平成22年5月10日

天平の遣唐使に随行して来日した唐人の皇甫東朝(こうほとうちょう)

西大寺の旧境内で見つかった「皇甫東朝」名入りの須恵器破片

西大寺の本堂と手前の東塔跡
西大寺の本堂と手前の東塔跡

鉄「西大寺」駅の近くに、奈良時代には南都七大寺の一つとして壮大な伽藍を誇った西大寺がある。寺伝によれば、天平宝字8年(764)9月、孝謙上皇が恵美押勝の乱平定を祈願して金銅四天王像の造立を発願したのが当寺の始まりとされている。

「皇甫東朝」銘須恵器杯
「皇甫東朝」銘須恵器片(*)
良市埋蔵文化財調査センターは昨年、西大寺旧境内の南西隅に近い場所で、宅地造成に伴う事前の発掘調査を実施した。そして、神護景雲2年(768)から宝亀2年(770)にかけての木簡と一緒に、一部が欠けている須恵器の破片(長さ約15センチ、幅約10センチ)を発見した。

恵器の破片は、底部外面に左側から2行で「皇浦(甫)/東■(朝か)」と墨書されていた。この墨書が皇甫東朝(こうほとうちょう)という人名であれば、天平の遣唐使の帰国に伴って来日し、平城京で活躍した唐人の名前に一致する。『続日本紀』には、皇甫東朝の名前が聖武、称徳両天皇の治世にあたる天平8年(736)から宝亀元年(770)までの間に5回登場し、天平神護2年(766)に法華寺の舎利会で唐楽を奏でた唐人として知られている。

良時代は大陸から多くの人物が来日したが、この須恵器の破片は外国人の具体名が出土遺物で確認された最初の例として、マスコミでも取り上げられた。その破片が見つかった同じ溝からは、イスラム陶器の破片も出土したという。唐人の名前が墨書された須恵器破片とイスラム陶器の破片の組み合わせが、はからずも天平5年(733)に派遣された第9次遣唐使のことを筆者に思い起こさせてくれた。この天平の遣唐使は帰国に際して実に多彩な外国人を随伴している。皇甫東朝はその中の一人である。

須恵器の破片を出土した溝 須恵器の破片を出土した溝
須恵器の破片を出土した溝(**) 出土地に現在建つ民家
甫東朝以外に、『続日本紀』は波斯(ペルシャ)人医師の李密翳(りみつえい)、後に大学頭となる唐人の袁晋卿(えんしんけい)、唐僧の道■(どうせん)、天竺のバラモン僧菩提僊那(ぼだいせんな)、林邑(りんゆう、ベトナム)僧の仏哲(ぶってつ)らの名を伝えている。帰路これほど国際色豊かな人材を随伴してきたのは、前後15回派遣された遣唐使の中でも、「天平の遣唐使」と称される第9次遣唐使以外にない。



平成の遣唐使船と天平の遣唐使船

る5月8日、NHKは夕方のニュース番組の中で、現在万国博が開催されている上海に向けて大阪の天保山西岸壁から出航していく平成の遣唐使船の様子を伝えていた。角川文化振興財団が主催する「遣唐使船再現プロジェクト」が、半年がかりで再現した全長約30m、幅8mの帆船である。瀬戸内海を経て長崎まで航海し、後は貨物船に積み込まれて上海を目指すという。

大阪港内を進む平成の遣唐使船(***) 櫂を漕いて大阪港を出る再現遣唐使船(***)
平成の遣唐使船(***) 櫂を漕いて大阪港を出る遣唐使船(***)

城遷都1300年祭と上海万博が重なったこの時期に、新しい日中関係の構築を願って企画された催しである。財団の角川歴彦(かどかわつねひこ)氏や20人の漕ぎ手が古代衣装に身を包んで乗船した。エンジンを始動させると、遣唐使船はゆっくりと岸壁を離れていった。その際、漕ぎ手が舷(げん)側で櫂(かい)を漕ぐ姿を見せ、見物人たちは手を振って見送っていた。


平城京歴史館で原寸大に復元された遣唐使船
平城京歴史館で原寸大に復元された遣唐使船
方、第九回目となる天平の遣唐使が盛大な見送りを受けて難波津を出航していったのは、天平5年(733)4月3日のことである。大宝律令が制定されてから30年余り、平城京に遷都してから20年余り、時の為政者たちは天平という年号に象徴されるような安定した律令国家を築き上げたという自負があった。これからは、より高い大陸文化を摂取してさらに国を豊かにしなければならない。

