橿原日記 平成22年05月07日

天下布武を印象づけた信長の安土城とは・・・

3年で築造され、3年後に焼失した安土城の本丸

安土・南蛮図屏風 陶板壁画(安土町立城郭資料館蔵)
安土・南蛮図屏風 陶板壁画(安土町立城郭資料館蔵)

安土城
イエズス会の画家ジョヴァンニ・
ニッコロが描いた信長の肖像画
■ 天正3年(1575)5月、織田信長は長篠・設楽原(ながしの したらがはら)の戦いで武田勝頼の騎馬軍団に勝利した。最新兵器の鉄砲を3000丁も備えた織田・徳川連合軍が、武田軍を完膚無きまでに打ち破ったという。その年の11月末、家督を嫡男の信忠に譲り、尾張,美濃の領国を与えると、信長はいよいよ天下布武を目指して動き出した。手始めは、天下を統一しこれを治めようとする彼自身の強力な意志を象徴する城の建設だった。

■ 年が改まった天正4年(1576)1月、信長は築城の場所として琵琶湖東岸の標高199mの安土山を選んだ。そこには、近江守護六角氏の居城だった観音寺城の支城があったが、信長はその場所に総石垣で普請された城を築くことにした。彼は総普請奉行に丹羽長秀を据え、安土山全山を城域とする城を3年で作り上げることを命じた。

安土城
信長が築かせた天下布武のための安土城
■ 安土は、東西に陸路が通り瀬戸内や大阪からの水路の便も良い交通の要衝の地である。当時は近江を制すれば日本を制することができるとさえ言われた。それに加えて、信長の生れ故郷の尾張からも、当時の都の京都からも近かった。だが、信長が築こうとしたのは、敵の攻撃に備えるためのそれまで「守る城」ではない。天下布武、すなわち武家の政権を以て天下を支配しようとする彼自身の強固な意志を象徴する城だった。

■ 尾張や美濃、越前、越中、越後、若狭、および畿内の武将や大工・職人が築城のために集められた。丹羽長秀は命じられた通り、3年後の天正7年(1578)の5月には城を完成し、その月、信長はさっそく天守閣に移り住んだという。全山を城域とする城は、中核部に近山から集められた石で穴太衆などの石工集団が石垣を築き、その上に明(みん)から招いた瓦師・一観(いっかん)が焼いた瓦を葺いた五層七階の天守閣をもつ豪華絢爛な本格的近世城郭だったと伝えられている。

安土城
安土城天守閣の復元イメージ
(宮上茂隆復元案)
■ だが、築城から3年後の天正10年(1582)、織田信長は本能寺の変で明智光秀に討たれ、安土城は明智秀満率いる明智軍によって占拠された。明智軍の退却後、略奪目的で進入した土民の放火で、天守閣とその周辺建物(主に本丸)を焼失したという。その後もしばらくは信長の嫡孫秀信の居城として二の丸を中心に機能していた。天正13年(1585)、18歳で近江43万石の領主に任ぜられた豊臣秀次は、信長亡き後の安土城下の民を近江八幡に移し八幡山に城を築いたため、安土城は廃城となった。



宣教師ルイス・フロイスが見た安土城

安土城天守閣の1/20スケール模型
安土城天守閣の1/20スケール模型(安土町立城郭資料館蔵)

■ ポルトガル人のイエズス会宣教師ルイス・フロイス(Luis Frois,1532 - 1597)は、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)が来日した際、通訳として視察に同行し、天正9年(1581)に安土城で信長に拝謁している。そのときヴァリニャーノは、狩野永徳が安土城を描いた屏風を贈られ、彼から教皇グレゴリウス13世に献上された。その屏風は現在に到るも存在が確認されておらず、行方不明のままである。信長に拝謁したとき、ヴァリニャーノは従者として黒人を連れていた。信長にその黒人を召抱えたいと所望され、これを献上している。黒人はヤスケと名づけられて信長の直臣になったことが知られている。

■ フロイスは、永禄6年(1563)に横瀬浦(現在の長崎県西海市北部の港)に上陸して以来、20年にわたって布教活動を続けてきた。日本におけるキリスト教宣教の栄光と悲劇、そして発展と斜陽を直接目撃してきた第一人者だったと言える。その彼が、天正11年(1583)、時の総長の命令で宣教の第一線を離れ、日本におけるイエズス会の活動の貴重な記録を残すことに専念するようになった。彼はその年に執筆を開始し、10年間かかって文禄2年(1593)、有名な『日本史』(Historia de Iapam)を書き上げた。この本の記述は、天文18年(1549)のフランシスコ・デ・ザビエル(Francisco de Xavier)の来日に始まり、文禄2年(1593)で終わっている。

