2010/04/28

天宝の争長事件(そうちょうじけん)大伴宿禰古麻呂(おおとものすくねこまろ)

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天宝12年の朝賀の儀式が行われた大明宮含元殿の復元イメージ

唐の天宝12年(753)正月1日、大明宮含元殿で起きた争長事件

■ 大唐の天宝12年は、日本の暦で言えば天平勝宝5年、西暦で言えば紀元753年にあたる。この年の正月元旦、大明宮(蓬莱宮)の正殿にあたる含元殿で、後に天宝の争長事件と呼ばれる事件が起きた。争長とは席次の争いのことである。

唐長安城遺跡平面図
唐長安城遺跡平面図
■ この日、玄宗皇帝が含元殿に出御し、唐の官僚百官と諸国の使者が出席して、盛大な拝賀の儀式が執り行われようとしていた。その直前である。含元殿に案内されてきた日本の遣唐使節の中の一人が、使節団に指定されている席次を見て首をかしげた。そして、儀式を取り仕切る呉懐実将軍の前に通訳を連れて進み出ると、その席次を変更するよう強硬に申し出た。

■ その男は宿禰(すくね)の姓(かばね)を持つ大伴古麻呂(おおとものこまろ)だった。この朝賀の儀式に参加するため前年の3月に難波津を発って大唐の都・長安城を訪れた第十回遣唐使の副使を拝命した男である。遣唐副使に抜擢されるくらいであるから、学識もあり容姿も端麗な左弁官局(さべんかんきょく)の官人だったが、大伴一族の気風を受け継いでなによりも理に合わないことを嫌う硬骨漢だったようだ。

■ 左弁官局とは、朝廷組織の最高機関である太政官の配下にあって、中務省・式部省・治部省・民部省の4省を監督する官庁である。遣唐副使に選ばれたとき、古麻呂はそこに籍を置く第三等官の左少弁(さしょうべん)だった。その時点での彼の官位は従五位上、しかし、遣唐使の出発の直前に従四位下に昇叙されている。

含元殿復元模型
含元殿復元模型
■ 古麻呂は、呉懐実将軍に対して次のように言ったという。
「古(いにしえ)より今に至るまで、新羅の日本国に朝貢すること久し。而るに今、東畔の上に列し、我反(かえ)りてその下に在り。義(ことわり)に得(う)べからず」
すなわち「昔から今に至るまで、久しく新羅は日本国に朝貢しております。ところが今、新羅が東の組の第一の上座に列(つら)なり、我(日本)は逆にそれより下位におかれています。これは義にかなわないことです」

■ その時、呉懐実将軍は、現在の席次に納得せず通訳を介して強引に変更を求める古麻呂を見て、直ちに新羅の使を導いて西の組の第二番の吐蕃の下座につけ、日本の使(古麻呂)を東の組の第一番の大食国の上座につけた。つまり、新羅と日本の席次を入れ替えたという。

■ 延暦16年(797)に完成した『続日本紀』は、唐から帰国した古麻呂が、天平勝宝六年(754)正月30日、上記のような争長事件があったことを朝廷に奏上したと記している。後世、この記述が、当時の東アジア世界において、日本の国際的地位が新羅より高かったという重要な証拠とされている。

■ だが、そうした理解の仕方に疑問を投げかけた中国の歴史学者がいる。沈仁安氏である。沈氏は、ミネルヴァ書房から2003年11月に翻訳出版された『中国からみた日本の古代』の中で、賓礼(ひんれい)と呼ばれていた当時の礼儀に関する規定に照らしてみると、この席次取り替えは、唐の賓礼の規定に抵触しないと述べておられる。

■ 沈氏によると、唐の賓礼は蕃国(=外国)の国主や使節は、皇帝の接見を受け宴を賜る際の、全ての食器、儀仗、楽器の置き方や、服などの陳列、参加者の席次・方位・進退・応答などすべてについて厳しい基準を設けていた。鴻臚寺(外務省)は蕃国の地位の高低をもってその等位を決め、一定の基準に照らしてこれを接待しており、一般には、等位規定の席次と基準は、勝手に移動することはできない、特に、朝賀など重要な儀式ではそうだった、とのことだ。

席次交換前席次交換後
西の組東の組西の組東の組
@吐蕃A新羅@吐蕃B日本
B日本C大食A新羅C大食
■ では、朝賀の式など複数の蕃国の使者が出席する宴での席順はどのような基準があったのか。それに対して、沈氏は、席次の順序の原則として、@冊封国が先で、朝貢国が後、A西が先で、東が後の原則があったという。

