平成の遣唐使船と天平の遣唐使船去る5月8日、NHKは夕方のニュース番組の中で、現在万国博が開催されている上海に向けて大阪の天保山西岸壁から出航していく平成の遣唐使船の様子を伝えていた。角川文化振興財団が主催する「遣唐使船再現プロジェクト」が、半年がかりで再現した全長約30m、幅8mの帆船である。瀬戸内海を経て長崎まで航海し、後は貨物船に積み込まれて上海を目指すという。
平城遷都1300年祭と上海万博が重なったこの時期に、新しい日中関係の構築を願って企画された催しである。財団の角川歴彦(かどかわつねひこ)氏や20人の漕ぎ手が古代衣装に身を包んで乗船した。エンジンを始動させると、遣唐使船はゆっくりと岸壁を離れていった。その際、漕ぎ手が舷(げん)側で櫂(かい)を漕ぐ姿を見せ、見物人たちは手を振って見送っていた。
そのためには、養老元年(717)に前回の遣唐使と共に派遣した下道真備(後の吉備真備)や阿倍仲麻呂などの留学生や玄ムや理鏡などの留学僧を帰国させる必要がある。在唐生活16年で彼らの学業もすでに成ったはずであり、一日も早く帰国させて、新しい制度や文化をこの国に移植させなければならない。さらには、仏教による鎮護国家を目指すにも現在の受戒の制度では不十分であり、伝戒の師を招いて制度の充実を図らなければならない。 第9次遣唐使の出発に先立つ8ヶ月前の天平4年(732)8月17日、遣唐使節の首脳部が任命された。遣唐使は大使・副使・判官・録事の四等官構成を基本にしている。現在判明している人選は次の通りだった。
井上靖の名作『天平の甍』では、大安寺の僧・普照(ふしょう)と興福寺の僧・栄叡(ようえい)が、当時仏教界で最も勢力をもつ元興寺の僧・隆尊(りゅうそん)に呼び出されて、唐に渡り伝戒の僧を招来させる任務を委託されるところから物語りは始まっている。 今回の遣唐使節団は総人数594人で構成されることになった。記録に残る遣唐使節団としては最大であるが、その中の半数は水手(かこ)、すなわち船員である。当時の船は帆走が基本であるが、風が凪いだときは人力に頼らなければならない。水手はそのための要員である。遣唐使は四隻の船で渡航することになった。遣唐使の首脳部が任命されて半月後の9月4日、近江、丹波、播磨、備中の4国に船の建造が命じられた。四隻の船は半年で建設され難波津に廻された。そのため、遣唐使船は一般には四つの船と呼ばれた。
当時、蘇州の刺史は銭惟正(せんいせい)だった。彼は遣唐使の来着の知らせを受けて長安に使者を派遣した。玄宗皇帝は、通事舎人の韋景先(いけんせん)を蘇州に派遣して、長旅の苦労をねぎらい、使節たちを長安の都に導いた。 遣唐使たちの目的の一つは、翌年の開元22年(734)の正月に長安城の大明宮含元殿で催される朝賀の式への参加だった。ところが、彼らが蘇州に到着した年は、関中地方が秋から冬にかけて異常な飢饉に見舞われていた。『資治通鑑』によれば、玄宗皇帝はその窮状を緩和するために、開元22年(734)の正月7日に都洛陽に移った。朝賀の式どころではなかったのである。遣唐使が玄宗皇帝に謁見できたのは、開元22年4月、洛陽城においてである。 遣唐使の一行は、洛陽で玄宗皇帝の好意に満ちた応接を受けた。彼らは半年近く滞在して、その年の10月に船と船員を残してきた蘇州に戻ってきている。その間、遣唐使節たちは、宗教や医学、音楽などの分野で海東の島国へ赴いてくれる第一人者を、あらゆるパイプを使って探したはずである。彼らが最も当てにしたのは、阿倍野仲麻呂、下道真備、玄ムなど在唐生活の長い留学生・留学僧だったであろう。 個人的に接触して本人の渡航意志を確認したとしても、唐朝の許可無く密航させるわけにはいかず、招聘の正式許可を関係機関に求めなければならない。そうした手続きには、おそらく玄宗皇帝に重用された阿倍仲麻呂や皇太子時代の玄宗の厚遇を受けてよく碁を打って楽しんだという還俗僧・弁正の働きが大きかったであろう。