■ その『日本史』の中で、フロイスはアレッサンドロ・ヴァリニャーノと共に信長に拝謁したとき、安土城を見学した様子を、次のように書いている。

・中心には、彼らがテンシュ(天守閣)と呼ぶ一種の塔があり、私たちの塔より気品があり、壮大な建築である。この塔は七重からなり、内外共に建築の妙技を尽くして造営された。
・内部は、四方に色彩豊かに描かれた肖像たちが壁全面を覆い尽くしている。
・外部は、階層ごとに色が分かれている。あるものはこの日本で用いられている黒い漆塗りの窓が配された白壁であり、これが絶妙な美しさを持っている。ある階層は紅く、またある階層は青く、最上階は全て金色である。
・テンシュは、その他の邸宅と同様に我らの知る限りの最も華美な瓦で覆われている。それらは、青に見え、前列の瓦には丸い頭が付いている。
・屋根にはとても気品のある技巧を凝らした形の雄大な怪人面が付けられている。

映画「火天の城」のポスター
映画「火天の城」のポスター
■ 安土城の五層七重の天守閣は、世界で初めての木造高層建築で、その高さ46mにも達する絢爛豪華な建物だったようだ。イエズス会の宣教師も「このような豪華な城は欧州にも存在しない」と母国に驚嘆の手紙を送っているという。天守閣の内部は吹き抜けになっていたのでは、と推測されている。吹き抜けの建物といえば、キリスト教の大聖堂を誰しもすぐに思い浮かべる。織田信長もイエズス会の宣教師たちから本国の大聖堂の話をなんども聞かされて、その華麗な内部を思い描いたであろう。そして、信長の性格に結びつければ、教会の大聖堂に劣らぬ天守閣の建築を丹羽長秀に命じたとしても何の不思議もない。

■ 昨年の秋、山本兼一氏の小説「火天の城」が映画化され封切られた。西田敏行扮する熱田の宮大工・岡部又右衛門を主人公に、安土城築城の苦節3年の流れを追った作品だった。その中に気になる一場面があった。信長は「天高くそびえ立つ、天下一の城を作れ」と命じたが、城の模型として又右衛門が提出したのは、なんと施主の意向を無視した吹き抜けのない設計だった。怒りをたぎらせながら理由を問う信長に対し、又右衛門は「天守閣に吹き抜けなどあれば炎の道になり申す。お屋形様のお命をお守りするのが、われら大工の務め。炎の道など作ることは出来ませぬ」と断言した。

岡部又右衛門が提出した城のサンプル
映画の中で岡部又右衛門が提出した天守閣の模型
■ 確かに天守閣でいったん火災が発生すれば、吹き抜けは煙突の役割を果たし、炎の通り道となってまたたくまに天守閣を焼き尽くす。先日訪れた国宝の彦根城にしても天守閣は吹き抜け構造にはなっていない(4月9日付けフォトアルバム参照)。はたして安土城の天守閣はどのような構造だったのか、「火天の城」の映画を見て以来、ずっとそのことが気になっていた。

■ 中世・近世に築かれた城郭の設計図が残っていれば、それをもとに城の姿を復元できる。だが、当時としては城郭の構造は最高の軍事機密であったはずで、城が完成すれば設計図は破棄された。安土城に関しても例外ではない。安土城を描いた絵として唯一可能性があるのは、東インド巡察使アレシャンドロ・ヴァリニャーノの帰国に際して信長が贈った屏風絵「安土城下図」である。ヴァリニャーノはその絵を天正遣欧少年使節団と共にヴァチカンのローマ法王庁に届けたとされている。この屏風絵が現存していれば、安土城を想定復元できるかもしれないが、その可能性は極めて低い。

■ したがって、安土城を復元するにしても、参考とすべき資料は、わずかにルイス・フロイスの『日本史』、イエズス会宣教師らの記録、および織田信長の右筆(ゆうしつ)だった太田牛一が書き記した『信長公記』、加賀藩主前田家に伝えられた『安土日記くらいしか残っていない。いずれの資料にも、天守の内側に吹き抜け空間があったと思わせる記述はないという。

■ ところで、1992年にスペインのセビリアで万国博覧会が開催された際、日本館のメイン展示として安土城天守閣の最上部5階と6階の復元模型が展示された。まともな資料もないのに、どうして復元できたのか気になっていたが、実は安土城天守閣の設計図と思われる図面は存在したのだ。昭和44年(1969)のことである。三菱財閥二代目の岩崎彌之助が蒐集した美術コレクションなどを収蔵することで知られる東京の静嘉堂文庫から、『天守閣指図』と題する建物の図面が発見された。その図面がどこの城の天守閣のものかは明記されていない。しかし、それが安土城天守閣の設計図だというのだ。



スペインのセビリア万国博覧会で展示された復元模型

■ 静嘉堂文庫から見つかった『天守閣指図』は、もともと加賀藩の大工棟梁・池上家に伝わってきた『天守閣指図』の写しのようだ。この図面には、『安土日記』などには見られぬ特異な構造が具体的に示されている。

