2010/05/17

大唐皇帝陵展:山に因りて陵となす

平城遷都1300年を記念した春季特別展「大唐皇帝陵」

「大唐皇帝陵」のチラシ
「大唐皇帝陵」のチラシ
■ 現在、平城遷都1300年を記念した春季特別展「大唐皇帝陵」が、4月24日から6月20日までの会期で県立橿原考古学研究所付属博物館で開催されている。

■ 今年は奈良県と中国陝西省との間で友好提携協定の締結が予定されている。そのためもあって、陝西省文物局や同考古研究院などの全面的な協力を得て、海外初出展の一級文物12件を含む80件がこの特別展に借用出展されている。さらに、当時の日中交流を物語る奈良県内の関連出土品も合わせて展示され、総数は102件にも達する。

■ 特別展のポスターに大写しに描かれているのは、玄宗皇帝の腹違いの兄・李成器(後に憲と改名)の恵陵から2000年に出土した跪拝俑(きはいよう)、すなわち、頭に進賢冠(しんけんかん)を戴き、緋色の朝服を着て、両手・両膝を地につけてひれ伏しながら、神妙な顔で何事かを上奏している文官の姿を表した俑である。手に持った笏は失われているが、その豊満な顔立ちはいかにも盛唐の頃の華やかさを感じさせ、特別展への関心をいやが上にも誘っている。

歴代皇帝在位皇帝陵
@高祖・李淵618〜626献陵
A太宗・李世民626〜649昭陵
B高宗・李治649〜683乾陵
C中宗・李顕683〜684、705〜710定陵
D睿宗・李旦684〜690、710〜712橋陵
E玄宗・李隆基712〜756泰陵
F粛宗・李亨756〜762建陵
G代宗・李豫762〜779元陵
H徳宗・李■(かつ)779〜805崇陵
I順宗・李純805〜820豊陵
J憲宗・李純805〜820景陵
K穆宗・李恒820〜824光陵
L敬宗・李湛824〜826荘陵
M文宗・李昂826〜840章陵
N武宗・李炎840〜846端陵
O宣宗・李忱846〜859貞陵
P懿宗・李■(さい)860〜873簡陵
Q僖宗・李■(けん)873〜888靖陵
R昭宗・李曄888〜904(和陵)
S哀帝・李祝904〜907-
■ 中国の唐王朝は、西暦618年に高祖李淵(りえん)が隋を滅ぼして建国した王朝である。690年に武則天によって唐王朝が一時廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活し、その後、907年に朱全忠が最後の哀帝から禅譲を受けて後梁を開くまで存続した。その間に即位しした皇帝は21人を数える。だが、唐の皇帝陵は「唐十八陵」と総称され、関中平原の北を限る北山(ほくざん)山脈の南縁辺に点在していて、即位した21人の皇帝の数より3つ少ない。

■ その理由は、次のような事由による。皇帝陵とは、死亡時点で帝位にあり、皇帝の礼をもって埋葬された皇帝の墓のことである。しかし、2人の皇帝は途中で廃絶され、死亡時点では皇帝ではなかった。その一人は、710年に中宗の皇后・韋后(いこう)が夫を毒殺して、皇帝に擁立された温王李重茂(殤(しょう)帝)だが、彼はその後に李隆基が起こした政変によって廃絶された。もう一人は最後の皇帝哀帝である。彼は朱全忠によって帝位を剥奪され、その後毒殺された。

■ この二人の皇帝を除外すれば、唐の皇帝陵としては19基になるはずだが、実はもう一基除外されている皇帝陵がある。第19代昭宗は河南省の洛陽に近い和陵に埋葬されたと伝えられているが、現在のところその所在は不明である。

