橘奈良麻呂の変で首謀者の一人として獄死した大伴古麻呂
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| 大伴氏系図 |
■ 遣唐使として入唐し、無事に帰国したものを入唐廻使(にっとうかいし)という。天平勝宝6年(754)4月7日、従四位上だった入唐廻使の大伴古麻呂と吉備真備は、その功によってそれぞれ正四位下の位階が授けられた。その2日前に吉備真備は太宰大弐(だざいだいに)に任ぜられて再び筑紫に追いやられているが、古麻呂は左大弁(さだいべん)に任じられた。ちなみに、左大弁は太政官の総合事務局のうち、中務・式部・治部・民部の四省を支配する左弁官局の長官である。将来は三位以上に進み、議政官である公卿(大臣・納言・参議)に昇る可能性も彼にはあった。しかし、3年後には橘奈良麻呂の乱に連座して、獄中で拷問死する運命が彼を待ち受けていた。
■ 大伴古麻呂の出自については、不明な点が多い。誕生年も、親の名前も判明していない。父親は文武天皇の代には大納言に昇った大伴御行(おおとものみゆき、646? - 701)とも、田村里(現在の奈良県奈良市尼辻町)に住んでいた右大弁の大伴宿奈麻呂(おおとものすくなまろ)とも言われている。いずれにしろ、古代の名門氏族だった大伴氏の血を引く官人だったことは間違いない。彼の硬骨漢としての性格はおそらく軍事氏族だった大伴氏の血を濃厚に引き継いでいたからであろう。便宜上、ここでは大伴宿奈麻呂の子としておく。
■ 古代からの名門氏族だった大伴氏にとって、中臣鎌足を祖として藤原不比等の時代にのし上がってきた新興氏族・藤原氏は目障りな存在だった。古麻呂の目にもそう思えたのであろう。奈良朝を通して、大伴一族は常に反藤原勢力に荷担した。
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| 菊池容斎が描いた大伴旅人 |
■ 奈良時代はじめ、大伴氏の中心人物は大伴旅人(おおとものたびと)だった。養老4年(720)には征隼人持節大将軍として隼人の反乱を鎮圧したほどの人物だったが、そのため藤原氏から疎まれた。神亀5年(728)の4月頃、旅人は太宰帥(だざいのそち、太宰府の長官)として妻を伴って九州に赴任した。一説には、この人事は、不比等亡き後の政界をリードする長屋王排除に向けた藤原氏の一種の左遷と見られている。
■ 翌年の神亀6年(729)2月、長屋王の変が勃発した。漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人((なかとみのみやこのあずまびと)が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」と密告し、それを受けて藤原宇合(うまかい)らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、舎人(とねり)親王などによる糾問の結果、長屋王はその妃吉備内親王と子の膳夫王(かしわでのおおきみ)らを縊り殺させ、自身も服毒自殺した事件である。
■ 長屋王の変によって、大伴氏は藤原氏に対抗する勢力基盤を失った。太宰帥として筑紫にあった大伴旅人は、この事件をどの様にみていたであろうか。その年の10月、武知麻呂ら兄弟に与しなかった藤原房前(ふささき)に書簡と倭琴を贈っている。
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| 長屋王邸と藤原仲麻呂邸の跡 |
■ 天平2年(730)6月、大伴旅人は病に倒れ、腹違いの弟・稲公(いなきみ)と甥の古麻呂に遺言を告げたいと早馬で奏上してきた。聖武天皇は右兵庫助の大伴稲公と治部少丞の大伴古麻呂の両人に勅して、駅馬で旅人を見舞わせている。治部少丞とは、治部省の従六位上に相当する役職であり、21歳で官人としての道を歩き始めたのであれば、当時の古麻呂は25歳前後には達していたものと思われる。
■ 大伴旅人が病床で何を遺言しようとしたかは、想像に難くない。藤原不比等の死後台頭してきた藤原四兄弟に対して、頼りとする長屋王を亡くした現在、大伴一族の存続の道を探れというものだったであろう。そうであれば、すでに古麻呂は大伴氏の将来を託すに足る人物と旅人に認められていたことになる。その旅人は、その年の12月、大納言に任命され平城京に戻ってきた。翌年の1月には従二位に昇進するが、7月には再び病を得て、67歳で没している。旅人の子息である大伴家持(おおとものやかもち)はまだ14歳の少年だった。
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| 平城宮の第二大極殿跡 |
■ 天平9年(737)年は大伴一族にとって意外な年だった。権勢を誇った藤原四兄弟が、相次いで天然痘で倒れ、代わって橘諸兄(たちばなのもろえ)が右大臣に任命され橘政権が誕生した。大伴古麻呂は当然橘諸兄を支える勢力に荷担したはずである。だが、橘政権下で彼がどのような働きをしたのか良く分からない。『続日本紀』には天平10年(738)に兵部大丞に昇進したこと、天平17年(745)1月に従五位下に叙任したこと、そして天平勝宝元年(749)8月に左少弁に任じられたことしか記されていない。