のためには、養老元年(717)に前回の遣唐使と共に派遣した下道真備(後の吉備真備)や阿倍仲麻呂などの留学生や玄ム理鏡などの留学僧を帰国させる必要がある。在唐生活16年で彼らの学業もすでに成ったはずであり、一日も早く帰国させて、新しい制度や文化をこの国に移植させなければならない。さらには、仏教による鎮護国家を目指すにも現在の受戒の制度では不十分であり、伝戒の師を招いて制度の充実を図らなければならない。

9次遣唐使の出発に先立つ8ヶ月前の天平4年(732)8月17日、遣唐使節の首脳部が任命された。遣唐使は大使・副使・判官・録事の四等官構成を基本にしている。現在判明している人選は次の通りだった。

 ・遣唐大使:
従四位上 多治比真人広成(たじひのまひとひろなり)
 ・遣唐副使:
従五位下 中臣朝臣名代(なかとみのあそみなしろ)
 ・遣唐判官:
正六位上 平群朝臣広成、田口朝臣養年富(やしふ)、紀朝臣馬主、外従五位下 秦忌寸朝元(はたのいみきちょうげん)
 ・遣唐准判官:
従七位下 大伴宿禰首名(くびな)

新潮文庫版『天平の甍』
新潮文庫版『天平の甍』
唐大使に任命された多治比広成は養老元年(717)の第8次遣唐使で大使を務めた多治比県守(たじひのあがたもり)の弟である。また遣唐判官の一人に選ばれた秦朝元は、大宝2年(702)の第7次遣唐使で留学僧として渡唐した弁正が、長安で還俗して唐女に生ませた子で、養老2年(718)に帰国した第8次遣唐使に随伴して父の祖国に帰国していた。おそらく彼の中国通を買われての起用だと思われる。

上靖の名作『天平の甍』では、大安寺の僧・普照(ふしょう)と興福寺の僧・栄叡(ようえい)が、当時仏教界で最も勢力をもつ元興寺の僧・隆尊(りゅうそん)に呼び出されて、唐に渡り伝戒の僧を招来させる任務を委託されるところから物語りは始まっている。

回の遣唐使節団は総人数594人で構成されることになった。記録に残る遣唐使節団としては最大であるが、その中の半数は水手(かこ)、すなわち船員である。当時の船は帆走が基本であるが、風が凪いだときは人力に頼らなければならない。水手はそのための要員である。遣唐使は四隻の船で渡航することになった。遣唐使の首脳部が任命されて半月後の9月4日、近江、丹波、播磨、備中の4国に船の建造が命じられた。四隻の船は半年で建設され難波津に廻された。そのため、遣唐使船は一般には四つの船と呼ばれた。

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古代日本の対外交流地図
(出典:平凡社「世界大百科事典」
平5年(733)4月3日、盛大な見送りを受けて4隻の遣唐使船が難波津を出航した。遣唐使船は瀬戸内海であちこちの港に立ち寄り、潮待ち・風待ちをしながら、おそらく一ヶ月後には博多の那の津に到着したであろう。そこで準備万端を整えて7月6日唐にむかって旅立った。残念ながらその後の足取りは分かっていない。ただ、『冊府元亀』には「開元二十一年八月日本国朝賀使、真人広成と{従(けんじゅう)五九十、舟行して風に会い、漂して蘇州に至る」と記録されている。どうやら4隻の遣唐使船は南路を航海して蘇州周辺に無事たどり着いたようだ。

時、蘇州の刺史は銭惟正(せんいせい)だった。彼は遣唐使の来着の知らせを受けて長安に使者を派遣した。玄宗皇帝は、通事舎人の韋景先(いけんせん)を蘇州に派遣して、長旅の苦労をねぎらい、使節たちを長安の都に導いた。