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北山山脈の南縁辺に点在する「唐十八陵」
(数字は歴代数。出典:特別展図録)
■ したがって、この和陵を除いた18陵を唐十八陵」と総称しているわけだが、これらの皇帝陵はすべて、長安の北方に分布している。最も西にある<高宗・即天武后合葬陵の乾陵から、最も東にある玄宗の泰陵までの直線距離はおよそ140km、大阪ー名古屋間の距離に匹敵するとのことだ。

■ 今回の展示は「大唐皇帝陵」となっていて、唐の皇帝陵からの出土品が借用展示されているような印象を与える。しかし、中国の歴代皇帝陵の発掘調査は後に述べるような理由で禁止されていて、その実態は謎に包まれている。実際の皇帝陵から出土した品として今回展示されているのは、僖宗皇帝の靖陵のものだけである。発掘調査が禁止されているのに、この皇帝陵は、1994年に爆薬を使用した大がかりな盗掘を受けたため、玄宮に対する緊急の学術調査のメスが入った。唐陵の玄室内部が実際に発掘調査されたのは、これが唯一の例である。

新城長公主墓の発掘状況
新城長公主墓の発掘状況(*)
■ その他の主な出土品は、新城長公主墓(しんじょうちょうこうしゅぼ)、節愍(せつびん)太子陵李すい墓(すいは、にんべん+垂)、および玄宗皇帝の腹違いの兄にあたる李成器の恵陵からのものである。

■ 新城長公主は太宗の第二十一女で、高宗にとっては同母妹だが、663年2月、30歳の若さで亡くなった。その死を深く悲しんだ高宗は、公主の埋葬を「皇后の礼」をもって行われたという。その墓室が1995年に発掘調査された。

■ 節愍太子は中宗の第三子で706年に皇太子になった。彼は当時朝廷で専横を極めていた韋皇后一派を除こうとクーデターを敢行したが、逆襲にあって殺害されてしまった。710年、従兄弟の李隆基(のちの玄宗)が韋皇后一派を排除すると、節愍太子の名誉を回復してその遺骸を定陵に陪葬した。その皇太子陵が1995年の盗掘を契機として緊急発掘が行われた。

■ 李すい(にんべん+垂)は嗣舒王・李律の第二女で、高祖李淵の玄孫にあたる。736年正月、長安の勝業坊にある邸宅で25歳の若さで病死した。彼女には生まれたばかりの子供があった。2001年、西安市南郊の西安理工科大学曲江新校区の建設に伴う発掘調査で、その墓が発見された。

第五代睿宗の長子・李成器を埋葬した恵陵
第五代睿宗の長子・李成器を埋葬した恵陵(*)
■ 恵陵は、追諡(ついし)皇帝陵、すなわち死後皇帝の諡号が送られた第五代睿宗の長子・李成器(後に憲と改名)の墓である。後の玄宗皇帝・李隆基の腹違いの兄にあたり、わずか6歳で皇太子に立てられた。しかし、まもなく即天武后によって父睿宗とともに廃された。710年、李隆基によるクーデターで睿宗が26年ぶりに皇帝位に帰りざいたが、李憲は自ら皇太子の位を辞退し、弟の隆基に譲った。741年、李憲が63歳で亡くなると玄宗は「譲皇帝」の諡号を贈りその葬儀を皇帝に準じて執り行わせた。2000年、大がかりな盗掘を契機として緊急の発掘調査が行われた。

■ このように、今回の中国から借用した品は、1995年以降に盗掘などを契機として実施された緊急発掘の出土品ばかりである。皇帝陵出土品としては、靖陵のものしかないが、その他の出土品も、公主や皇太子など当時の皇族の奥津城から最近発掘された貴重な文物ばかりである。日本の国宝にあたる「中国一級文物」も12点も含まれていて必見の価値がある。いずれは陝西省の博物館などに展示されることになろうが、その前に特別展で本物が見られるのは有り難い。



唐の皇帝陵の基本は、太宗の昭陵から導入された山陵形式

■ 中国では、皇帝の墓を「陵」(りょう)と呼び、皇族や功臣などの「墓」(ぼ)と区別している。そのため、唐の皇帝陵はすべて上記のように「〜陵」と呼ばれている。さらに、唐の皇帝陵の基本的な形態としては、墳丘形式山陵形式の2種類がある。