第一船は、11月20日に種子島に着き、乗組員たちは翌年の天平7年(735)3月10日に無事平城京に帰着してしている。第二船は押し戻されて越州に舞い戻り、天平8年(736)の春を待って再び渡航を試み、その年の5月に筑紫に帰着している。第三船は、はるか南方の林邑まで流されて漂着し、乗組員115人のうち生き残ったはわずか4人だった。それでも4人はなんとか唐に戻り渤海国経由で天平11年(739)7月、6年ぶりに帰国することができた。第四船は消息不明となり、おそらく遭難して全員が死亡したものと推測されている。 第二船に乗船して我が国にやってきた外国人は、史書で判明しているだけでも9名にのぼる。唐人の袁晋卿(えんしんけい)、皇甫東朝(こうほとうちょう)、皇甫昇女(こうほしょうじょ)、李元環(りげんかん)、唐僧の道■(どうせん)、善意(ぜんい)、波斯人の李密翳(りみつえい)、天竺婆羅門僧の菩提僊那(ぼだいせんな)、林邑僧の仏哲(ぶってつ)らである。これほど多くの外国人が一度に渡来してきた例は今回が初めてである。しかも、第二船は、海上での暴風雨に翻弄され一度は越州に押し返されている。それでも一年後に再度渡海してくるとは、相当強靱な意志を持った人々だったにちがいない。 |
「唐楽」の演奏家で称徳天皇に重用された皇甫東朝(こうほとうちょう)1字姓が圧倒的な中国では、「皇甫」という2字姓は珍しい。後漢末期の戦乱期に皇甫嵩(? 〜 195年)という武将が活躍したが、東朝がその武将とどの様に系図的につながるのかは不明である。『続日本紀』からは、彼が天平8年(736)8月23日、遣唐副使の中臣朝臣名代が乗った帰国船で来日し、唐楽の奏者として活躍し、宝亀元年(770)12月28日に従五位上で越中介(えっちゅうのすけ)に任命されたことが記録されている。しかし、来日するに至った経緯も、越中に赴任した後の消息もまったく不明である。
下道真備が養老元年(717)の第八次遣唐使に付随し入唐し、天平6年(734)に第九次遣唐使と共に帰国の途に着くまで17年間を過ごした唐の都長安は、玄宗皇帝の開元の治(713 - 741)が行われた時代で、唐代を通して最も繁栄した時期である。芸術を愛した玄宗のもとでは、新しい唐楽が次々と興り普及していた。それを目の当たりにした真備は、楽書の招来だけでなく、それを教える優秀な楽人の招聘も痛感したにちがいない。
一方、唐人の皇甫東朝ら来日する外国人たちは、副使の中臣朝臣名代(なかとみのあそんなしろ)が指揮する第二船に乗り込んだ。しかしその船は蘇州を出航した後、強い季節風に翻弄されて越州(現在の浙江省紹興市がかつて存在した州)に漂着した。乗船者を越州に待機させると、副使の名代は洛陽まで戻って、玄宗に事情を奏上した。同情した玄宗は、港で名代の帰りを待つ第二船の乗組員に手厚い保護を与えるように指示した。
第二船が暴風雨で東シナ海を南に流され、皇甫東朝らは渡海の困難さと恐怖を身にしみて感じたはずである。したがって越州に漂着した時点で渡航を辞退することもできたはずだ。しかし、再度同じ船に乗船して日本向かったのは、よほど固い決意があったためだろう。 遣唐副使の中臣朝臣名代は天平8年(736)8月23日、唐人3人、波斯1人を率いて平城宮に参内して、聖武天皇に拝謁し、帰国の挨拶をした。その中の唐人の一人は皇甫東朝である。その年の11月3日、天皇は朝殿に臨御し、詔して遣唐副使の任を果たした従五位上の中臣朝臣名代に従四位下を授け、来朝した唐人の皇甫東朝・ペルシャ人の李密翳らにそれぞれ身分に応じて位階を授けた。このとき皇甫東朝が授かった位階は不明であるが、このとき奈良朝の律令官僚として採用されたことになる。
