今年初めて訪れた法隆寺を訪れた日は、聖徳太子の祥月命日
お会式では、聖霊院で秘仏の徳太子摂政像の厨子が開扉され、太子像の宝前に、大山立(おおやまたて)と呼ばれる古式の飾り物や餅、大豆、果物などが供えられる。そして、午後1時から聖霊院で法要が営まれ、雅楽の流れる中、寺僧たちが訓迦陀(くんかだ)と呼ばれる仏の徳をたたえる声明を唱え、太子の徳を讃嘆する。
久しぶりに訪れた法隆寺では、金堂や大講堂にあらたに設置されたLED照明が導入されていた。特に金堂の諸仏はライトに照射されて堂内でくっきりと浮かび上がって見える。以前は、ボランティアガイドのペンライトに照らされて暗闇の中でぼんやりとしか伺えなかった。
一方、東の間にも国宝の薬師如来座像が安置されていて、その光背には用明天皇の病気平癒のために推古天皇と聖徳太子が薬師像の造立を誓願し、607年にこの仏像か完成したとの銘文が刻まれている。 この2つの銘文は、近代史学の基礎を築いた帝国大学の久米邦武教授(1839-1931)が、1905年に著した『上宮太子実録』で、聖徳太子関係史料の中で最も確実な史料として甲種に分類したものの一つである。久米教授は、これらの銘文の他に、中宮時に伝わる天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)の銘文、『日本書紀』に記された憲法17条、および伊予湯岡碑文なども、聖徳太子研究では基本文献とすべき甲種史料とされた。
大山氏は1999年に『〈聖徳太子〉の誕生』を出版され、聖徳太子は『日本書紀』編纂の過程で藤原不比等(ふひと)、長屋王、道慈らによって捏造された虚像であり、その目的は日本の律令国家を主催すべき天皇が中国的聖天子像を体現した存在であることを歴史的に示すためであったと結論づけられた。 聖徳太子が架空の人物であるとする大山説では、久米教授が太子の存在を証明する第一級の史料としたこれらの文字史料を、当然のことながら否定しなければならない。『〈聖徳太子〉の誕生』では、歴史学界のさまざまな知見や推論を駆使して、これらの史料は後世の聖徳太子信仰に基づく産物であるとして、信頼するに足らないとされた。 聖徳太子は架空の人物であるとする大山教授の衝撃的な説は、一時マスコミの話題になったが、その後の学界の反応は冷ややかだった。特に、文字史料に記述されていないものは存在しないとする大山氏の論法は、学問的な手法を間違われたようだ。文字史料が少ない分、たとえば美術や工芸、民間伝承などさまざまな分野の研究成果を総合することで歴史の実像が見えてくる。しかし、そうした手法を援用しなかった大山説は、学問的には無視された。 学問的な根拠をあげた反論が皆無だったことで、大山氏は”すでに、<聖徳太子は実在しない>という理解は学会内外で定着したと言って良い”と自画自賛しておられる。ふつつかながら、小生はHPで山説に対する反論を提示したことがある。(大山説に対する疑問を参照)。しかし、専門家は、尊敬に値する研究はそれを取り上げて批判するが、批判する価値のないものは取り上げない。学問の常道である。 |
リメイクして再び登場させた聖徳太子虚像論前著『<聖徳太子>の誕生』で、大山氏は『日本書紀』編纂の最終段階で藤原不比等、長屋王および道慈(どうじ)が共同で、実在した厩戸王(うまやとおう)を利用して聖徳太子を創作した、とされた。そして、その背景に704年に帰国した大宝の遣唐使がもたらしたカルチャーショックがあったという。
