実際の吉備真備の留学生活は・・・・
■ 吉備真備は、奈良時代に二回唐に派遣されている。最初は養老元年(717)3月、第八次遣唐使に付随しての留学で、23歳の時だった。彼と一緒に唐に渡った遣唐留学生・留学僧に、阿倍仲麻呂や玄ム(げんぼう)、それに最近墓石が発見されて一躍有名になった中国名・井真成(せいしんせい)などがいる。
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| 奈良公園の桜 |
■ 17年に及ぶ留学生活の後、天平7年(735)3月、次の遣唐使が来たとき、真備は多くの典籍を携えて帰国した。帰国後は、僧玄ムとともに橘諸兄(たちばなのもろえ)のブレーンとして重用され、天平18年(746)10月、吉備の氏と朝臣(あそん)の姓を賜わり、それまでの下道真備(しもつみちのまきび)を吉備朝臣真備と改めた。
■ 二回目の派遣は天平勝宝4年(752)閏3月、第十次遣唐使の副使に補任され、17年ぶりに唐土を踏んでいる。今回の派遣は権勢を誇る藤原仲麻呂に疎まれて、中央から筑前守に追いやられた後のさらに追い打ちをかけるような追加人事だった。東シナ海で海の藻屑と消えてくれればそれで良しとする仲麻呂の策略があったとされている。
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| 氷室神社の桜 |
■ 『吉備大臣入唐絵巻』の主人公・吉備大臣はこの2回目の渡唐の時の真備をモデルとしたと思われる。だが、玄宗皇帝に重用された阿倍仲麻呂はまだ存命だった。なぜ阿倍仲麻呂がすでに死亡していて、鬼となって吉備大臣を助ける設定になっているのかよく分からない。阿倍仲麻呂が唐土で72歳の生涯を閉じたのは770年のことである。
■ 最初の留学のとき、真備は17年間も唐の都長安で過ごしたことになる。その間どのように生活していたのかが、現在の筆者の関心事である。と言うのは、真備は、留学中に儒学のほか、天文学や音楽、兵学などを学び、帰朝時には、経書(『唐礼』130巻)、天文暦書(『大衍暦経』1巻、『大衍暦立成』12巻)、日時計(測影鉄尺)、楽器(銅律管、鉄如方響、写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)、弓(絃纏漆角弓、馬上飲水漆角弓、露面漆四節角弓各1張)、矢(射甲箭20隻、平射箭10隻)などを持ち帰り、朝廷に献上している。
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| 北円堂の桜 |
■ 同じ遣唐使船で唐に渡った阿倍仲麻呂は、唐の太学館に入学し五年後に科挙試験に合格して唐朝の官吏に採用された。725年に洛陽の司経局校書(正九品下)として任官し、728年には左拾遺(従8品上)、731年にには左補闕(従七品上)と官位を重ねた。左拾遺や左補闕は、皇帝に過ちがあると直接進言できる皇帝の側近で、かなり重みのある役職である。
■ 当時の長安には国立の上級大学として、総合的な古典教養を教える国子学、太学、四門学、専門的な実学知識を伝授する律学、算学、書学の6つの教育機関があり、「国子監」がそれらを統率していた。国子学は上流貴族の子弟が入学する学校で、規模も最大だった。仲麻呂が入学した太学もかなり敷居が高く、五品以上または郡県公の子孫を養育するところだった。
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| 飛鳥川堤防のの桜ー1 |
■ 四門学は国子学や太学に比べて入学資格が緩やかであり、定員1300人のうち、500人は文武七品以上の子孫に門戸を開き、残り800人は庶民の俊異なる者に当てられていた。しかし、日本の専門家は、吉備真備はこうした唐の大学には入らず、外国人を接待する鴻臚寺で、四門学助教の趙玄黙(ちょうげんもく)を招いて学んだとしている。
