2010/04/06

NHKの古代史ドラマスペシャル『大仏開眼』異聞

4月3日に放映された『大仏開眼』前編

古代史ドラマスペシャル『大仏開眼』
古代史ドラマスペシャル『大仏開眼』
る4月3日(土)の午後7時半から、NHK総合テレビで興味深いドラマが放映された。古代史ドラマスペシャル『大仏開眼』の前編である。時代設定は、遣唐留学生・下道真備(しもつみちのまきび)が帰国した天平7年(735)にから、藤原弘嗣の乱を契機に聖武天皇が平城京を離れる天平12年(740)までの5年間。その間の人間模様を真備を中心に描いた壮大なスケールの歴史ドラマである。後編は今週の土曜日(10日)に放映予定で、天平勝宝4年(752)4月9日の大仏開眼供養に向かってさらに様々な人間模様が展開される。

のドラマの放映を心待ちにしていた大阪在住のAが、翌朝電話をかけてきた。昨晩のNHKを見たかと確認した上で、
「どうだった?」
と聞く。後編をまだ見ていないので、この作品全体を評価することはできない。それにも拘わらず、朝早くから電話してきたところを見ると、Aはそれなりに好感をもってこのドラマを見たのだろう。Aの質問の意図が良く分からなかったので、逆に彼に反問してみた。
「どうだったとは? そう言う君は、どんな印象を持ったのだ?」
「良かったと思うよ。NHK大阪が今まで制作してきた古代史ドラマスペシャルでは、一番良かったのではないか。特に真備役の吉岡秀隆が好演していた」

撮影に使われた平城宮の東院庭園
撮影に使われた平城宮の東院庭園

に言われて、今までNHK大阪で制作・放映された『聖徳太子』(2001年) や『大化改新』(2005年)のシーンを思い出した。いずれも、今回の作品同様に池端俊策氏の脚本である。だが、今回の作品ではスタジオセット以外に、平城宮跡に復元された東院庭園や今月24日にオープンする大極殿でも実際に撮影が行われている。それだけに映し出される画面は、実物の迫力があり引き締まった作品に仕上がっている。

は続けて言った。
「君は最近、遣隋使や遣唐使のことをいろいろ調べているのだろ? だったら、歴史愛好家の目から見て、今回の『大仏開眼』は時代考証はどうだった?」
どうやら、Aが電話をかけてきた目的が見えてきた。ドラマのストーリが史実に立脚しているか、どの部分がフィクションであるのかを知りたいようだ。
「かなり史実を反映したドラマ仕立てになっていたと思うよ。ただし気になる点はいくつかあった」
「ほう、どんな点だ?」

撮影に使われた平城宮の第一大極殿
撮影に使われた平城宮の第一大極殿
速Aがのってきた。
「ドラマでは、視聴者の関心をひくために、阿倍内親王と真備のラブロマンスも一つの柱としているようだが、年齢的に相当無理がある。真備は数え年の23歳で時留学生として唐に渡っている。17年間の留学生活の後帰国した天平7年に(735)に、すでに40歳の壮年に達している。一方、阿倍内親王はその時18歳。ロマンスの花を咲かせるには、ちょっと年が開きすぎている」
「なるほど。他には?」

真備は帰国してすぐ母親を訪ねて行くが、その家がどこか田舎の地震で倒壊しかかったあばら屋になっている。真備が帰国する前年の4月、近畿地方に大地震があって多くの家が倒壊し圧死者も多く出たことは、確かに『続日本紀』に記録されている。真備の父は、現在の倉敷市真備町出身の下道圀勝(しもつみちのくにかつ)で、右衛士(うえじ)少尉という従七位上相当の微官で、平城京に警護兵として出仕していたと思われる。だが、母親は大和の豪族・楊貴(八木)氏の娘で、今の橿原市あたりに住んでいたと思う。かっての藤原京の市街地だ」
「それほど寂れた田舎ではなかったというわけか。現在は国道24号線に変わっている当時の下つ道を一直線に南下すれば、現在の橿原市八木町に出る。当時は夫が妻の元に通う通い婚が普通だったから、真備は母の実家で生まれて育てられたのだろうな」

平城宮の朱雀門
平城宮の朱雀門。『大仏開眼』前編の最後は聖武がこの門から行幸に出かけるところで終わっている

ところで、江戸時代中頃の享保13年 (1728)、煉瓦の一種であるセンに書かれた真備の母親の墓誌が奈良県五條市で見つかっている。源八という農民が農作業中に掘り出したものだが、その後、村で不吉なことばかりが起こり、墓誌を掘り出したせいだというので、また何処かに埋めてしまったそうだ。しかし、その拓本が今に伝わっていて、「従五位上守右衛 士督兼行中宮亮 下道朝臣真備葬 亡妣楊貴之墓 天平十一年八月十 二日記 歳次己卯」と記されている。真備が天平11年(739)にその母である楊貴氏を葬ったことがわかる。つまり、唐から帰国して4年後に彼は母親に死なれた」

