけんかん)と呼ばれる冠を戴き、両手には笏(しゃく)を握っていたようで、笏を差し込むための穴がある。靴を脱いでいたと思われ、衣服の上から素足の足の裏が見える。衣服に赤い色が残っていることから、緋色の朝服を着用した四品(しほん)または五品の文官を表していると解されている。
■ 体形も恰幅がよく、顔もふっくらとしていて、いかにも盛唐の頃の文官を表しているようだ。神妙な表情をした顔を幾分もたげているのは、恐れ多くも李憲に呼び出されて、何事かを奏上している姿を表しているのだろう。
李よう墓出土の壁画「馬玉図」
■ 高祖李淵を埋葬した献陵の陪葬墓の一つに、李淵の曾孫にあたる嗣■(しかく)王・李■(よう)とその夫人の扶余氏を合葬した李よう墓がある。近年の盗掘と灌漑用水の進入で被害が憂慮されたため、2005年に緊急の発掘調査が実施された。墓誌が残されており、それによると、李ようは、開元15年(727)に49歳で亡くなったが、その時の品階は二品だった。夫人の扶余氏はその11年後に亡くなり、王の墓に追葬された。
 |
| 李よう墓出土の壁画「馬玉図」(*) |
■ 盗掘で副葬品はほとんど持ち去られていた。壁画も盗掘の影響や水の害で多くが失われていた。幸いにも壁画の幾つかは遺存しており、はぎ取られて陝西省考古研究院で順次修復されている。その一つが、墓道の奥の甬道(ようどう)西壁に描かれた馬玉図である。
■ 馬玉は、ペルシャに起源をもつスポーツである。西に伝わってヨーロッパではポロとして流行した。一方、東にはシルクロードを介して唐代に中国に伝わり、貴族や軍隊の間で流行した。ちなみに、日本では打毬(だきゅう)と呼ばれ、嵯峨天皇の弘仁13年(822)、渤海の国使が宮中で打毬を行なった記録が残されている。
■ 李よう墓の「馬玉図」は、白く塗った漆喰の上に、下絵など描かずに流ちょうな筆遣いで輪郭を描き、色の濃淡を駆使して着色した雄品である。よほど熟達した絵師による作品と思われ、人物の表情なども生き生きと活写されている。唐墓壁画の傑作とされているが、部分しか残っていないのが残念である。
靖陵出土の壁画「武人図」
 |
| 靖陵出土の壁画「武人図」(*) |
■ 文徳元年(888)3月に27歳の若さでなくなった僖宗・李■(けん)は靖陵に埋葬された。靖陵は唐18陵の最後に位置づけられている唐陵で、通常ではれば発掘は許可されない。しかし、1994年に爆薬を使用した大がかりな盗掘の被害を受けた。そのため、1995年から1996年にかけて玄宮に対する緊急学術調査が実施された。唐皇帝陵の玄室内部が実際に発掘調査されたのは、これが唯一の例である。
■ 靖陵の水平に築かれたトンネル状の甬道(ようどう)の東西両壁には、ひげをはやし手に戟(げき)を持つ武人の姿が対で描かれていた。今回の特別展では西壁に描かれた武人画が出展されていた。
■ 漆喰の上に白線で下書きし、朱線と黒線で輪郭を描いている。頭には黒色のボク頭を被り、その上に巻かれた布(抹額)が朱線で表されている。襟をたてた白い衫(さん)の上に丸首の緋色の袍(ほう)を着、足首を絞った白い袴をつけ、黒い靴を履いている。
■ 左右対称に描かれた武人は、玄宮を守衛する人物なのだろうが、上に示した「馬玉図」に比較すると、いかにも平板で標本の図柄を写し取っただけとの印象を禁じ得ない。それでも、高さ152.6cm、幅53.3cmのこの壁画は、中国一級文物に指定されている。日本にあれば、国宝の指定を受けた遺物である。
|