第二代皇帝・太宗李世民
第二代皇帝・太宗李世民
■ 墳丘形式は、従来のように平地に墳丘を築いて皇帝陵としたもので、18陵のうち高祖の献陵、敬宗の荘陵、武宗の端陵、および僖宗の靖陵がこの形式を採用している。

■ 一方、山陵形式は、呼んで字のごとく自然の山の峯全体を陵とするものである。この形式は唐陵に独特の形式で、第二代皇帝太宗の昭陵を嚆矢とすると言われている。関中平野の北には北山山脈が東西に連なっていて、その中にひときわ目立つ山容の九■山(きゅうそうざん)がある。当時の長安城から北へ60kmも離れた所に位置しながら、まるでランドマークのように目立つ山である。

■ おそらく太宗は、膨大な人民を徴発して平地に巨大な墳墓を築くよりも、この山の麓をえぐって玄宮を築いた方がはるかに労力が少なくて済むと考えたにちがいない。それでいて、長安城の何処からでも誰もが仰ぎ見ることができるため、従来の墳丘形式の皇帝陵よりはるかに壮大な皇帝陵になる・・・と。

太宗と文徳皇后を合葬した昭陵
太宗と文徳皇后を合葬した昭陵(*)
■ こうして、太宗は「因山為陵」(山に因って陵を為す)という理念を己の陵に具体化させることにした。折しも貞観10年(636)、長孫皇后が36歳の若さでこの世を去った。太宗は九■山の麓に皇后の陵墓の造営を命じ、昭陵と命名して皇后の遺骸をそこに埋葬した。太宗自身も貞観23年(649)に没すると、昭陵に埋葬された。以後、唐陵のほとんどは、昭陵をモデルとして、南に見晴らしの良い平野が広がる北山山脈南縁の秀麗な山塊を山陵として築かれた。

■ このように唐の皇帝陵は山陵形式が主流となるが、しかし、この形式は漢代に創設された陵寝制、すなわち遺体を安置すると霊魂に対する祭祀を行う寝殿が一体になった制度の発展形として捕らえられている。

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唐皇帝略系図(*)
■ 古来、中国では人は死ぬと天に帰る魂(こん)と地に帰る魄(はく)に分離するという伝統的な死生観があった。そして、魄は生前と同様の生活を続けながら地下の墓中に宿っていると考えられたため、宮殿に匹敵する皇帝陵が築かれた。さらに子孫が魂を祭ることで分離した魂と魄が再び合体できると考え、霊魂に対する祭祀を行う施設が地上に造られた。それが寝殿または下宮と呼ばれるものである。寝殿はまた、皇帝の霊魂が日常生活を送り、それに対して侍臣が飲食・起居を奉供する場所でもある。

■ そのため、唐の皇帝陵は基本的に遺骸を収めた墓室がある陵体、陵体を取り巻く陵園、陵体から南にのびる神道石刻列、皇帝の霊魂に対する祭礼を執り行う寝殿、さらに陵園の外に分布する陪葬墓などから成り立っていた。



特別展で特に目を引いた展示品

■ 県立橿原考古学研究所の附属博物館では、特別展はエントランスホールから続く2部屋を使って通常行われる。ところが今回は、中国から借用した展示品が多いせいか、縄文時代の出土品の常設展示室から展示品をエントランスホールに移し、その部屋を第三の特別展示室としている。

