2010/04/03

後世、絵巻に描かれた遣唐留学生・吉備真備の説話

平城遷都1300年を記念して開催されている「大遣唐使展」

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展覧会のポスター
■ 平城遷都1300年の記念行事の一環として、奈良国立博物館は本日から「大遣唐使展」が開催している。飛鳥時代の西暦630年に最初の遣唐使が派遣されてから、平安時代の894年に菅原道真の建白で派遣が中止されるまでの約260年間、20回にも及ぶ使節の派遣が計画され、そのうち15回が実際に派遣された。平均すれば17年に1回の割合である。多くの人々が遣唐使節として、長期の留学生・留学生として、あるいは短期の請益生として海を渡り、大陸の知識や情報、文化を我が国にもたらした。

■ 今回の展覧会のポスターには、”命をかけても伝えたかった”とのキャッチコピーが記されている。奈良時代なって隣国新羅との外交関係が険悪になると、遣唐使船は南島路や南路の航路を取って東シナ海を横断するようになった。そのため、海難事故が続発し、遣唐使たちが大陸に渡るのも、大陸から戻るもの命がけだった。しかし、そうした危険をおかしても、我が国の発展のために伝えたい大陸の様々な制度や文化、文物があった。今回の展覧会では、遣唐使たちがが命がけで我が国にもたらした数多くの貴重な文物を展示して、当時の日中交流の軌跡を空前のスケールでたどるという。

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展覧会のポスター
■ 220点近い展示品の中で、日本と中国を代表する薬師寺の 聖観音菩薩立像とペンシルバニア大学博物館蔵の観音菩薩立像が、世界で初めて同時に展示されている。また、久しぶりに里帰りした米国ボストン美術館所蔵の『吉備大臣入唐絵巻』(きびだいじんにっとうえまき)も人気を呼んでいる。特に、この平安絵巻の傑作は一生のうちでもそう度々お目にかかれるものではない。そう思って、本日ひさしぶりに奈良国立博物館まで足を運んだ。

■ 今年は桜の開花時期に異常とも思えるほど寒く雨の多い日が続いた。奈良県のお花見スポットのHPにアクセスしても、開花の状態が咲き始めとか5分咲き程度で停止していた。こう不順な天候が続くと、桜も今年は開花を止めようかと躊躇していたのかもしれない。満開の表示は奈良市内の氷室神社だけだった。

■ ところが、昨日までの天気とはうって変わって、本日が雲一つない青空が朝から広がり、陽気もようやく平年並みに戻った。週末の絶好の行楽日である。奈良国立博物館は本日「第遣唐使展」の初日を迎えた。期待していた展覧会であり、なんとしても出かけたかった。ただ、筆者には先日訪れた東京国立博物館での特別展「長谷川等伯」の混雑ぶりの記憶がまだ生々しい。初日の今日は大勢の見学者が押し寄せるものと予想して、開館30分前に博物館に到着することにした。

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博物館前の氷室神社のしだれ桜
すでに満開の時期をすぎていた
■ 博物館に到着したとき、予想に反して、列を作っ並んでいる先客は70人程度だった。それで、博物館前の氷室神社を訪れて、奈良市内で一番早く咲き誇るというしだれ桜を見学してから、開館前の列に並んだ。しばらく来ない間に、博物館の様子が少し変わっていた。後で館員に聞くと、西新館が耐震補強工事のため休館しているとのことだ。そのため、今回の展示の第二会場は本館が使われてていた。

■ 東新館の二階に当てられた第一会場に入ると、いきなり二体の巨大な観音菩薩像が並んで見学者を迎えてくれる。向かって左側が米国ペンシルバニア大学博物館所蔵の観音菩薩立像。中国の神龍2年(706)に作られた石仏である。残念なことに右腕を欠いていたが、豊かな頬の膨らみがいかにも盛唐の頃のおおらかさを感じさせる。

観音菩薩立像 聖観音菩薩立像
観音菩薩立像(*) 聖観音菩薩立像(*)
■ 向かって右側の仏像は、普段は薬師寺東院堂に安置されている国宝・聖観音菩薩立像である。高さ1.9mの銅像は黒光りしていて神々しい。7世紀から8世紀頃の制作と推定されているから、唐の菩薩像とほぼ同年代の制作である。だが、仏像写真集で見るのとはイメージが違った。最初はなぜだか分からなかったが、今回は金色の光背なしで展示されていた。