大宝律令の完成で律令国家の面目を整えた当時の為政者は、大宝2年(702)、約40年ぶりに粟田真人(あわたのまひと)を遣唐執節使とする遣唐使を派遣した。彼らには、まがりなりにも律令国家を建設できたという自負があった。だが、遣唐使たちが大陸で目の当たりにしたのは、繁栄の絶頂期にある盛唐(実際は武即天の周)の文化である。その華やかな中国文化に接して、遣唐使たちは強烈なショックを受けた。 帰国した彼らの話を聞いて、さらに激しい衝撃を受けたのは、国政の中枢にいた藤原不比等であり、長屋王であったと、大山氏は推測する。彼らは制度の手直しを痛感し、着々と手を打っていく。古い周の時代の思想を基に築かれた藤原京を捨てて、長安の都を模倣した平城京が建設され、710年に遷都した。大宝律令も手直しされ、718年にはリメークされた養老律令が完成した。
新作の『天孫降臨の夢』は大山氏の自説である聖徳太子虚像論をさらに発展させたものである。しかし、新著では、実在した蘇我王朝(?)を抹殺するために、”蘇我馬子の功績を微妙に移し替えることができる人物であり、同時に蝦夷・入鹿を暗殺した乙巳の変を正当化しえるストーリを可能にする人物”として、聖徳太子の虚像創作の目的が変更されている。その前提として、前作にはなかった”蘇我王朝論”が今回新たに追加された。 ただし、聖徳太子の実在を裏書きするとされる文献史料に対する批判は前作と変わらず、オーム返しによるリメークの記述に過ぎない。そうした批判を通して相変わらず聖徳太子は実在の人物ではないと主張され、そればかりか、仏教伝来とその後に続く崇仏論争記事も『日本書紀』編者の創作だったと強弁されている。 『日本書紀』に記す552年の仏教伝来の記事は、中国文化の受容をできるだけ早く見せるために隋唐の末法思想を借りたフィクションであり、538年伝来説は、奈良時代の末期になって仏教伝来をさらに早めるために考案した人物がいたのであろうと、大山氏は勝手な推測で両説を否定しておられる。そして、本格的な仏教伝来は588年、馬子の要請で飛鳥寺建設のために百済から渡来した僧侶や技術者たちによってであって、国家レベルの仏教伝来は従来考えているより30年以上も新しかったと主張される。珍説である。
筆者に言わせれば、藤原不比等が『日本書紀』編纂の最高責任者だったとするのは、大山氏の勝手な思いこみに過ぎず、そうした事実を証明するものはなにもない。そもそも歴史上の人物として藤原不比等が注目されるようになったのは、それほど古いことではない。おそらく、1976年に上田正昭氏が『藤原不比等』を上梓された頃からであろう。右大臣まで上り詰めた人物であるから、奈良時代初期に中央政界で重きをなした人物だったことは間違いない。しかし、奈良時代の史書『日本書紀』や『続日本紀』を紐解いてみても、ほとんどは昇叙の記事ばかりで、彼の業績はトレースできない(参考:『日本書紀』と『続日本紀』に記載された藤原朝臣不比等の関連記事参照)。 藤原不比等は、天皇家と外戚関係を結び藤原氏の摂関政治の原型を築いた人物として、最近の歴史学界は彼の政治家としての手腕を高く評価している。平城遷都を主導したのは不比等である、大宝律令を編纂したのも不比等である、『日本書紀』編纂の最高責任者も不比等である・・・と、まるで律令体制の三本の柱である都城の建設、律令の制定、史書の編纂がすべて彼の主導で実施されたと言わんばかりである。では、その証拠はと問われると、刑部親王(おさかべしんのう)が主宰する大宝律令制定メンバーの一人だったことが文献上で確認できる程度で、それ以外の業績は専門家の単なる推測の域をでない。律令政治の根幹は太政官制度である。その意志決定機関は左右大臣・大納言・中納言・参議からなる議政官である。合議によって物事は決定された。一人の実力者によって全てが決したわけではない。 そもそも藤原不比等が『日本書紀』に登場するのは、持統天皇3年(688)2月26日 に刑部(ぎょうぶ)省の判事に任命された時点だ。その時の位階は直広肆(じきこうし)、天武天皇14年(685)に施行された冠位四十八階の諸臣の部の第十六階である。時に不比等31歳。「大化改新」の功労者である中臣鎌足の次男にしては、年齢の割に低い官位である。