墓誌を信用すれば、天平11年当時、真備は宮城の警衛などを司どる右衛士府(うえじふ)の長官の右衛士督(うえじのかみ)と、后妃に関わる事務などを扱う中宮職の長官の中宮亮(ちゅうぐうのすけ)を兼務していたわけか。帰国したときの位階が従八位下だったそうだから、4年間で従五位上まで13階級も特進したことになる。異例のスピード出世だね」
「そうなんだが、従八位下というのは、五位以上の高級貴族の子弟が大学を修学して卒業する時に、与えられる官位だったはずだ。真備の父親の官位は定かではないが、7位くらいであったと言われている。なにしろ、家柄が優先されて官位が贈られる時代だ。そんな時代に地方豪族の子弟が大学に入れるなんて、よほど頭脳明晰な子供だったのだろう。その評判を聞いて特例として大学入学を斡旋した強力なスポンサーがいたと想像するしかない」

同じ遣唐使船で留学した阿倍仲麻呂は中務大輔(正五位上相当)の阿倍船守の長男だったと言われている。名門阿倍氏の出だから、すんなりと遣唐留学生に選ばれたのだろう。だが、下級地方豪族の出の真備が遣唐留学生に選ばれたのには、若くして学才を謳われた青年をよほど強力に推輓した人物がいたのだろうな。誰だと思う?」
「真備は、唐で儒学のほか、天文学や音楽、兵学などをさまざま事を学び、また、さまざまなものを持ち帰った。その中に儒教による厳しい礼典・上下関係を記した「唐礼」がある。あるいは、大宝律令の改版を考えていた藤原不比等(ふじわらのふひと)あたりの推薦があったのかもしれない」
「不比等が陰のスポンサーだったとすると、真備は帰国して藤原勢力に敵対する橘諸兄(たちばなのもろえ)に荷担することになる。その結果、光明皇后のバックアップを得て中央政界にのし上がってきた藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)に疎まれて太宰府に左遷されたり、遣唐副使として二度目の渡航を余儀なくされる。皮肉な運命だね」

和歌山の道成寺に伝わる「宮子姫伝記」

ところで」と、Aは電話口で話題を変えた。
「今回のドラマで、一番興味を引いたのは江波杏子が演じた藤原宮子(ふじわらのみやこ)だった。宮子は藤原不比等と賀茂比売(かもひめ)との間に生まれた長女とされている。13歳のとき、文武天皇に嫁ぎ、4年後の大宝元年(701)に首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を出産している。しかし、心的障害に陥って宮廷の一室に閉じこもり、長い間我が子にも会う事はなかったとされている」
「暗い部屋の中で目に見えないハエを追う仕草を繰り返す江波さんの演技は、確かに鬼気迫るものがあったね」

奉洗寺の大仏
玄ムが洛陽郊外の竜門石窟で見たという奉洗寺の大仏

その宮子夫人が僧玄ムの治療を受けてやっと病が癒え、36年ぶりに我が子の聖武天皇に対面する。そのとき盧舎那仏の造像を聖武天皇に勧めている。通説では、聖武天皇が難波宮へ行幸した際、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を拝し、自らも盧舎那仏像を造ろうと決心したととされている。しかし、ドラマでは、玄ムが留学中に即天武后が建立した奉洗寺の大仏の大きさに感動し、日本でもこのような大仏を作りたいと宮子皇太夫人に焚きつけた設定になっている。面白い設定で、あり得ないことではない」

道成寺の三門
道成寺の三門
道成寺の本堂
道成寺の本堂
その宮子夫人が、実は藤原不比等の実子ではないとの説がある。知っているか?」
「ほう、そんな話があるのか・・・。聞いたことがない。不比等の子ではないとすると、聖武天皇には藤原氏の血は一滴も入っていないことになり面白いが、一体どんな話だ?」
「君は、和歌山県の日高町にある道成寺という寺を知っているか? 能や歌舞伎、浄瑠璃の演目として名高い「安珍・清姫伝説」の舞台として知られる寺だ」
「ああ、名前だけは・・・。 まだ訪れたことはない」

寺伝では、この寺は大宝元年(701)、義淵僧正を開山として、紀道成(きのみちなり)が建立した寺とされている。その動機というのが、文武天皇の夫人・藤原宮子のたっての願いだったとのことだ」
「日高町というと、紀伊水道に面した御坊市に近い田舎町ではないか。そのような草深い里に大宝年間に建立された寺があったのか?」
「そうなんだ。そして、道成寺には「安珍・清姫伝説」とは別に、「宮子姫伝記」という絵巻物が伝えられている。その絵巻物に書き記された話によると、7世紀の末ころに紀州・日高郡八幡山の麓に九人兄弟の海人が住んでいたそうだ。その中の一人が「宮」という名の海女だった。ある日、海底から光を発するものが現れ、漁師たちは怪しんで近づかなかったが、彼女は海底深く潜って、海の底に黄金の千手観音像が横たわっているのを発見した。そして、その像を長い髪に包んで持ち帰り祀ったという」