唐使たちの目的の一つは、翌年の開元22年(734)の正月に長安城の大明宮含元殿で催される朝賀の式への参加だった。ところが、彼らが蘇州に到着した年は、関中地方が秋から冬にかけて異常な飢饉に見舞われていた。『資治通鑑』によれば、玄宗皇帝はその窮状を緩和するために、開元22年(734)の正月7日に都洛陽に移った。朝賀の式どころではなかったのである。遣唐使が玄宗皇帝に謁見できたのは、開元22年4月、洛陽城においてである。

唐使の一行は、洛陽で玄宗皇帝の好意に満ちた応接を受けた。彼らは半年近く滞在して、その年の10月に船と船員を残してきた蘇州に戻ってきている。その間、遣唐使節たちは、宗教や医学、音楽などの分野で海東の島国へ赴いてくれる第一人者を、あらゆるパイプを使って探したはずである。彼らが最も当てにしたのは、阿倍野仲麻呂、下道真備、玄ムなど在唐生活の長い留学生・留学僧だったであろう。

人的に接触して本人の渡航意志を確認したとしても、唐朝の許可無く密航させるわけにはいかず、招聘の正式許可を関係機関に求めなければならない。そうした手続きには、おそらく玄宗皇帝に重用された阿倍仲麻呂や皇太子時代の玄宗の厚遇を受けてよく碁を打って楽しんだという還俗僧・弁正の働きが大きかったであろう。

東シナ海の波濤を越えて
東シナ海の波濤を越えて行く遣唐使船
本の天平6年(734)10月の末には、4隻の遣唐使船は蘇州を出航して帰路に就いたと思われる。遣唐大使・多治比広成が乗る第一船には、前回の遣唐使に随伴して唐に渡った留学生の下道真備、留学僧の玄ム、理鏡、および今回請益生として渡唐した秦大麻呂らが、莫大な書籍や物品とともに乗り込んだ。副使の中臣名代が乗る第二船には、日本に渡ることになった皇甫東朝ら外国人が乗り込んだ。四つの船は外海に出ると強い季節風に翻弄された。おそらく晩秋から初冬にかけて東シナ海に強く吹き出した北西風に遭遇したものと思われる。

一船は、11月20日に種子島に着き、乗組員たちは翌年の天平7年(735)3月10日に無事平城京に帰着してしている。第二船は押し戻されて越州に舞い戻り、天平8年(736)の春を待って再び渡航を試み、その年の5月に筑紫に帰着している。第三船は、はるか南方の林邑まで流されて漂着し、乗組員115人のうち生き残ったはわずか4人だった。それでも4人はなんとか唐に戻り渤海国経由で天平11年(739)7月、6年ぶりに帰国することができた。第四船は消息不明となり、おそらく遭難して全員が死亡したものと推測されている。

二船に乗船して我が国にやってきた外国人は、史書で判明しているだけでも9名にのぼる。唐人の袁晋卿(えんしんけい)、皇甫東朝(こうほとうちょう)、皇甫昇女(こうほしょうじょ)、李元環(りげんかん)、唐僧の道■(どうせん)、善意(ぜんい)、波斯人の李密翳(りみつえい)、天竺婆羅門僧の菩提僊那(ぼだいせんな)、林邑僧の仏哲(ぶってつ)らである。これほど多くの外国人が一度に渡来してきた例は今回が初めてである。しかも、第二船は、海上での暴風雨に翻弄され一度は越州に押し返されている。それでも一年後に再度渡海してくるとは、相当強靱な意志を持った人々だったにちがいない。



「唐楽」の演奏家で称徳天皇に重用された皇甫東朝(こうほとうちょう)

字姓が圧倒的な中国では、「皇甫」という2字姓は珍しい。後漢末期の戦乱期に皇甫嵩(? 〜 195年)という武将が活躍したが、東朝がその武将とどの様に系図的につながるのかは不明である。『続日本紀』からは、彼が天平8年(736)8月23日、遣唐副使の中臣朝臣名代が乗った帰国船で来日し、唐楽の奏者として活躍し、宝亀元年(770)12月28日に従五位上で越中介(えっちゅうのすけ)に任命されたことが記録されている。しかし、来日するに至った経緯も、越中に赴任した後の消息もまったく不明である。