■ 本日の来館のお目当ては、久しぶりに里帰りしたボストン美術館所蔵の『吉備大臣入唐絵巻』である。その絵巻は第一会場の壁際にガラスケースに収めて展示されていた。後述のように、この絵巻はもともと2.45mもある一巻の巻物だったが、東京オリンピックの年に里帰りしたとき、四巻に分けられた。チラシでは第一巻と第四巻は27年ぶりの日本公開と記されていたが、当然他の二巻も一緒に展示されているものと思っていた。しかし、それは筆者の早とちりだったようだ。

■ 実際に開示されている画面は、第一巻では第一段の遣唐使船が到着し、吉備大臣が高殿に導かれる箇所と、第四巻では第六段の名人との「囲碁勝負」を行っっている場面と黒石を盗んで飲み込んだ嫌疑をかけられ下剤を飲まされている箇所である。これだけでは絵巻のストーリが追えない。なんだか期待が裏切られたようで、がっかりした。

吉備大臣入唐絵巻
吉備大臣入唐絵巻 (ボストン美術館蔵)−遣唐使船の着岸(*)

■ とは言うものの、描かれた図柄は900年前の作品とは思えないほど鮮明で、人々の表情も実に豊かである。この絵巻が作られた頃、中国とはほぼ没交渉であり、画家たちは唐の時代の官人や兵士たちがどのような服装をしていたか知らなかった。したがって、描かれている宮殿の様子も清涼殿を模したイメージであり、人々イデタチも和漢(?)折衷で、時代考証の点からはいろいろ問題があるだろう。しかし、この絵巻を見て楽しんだ人々には、そんなことはどうでもよかったようだ。

公開された墓誌(7/13朝日新聞)
公開された墓誌(H17/07/13朝日新聞より)
■ 『吉備大臣入唐絵巻』には期待を裏切られたが、会場には思いもしなかったものと再会できた。2004年10月に新聞各紙で報じられ、一躍有名になった「井真成の墓誌」である。この墓誌の蓋(誌蓋)と底(誌底)は平成17年8月に東京国立博物館の平成館で展示され現物を見ている。今回の展覧会でまたお目にかかれるとはラッキーだった。考えてみれば、井真成も吉備真備と同じ遣唐使船で入唐し、二人は同じ時期に帰国するはずだった。だが、その直前に井真成は急死して、長安城の東に埋葬された。無事に帰国できていれば、真備と同様な業績を歴史に残したかもしれない。運命とは皮肉なものである。


■ 吉備真備の墓が奈良教育大学のキャンパス内にあると聞いていた。博物館を出た後、どの様な墓か気になって訪ねてみることにした。この大学の構内から新薬師寺金堂の基壇跡が出土した時、現地説明会に訪れたことがある。そのときは、真備の墓があるとは知らなかった。大学は現在春休み中だが、正門の守衛に事情を説明すると、構内に入ることを許可してくれた。

奈良教育大学キャンパス内の真備塚
奈良教育大学キャンパス内の真備塚
■ 学生のいないキャンパスにも春は訪れる。キャンパス内の桜も春風に吹かれて咲き誇っていた。駐車場の脇からまっすぐ北に続く道を進むと、突き当たりで道は右に折れる。そこから緩やかに続く坂道の脇に「吉備塚」と書かれた赤い石碑が置かれていて、その後ろに古墳らしい小さな高まりがあった。この古墳が吉備真備の墓と伝えられ、古くから奈良の名所として親しまれた所だそうだ。事実関係はさだかではない。



四回目の里帰りとなった『吉備大臣入唐絵巻』

■ 今回の展覧会の目玉として展示されているボストン美術館所蔵の『吉備大臣入唐絵巻』は、4回目の里帰りだそうだ。最初は1964年の東京オリンピック記念特別展のときで、里帰りを利用して日本で修復されることになり、保存と展示の便宜のため4巻に分けられた。その後、1983年に京都国立博物館・東京国立博物館で開催された「ボストン美術館所蔵日本絵画名品展」、および2000年に東京国立博物館平成館で開催された「文化財保護法50年記念 日本国宝展」でも出陳のため里帰りしている。

吉備大臣を迎える唐の官人と兵士<
吉備大臣を迎える唐の官人と兵士
■ その題名から、奈良時代の遣唐留学生・吉備真備(きびのまきび)の入唐時の出来事を絵巻で綴ったものとばかり思っていた。しかし、絵巻で語られる物語は、実在の吉備真備とは関係がない。平安時代に作られた説話物語を絵巻化したものだそうだ。平安時代後期に作られた「江談抄(ごうだんしょう)」という説話集がある。大江匡房(おおえまさふさ、1041-1111)の談話を藤原実兼が筆録したとされる説話集である。その中に、匡房の母方の祖父にあたる橘孝親(たかちか)が先祖より語り伝えられた話として、『吉備大臣入唐絵巻』と同じ内容の「吉備大臣入唐聞事」が収められている。

