三角縁神獣鏡は邪馬台国畿内説の根拠になりえず
橿考研が昨年発掘調査した奈良県桜井市の市街地にある桜井茶臼山古墳は、実にさまざまな発見をもたらした。まず、死者の魂と外界を区別する結界施設と思われる「丸太垣」の存在が明らかになった。
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| 多くの銅鏡片が見つかった桜井茶臼山古墳の石室内部 |
ついで、竪穴式石室の壁面に積み上げられた石や天井石の全面に、「辰砂(しんしゃ)」と呼ばれる水銀朱が塗られていることが判明した。使用された水銀朱の量を推定すると、約200キロにも達し、国内の古墳で使用された量としては最大であるという。
そして、今年の1月、石室には国内最多の13種、81面の銅鏡が副葬されていたことをマスコミに公表した。 興味深いのは、これらの銅鏡は完形また破損した形で出土したしたのではない。大きさが1cmから2cm程度の鏡の破片として見つかったものがほとんどで、完全に元の鏡の形に復元できるものは一面もなかった。
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| 並べられた銅鏡の破片 |
その中の三角縁神獣鏡の破片の一つに、「是」という字が刻まれているものがあった。この縦1.7cm、横1.4cmの小さな破片を橿考研が作成した「三次元デジタル・アーカイブ」のデータと照合した結果、蟹沢古墳(群馬県高崎市)から出土した「正始元年」の銘がある三角縁神獣鏡に刻まれた字と形が同じで、同じ鋳型から作られた鏡であることが判明した。正始(せいし)元年は西暦240年。卑弥呼が魏の都洛陽に派遣した使節が、魏の皇帝から下賜された銅鏡100枚を含む品々を携えて帰国した年の魏の年号である。
副葬されていた銅鏡
| 種類 | 面数 |
| 三角縁神獣鏡 | 26面 |
| 内行花文鏡(国産) | 10面 |
| 内行花文鏡(舶載) | 9面 |
| 画文帯・斜縁・四乳神獣鏡 | 16面 |
| 半肉彫神獣鏡 | 5面 |
| 環状乳神獣鏡 | 4面 |
| だ龍鏡 | 4面 |
| 細線獣帯鏡 | 3面 |
| 方格規矩鏡 | 2面 |
| 単き鏡 | 1面 |
| 盤龍鏡 | 1面 |
三角縁神獣鏡には、さまざまな謎がある。まずその出土枚数である。魏志倭人伝の記述を信用するなら、景初3年(239)に卑弥呼が派遣した遣魏使節が、魏の都洛陽を訪れ即位したばかりの皇帝・曹芳(そうほう)に拝謁したのは、その年の暮の12月である。魏帝は詔を下して卑弥呼を親魏倭王に叙して金印紫綬を与えることとし、数々の下賜品を帰国する使節の一行に託した。しかし、魏帝はまだ8歳の幼帝、すべてを取り仕切ったのは補佐役の大将軍曹爽と太尉司馬懿だった。使節の一行が洛陽を離れたのは、年が明けて年号が正始元年と改まった西暦240年である。一行に託された下賜品の中に、邪馬台国論争で話題になっている「銅鏡百枚」があった。
三角縁神獣鏡の出土枚数は1982年の時点で375枚。その後も続々と発見され2010年現在で545枚に達している。講演では、安本氏は考古学者森浩一氏の面白い見解を紹介された。平安時代初期の頃中国に呉越という国が成立し、貿易立国を目指して「銭弘俶塔」(せんこうしゅくとう)というものを500基日本にくれた。銭弘俶塔は阿育王塔とも通称される仏舎利小塔で、経塚などに埋められたが、現在日本で出土しているのはたった4例だけだそうだ。すなわち我が国に送られた数の1%に満たない。三角縁神獣鏡は古墳から発見される割合がもう少し高く、仮に10%程度と想定すると、今世紀半ばにはおそらく1000面以上は出土しているだろうとのことだ。
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| 京都府椿井大塚山古墳出土の三角縁神獣鏡 |
こうしたことは、三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏から下賜された魏鏡ではなかったことを意味している。以前は、服属の印として三角縁神獣鏡を地方豪族に分かち与えたとの説があった。しかし、一つの古墳から複数枚、多い時には30枚以上も副葬されている古墳がいくつも奈良県で見つかっている。これらの古墳の被葬者は威信財として倭王から下賜された銅鏡を死出の旅路に持って行ったとは言えない。むしろ、遺体を悪霊から守るために破邪を目的として縁者が被葬者を埋葬するとき副葬したと考えた方が分かりやすい。