忘れてならないのは、壬申の乱の結果、中臣金(なかとみのかね)をはじめとする鎌足の同族の有力者が近江朝の要人として処罰され、天武朝では中臣(藤原)氏は朝廷の中枢から一掃されていた事実である。有力な後ろ盾を持たない不比等は、下級官人からの立身を余儀なくされたはずである。 天武天皇8年(679)5月に吉野の誓いが行われた頃、不比等は21歳だったため、大山氏は大宝律令で制定された選叙令の規定から類推して、不比等も叙位され律令官僚としての道ををスタートしたと考えておられるようだ。そして、天武の皇后だった鸕野讚良(うののさらら、後の持統天皇)の懐刀として草壁皇子擁立に努め、天武天皇15年(686)9月に天武が崩御すると、草壁皇子のライバルである大津皇子を謀反の疑いで死に追いやったのは不比等の謀略であるとまで言われる。
ちなみに、天武天皇の時代から後宮に仕えてきた功績に対して、三千代は和銅元年(708)、元明天皇から橘宿禰(たちばなのすくね)の姓を賜わった。不比等が死亡した翌年の養老5年(721)には正三位に叙せられた。同じ年、元明天皇が危篤におちいった際に出家している。彼女が亡くなったのは、それから12年後の天平5年(733)1月11日。法隆寺の阿弥陀三尊像を安置した木造の厨子は、橘夫人念持厨子と伝えられている。 法隆寺の前身である斑鳩寺(=若草伽藍)は天智9年(670)4月30日の払暁、出火によって一屋も余すことなく焼け落ちた。伽藍を焼き尽くす火の勢いはものすごいものだったのだろう。天空高く舞い上がる熱風のせいで、「大雨が降り雷鳴が轟いた」と『日本書紀』は記している。
大山氏は、670年の火災のとき、止利仏師の作とされている法隆寺金堂の釈迦三尊像を寺僧たちが担ぎ出したため、傷が一つもない状態で現存しているのが信じられないと言われる。何しろ、釈迦三尊像は光背と合わせて422キロもある。豪火の中を簡単に運び出される代物ではない。やはり、法隆寺再建後に新たに作られたもので、止利仏師の作などというのは全くの虚構であると考えておられるようだ。 釈迦三尊像の光背に彫られた銘文は、確かに大山氏が指摘されるように後世に追記された文章のようだが、それをもって釈迦三尊像が推古31年(623)に止利仏師が完成させたものとは言えないと決めつけられると、ちょっと待ってと言いたくなる。この仏像が焼失前の斑鳩寺で本尊として祀られていた証拠はない。むしろ、太子信仰の高まりの中で、完成した法隆寺の金堂に他の寺から移された可能性が高い。法隆寺の近くには法起寺や法輪寺、中宮寺など聖徳太子ゆかりの寺が点在している。そのいずれかに祀られていた仏像だったとしても不思議ではない。
それに加えて、釈迦三尊の造形は明らかに北魏様式である。図式的な衣文の処理、アーモンド形の眼、アルカイックスマイル、太い耳たぶ、首に三道(3つのくびれ)を刻まない点など、後世の日本の仏像と異なった様式を示し、大陸風が顕著である。 中国の北魏時代に彫られた竜門石窟や鞏県石窟を訪れてみれば、類似の造形の仏像にいくらでもお目にかかることができる。この仏像が止利仏師の作ではなくて再建された法隆寺のために新たに作られた仏像などと公言したら、仏教美術史を知らない者の戯言と笑われるのがオチだ。 法隆寺のような大寺院が、何時、誰によって再建されたのかよく分かっていない。史料が残っておらず、再建時期も特定できないのだ。したがって、7世紀末または8世紀初めの再建といった曖昧な表現が使われている。
もしもその頃に法隆寺の金堂が完成して、新たに本尊が制作されたのであれば、その仏像は白鳳様式であって、北魏様式ではない。だが、現実に法隆寺金堂に鎮座しているのは北魏様式の釈迦三尊蔵である。このことは、大山氏の推論を真っ向から否定し、不比等が『日本書紀』の中で聖徳太子の虚像をでっち上げるはるか以前から、聖徳太子はすでに人々の信仰の対象になっていたことを裏付けている。この一事をもってしても、大山氏の聖徳太子虚像説は机上の空論にすぎないことがわかる。 |