連行される吉備大臣
連行される吉備大臣
■ この説話は「江談抄」だけでなく、平安末期の古写本「吉備大臣物語」や「長谷寺験記」にも残されていて、平安末期にはすでによく知られていた異郷訪問譚だったようだ。物語を簡単にまとめると、遣唐使として唐に渡った吉備大臣が、何故か唐の皇帝の命令によって楼に幽閉され、数々の難題を押しつけられる。しかし、かって帰国できずに彼の地で没し、鬼となった阿倍仲麻呂の援助を受けて、それらの難題を次々と解決していく。ついには「文選」「囲碁」「野馬台(やまだい)の詩」などの宝物をもって、無事に日本に帰国できた、というものである。

■ 絵巻は、中国の画巻(がかん)から出発し、日本で独自の発達をとげ、詞書(ことばがき)と絵の繰り返しで物語を展開していく。10世紀前後に絵巻というスタイルが誕生したとされ、平安時代末期の12世紀には絵巻の黄金時代が現出した。四大絵巻とされる「源氏物語絵巻」、「信貴山縁起絵巻」、「伴大納言絵巻」、「鳥獣人物戯画」(いずれも国宝)はこの時期に作られている。

吉備大臣が幽閉された楼
高楼に幽閉された吉備大臣
■ 『吉備大臣入唐絵巻』もその頃作られた作品のようだ。近年の研究では、後白河院(1127-1192)のサロンで生み出されたと推定されている。すなわち、後白河院の発意で制作され、蓮華王院(現在の三十三間堂)の宝蔵に納められたとされている。この絵巻が文献上にその姿を現すのは、15世紀中葉になってからである。室町時代、伏見宮貞成(さだふさ)親王が著した『看聞御記』の嘉吉元年(1441)4月26日条には、若狭の松永荘にある八幡宮に4巻の絵巻が所蔵されており、その中の一巻が吉備大臣入唐絵巻であることが記されている。

■ それから約500年の間、数奇な運命の糸に操られてさまざまな人手に渡ったが、最終的には昭和7年(1932)にボストン美術館で購入され現在に至っている。日本に所蔵されていれば、上記の四大絵巻と並んで、間違いなく国宝の指定を受けたはずの美術品である。

囲碁を打つ吉備大臣
囲碁を打つ吉備大臣
■ 現存の『吉備大臣入唐絵巻』は長大であり、一巻の状態にあったときは、全長で2452.1cmだった。それが、東京オリンピックの年に里帰りした際に補修されたとき、上記のように保存と展示の便を考えて四巻に分けられた。現存の絵巻は六段構成になっているが完本ではない。吉備大臣物語の前半部に過ぎず、後半部分である「野馬台詩」の解読に成功して帰国を果たす場面は欠いている。また、絵巻冒頭の第一段の詞書(ことばがき)も失われている。

■ 東京大学名誉教授で群馬県立歴史博物館館長の田日出男氏は、2005年に『吉備大臣入唐絵巻の謎』という著書を出版された。その中で興味深い謎解きをされている。

■ 絵巻の第一段は、遣唐使船が到着し唐の使者と兵士たちが吉備大臣を迎えるが、帝王の命令を伝える武官たちによって、吉備大臣が高くそびえる楼へ連行される場面が描かれている。続く第二段では、夜中に一本の角をはやし、蓬髪を風になびかせた鬼が乾(いぬい)の方角からやってきて、眠りこけている兵士や使者を見て、楼に上がる。鬼は実は唐で亡くなった阿倍仲麻呂で、故郷の子孫のことが知りたくてやってきたのである。吉備大臣が詳しく説明してやると、鬼は喜んでこの国のことは何でも教えてると言い残し、夜明けに楼を去る。ところが、この第二段の最後に詞書の内容とは関係ない奇妙な絵が描かれている。