■ 盛大な賀正の儀式で「大日本国」の優位を振りかざす古麻呂を説得するのは難しいと見たのか、呉懐実将軍は直ちに新羅使と日本使の席次を交換させた。これにより、日本の席次は東の組の一位になり、西の組の二位に移された新羅より上位にくるように思われた。しかし、Aの原則に従えば、相変わらず新羅は日本の上位の席次を占めていることになるという。

■ だが、沈氏のこうした見解は苦しい。一般に外交使節が参列する儀式では皇帝に近い席が優先順位は高いはずで、やはり@とAの二つの原則を満たすことが条件であろう。このときの4つの蕃国の席順は、唐から見て、吐蕃(チベット)、新羅、日本、大食(アラビア)の順であったはずである。なぜなら、吐蕃は唐の冊封を受け、さらに公主が嫁いでおり、新羅も唐の冊封を受け、長期に唐と有効関係を保っていた。しかし、日本は朝貢国であっても、唐の冊封は受けていない。しかし、大食が通常の朝貢国だったのに対し、日本は歴史的に中国王朝の冊封を受けたことがある。

■ 当時、日本と新羅の外交関係はしっくりいかない状況にあった。天平勝宝4年(752)の大仏開眼供養には、新羅は王子の金泰廉(ちんたいれん)を派遣してきた。しかし、あくまで朝貢を求める日本と、対等の独立国としての外交を求める新羅との駆け引きは続いていた。長安の都で、古麻呂たちが天宝の争長事件を起こした翌月、小野田守が遣新羅使として日本から新羅に派遣されているが、新羅側の記録によると、彼のの態度が傲慢で礼に欠けていたので、新羅王との謁見を経ぬまま帰国させている。天宝の争長事件はそうした新羅と日本の緊迫した関係の中で生じた事件である。古麻呂が見せかけだけの調停で納得したとは、とうてい思えない。



鑑真和上ら一行の来朝を実現させた大伴古麻呂

■ 中国揚州大明寺の高僧・鑑真(がんじん)が日本の学問僧・普照(ふしょう)らの要請に応じ、五回の渡航失敗と失明にもかかわらず、天平勝宝5年(753)にようやく来日を果たしことは、井上靖の名作『天平の甍』で広く知られている。来日するとすぐに、鑑真和上は東大寺大仏殿前に戒壇を設けて聖武上皇以下に戒を授けた。また、唐招提寺のもとを築き日本の律宗を開いた。その鑑真和上一行の来日を実現させたのは、大伴古麻呂だった。彼の硬骨漢ぶりは鑑真和上の渡航の際にもいかんなく発揮されている。

鑑真和上座像
鑑真和上座像
■ 藤原清河を大使とする第十回遣唐使は争長事件のあった年の3月、再び玄宗皇帝に謁見して鑑真和上の招請を申し出た。しかし、玄宗から道士の随行を要求されて、招請を撤回した。その年の8月、遣唐使の一行は長安を発って帰国の途につき、揚州に向かった。

■ 揚州に着くと、藤原清河は10月15日、延光寺に鑑真を訪ねて公式の招請に失敗したことを報告した。そして、次のように言った。
「あとは和上ご自身でお決め下さい。お弟子たちで自ら国の信物を運ばれるなら、それを載せる船は4隻あります。行装も用意してあります。和上が行こうと決心されるなら、渡航も難しくはありません」

■ 鑑真は密航で六回目の渡航を試みる決心をしたので、遣唐使の一行は鑑真とその弟子たちを帰国船で日本へ連れて行くことにした。官憲の監視下にある龍興寺を密かに脱出した鑑真は、弟子ら二四人を連れて蘇州の黄泗浦に向かった。黄泗浦には帰国する遣唐使船が待機していた。

■ 鑑真らはいったん副使以下の各船に分乗したが、唐の官憲が鑑真和上の渡航を禁止しているのを知った藤原清河は、唐の意向を無視して和尚たちを乗船させ、後になってその事実が露見して外交問題に発展するのを恐れて、一行を下船させてしまう。この大使の処置に義憤を感じたのは、副使の大伴古麻呂である。彼は独断で鑑真一行を自分の乗る第二船に匿った。