皇甫東朝の名が再び『続日本紀』に記されるのは天平神護2年(766)になってからである。この年の10月20日、隅寺(現在の海竜王寺)の毘沙門天像から現れた舎利を法華寺に移して安置する舎利会が盛大に行われた。この日、皇甫東朝は同じ遣唐使船で来朝した袁晋卿(えんしんけい)および皇甫昇女(こうほしょうじょ)と共に唐学を奏でた。翌日、称徳天皇はこの慶賀を祝して官人たちの官位をそれぞれ一階級昇叙させた。皇甫東朝らも唐楽を奏でた功績で、正六位上の袁晋卿は従五位下に、従六位上だった皇甫東朝と皇甫昇女も従五位下に叙された。3階級の特進で貴族クラス入りを果たしたことになる。
称徳天皇死後の宝亀元(770)年、越中介(えっちゅうのすけ)に任命されたのを最後に、彼の名は『続日本紀』からはぷっつりと消える。越中介とは、現代流に言えば富山県副知事にあたる。おそらく音楽だけではなく、語学も流暢(りゅうちょう)で行政力にもたけていたものと思われる。しかし、大志を抱いて荒海を渡った遣唐使とは逆に、大志を抱いて東シナ海の荒海を渡ってきた”逆遣唐使”のその後の消息を語り継ぐものは何も残っていない。
追記: 皇甫東朝の来日の契機と皇甫昇女 − 東野治之氏説去る5月30日(日)、県立橿原考古学研究所(=橿考研)の講堂で研究講座が開催され、奈良大学教授の東野治之氏が「来日した異国の人々」という演題で講演された。その中で、天平の遣唐使が国際色豊かな人材を伴って帰国した理由として、東野氏は筆者とは異なる独自の見方を示された。 筆者は、皇甫東朝をはじめとする異国人は当初から遣唐副使の中臣名代の第二船に乗船して越州に漂着し、翌年の春を待って再び東シナ海に乗り出し、5月に筑紫に帰着したと考えた。だが、東野氏は、その間の半年間に、中臣名代は洛陽に戻り事情を奏上した際に、玄宗御注の「老子」や道教の神像を請い受け、楽師などの技能者の帯同を願い出た、と説明された。
だが、来日した異国人たちが道教の普及に尽力したという記録は残されていない。逆に菩提僊那は天平勝宝4年(752)4月9日に行われた東大寺盧舎那仏像の開眼供養で導師をつとめ、その功績から聖武天皇、行基、良弁とともに東大寺「四聖」と称えられたほどの高僧である。道教が普及しなかった点から、東野氏は中臣名代は帰国船の調達などで玄宗の協力を引き出すための方便としたのではと推測しておられるが、どうであろうか。 なお、筆者は皇甫東朝と皇甫昇女が夫婦だったのではと推測したが、東野氏は中国では夫婦別姓であり、二人は夫婦ではなく、皇甫昇女は親戚筋にあたる女性か、あるいは東朝が日本でもうけた娘ではないかと想定されている。また、花苑司正(かえんしのかみ)は令外の官であり、皇甫東朝の墨書入りの須恵器が西大寺の旧境内で見つかったことから、皇甫東朝が西大寺にあった花園の管理も任されていたと推測する専門家もいるようだ。 |
(*) 橿考研附属博物館春季特別展『大唐皇帝陵』図録より
(**) 読売新聞ONLINEニュースより(http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/20100409-OYO8T00312.htm)
(***) 2010年5月9日付け読売新聞朝刊より