密談を交わす4人
密談を交わす4人
■ 夜の宮殿で4人の人物が何か密談を交わしているような場面である。対応する詞書がないため従来から意味不明の場面とされてきたが、詞書と絵で綴る絵巻にそのような絵が描かれるはずがないと、黒田氏は素朴な疑問を抱かれた。そして謎解きに挑戦され、他の場面が誤ってここに移植されたのでは、と考えられた。そして、その場面は欠落したと考えられる第七段の宝志和尚が難読の詩「野馬台詩」を書いている場面だと推測された。興味深い推察である。



実際の吉備真備の留学生活は・・・・

■ 吉備真備は、奈良時代に二回唐に派遣されている。最初は養老元年(717)3月、第八次遣唐使に付随しての留学で、23歳の時だった。彼と一緒に唐に渡った遣唐留学生・留学僧に、阿倍仲麻呂玄ム(げんぼう)、それに最近墓石が発見されて一躍有名になった中国名・井真成(せいしんせい)などがいる。

奈良公園の桜
奈良公園の桜
■ 17年に及ぶ留学生活の後、天平7年(735)3月、次の遣唐使が来たとき、真備は多くの典籍を携えて帰国した。帰国後は、僧玄ムとともに橘諸兄(たちばなのもろえ)のブレーンとして重用され、天平18年(746)10月、吉備の氏と朝臣(あそん)の姓を賜わり、それまでの下道真備(しもつみちのまきび)を吉備朝臣真備と改めた。

■ 二回目の派遣は天平勝宝4年(752)閏3月、第十次遣唐使の副使に補任され、17年ぶりに唐土を踏んでいる。今回の派遣は権勢を誇る藤原仲麻呂に疎まれて、中央から筑前守に追いやられた後のさらに追い打ちをかけるような追加人事だった。東シナ海で海の藻屑と消えてくれればそれで良しとする仲麻呂の策略があったとされている。

氷室神社の桜
氷室神社の桜
■ 『吉備大臣入唐絵巻』の主人公・吉備大臣はこの2回目の渡唐の時の真備をモデルとしたと思われる。だが、玄宗皇帝に重用された阿倍仲麻呂はまだ存命だった。なぜ阿倍仲麻呂がすでに死亡していて、鬼となって吉備大臣を助ける設定になっているのかよく分からない。阿倍仲麻呂が唐土で72歳の生涯を閉じたのは770年のことである。

■ 最初の留学のとき、真備は17年間も唐の都長安で過ごしたことになる。その間どのように生活していたのかが、現在の筆者の関心事である。と言うのは、真備は、留学中に儒学のほか、天文学や音楽、兵学などを学び、帰朝時には、経書(『唐礼』130巻)、天文暦書(『大衍暦経』1巻、『大衍暦立成』12巻)、日時計(測影鉄尺)、楽器(銅律管、鉄如方響、写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)、弓(絃纏漆角弓、馬上飲水漆角弓、露面漆四節角弓各1張)、矢(射甲箭20隻、平射箭10隻)などを持ち帰り、朝廷に献上している。

北円堂の桜
北円堂の桜
■ 同じ遣唐使船で唐に渡った阿倍仲麻呂は、唐の太学館に入学し五年後に科挙試験に合格して唐朝の官吏に採用された。725年に洛陽の司経局校書(正九品下)として任官し、728年には左拾遺(従8品上)、731年にには左補闕(従七品上)と官位を重ねた。左拾遺や左補闕は、皇帝に過ちがあると直接進言できる皇帝の側近で、かなり重みのある役職である。

■ 当時の長安には国立の上級大学として、総合的な古典教養を教える国子学、太学、四門学、専門的な実学知識を伝授する律学、算学、書学の6つの教育機関があり、「国子監」がそれらを統率していた。国子学は上流貴族の子弟が入学する学校で、規模も最大だった。仲麻呂が入学した太学もかなり敷居が高く、五品以上または郡県公の子孫を養育するところだった。

飛鳥川堤防のの桜ー1
飛鳥川堤防のの桜ー1
■ 四門学は国子学や太学に比べて入学資格が緩やかであり、定員1300人のうち、500人は文武七品以上の子孫に門戸を開き、残り800人は庶民の俊異なる者に当てられていた。しかし、日本の専門家は、吉備真備はこうした唐の大学には入らず、外国人を接待する鴻臚寺で、四門学助教の趙玄黙(ちょうげんもく)を招いて学んだとしている。