■ 中国の歴史学者王勇氏はこうした日本の歴史学者の見解に否定的だ。と言うのは、開元5年(717)10月に遣唐使が鴻臚寺に到着した頃、趙玄黙は四門学助教の地位にあったが、『玉海』という本にはその年の冬に国士監で講師を務めるようになったと記されているという。従って、真備が鴻臚寺で趙玄黙の授業を聴講したとしても、その期間は数ヶ月程度に過ぎなかった。真備は地方豪族の出身であり、阿倍仲麻呂と違って太学に入学する資格はなかったが、四門館で学ぶことはできたと想定しておられる。
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| 飛鳥川堤防のの桜ー2 |
■ 遣唐留学生や留学僧は、唐土で長期間勉学するための学費目的で、遣唐副使とほぼ同量の織物や布を出発にあたって下賜されている。一方、彼らの唐土における生活費は唐朝が負担し、留学生・留学僧に対して「時服糧料」を給付していた。ただし、「時服糧料」には支給年限があった。大学の在学期間は最長で9年とされていたから、支給期間も最長9年程度だったであろう。
■ 真備が帰国するための次の遣唐使船が来たのは、17年後である。官吏登用の科挙も受けず四方学で引き続き学んでいたとしても、9年間で唐朝が負担する生活費は打ち切られる。その後の生活はどうしたのだろうか。学費名目で支給された織物や布を金に換えて生活していたのだろうか。それにしては、吉備真備が学んだ範囲は広く、経史などの正学よりも、法学・軍学・経済・暦法といった実利的な学問の方に力をそそいだ。
■ 真備の17年間の留学生活を支えた可能性として、筆者は2つのことを想定している。一つは、スポンサーの存在であり、今ひとつは唐女との結婚である。
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| 飛鳥川堤防のの桜ー3 |
■ 大宝2年(702)の第七次遣唐使に同行して唐に渡った学問僧に弁正という人物がいる。若くして出家し、老荘儒仏に通じた上に、談論が巧みで、また囲碁の名手でもあった。唐に渡った後、皇太子時代の玄宗の厚遇を受け、二人はよく碁を打って楽しんだという。 彼は唐の女性を愛し、還俗して結婚し、2人の男子をもうけた。養老元年(717)の第八次遣唐使船で入唐してきた阿倍仲麻呂の才能を愛し、弁正は親身になって世話をしたという。仲麻呂と同様に真備も弁正の知己を得ていた可能性はないだろうか。
■ 『吉備大臣入唐絵巻』では、吉備大臣が鬼となった阿倍仲麻呂に囲碁を学んで唐人と勝負する場面がある。実在の真備も、あるいは弁正から囲碁の手ほどきを受けたのかもしれない。
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| 飛鳥川堤防のの桜ー4 |
■ 吉備真備が留学生として唐土に渡ったのは、数え年で23歳の時である。若い青年がそれから17年間も独身で学生生活を送ったとはとても思えない。長安で唐の女性と知り合い、恋に落ち結婚していたとしても何の不思議もない。鎌倉時代の説話集『宇治拾遺物語』の巻14には、「魚養(うおかい)の事」と題して真備と思われる人物にまつわる恋物語が記されている。それによると、唐に渡った留学生が異国の女性を娶り子供まで生ませたが、妻子を残して日本に帰国するとき、次の遣唐使が来るときは必ず便りをやる、我が子が大きくなったら必ず迎えにくると、約束したという。夫の約束を信じた妻は、遣唐使が来るたびに「手紙はないか」と聞くが、その都度、期待は裏切られる。
■ いくら待っても便りをよこさない夫に腹を立てた妻は、ついに我が子の首に「遣唐使某の子」と書いた札をつけ、宿縁があればどこかで父親に会えるだろうと、その子を海へ流してしまう。幸い、海魚に助けられて稚児は難波の浜辺に流れ着き、そこを通りかかった元留学生に拾い上げられ、札に記された書き付けで我が子であると分かったという。稚児は海中の魚に助けられたことにちなんで魚養(うおかい)と名付けられた。魚養は、漢字の素養が高く要求される書道に優れていた。空海は魚養の門から出たと伝えられているが、真偽のほどは不明である。
■ 実際には、吉備真備は天平勝宝4年(752)の第十次遣唐使で副使の一人として、17年ぶりに長安を訪れている。妻子が健在であれば、再会を果たしたはずである。
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