大山教授が指摘する『日本書紀』の虚構の矛盾
先ず、架空の聖徳太子を作り上げた理由として、前著では、東アジア、特に唐から侮りを受けないために我が国にも儒仏道に精通した聖天子が存在したことを示すことにあった、とされた。しかし、近著では、実在した蘇我王朝の痕跡を消し去るために、蘇我馬子の功績を微妙に移し替えることができる人物として、藤原不比等の主導で聖徳太子の虚像が創作されたと目的が変更されている。 蘇我王朝は実在したか?大山氏は、藤原不比等が『日本書紀』編纂を主導するに当たって、どうしても隠蔽しなければならない王朝が実在したという。それが蘇我王朝である。天皇家が皇祖神アマテラスから万世一系であったことを示すためには、この王朝の存在を否定しなければならない。そのために考え出されたのが聖徳太子という虚像だというのだ。蘇我馬子が天皇として行なった実績を聖徳太子の業績に巧妙にすり替えることでこの王朝の実在を否定できる。
『隋書』には、開皇20年(西暦600年)倭王が使節を派遣してきたことが記録されている。そこには、倭王は阿毎多利思比孤(あめのたりしひこ)といい、皇后の他に後宮にも女性6〜700人ほど囲い、太子もいたと記されている。西暦600年の倭王は推古女帝であるが、『隋書』が記す倭王は明らかに男性である。 それだけではない。607年に小野妹子を遣隋使として派遣した際は、煬帝は倭国の国情視察のために裴世清(はいせいせい)を答礼使として送り込んできた。裴世清は来朝して倭国の歓迎を受け、倭国王とも謁見している。『隋書』には裴世清の帰国報告をもとに記述したと思われる箇所がある。だが、その何処にも倭国王が女性だったとは触れていない。 『隋書』は唐の貞観10年(636)に魏徴(ぎちょう)の総裁のもとで、顔師古(がんしこ)、孔頴達(くえいたつ)などの名臣が編纂したもので、618年の隋滅亡からわずか18年後の完成である。さらに、唐王朝は高祖李淵が隋の恭帝から禅譲を受けて建国した王朝であり、隋の大興城が戦火に曝されたわけではない。編纂に利用できる史料も、隋王朝の生き残りも大勢いた。また、倭国との通交で虚偽の記載を行なう理由もなかった。言ってみれば、両国の使節の往来は同時代史の記録である。 一方、『日本書紀』はどうか。完成は養老4年(720)、『隋書』に遅れること84年後のことである。史実の信憑性という観点からすれば、当然『隋書』に軍配があがるであろう。では、遣隋使を隋に派遣し、また来朝した隋使・裴世清が謁見した倭王は誰だったのか。大山氏はその人物こそ蘇我馬子であるとされる。その証拠として、2年後の推古18年(610)に新羅と任那の使節が来朝したとき、蘇我馬子が彼らと接見した事実をあげている。『日本書紀』の記述では、いずれの外交儀礼にも推古女帝も聖徳太子もまったく登場していない。 だが、こうした大山氏の理解は、ためにする理解の仕方である。裴世清と接見したのは確かに推古女帝ではなかった。しかし、彼女の名代として聖徳太子だったとどうして解釈しないのだろうか。『日本書紀』は、推古女帝の登極に際して聖徳太子を皇太子に指名して、政務を総裁させ、国政執行の権限をことごとく任せたと明記している。聖徳太子が倭国の代表として外交の場で隋使・裴世清と接見して少しもおかしくない。もとより裴世清の帰朝報告には、己の手柄を誇張するために、例えば倭王の後宮には女性が6〜700人いたといった虚偽記載があったであろうことは容易に想像できる。 『日本書紀』の推古紀の記述はほとんどが聖徳太子の業績関連であり、推古天皇の影は薄い。同様なことは崇峻紀や用明紀にも言えるとして、大山氏はこれら3天皇は実在しなかった、その時期に実在したのは蘇我王朝であったと、乱暴にも推論される。 