■ 中国の歴史学者王勇氏はこうした日本の歴史学者の見解に否定的だ。と言うのは、開元5年(717)10月に遣唐使が鴻臚寺に到着した頃、趙玄黙は四門学助教の地位にあったが、『玉海』という本にはその年の冬に国士監で講師を務めるようになったと記されているという。従って、真備が鴻臚寺で趙玄黙の授業を聴講したとしても、その期間は数ヶ月程度に過ぎなかった。真備は地方豪族の出身であり、阿倍仲麻呂と違って太学に入学する資格はなかったが、四門館で学ぶことはできたと想定しておられる。

飛鳥川堤防のの桜ー2
飛鳥川堤防のの桜ー2
■ 遣唐留学生や留学僧は、唐土で長期間勉学するための学費目的で、遣唐副使とほぼ同量の織物や布を出発にあたって下賜されている。一方、彼らの唐土における生活費は唐朝が負担し、留学生・留学僧に対して「時服糧料」を給付していた。ただし、「時服糧料」には支給年限があった。大学の在学期間は最長で9年とされていたから、支給期間も最長9年程度だったであろう。

■ 真備が帰国するための次の遣唐使船が来たのは、17年後である。官吏登用の科挙も受けず四方学で引き続き学んでいたとしても、9年間で唐朝が負担する生活費は打ち切られる。その後の生活はどうしたのだろうか。学費名目で支給された織物や布を金に換えて生活していたのだろうか。それにしては、吉備真備が学んだ範囲は広く、経史などの正学よりも、法学・軍学・経済・暦法といった実利的な学問の方に力をそそいだ。

■ 真備の17年間の留学生活を支えた可能性として、筆者は2つのことを想定している。一つは、スポンサーの存在であり、今ひとつは唐女との結婚である。

飛鳥川堤防のの桜ー3
飛鳥川堤防のの桜ー3
■ 大宝2年(702)の第七次遣唐使に同行して唐に渡った学問僧に弁正という人物がいる。若くして出家し、老荘儒仏に通じた上に、談論が巧みで、また囲碁の名手でもあった。唐に渡った後、皇太子時代の玄宗の厚遇を受け、二人はよく碁を打って楽しんだという。 彼は唐の女性を愛し、還俗して結婚し、2人の男子をもうけた。養老元年(717)の第八次遣唐使船で入唐してきた阿倍仲麻呂の才能を愛し、弁正は親身になって世話をしたという。仲麻呂と同様に真備も弁正の知己を得ていた可能性はないだろうか。

■ 『吉備大臣入唐絵巻』では、吉備大臣が鬼となった阿倍仲麻呂に囲碁を学んで唐人と勝負する場面がある。実在の真備も、あるいは弁正から囲碁の手ほどきを受けたのかもしれない。

飛鳥川堤防のの桜ー4
飛鳥川堤防のの桜ー4
■ 吉備真備が留学生として唐土に渡ったのは、数え年で23歳の時である。若い青年がそれから17年間も独身で学生生活を送ったとはとても思えない。長安で唐の女性と知り合い、恋に落ち結婚していたとしても何の不思議もない。鎌倉時代の説話集『宇治拾遺物語』の巻14には、「魚養(うおかい)の事」と題して真備と思われる人物にまつわる恋物語が記されている。それによると、唐に渡った留学生が異国の女性を娶り子供まで生ませたが、妻子を残して日本に帰国するとき、次の遣唐使が来るときは必ず便りをやる、我が子が大きくなったら必ず迎えにくると、約束したという。夫の約束を信じた妻は、遣唐使が来るたびに「手紙はないか」と聞くが、その都度、期待は裏切られる。

■ いくら待っても便りをよこさない夫に腹を立てた妻は、ついに我が子の首に「遣唐使某の子」と書いた札をつけ、宿縁があればどこかで父親に会えるだろうと、その子を海へ流してしまう。幸い、海魚に助けられて稚児は難波の浜辺に流れ着き、そこを通りかかった元留学生に拾い上げられ、札に記された書き付けで我が子であると分かったという。稚児は海中の魚に助けられたことにちなんで魚養(うおかい)と名付けられた。魚養は、漢字の素養が高く要求される書道に優れていた。空海は魚養の門から出たと伝えられているが、真偽のほどは不明である。

■ 実際には、吉備真備は天平勝宝4年(752)の第十次遣唐使で副使の一人として、17年ぶりに長安を訪れている。妻子が健在であれば、再会を果たしたはずである。



(*)奈良国立博物館のHPより転記
[参考文献] 黒田日出男著「吉備大臣入唐絵巻の謎」(小学館)、王勇「中国で井真成墓誌を読む」(『遣唐使・井真成の墓誌』所収)


2010/04/04作成 by pancho_de_ohsei return