恵陵の墓道に描かれた壁画「青龍図」と「白虎図」

■ 第一特別展示室に入ると唐十八陵の写真パネルが並び、それぞれの皇帝陵が概説されている。だが、この部屋の圧巻は2面の壁に貼られた巨大な壁画「青龍図」と「白虎図」の模写である。いずれの壁画も長さ7m、幅3mと大きい。出所は玄宗に位を譲ったことから「譲皇帝」の称号が贈られ、その墓も皇帝陵の規格に準じて造営された李憲の恵陵で、その墓道には、入口近くの漆喰を塗った東西の壁に青龍と白虎がそれぞれ描かれていた。青龍の体長は590cm、白虎の体長は600cmを測り、いずれも頭を入り口側の南を向け、前肢を前に伸ばして天空を飛翔する姿で描かれていた。

恵陵の墓道に描かれた壁画「青龍図」(左)と「白虎図」(右)
恵陵の墓道に描かれた壁画「青龍図」(左)と「白虎図」(右)(*)

■ 恵陵は、2000年に大がかりな盗掘の被害を受けた。それを契機に陝西省考古研究院が緊急の発掘調査を実施した。これらの壁画はその時発見されたものである。皇帝陵にふさわしい偉容を誇るこの2幅の壁画を、陝西省考古研究院は特別展の目玉として日本に航空機で輸送するつもりでいた。しかし、大きすぎて輸送が困難なことが明らかになり、急遽実物大の模写が制作された。模写を担当したのは、考古研究院絵画室の趙富康(ちょうふこう)氏(52歳)である。

恵陵の玄宮断面模式図(*)
恵陵の玄宮断面模式図(*)

■ 四神獣を描いた古墳としては、我が国には高松塚古墳とキトラ古墳がある。いずれの古墳も四神獣は石槨の内側に描かれている。しかし、恵陵では、青龍と白虎を墓道入口に描き、朱雀と玄武は墓室の南壁と北壁に描かれているという。しかも描かれている神獣の規模が桁違いに違う。李憲が亡くなったのは 開元29年(741)、 恵陵の築造時期は高松塚やキトラとは40〜50年ほど遅い。

恵陵から出土した跪拝俑(きはいよう)

恵陵から出土した跪拝俑
恵陵から出土した跪拝俑(きはいよう)(*)
■ 2000年に緊急発掘調査された恵陵からは壁画だけでなく、おびただしい量の俑(よう)も見つかっている。今回の特別展では、彩色した騎馬女子俑や男装女子立俑、索駝胡人俑、駱駝、馬など13点が出典されている。

■ これらの展示品の中で特に人目を引いているのが、両肘・両膝を地につけて跪(ひざまず)いて何かを奏上している正装の文官が姿を表した珍しい陶俑で、その姿から「跪拝俑」とも「匍匐俑」とも呼ばれている。高さ42.7cm、長さ102.5cm、幅72cmと割と大柄な俑である。

■ 頭に進賢冠(しんけんかん)と呼ばれる冠を戴き、両手には笏(しゃく)を握っていたようで、笏を差し込むための穴がある。靴を脱いでいたと思われ、衣服の上から素足の足の裏が見える。衣服に赤い色が残っていることから、緋色の朝服を着用した四品(しほん)または五品の文官を表していると解されている。

■ 体形も恰幅がよく、顔もふっくらとしていて、いかにも盛唐の頃の文官を表しているようだ。神妙な表情をした顔を幾分もたげているのは、恐れ多くも李憲に呼び出されて、何事かを奏上している姿を表しているのだろう。

李よう墓出土の壁画「馬玉図」

■ 高祖李淵を埋葬した献陵の陪葬墓の一つに、李淵の曾孫にあたる嗣■(しかく)王・李■(よう)とその夫人の扶余氏を合葬した李よう墓がある。近年の盗掘と灌漑用水の進入で被害が憂慮されたため、2005年に緊急の発掘調査が実施された。墓誌が残されており、それによると、李ようは、開元15年(727)に49歳で亡くなったが、その時の品階は二品だった。夫人の扶余氏はその11年後に亡くなり、王の墓に追葬された。

李邑墓出土の壁画「馬玉図」
李よう墓出土の壁画「馬玉図」(*)