大山氏はさらに蘇我王朝の実在を証明するために、蘇我氏4代の墓にも着目される。蘇我稲目の墓とされる五条野丸山古墳、馬子の墓とされる石舞台古墳、蘇我蝦夷・入鹿の墓として有力視されている五条野の宮ケ原1・2号墳はいずれも明日香周辺に一している。そして、これでは誰が見ても、飛鳥の支配者として君臨していたのは蘇我氏としか考えられないと言われる。しかし、明日香はもともと蘇我氏の領地だったところである。蘇我氏の族長たちの墓が築かれて当然だ。 大山氏の推論を簡単に否定できるものが明日香にはある。百歩譲って蘇我王朝が存在したと仮定した場合、その王宮はどこにあったのか。考古学的には、7世紀前後の宮跡として、小治田宮跡や飛鳥古京跡の実在がすでに証明されている。しかし、現在話題になっている甘樫丘東麓遺跡は、蘇我入鹿が敵対勢力から自らを護り、蘇我氏の威厳を示すために乙巳の変の前夜に築いた邸宅跡とされている。蘇我王朝が実在した場合は、その王宮は飛鳥京だったはずであり、蘇我蝦夷・入鹿父子が甘樫丘に邸宅を築く必要などなかった。大山氏はこの矛盾をどの様に釈明されるのだろうか。 天武天皇は凡庸な政治家だったか?大山氏は、もっと乱暴な推論を『天孫降臨の夢』の中で展開している。皇位継承にからんで命の危険に曝された大海人皇子がかろうじて吉野の山中に緊急避難し、兄の天智天皇の崩御で王権簒奪のため挙兵してわずか一ヶ月で近江朝廷を倒し、飛鳥で天武朝を開いた天皇を、大山氏は無能な皇子、凡庸な天皇だったと最低の評価を与えている。
飛鳥浄御原で即位した天武天皇は、一貫して皇族だけの皇親政治をおこなったことで知られる。律令国家の確立を目指して飛鳥浄御原令の制定や国史の編纂、あるいは新しい王都・藤原京の建設を命じている。それにもかかわらず、大山氏はなぜか、天武の治世は庚午年籍に続く戸籍の作成もなく、律令の編纂も計画しない、政権全体としてはその方向性がまるで見えないとして、凡庸な政治家であったとこき下ろしている。その意図がよく見えないが、皇后の鸕野讚良と藤原不比等が組んで超越的王権を確立しようとしたと主張するための伏線だろうか。 大山氏とは逆に、筆者は天武天皇は極めて優秀な政治家であったと考えている。そもそも『日本書紀』のような国史の編纂を命じたのは天武自身ではなかったか。国史の撰修と律令の制定は、律令国家にとって車の両輪のようなものである。国史によって我が国の成り立ちを律令官僚たちに示し、律令によって新しい時代を統治するルールを示す。当時の為政者が、国家的プロジェクトとしてその双方の完成に情熱を傾けたのは当然であろう。もちろん、国史編纂には天武天皇の別の意図があったことは否めない。王権簒奪という汚名を打ち消すことである。『日本書紀』30巻のうち、天武紀に2巻も当てられている。天皇一代の事績のためにこれほど多くの紙数を割かれた天皇は他にいない。この事実を大山氏はどの様に説明するつもりか。 |
納得できない天孫降臨神話の創作説神が天から地上へ降り立って始祖となる神話は、東アジア周辺の各地に見られ、なにも我が国に特別なものではない。例えば、朝鮮半島に古代に存在した伽揶地方では、始祖の首露王が亀旨(くじ)峰に天降ったという神話が伝わっている。一般に、神話とはさまざまな民族や地域が古くから伝えてきたものと考えられている。ところが、大山教授は『古事記』や『日本書紀』に記されている記紀神話はすべて、これらの史書の編纂段階で藤原不比等を中心とする編者たちによって創作されたとするインパクトのある説を提唱しておられる。