当時の遣唐使船
当時の遣唐使船
■ 4隻の遣唐使船は11月15日に揃って黄泗浦を出航しようとした。たまたま一羽の雉が第一船の前を飛んだを見て、これを凶事として、碇を下ろして港に留まり翌日出航することにした。帰路に着いた4隻の遣唐使船は、その後それぞれの苦難に出会うことになる。冬の東シナ海を航海することがいかに危険だったかを示すため、各遣唐使船の航海の記録を以下に記しておこう。

■ 遣唐大使の藤原清河が乗った第一船は、出航から5日後の11月21日に沖縄に到着した。風待ちして12月6日に南風が吹いたので出航したが、途中で座礁してしまった。なんとか船を修理して東シナ海に乗り出したものの、季節風に押し流されて現在のベトナム北部に漂着することになる。上陸すると、現地人に襲撃され乗員180名のうち大半が殺され、藤原清河、阿倍仲麻呂ら10余名だけがわずかに助かった。生き残った一行は、玄宗の手配により天宝14年(755)頃ふたたび長安に舞い戻った。

■ 遣唐副使の大伴古麻呂が乗った第二船も、第一船と同様に出航から5日後に沖縄に到着。12月6日に沖縄を出た後北東に向けて航行し、翌日には屋久島に到着。12月18日屋久島を出たが、翌日は暴風雨に翻弄され、12月20やっと薩摩の秋妻屋浦(あきめのやのうら、現在の坊津町秋目付近)に漂着した。

■ 遣唐副使の吉備真備(きびのまきび)が乗った第三船は、出航から4日後に沖縄に到着し、12月6日に南風を得て沖縄を出ると、翌日屋久島に着いた。屋久島を出た後、第二船と離れ行方知れずとなってしまったが、一ヶ月以上も経て天平勝宝6年(754)正月17日、紀伊国の牟漏崎(白浜あたり)に着いた。

■ 判官の布施人主(ふせのひとぬし)らが乗船した第四船は沖縄に立ち寄った記録は見あたらない。天平勝宝6年の4月18日になって薩摩国石がき浦に到着した。黄泗浦を出航してから151日目である。途中で火事を起こしたことが22年後に判明する。

■ 薩摩に漂着した第二船は筑紫にむかって九州西岸を北上し、12月26日に太宰府に迎え入れられた。明けて天平勝宝6年(754)正月10日、古麻呂は太宰府から鑑真の来着を朝廷に上奏した。その後、2月1日には鑑真らを伴って難波津に到着し、2月4日には一行を平城京まで導いている。



橘奈良麻呂の変で首謀者の一人として獄死した大伴古麻呂

大伴氏系図
大伴氏系図
■ 遣唐使として入唐し、無事に帰国したものを入唐廻使(にっとうかいし)という。天平勝宝6年(754)4月7日、従四位上だった入唐廻使の大伴古麻呂吉備真備は、その功によってそれぞれ正四位下の位階が授けられた。その2日前に吉備真備は太宰大弐(だざいだいに)に任ぜられて再び筑紫に追いやられているが、古麻呂は左大弁(さだいべん)に任じられた。ちなみに、左大弁は太政官の総合事務局のうち、中務・式部・治部・民部の四省を支配する左弁官局の長官である。将来は三位以上に進み、議政官である公卿(大臣・納言・参議)に昇る可能性も彼にはあった。しかし、3年後には橘奈良麻呂の乱に連座して、獄中で拷問死する運命が彼を待ち受けていた。

■ 大伴古麻呂の出自については、不明な点が多い。誕生年も、親の名前も判明していない。父親は文武天皇の代には大納言に昇った大伴御行(おおとものみゆき、646? - 701)とも、田村里(現在の奈良県奈良市尼辻町)に住んでいた右大弁の大伴宿奈麻呂(おおとものすくなまろ)とも言われている。いずれにしろ、古代の名門氏族だった大伴氏の血を引く官人だったことは間違いない。彼の硬骨漢としての性格はおそらく軍事氏族だった大伴氏の血を濃厚に引き継いでいたからであろう。便宜上、ここでは大伴宿奈麻呂の子としておく。

■ 古代からの名門氏族だった大伴氏にとって、中臣鎌足を祖として藤原不比等の時代にのし上がってきた新興氏族・藤原氏は目障りな存在だった。古麻呂の目にもそう思えたのであろう。奈良朝を通して、大伴一族は常に反藤原勢力に荷担した。