■ 天平勝宝2年(750)9月24日、第十次遣唐使を任命したとき、なぜか大伴古麻呂が副使に選ばれている。彼が副使に抜擢された経緯や背景も分からない。橘政権の中でキーパーソンになりつつある古麻呂を、橘諸兄が推薦したのか、あるいは逆に、紫微中台の長官として勢力を拡大しつつある藤原仲麻呂に警戒されて、危険の多い使節に加えられたのかもしれない。翌年の1月の人事異動では、古麻呂は従五位上に昇叙され、さらに遣唐使が出発する直前の天平勝宝4年(752)閏3月には、従四位上を授けられている。
■ 大伴古麻呂が、長安城の大明宮含元殿での朝賀の席で争長事件を起こしたことや、帰国の際に遣唐大使の意向を無視して鑑真和尚の一行を第二船に渡航させて匿ったことは、上記の通りである。帰朝した天平勝宝6年(754)4月、遣唐副使の任務をまっとうした功で、彼は左大弁(さだいべん)に任じられ、また正四位下の位階が授けられた。しかし、帰国してみると、光明皇后と孝謙天皇の信任を背景に政権と軍権の両方を掌握した藤原仲麻呂は、左大臣橘諸兄の権勢をしのぐようになっていた。
■ 一方、天平勝宝元年(749)に聖武天皇が譲位して皇女の阿倍内親王(孝謙天皇)が即位したとき、阿倍内親王の皇位継承に批判的だった橘諸兄親子の勢力は次第に衰退していった。天平勝宝7年(755)、橘諸兄の従者の佐味宮守(さみのみやもり)が、諸兄が酒宴の席で朝廷を誹謗したと密告した。聖武太上天皇は問題としなかったが、密告されたことを恥じた諸兄は、翌年の2月に辞職し、さらに1年後の天平勝宝9年(757)1月、失意のうちに75歳で死去した。
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| 平城宮の東院庭園 |
■ 藤原仲麻呂の専横に対抗しようとしたのが諸兄の子の橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)である。奈良麻呂は不満を持つ者たちを集めて仲麻呂を除こうと画策する。すでに天平勝宝7年(755)ころから、兵部卿の奈良麻呂を中心とする反仲麻呂派が形成され盛んに宴を開いている。諸兄が左大臣を辞職した2ヶ月後には、奈良麻呂は佐伯全成(さえきのまたなり)と大伴古麻呂を誘い、大伴・佐伯の両軍事氏族をもって黄文王(長屋王の子)を擁立をしようと謀った。しかし、このときは、なぜか両氏とも奈良麻呂の誘いに乗らなかった。
■ 橘諸兄が死んだ天平勝宝9年(757)の6月、大伴古麻呂が陸奥鎮守将軍に任命され、佐伯全成は陸奥鎮守副将軍兼任となった。この人事は奈良麻呂派とみられる古麻呂と全成を、中央から放逐したいと考えていた藤原仲麻呂による事実上の左遷人事だった。この時、奈良麻呂もまた兵部卿を解任され、右大弁に左遷されている。
■ そのため、奈良麻呂は自邸で反仲麻呂派の古麻呂やに治部少輔(じぶしょう)の小野東人(おののあずまひと)らと謀議をもった。謀議の内容は、奈良麻呂や古麻呂、安宿王(長屋王の子)、黄文王らが兵を発して、仲麻呂の邸を襲って殺し、皇太子の大炊王を退け、次いで皇太后の宮を包囲して駅鈴と玉璽を奪い、右大臣・藤原豊成を奉じて天下に号令し、その後孝謙天皇を廃し、塩焼王(新田部親王の子)、道祖王(新田部親王の子)、安宿王、黄文王の中から天皇を推戴する、というものであった。
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| 平城宮の朱雀門 |
■ この謀議は6月28日、山背王が孝謙天皇に「奈良麻呂が兵をもって仲麻呂邸を囲もうとしている」と密告したことで露見した。7月2日になると、,中衛舎人の上道斐太都(かみつみちのびたつ)が「小野東人から奈良麻呂らの謀反への参加を呼びかけられた」と仲麻呂へ密告した。仲麻呂は直ちに中衛府の兵を動かして、前皇太子の道祖王の邸を包囲し、小野東人らを捕らえて左衛士府の獄に下した。翌7月3日、右大臣・藤原豊成、中納言・藤原永手(ふじわらのながて)らが小野東人を訊問したが、東人は無実を主張した。その報告を受けて、孝謙天皇は仲麻呂を傍らに置いて、塩焼王、安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂を前に、「謀反の企てがあるとの報告があるが、自分は信じない」との宣命を読み上げた。
■ ところが同日、事態は急変する。藤原永手らを左衛士府に派遣して再度小野東人、答本忠節(たほのちゅうせつ)らを拷問にかけたところ、東人らは一転して謀反の事実を自白した。東人の供述により、7月4日には奈良麻呂をはじめ、道祖王、黄文王、大伴古麻呂、多冶比犢養(たじひのこうしかい)、賀茂角(かものつのたり)ら、一味に名を挙げられた人々は直ちに逮捕され、永手らの訊問を受けた。訊問が進むにつれ、全員が謀反を白状した。奈良麻呂は永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた。」と語ったという。
■ この後すぐに被疑者は獄に移され、永手、百済王敬福、船王らの監督のもとで、杖で全身を何度も打つ拷問が行われた。道祖王、黄文王、古麻呂、東人、犢養、角足は同日、過酷な拷問に耐えかねて次々と絶命した。首謀者である奈良麻呂の名は『続日本紀』に残されていないが、同じく拷問死したと考えられる。事件に連座して流罪、徒罪、没官などの処罰を受けた役人は443人にのぼったという。この橘奈良麻呂の変によって、仲麻呂は自分に不満を持つ政敵を一掃することに成功し、朝廷の権力を完全に掌中に収めた。
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