宣教師ルイス・フロイスが見た安土城
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| 安土城天守閣の1/20スケール模型(安土町立城郭資料館蔵)
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■ ポルトガル人のイエズス会宣教師ルイス・フロイス(Luis Frois,1532 - 1597)は、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)が来日した際、通訳として視察に同行し、天正9年(1581)に安土城で信長に拝謁している。そのときヴァリニャーノは、狩野永徳が安土城を描いた屏風を贈られ、彼から教皇グレゴリウス13世に献上された。その屏風は現在に到るも存在が確認されておらず、行方不明のままである。信長に拝謁したとき、ヴァリニャーノは従者として黒人を連れていた。信長にその黒人を召抱えたいと所望され、これを献上している。黒人はヤスケと名づけられて信長の直臣になったことが知られている。
■ フロイスは、永禄6年(1563)に横瀬浦(現在の長崎県西海市北部の港)に上陸して以来、20年にわたって布教活動を続けてきた。日本におけるキリスト教宣教の栄光と悲劇、そして発展と斜陽を直接目撃してきた第一人者だったと言える。その彼が、天正11年(1583)、時の総長の命令で宣教の第一線を離れ、日本におけるイエズス会の活動の貴重な記録を残すことに専念するようになった。彼はその年に執筆を開始し、10年間かかって文禄2年(1593)、有名な『日本史』(Historia de Iapam)を書き上げた。この本の記述は、天文18年(1549)のフランシスコ・デ・ザビエル(Francisco de Xavier)の来日に始まり、文禄2年(1593)で終わっている。
■ その『日本史』の中で、フロイスはアレッサンドロ・ヴァリニャーノと共に信長に拝謁したとき、安土城を見学した様子を、次のように書いている。
・中心には、彼らがテンシュ(天守閣)と呼ぶ一種の塔があり、私たちの塔より気品があり、壮大な建築である。この塔は七重からなり、内外共に建築の妙技を尽くして造営された。
・内部は、四方に色彩豊かに描かれた肖像たちが壁全面を覆い尽くしている。
・外部は、階層ごとに色が分かれている。あるものはこの日本で用いられている黒い漆塗りの窓が配された白壁であり、これが絶妙な美しさを持っている。ある階層は紅く、またある階層は青く、最上階は全て金色である。
・テンシュは、その他の邸宅と同様に我らの知る限りの最も華美な瓦で覆われている。それらは、青に見え、前列の瓦には丸い頭が付いている。
・屋根にはとても気品のある技巧を凝らした形の雄大な怪人面が付けられている。
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| 映画「火天の城」のポスター |
■ 安土城の五層七重の天守閣は、世界で初めての木造高層建築で、その高さ46mにも達する絢爛豪華な建物だったようだ。イエズス会の宣教師も「このような豪華な城は欧州にも存在しない」と母国に驚嘆の手紙を送っているという。天守閣の内部は吹き抜けになっていたのでは、と推測されている。吹き抜けの建物といえば、キリスト教の大聖堂を誰しもすぐに思い浮かべる。織田信長もイエズス会の宣教師たちから本国の大聖堂の話をなんども聞かされて、その華麗な内部を思い描いたであろう。そして、信長の性格に結びつければ、教会の大聖堂に劣らぬ天守閣の建築を丹羽長秀に命じたとしても何の不思議もない。
■ 昨年の秋、山本兼一氏の小説「火天の城」が映画化され封切られた。西田敏行扮する熱田の宮大工・岡部又右衛門を主人公に、安土城築城の苦節3年の流れを追った作品だった。その中に気になる一場面があった。信長は「天高くそびえ立つ、天下一の城を作れ」と命じたが、城の模型として又右衛門が提出したのは、なんと施主の意向を無視した吹き抜けのない設計だった。怒りをたぎらせながら理由を問う信長に対し、又右衛門は「天守閣に吹き抜けなどあれば炎の道になり申す。お屋形様のお命をお守りするのが、われら大工の務め。炎の道など作ることは出来ませぬ」と断言した。
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| 映画の中で岡部又右衛門が提出した天守閣の模型 |
■ 確かに天守閣でいったん火災が発生すれば、吹き抜けは煙突の役割を果たし、炎の通り道となってまたたくまに天守閣を焼き尽くす。先日訪れた国宝の彦根城にしても天守閣は吹き抜け構造にはなっていない(4月9日付けフォトアルバム参照)。はたして安土城の天守閣はどのような構造だったのか、「火天の城」の映画を見て以来、ずっとそのことが気になっていた。
■ 中世・近世に築かれた城郭の設計図が残っていれば、それをもとに城の姿を復元できる。だが、当時としては城郭の構造は最高の軍事機密であったはずで、城が完成すれば設計図は破棄された。安土城に関しても例外ではない。安土城を描いた絵として唯一可能性があるのは、東インド巡察使アレシャンドロ・ヴァリニャーノの帰国に際して信長が贈った屏風絵「安土城下図」である。ヴァリニャーノはその絵を天正遣欧少年使節団と共にヴァチカンのローマ法王庁に届けたとされている。この屏風絵が現存していれば、安土城を想定復元できるかもしれないが、その可能性は極めて低い。
■ したがって、安土城を復元するにしても、参考とすべき資料は、わずかにルイス・フロイスの『日本史』、イエズス会宣教師らの記録、および織田信長の右筆(ゆうしつ)だった太田牛一が書き記した『信長公記』、加賀藩主前田家に伝えられた『安土日記』くらいしか残っていない。いずれの資料にも、天守の内側に吹き抜け空間があったと思わせる記述はないという。
■ ところで、1992年にスペインのセビリアで万国博覧会が開催された際、日本館のメイン展示として安土城天守閣の最上部5階と6階の復元模型が展示された。まともな資料もないのに、どうして復元できたのか気になっていたが、実は安土城天守閣の設計図と思われる図面は存在したのだ。昭和44年(1969)のことである。三菱財閥二代目の岩崎彌之助が蒐集した美術コレクションなどを収蔵することで知られる東京の静嘉堂文庫から、『天守閣指図』と題する建物の図面が発見された。その図面がどこの城の天守閣のものかは明記されていない。しかし、それが安土城天守閣の設計図だというのだ。
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