「宮子姫伝記」の一場面
「宮子姫伝記」の一場面
はさらに続けた。
[ 平城の都で、藤原不比等が燕の巣となっていた一丈余りの髪を見つけて、それを文武天皇に伝えたそうだ。すると、天皇はその長く美しい髪の持ち主を探すように命じて全国に勅使を派遣した。日高郡に派遣された粟田真人(あわたのまひと)は、岩屋の祠に観音像を祀っている髪の長い「宮」を見つけて、都に伝えた。喜んだ天皇は兄弟の了解を得て「宮」を都へ向かえることにした。そこで、不比等は「宮」をいったん自分の養女に仕立て上げ、「宮子媛」として文武天皇の后妃に差し出したという。しかし、宮子は故郷に残した観音像のことが忘れられず、その観音像を祭る寺を建立を文武天皇に頼みこんだ。天皇は紀道成を召して寺を建立させ、道成にちなんで山号を「道成寺」としたという」
「なんだか山号の語源を説明するために作られた伝承みたいだね。どこまで信用できるのかな」

道成寺の縁起堂
道成寺の縁起堂
道成寺の道成寺の宝仏殿
道成寺の宝仏殿
この「宮子姫伝記」と異なる話も道成寺には伝わっている。日高郡の九海士里(くあまのさと)と呼ばれる漁村に早鷹と渚という漁師の夫婦が住んでいたそうだ。二人の間に女の子が生まれたが、生来、髪の毛が生えず夫婦の悩みの種であった。その頃、海中に光る物体があり、誰も恐れて近づかなかったが、海女の渚は海中に潜り命がけで黄金の仏像を引き上げてきた。夫婦は仏像のために祠を作って祀ると、ある日のこと観世音菩薩が渚の夢枕に現れ、彼女が目を覚ますと娘に美しい髪が生えていたという。その後、その娘が不比等の養女となり文武天皇の后妃となるというくだりは「宮子姫伝記」と同様だ」

フーン。一方では「宮」は海女で、もう一方では、海女の娘だったというわけか。しかし、同工異曲の伝承のようだな。ところで、君は道成寺に行ったことはあるのか?」
「ずいぶん以前のことだが、一度だけ。丁度今頃の桜の季節だった。近隣から訪れた家族ずれが、境内の桜の下で弁当を広げながら花見をしていたのが印象的だった」
「どのようにしてアクセスするのだ?」
「そうだな、阪和自動車路を利用するなら、「御坊IC」で高速道路を降りて、2.8キロほどで道成寺に到着する。せいぜい5分足らずってところかな。JR紀勢線を利用するなら、特急くろしおで御坊駅まで行き、そこでローカル線に乗り換えれば「道成寺」駅まで一駅だ。天王寺駅から2時間もあれば行ける」
縁起堂で毎日行われる「絵とき説法
縁起堂で毎日行われる「絵とき説法」

会があれば一度訪れてみたいと思い、道成寺の魅力は何なのかをAに聞いた。
「それは、 なんと言ったって安珍清姫伝説所縁の寺だ。名実ともに日本古典芸能の聖地として、歌舞伎・京鹿子娘道成寺、能楽、文楽から、民俗芸能まで道成寺を舞台に様々な公演が境内で開催されている。芸能史料を展示する縁起堂では、今まで清姫を演じた役者のカラー写真が所狭しと奉納されている。また、縁起堂で行われている「絵とき説法」が面白い。「道成寺縁起」絵巻の写本を広げて安珍と清姫の物語を解説してくれる説法が毎日、ほぼ毎時間行われている。絵とき説法とは中国の唐時代に盛んに行われた俗講だが、 参拝客の笑いを誘いながら、いつの間にか「妻宝極楽の偈」を語っている僧の語り口の巧さは、見事としか言いようがない。君も道成寺を訪れることがあったら一度拝聴するとよい」

有り難う。その他に何か見るべきものがあるか」
「縁起堂の隣が宝仏殿になっていて、周囲の壁に沿って二十数体の仏像が安置されている。その中心は本尊の国宝・千手観世音菩薩像だ。道成寺の本堂には南向き本尊と北向き本尊の2体の千手観音像があった。本堂内陣の厨子に南(正面)向きに安置されていた千手観音像と両脇侍の日光・月光菩薩像であった。いずれも木造で、1982年に宝仏殿が完成したとき、こちらに移された。千手観音像の高さは2.91mと大きい。通常、千手観音像は42本の手で千手を代表させるのが一般的だが、道成寺像は2本多い44手を有するのが特色だそうだ。

堂に安置されている千手観音立像
本堂に安置されている千手観音立像
う一体は、三十三年に一度開帳される木造の千手観音立像(北向き)で高さは2.98mもある。次の開帳は平成50年だそうだ。南向き本尊と同様にやはり44手を有しており、本堂が建立されたのと同じ時期に作られた南北朝時代の作品とされている。実は、1985年から1991年にかけて本堂の解体修理が行われたとき、この仏像の胎内に破損の激しい木心乾漆千手観音像が納められているのが見つかった。作風から奈良時代の作と推定され、補修されて現在は本堂に安置されている。像高は2.36mで1989年に重要文化財に指定された」

との電話は長々と一時間にも及んだ。最後は受話器を持つ手も疲れて、互いに『大仏開眼』の後編を楽しもうと電話を切った。




2010/04/08作成 by pancho_de_ohsei
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