お房観音 春のバラまつり
甫東朝は、唐王朝の楽士としてその名が聞こえた存在だったのだろう。その彼に海東の日本に行くことを誘ったのは、おそらく下道真備(後の吉備真備)だったと思われる。真備は帰国するに当たって楽書として『楽書要録』十巻を将来したことが知られている。当時の我が国には、大宝律令によって治部省に雅楽寮(うたまいのつかさ)が置かれていた。これは、技楽・唐楽・和楽の制度化した寮であり、中国に倣って師と生徒の数を決めて楽人を養成していた。

道真備が養老元年(717)の第八次遣唐使に付随し入唐し、天平6年(734)に第九次遣唐使と共に帰国の途に着くまで17年間を過ごした唐の都長安は、玄宗皇帝の開元の治(713 - 741)が行われた時代で、唐代を通して最も繁栄した時期である。芸術を愛した玄宗のもとでは、新しい唐楽が次々と興り普及していた。それを目の当たりにした真備は、楽書の招来だけでなく、それを教える優秀な楽人の招聘も痛感したにちがいない。

備がどのようなきっかけで皇甫東朝を知り、どの様に説得して日本への渡航を決意させたのかは不明である。しかし真備に説得されて、東朝は海東の島国に対する興味と共に、そこでの唐楽の普及に強い使命感を感じたものと思う。晴れて唐朝廷の渡航許可を得て、東朝は帰国する下道真備らとともに遣唐使船が待つ蘇州に向かった。天平6年(734)10月の末、彼を誘った下道真備は大使が乗る第一船に乗り込んだ。一行は11月20日に種子島に着き、翌年の天平7年(735)3月10日に無事平城京に帰着してしている。

方、唐人の皇甫東朝ら来日する外国人たちは、副使の中臣朝臣名代(なかとみのあそんなしろ)が指揮する第二船に乗り込んだ。しかしその船は蘇州を出航した後、強い季節風に翻弄されて越州(現在の浙江省紹興市がかつて存在した州)に漂着した。乗船者を越州に待機させると、副使の名代は洛陽まで戻って、玄宗に事情を奏上した。同情した玄宗は、港で名代の帰りを待つ第二船の乗組員に手厚い保護を与えるように指示した。

平8年(736)の春を待って、第二船は再び海に浮かんだ。この時、玄宗は帰国する名代に託して日本国天皇宛の勅書を託したとされている。一行が筑紫に帰着したのはその年の5月である。大使の多治比広成が平城京に帰着してから1年と2ヶ月が過ぎていた。

二船が暴風雨で東シナ海を南に流され、皇甫東朝らは渡海の困難さと恐怖を身にしみて感じたはずである。したがって越州に漂着した時点で渡航を辞退することもできたはずだ。しかし、再度同じ船に乗船して日本向かったのは、よほど固い決意があったためだろう。

唐副使の中臣朝臣名代は天平8年(736)8月23日、唐人3人、波斯1人を率いて平城宮に参内して、聖武天皇に拝謁し、帰国の挨拶をした。その中の唐人の一人は皇甫東朝である。その年の11月3日、天皇は朝殿に臨御し、詔して遣唐副使の任を果たした従五位上の中臣朝臣名代に従四位下を授け、来朝した唐人の皇甫東朝・ペルシャ人の李密翳らにそれぞれ身分に応じて位階を授けた。このとき皇甫東朝が授かった位階は不明であるが、このとき奈良朝の律令官僚として採用されたことになる。

の後30年間、皇甫東朝の名は史書には登場しない。しかし、天平勝宝4年(752)4月9日、東大寺の大仏開眼の法要が盛大に行われ、国風歌舞の五節舞、久米舞などと共に、外来音楽の唐楽、渤海楽、呉楽などが盛大に演奏された。楽人として来日した東朝たちがその式典に参加しなかったはずはない。

甫東朝の名が再び『続日本紀』に記されるのは天平神護2年(766)になってからである。この年の10月20日、隅寺(現在の海竜王寺)の毘沙門天像から現れた舎利を法華寺に移して安置する舎利会が盛大に行われた。この日、皇甫東朝は同じ遣唐使船で来朝した袁晋卿(えんしんけい)および皇甫昇女(こうほしょうじょ)と共に唐学を奏でた。翌日、称徳天皇はこの慶賀を祝して官人たちの官位をそれぞれ一階級昇叙させた。皇甫東朝らも唐楽を奏でた功績で、正六位上の袁晋卿は従五位下に、従六位上だった皇甫東朝と皇甫昇女も従五位下に叙された。3階級の特進で貴族クラス入りを果たしたことになる。