菊池容斎が描いた大伴旅人
菊池容斎が描いた大伴旅人
■ 奈良時代はじめ、大伴氏の中心人物は大伴旅人(おおとものたびと)だった。養老4年(720)には征隼人持節大将軍として隼人の反乱を鎮圧したほどの人物だったが、そのため藤原氏から疎まれた。神亀5年(728)の4月頃、旅人は太宰帥(だざいのそち、太宰府の長官)として妻を伴って九州に赴任した。一説には、この人事は、不比等亡き後の政界をリードする長屋王排除に向けた藤原氏の一種の左遷と見られている。

■ 翌年の神亀6年(729)2月、長屋王の変が勃発した。漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人((なかとみのみやこのあずまびと)が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」と密告し、それを受けて藤原宇合(うまかい)らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、舎人(とねり)親王などによる糾問の結果、長屋王はその妃吉備内親王と子の膳夫王(かしわでのおおきみ)らを縊り殺させ、自身も服毒自殺した事件である。

■ 長屋王の変によって、大伴氏は藤原氏に対抗する勢力基盤を失った。太宰帥として筑紫にあった大伴旅人は、この事件をどの様にみていたであろうか。その年の10月、武知麻呂ら兄弟に与しなかった藤原房前(ふささき)に書簡と倭琴を贈っている。

長屋王邸と藤原仲麻呂邸の跡
長屋王邸と藤原仲麻呂邸の跡
■ 天平2年(730)6月、大伴旅人は病に倒れ、腹違いの弟・稲公(いなきみ)と甥の古麻呂に遺言を告げたいと早馬で奏上してきた。聖武天皇は右兵庫助の大伴稲公と治部少丞の大伴古麻呂の両人に勅して、駅馬で旅人を見舞わせている。治部少丞とは、治部省の従六位上に相当する役職であり、21歳で官人としての道を歩き始めたのであれば、当時の古麻呂は25歳前後には達していたものと思われる。

■ 大伴旅人が病床で何を遺言しようとしたかは、想像に難くない。藤原不比等の死後台頭してきた藤原四兄弟に対して、頼りとする長屋王を亡くした現在、大伴一族の存続の道を探れというものだったであろう。そうであれば、すでに古麻呂は大伴氏の将来を託すに足る人物と旅人に認められていたことになる。その旅人は、その年の12月、大納言に任命され平城京に戻ってきた。翌年の1月には従二位に昇進するが、7月には再び病を得て、67歳で没している。旅人の子息である大伴家持(おおとものやかもち)はまだ14歳の少年だった。

平城宮の第二大極殿跡
平城宮の第二大極殿跡
■ 天平9年(737)年は大伴一族にとって意外な年だった。権勢を誇った藤原四兄弟が、相次いで天然痘で倒れ、代わって橘諸兄(たちばなのもろえ)が右大臣に任命され橘政権が誕生した。大伴古麻呂は当然橘諸兄を支える勢力に荷担したはずである。だが、橘政権下で彼がどのような働きをしたのか良く分からない。『続日本紀』には天平10年(738)に兵部大丞に昇進したこと、天平17年(745)1月に従五位下に叙任したこと、そして天平勝宝元年(749)8月に左少弁に任じられたことしか記されていない。

■ 天平勝宝2年(750)9月24日、第十次遣唐使を任命したとき、なぜか大伴古麻呂が副使に選ばれている。彼が副使に抜擢された経緯や背景も分からない。橘政権の中でキーパーソンになりつつある古麻呂を、橘諸兄が推薦したのか、あるいは逆に、紫微中台の長官として勢力を拡大しつつある藤原仲麻呂に警戒されて、危険の多い使節に加えられたのかもしれない。翌年の1月の人事異動では、古麻呂は従五位上に昇叙され、さらに遣唐使が出発する直前の天平勝宝4年(752)閏3月には、従四位上を授けられている。

■ 大伴古麻呂が、長安城の大明宮含元殿での朝賀の席で争長事件を起こしたことや、帰国の際に遣唐大使の意向を無視して鑑真和尚の一行を第二船に渡航させて匿ったことは、上記の通りである。帰朝した天平勝宝6年(754)4月、遣唐副使の任務をまっとうした功で、彼は左大弁(さだいべん)に任じられ、また正四位下の位階が授けられた。しかし、帰国してみると、光明皇后孝謙天皇の信任を背景に政権と軍権の両方を掌握した藤原仲麻呂は、左大臣橘諸兄の権勢をしのぐようになっていた。