■ 盗掘で副葬品はほとんど持ち去られていた。壁画も盗掘の影響や水の害で多くが失われていた。幸いにも壁画の幾つかは遺存しており、はぎ取られて陝西省考古研究院で順次修復されている。その一つが、墓道の奥の甬道(ようどう)西壁に描かれた馬玉図である。

■ 馬玉は、ペルシャに起源をもつスポーツである。西に伝わってヨーロッパではポロとして流行した。一方、東にはシルクロードを介して唐代に中国に伝わり、貴族や軍隊の間で流行した。ちなみに、日本では打毬(だきゅう)と呼ばれ、嵯峨天皇の弘仁13年(822)、渤海の国使が宮中で打毬を行なった記録が残されている。

■ 李よう墓の「馬玉図」は、白く塗った漆喰の上に、下絵など描かずに流ちょうな筆遣いで輪郭を描き、色の濃淡を駆使して着色した雄品である。よほど熟達した絵師による作品と思われ、人物の表情なども生き生きと活写されている。唐墓壁画の傑作とされているが、部分しか残っていないのが残念である。

靖陵出土の壁画「武人図」

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靖陵出土の壁画「武人図」(*)
■ 文徳元年(888)3月に27歳の若さでなくなった僖宗・李■(けん)靖陵に埋葬された。靖陵は唐18陵の最後に位置づけられている唐陵で、通常ではれば発掘は許可されない。しかし、1994年に爆薬を使用した大がかりな盗掘の被害を受けた。そのため、1995年から1996年にかけて玄宮に対する緊急学術調査が実施された。唐皇帝陵の玄室内部が実際に発掘調査されたのは、これが唯一の例である。

■ 靖陵の水平に築かれたトンネル状の甬道(ようどう)の東西両壁には、ひげをはやし手に戟(げき)を持つ武人の姿が対で描かれていた。今回の特別展では西壁に描かれた武人画が出展されていた。

■ 漆喰の上に白線で下書きし、朱線と黒線で輪郭を描いている。頭には黒色のボク頭を被り、その上に巻かれた布(抹額)が朱線で表されている。襟をたてた白い衫(さん)の上に丸首の緋色の袍(ほう)を着、足首を絞った白い袴をつけ、黒い靴を履いている。

■ 左右対称に描かれた武人は、玄宮を守衛する人物なのだろうが、上に示した「馬玉図」に比較すると、いかにも平板で標本の図柄を写し取っただけとの印象を禁じ得ない。それでも、高さ152.6cm、幅53.3cmのこの壁画は、中国一級文物に指定されている。日本にあれば、国宝の指定を受けた遺物である。



中国の皇帝陵が発掘調査されない理由

中国社会科学院考古研究所の王仲殊氏(右端)
中国社会科学院考古研究所の王仲殊氏(右端)
■ 筆者が初めて中国を訪れたのは、中国古代遺跡研究会が主催するツアーに参加した1981年11月である。全日空のチャーター便で北京に入り、故宮博物館と万里の長城を見学した後、中華民航で西安に向かった。11月10日には始皇帝陵、兵馬俑博物館、華清池および西安市内の鐘楼、小雁塔、大雁塔を見学し、翌日には乾陵、永泰公主墓、章懐太子墓、咸陽博物館などを訪れている。

■ そのツアーで現地ガイド役をつとめられたのは、中国社会科学院考古研究所の王仲殊氏だった。兵馬俑を見学したとき、王仲殊氏が語られた印象深い話を記しておこう。兵馬俑博物館を案内しながら、王仲殊氏は当分のあいだ発掘は中止していると話された。その理由を聞くと、次のように答えられた。

兵馬俑博物館
兵馬俑博物館
■ 「地中から掘り出された俑は色が施されているが、大気に触れた途端たちまち褪色してしまう。そのため、褪色を防ぐ技術が開発されるまで発掘はしないことにした。それが10年かかろうが20年かかろうがいっこうに構わない。兵馬俑たちが地中で過ごした2千数百年の時間に比べれば、待ち時間などほんの一瞬のことだ」