甫東朝は称徳天皇に重用されたと思われ、翌年の神護景雲元年(767)3月20日の人事異動では、雅楽(うた)員外助に任じられ、合わせて花苑司正(かえんしのかみ、花卉や園地の業務を担当する長官)を兼任することになった。また、上記のように西大寺は、天平宝字8年(764)9月に勃発した恵美押勝の乱の平定を祈願して、孝謙上皇が金銅四天王像の造立を発願したのが始まりとされる寺だが、この地にも皇甫東朝が足跡を残している。

徳天皇死後の宝亀元(770)年、越中介(えっちゅうのすけ)に任命されたのを最後に、彼の名は『続日本紀』からはぷっつりと消える。越中介とは、現代流に言えば富山県副知事にあたる。おそらく音楽だけではなく、語学も流暢(りゅうちょう)で行政力にもたけていたものと思われる。しかし、大志を抱いて荒海を渡った遣唐使とは逆に、大志を抱いて東シナ海の荒海を渡ってきた”逆遣唐使”のその後の消息を語り継ぐものは何も残っていない。

お、皇甫東朝と同じ遣唐使船で来朝した皇甫昇女(こうほしょうじょ)は東朝の娘とする説があるが、どうであろうか。東朝と一緒に皇甫昇女も従五位下に叙された点を考慮すると、年齢的に二人は夫婦であった可能性が強い。

追記: 皇甫東朝の来日の契機と皇甫昇女 − 東野治之氏説

る5月30日(日)、県立橿原考古学研究所(=橿考研)の講堂で研究講座が開催され、奈良大学教授の東野治之氏が「来日した異国の人々」という演題で講演された。その中で、天平の遣唐使が国際色豊かな人材を伴って帰国した理由として、東野氏は筆者とは異なる独自の見方を示された。

者は、皇甫東朝をはじめとする異国人は当初から遣唐副使の中臣名代の第二船に乗船して越州に漂着し、翌年の春を待って再び東シナ海に乗り出し、5月に筑紫に帰着したと考えた。だが、東野氏は、その間の半年間に、中臣名代は洛陽に戻り事情を奏上した際に、玄宗御注の「老子」道教の神像を請い受け、楽師などの技能者の帯同を願い出た、と説明された。

の結果、皇甫東朝などを日本に連れて行くことを特別に許可されたが、彼らの多くは無名の人物であり、しかも天竺婆羅門僧の菩提僊那(ぼだいせんな)や唐僧の道■(どうせん)らの没年から逆算すると、20代の若者だったと推論された。一緒に来日した唐人の袁晋卿(えんしんけい)は当時18〜19歳だったと伝えられており、彼らが道教の普及のために玄宗から派遣された可能性も否定できない。なお、玄宗御注の「老子」とは玄宗による『開元御注道徳経』で、部分的に残っているそうだが、詳しいことを筆者は知らない。

が、来日した異国人たちが道教の普及に尽力したという記録は残されていない。逆に菩提僊那は天平勝宝4年(752)4月9日に行われた東大寺盧舎那仏像の開眼供養で導師をつとめ、その功績から聖武天皇、行基、良弁とともに東大寺「四聖」と称えられたほどの高僧である。道教が普及しなかった点から、東野氏は中臣名代は帰国船の調達などで玄宗の協力を引き出すための方便としたのではと推測しておられるが、どうであろうか。

お、筆者は皇甫東朝と皇甫昇女が夫婦だったのではと推測したが、東野氏は中国では夫婦別姓であり、二人は夫婦ではなく、皇甫昇女は親戚筋にあたる女性か、あるいは東朝が日本でもうけた娘ではないかと想定されている。また、花苑司正(かえんしのかみ)は令外の官であり、皇甫東朝の墨書入りの須恵器が西大寺の旧境内で見つかったことから、皇甫東朝が西大寺にあった花園の管理も任されていたと推測する専門家もいるようだ。



2010/05/13作成 by pancho_de_ohsei

(*) 橿考研附属博物館春季特別展『大唐皇帝陵』図録より
(**) 読売新聞ONLINEニュースより(http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/20100409-OYO8T00312.htm)
(***) 2010年5月9日付け読売新聞朝刊より

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