さらに、安本氏は興味深い指摘もされた。現代中国を代表する考古学者の王仲殊(おうちゅうしゅ)氏や徐苹芳(じょへいほう)氏は、三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡などの神獣鏡は、卑弥呼が魏から下賜された鏡でないことを繰り返し否定しておられるとのことだ。すなわち、魏の領域では三角縁の神獣鏡はもともと全く存在せず、平縁の神獣鏡すら絶無に近く、中国で出土する平縁神獣鏡はどの種類であれ、すべて揚子江流域の呉鏡であり、黄河流域の魏鏡ではない、とのことだ。
それにも関わらず、邪馬台国畿内説を唱える専門家は、魏の特注説まで持ち出して相変わらず三角縁神獣鏡は魏から下賜されたと主張する。こうなると、もはや学問ではなくオーム真理教のように信仰にはまった狂信者としか言いようがない。
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位至三公」銘鏡 (出典:西川寿勝著「三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡」) |
では、邪馬台国が存在した3世紀代に魏で制作された銅鏡にはどのような鏡があったのか。安本氏は2種類の鏡に着目される。「位至三公鏡(いしさんこうきょう)」と「蝙蝠鈕座内行花文鏡(こうもりちゅうざないこうかもんきょう)」 である。
徐苹芳氏によれば、位至三公鏡は、魏の時代(220〜265)に北方地域で新しく作られ始めた鏡で、西晋時代(265〜316)に大層流行したが、呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったとのことだ。一方、魏が成立すると、その官営工房では内行花文鏡や獣首鏡などすべて後漢以来の旧式鏡が制作されるようになったが、いくつかの鏡で文様が簡略化された。「蝙蝠鈕座内行花文鏡」とは、内行花文鏡の鈕座(紐を通す穴)の周囲のスペード形の文様が蝙蝠の形になってしまったものをいう。
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| 蝙蝠鈕座内行花文鏡 |
興味深いのは、位至三公鏡は、わが国では29面出土しているが、近畿では大阪府下で6例が報告されているにすぎず、その他な福岡県・佐賀県・大分県を中心とする北九州からの出土である。蝙蝠鈕座内行花文鏡に関しても、福岡県からは10枚出土しているが、奈良県からは1枚の出土例もない。
さらに、安本氏は、興味深い資料も講演で提示された。卑弥呼が貰った可能性が大きい10種類の魏晋鏡の県別の出土数である。10種類の魏晋鏡とは上記の2種類の他に双頭竜鳳文鏡や方格規矩鳥文鏡なども含めた銅鏡であるが、出土数は福岡県では37面、奈良県は2面と圧倒的に福岡県が多い。
卑弥呼の後を継いだ台与(とよ)も魏に使節を派遣してさまざまなものを献上している。その中に異文雑錦二十匹が含まれていて、当時我が国でも絹織物の生産が行われていたことを物語っている。しかし、弥生時代から古墳時代前期の絹製品出土地を県別に区分した場合、福岡県が15カ所と他県より圧倒的に多く、奈良県は2カ所に過ぎない。
こうした考古学のデータは、あきらかに邪馬台国は奈良県ではなく、福岡県だったことを示している。一方、西暦300年以降の古墳時代に出土する三角縁神獣鏡の場合は、立場が逆転する。奈良県で100面出土したのに対して、福岡県はその半分の49面である。
安本氏は三角縁神獣鏡に関してその特徴を次のように列挙された。
1.三角縁神獣鏡は中国から1面も出土していない
2.紋様が中国南方系のものであって、中国北方系のものではない
3.銅同位体比による研究で、鏡の原料である銅も中国南方系のものである
4.日本では、確実な3世紀の古墳からは出土例がない
5.出土した数が多すぎる
6.中国鏡に比べて形が大きい
大陸では、220年に後漢が滅亡して魏・呉・蜀の三国時代が続いたが、司馬炎が265年に三国を統一して西晋を建てた。しかし、西晋の時代は長く続かず、北方民族に攻められ317年に建康(現在の南京)に遷都した。それ以降、この国を東晋と呼んでいる。倭の五王の時代、我が国は東晋に使者を派遣していたことが中国の史書に記されているが、それ以前から東晋との通交はあったと思われる。三角縁神獣鏡の原料となる銅はおそらく東晋から得ていたのであろう。図案もおそらく浙江省で制作されていた神獣鏡から学んだものだろう。
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