■ 一方、天平勝宝元年(749)に聖武天皇が譲位して皇女の阿倍内親王(孝謙天皇)が即位したとき、阿倍内親王の皇位継承に批判的だった橘諸兄親子の勢力は次第に衰退していった。天平勝宝7年(755)、橘諸兄の従者の佐味宮守(さみのみやもり)が、諸兄が酒宴の席で朝廷を誹謗したと密告した。聖武太上天皇は問題としなかったが、密告されたことを恥じた諸兄は、翌年の2月に辞職し、さらに1年後の天平勝宝9年(757)1月、失意のうちに75歳で死去した。

平城宮の東院庭園
平城宮の東院庭園
■ 藤原仲麻呂の専横に対抗しようとしたのが諸兄の子の橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)である。奈良麻呂は不満を持つ者たちを集めて仲麻呂を除こうと画策する。すでに天平勝宝7年(755)ころから、兵部卿の奈良麻呂を中心とする反仲麻呂派が形成され盛んに宴を開いている。諸兄が左大臣を辞職した2ヶ月後には、奈良麻呂は佐伯全成(さえきのまたなり)と大伴古麻呂を誘い、大伴・佐伯の両軍事氏族をもって黄文王(長屋王の子)を擁立をしようと謀った。しかし、このときは、なぜか両氏とも奈良麻呂の誘いに乗らなかった。

■ 橘諸兄が死んだ天平勝宝9年(757)の6月、大伴古麻呂が陸奥鎮守将軍に任命され、佐伯全成は陸奥鎮守副将軍兼任となった。この人事は奈良麻呂派とみられる古麻呂と全成を、中央から放逐したいと考えていた藤原仲麻呂による事実上の左遷人事だった。この時、奈良麻呂もまた兵部卿を解任され、右大弁に左遷されている。

■ そのため、奈良麻呂は自邸で反仲麻呂派の古麻呂やに治部少輔(じぶしょう)の小野東人(おののあずまひと)らと謀議をもった。謀議の内容は、奈良麻呂や古麻呂、安宿王(長屋王の子)、黄文王らが兵を発して、仲麻呂の邸を襲って殺し、皇太子の大炊王を退け、次いで皇太后の宮を包囲して駅鈴と玉璽を奪い、右大臣・藤原豊成を奉じて天下に号令し、その後孝謙天皇を廃し、塩焼王(新田部親王の子)、道祖王(新田部親王の子)、安宿王、黄文王の中から天皇を推戴する、というものであった。

平城宮の朱雀門
平城宮の朱雀門
■ この謀議は6月28日、山背王が孝謙天皇に「奈良麻呂が兵をもって仲麻呂邸を囲もうとしている」と密告したことで露見した。7月2日になると、,中衛舎人の上道斐太都(かみつみちのびたつ)が「小野東人から奈良麻呂らの謀反への参加を呼びかけられた」と仲麻呂へ密告した。仲麻呂は直ちに中衛府の兵を動かして、前皇太子の道祖王の邸を包囲し、小野東人らを捕らえて左衛士府の獄に下した。翌7月3日、右大臣・藤原豊成、中納言・藤原永手(ふじわらのながて)らが小野東人を訊問したが、東人は無実を主張した。その報告を受けて、孝謙天皇は仲麻呂を傍らに置いて、塩焼王、安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂を前に、「謀反の企てがあるとの報告があるが、自分は信じない」との宣命を読み上げた。

■ ところが同日、事態は急変する。藤原永手らを左衛士府に派遣して再度小野東人、答本忠節(たほのちゅうせつ)らを拷問にかけたところ、東人らは一転して謀反の事実を自白した。東人の供述により、7月4日には奈良麻呂をはじめ、道祖王、黄文王、大伴古麻呂、多冶比犢養(たじひのこうしかい)、賀茂角(かものつのたり)ら、一味に名を挙げられた人々は直ちに逮捕され、永手らの訊問を受けた。訊問が進むにつれ、全員が謀反を白状した。奈良麻呂は永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた。」と語ったという。

■ この後すぐに被疑者は獄に移され、永手、百済王敬福、船王らの監督のもとで、杖で全身を何度も打つ拷問が行われた。道祖王、黄文王、古麻呂、東人、犢養、角足は同日、過酷な拷問に耐えかねて次々と絶命した。首謀者である奈良麻呂の名は『続日本紀』に残されていないが、同じく拷問死したと考えられる。事件に連座して流罪、徒罪、没官などの処罰を受けた役人は443人にのぼったという。この橘奈良麻呂の変によって、仲麻呂は自分に不満を持つ政敵を一掃することに成功し、朝廷の権力を完全に掌中に収めた。




2010/04/29作成 by pancho_de_ohsei return