天守閣の1/20スケール復元模型(安土町立城郭資料館蔵)
天守閣の1/20スケール復元模型
(安土町立城郭資料館蔵)
■ 例えば、@ 1階部分は不整形の八角形をしている、A 地階から3階まで、6間4間の広さの吹き抜け空間がある、B 吹き抜け空間には、宝塔が収まっている、C 吹き抜け2階部分に、せりだしの舞台がある、D 吹き抜け3階には、回廊と渡り廊下がある、といった具合だ。いかにも派手好みの信長ならではの要求のようにも思われる。

■ 現在のところ、『天守閣指図』が安土城の設計図面である保証は何もなく、いろいろな学者が賛成論、反対論を展開している。一部の学者は、実際の安土城天守閣の設計図なら、そのような物が現代に残っているはずはない、逆に採用されなかった設計図だから後世にまで残ったにちがいないと考えている。だが、名古屋工業大学の建築学教授だった内藤昌教授らは、現存する各種資料の記述内容を精査し、また安土城天守閣に残る礎石の形状との類似性などを考慮して、安土城の図面であると考えられた。

セビリアで万国博覧会の日本館
セビリアで万国博覧会の日本館
■ コロンブスがアメリカ大陸を発見してから500年を記念して、1992年にスペインのセビリアで万国博覧会が開催された。その時の日本館で、安土城天守閣の最上部5階と6階の原寸復元模型がメイン展示として展示された。この模型は内藤教授の案に従ったもので、内部の障壁画なども忠実に復元されて展示されたものだった。博覧会期間中には最も多い入場者数を記録し、人々の日本文化への関心の深さが伺えたとのことだ。
(注:日本館の木造パビリオンはどことなく近つ飛鳥博物館に似ていると思ったら、設計はやはり建築家の安藤忠雄氏。ところでエントランスホールの逆三角形の天井支えは現在開催中の上海万博の中国館に似ていないか?)

金箔10万枚を貼った6階部分の外壁
金箔10万枚を貼った6階部分の外壁
■ 万博終了後、安土町は復元模型を譲り受けた。そして、大和ハウス工業などの尽力によって、知り得る限り忠実に往事の姿を原型原寸原色原素材で再現した。すなわち、5階部分には、発掘された当時の瓦を焼きあげて再現した庇屋根や、天人の飛ぶ様を描いた天井が新たに追加された。6階部分には、金箔10万枚を使用した外壁と金箔の鯱を乗せた大屋根が取り付けられた。また当時信長が狩野永徳を中心に描かせたと伝えられている金碧障壁画も内部に再現された。

■ こうして復元された天守閣の模型が、JR琵琶湖線「安土駅」から徒歩25分 のところにある安土城天守閣 信長の館に「平成の安土城」として常設展示されている。復元された安土城の絵や模型は冊子などで時折見かけるが、原寸大の建物を目の前にすると、その大きさと華やかさに驚かされる。5階部分は柱も床も、鮮やかな朱色の漆で塗りこまれ、内陣はすべて金で飾られている。6階部分は、黒塗りの漆に金の内装であるが、外側は眩いばかりの金色である。確かに一見してその豪華さに目を奪われるが、まるで城の頂にさらに金閣寺を乗っけたようなイメージは、なんともちぐはぐだ。

真っ二つに割った安土城の模型 吹き抜け空間に収められた宝塔
真っ二つに割った安土城の模型 吹き抜け空間に収められた宝塔

■ さらに、JR安土駅前にある安土町立城郭資料館には、安土城の1/20スケールの復元模型が展示されている。この模型は電気仕掛けで縦に真っ二つに割った形で内部の様子を見ることができる。静嘉堂文庫から見つかった『天守閣指図』通りに、天守閣の内部が地下1階から3階までが吹き抜けになっていて、その空間に宝塔が収まっている。こうした構図を見て人々は何をイメージするだろうか。筆者は宝塔を聖母マリア像に置き換えればそのままキリスト教の礼拝堂になるのでは、と思った。信長はイエズス会の宣教師から教会の話をいろいろ聞いていたはずである。彼のイメージをこうした構図で表したのかもしれない。だが、不遜にも信長は己の居住する空間をその上に築かせた。いかにも信長的な発想である。

■ しかし、上に述べたように、安土城の天守閣の内装について詳しく記した『安土日記』にも、ルイス・フロイスの記録にも、吹き抜けの空間があったことが全く触れていない。多くの城郭を見る機会が多い我々から見ても、こうした構図の天守閣は異様である。信長と同時代の人間なら、なおさら驚きをもって吹き抜け空間を見たはずだ。それにも関わらず、なんの言及もされていないのは謎である。やはり一部の専門家が指摘するように、『天守閣指図』は実際には採用されなかった設計図だったため後世に残ったのではなかろうか。



2010/05/12作成 by pancho_de_ohsei
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