■ 乾陵を見学したときも、王仲殊氏は同じようなことを話された。唐の高宗と即天武后を合葬した乾陵は幸い盗掘を受けていないことが判明した。この陵を発掘すれば、世界が驚く遺物が続々出土するであろう。だが、それらをしっかりと保存できる技術が開発されるまでは、発掘調査には着手しない、と。そのときから四半世紀以上を過ぎた現在、まだ乾陵が発掘されたというニュースを聞かない。

定陵への入場門である重門
定陵への入場門である重門
■ 現在、中国では唐の皇帝陵だけでなくその他の時代の皇帝陵の発掘調査も実施していない。その背景には貴重な体験がある。北京の中心から北西へ約50km、昌平県の天寿山南麓に「明の十三陵」がある。15世紀初頭の明朝の3代皇帝・永楽帝から7代皇帝を除く16代皇帝まで13人の陵墓が散在しているところだ。その中の定陵は十三代皇帝・万暦帝と二人の皇后を合葬した皇帝陵で、その地下27mに築かれた約1200平米の地下宮殿はあまりに有名である。定陵の地下宮殿見学は定番の観光コースとして必ずと言って良いほど組み入れられている。

■ ものの本によると、定陵は2年分の国家財政と6年の年月を費やして、万暦帝が自分の生前中に造ったとされている。司馬遼太郎はこの万暦帝の地下宮殿を訪れたときの印象を、著書の『長安から北京へ』(中公文庫)の中で「馬鹿な男がいたと思う以外に手がないほどの豪華さ」と絶句している。考古学者による定陵の試掘は1956年5月に開始され、1年後に墓室の「玄宮」に入るためのアーチ型の門を発見した。そして1960年代に発掘が続けられ、お棺を始めとするおびただしい副葬品が出てきた。

定陵の地下宮殿の様子
定陵の地下宮殿の様子
■ ところが問題が生じた。紙に書かれた巻物や絵画、繊維で作られた衣類など墓の中から掘り出した品々が、外気に触れるとことごとく変質したり退色してしまうのだ。当時の技術では、こうした変化に対処して出土品を発掘されたままの状態で保存するは不可能だった。そのため、中国の考古学界は一つの英断を下した。出土品を変質させずに保存できる技術が開発されるまでは、皇帝陵の発掘調査は実施しないと。その結果、明の十三陵でも発掘調査されたのは定陵だけとなっている。さすがは4千年の歴史を有する国である。中国では時間は実にゆったりの流れているのだ、10年や20年待つことなど全く苦にならないのだろう。

■ 唐の歴代皇帝陵は、簒奪者朱全忠に仕えた節度使によって徹底的に暴かれたそうだ。太宗が永遠に手元にと願って昭陵に埋葬させた王羲之の真筆も奪われたという。洋の東西を問わず、墓荒らしは世の常である。唐十八陵も例外ではなく、未盗掘が確認されているのは乾陵の他にいくつあるだろうか。

■ 日本では天皇陵は天皇家の先祖の”墓”と認識されているが、中国では皇帝陵は先祖の墓ではなく、国民全体の文化遺産と見なされている。したがって、宮内庁のような前近代的機関によって発掘を禁止しているのではなく、自らが自粛して新しい保存技術の出現を心待ちしているのだ。国民の文化遺産を守るためには、大切な忍耐だと思う。翻って我が国はどうであろうか。高松塚古墳が発見されたのは昭和47年(1972)。それから40年も経ないのに、その保存を委託された文化庁は、自ら国宝に指定した壁画を自らの管理体制の不備で破壊してしまった。


(*) 出典:奈良県立橿原考古学研究所附属博物館特別展図録 第73冊 大唐皇帝陵


2010/05/19作成 by pancho_de_ohsei return