『日本書紀』では、天孫降臨神話は巻二「神代下」の冒頭部分で、タカミムスビが真床追衾(まとこおうふすま、玉座を覆うフスマ)でニニギを包んで日向の襲の高千穂の峯に天降りさせたとする本文と、8つの異説を並記して記されている。大山氏は、内容が断片的で物語として体をなしていない4つの異説を除き、残りの4説と本文を独自の方法で分析された。 そして、天孫降臨神話は司令神に着目した場合、アマテラス系とタカミムスビ系の2系統の神話があったことを突き止められ、両系の間にはさまざまな違いがあることを指摘された。たとえば、@ タカミムスビ系では最初からニニギが降臨するが、アマテラス系では先ずオシホミミが降臨を命じられ、途中でニニギに代わっている、A タカミムスビ系だけが、ニニギを真床追衾に包んで降臨させている、B アマテラス系だけがニニギに神宝と神勅を授け、降臨にアメノコヤネなど複数の神を随伴させている、C 両系では降臨先が異なる、などである。『古事記』の天孫降臨神話は、二つの系統を兼ね備えた感があり、両系の折衷である。
だが、こうした対比は大山氏のオリジナリティではない。すでに梅原猛氏も指摘されている。梅原氏は、祖母から孫に皇位継承されたのは、古事記編纂時の女帝持統天皇から文武天皇の一回きりなので、この継承を正当化しようとした後付けの理屈ではないかと見ておられる。 大山説のユニークな点は、『日本書紀』編者が天孫降臨を構想の途中で当時の皇位継承を反映して二転三転とストーリを変更せざるを得ず、その間にアマテラスが出現し、高天原が構想され、天孫降臨というモチーフが成立し、それがさらに複雑に展開することになったとしておられる点だ。 大山氏は、持統天皇が息子の草壁皇子の即位を念願し、その実現を藤原不比等に託されたとし、この草壁擁立計画を「プロジェクトX」と呼んでいる。残念ながら草壁の死でこのプロジェクトは幻に終わった。しかし、このプロジェクトによって草壁皇子を神格化するための天皇神話が構想されたという。 草壁皇子の死の後、軽王子の即位を目的とした計画が開始された。新たな「プロジェクトY」である。この時点で、アマテラス系の神話が構想され、司令神としてアマテラスが登場し、降臨神が途中でオシホミミからニニギに交替する神話の骨格ができあがったという。 慶雲4年(707)に文武天皇が25歳の若さで崩御した。皇位を継ぐべき首(おびと)皇子はまだ7歳だった。そこで不比等は中継ぎとして元明天皇の即位をはかり、首皇子即位のための「プロジェクトZ」をスタートさせる。首皇子は不比等にとって孫である。そこで、不比等自身をイメージさせるタカミムスビをアマテラスに代わる司令神として登場させ、タカミムスビ系の天孫降臨神話が誕生したという。 7世紀末から8世紀初めにかけての複雑な皇位継承にからめて、天孫降臨神話が二転三転しながら藤原不比等が主導する記紀編纂の過程で成立したとする大山説は、確かに興味深い。だが、大山説は神話の骨子をなぞっただけで、記紀神話の根本的な謎について何も触れていない。天孫降臨部分だけでなく記紀神話全体を通して、『古事記』では一つのストーリで神話が展開し、異説は一つもない。しかし、『日本書紀』では天孫降臨以外の部分も含めて異説のオンパレードである。 『古事記』の神話が統一された物語として編纂された理由は、その序文に示されている。天武天皇10年(681)、天皇は諸家が先祖から伝え持っている帝紀と本辞が、真実と違って虚偽を加えているものが多いことを憂え、その内容の削偽定実を命じた。そのためさまざまな説から真実と思われるものを選択して、公の史書として編纂しなおしている。だが、『古事記』より後に成立したにもかかわらず、なぜ『日本書紀』の神話には異説が多いのか。 これに対する大山氏の見解は、一つの神話について、幾つかの伝承があるからといって、それが伝承過程の多様さ、複雑さを意味しているのではなく、むしろ神話の構想段階の試行錯誤によるものであるという。だが、筆者は大山氏のこうした考えに納得できない。『日本書紀』はいやしくも官撰の歴史書である。まして『日本書紀』編纂の目的は万世一系の天皇家の尊厳を示すことにあるのではなかったか。その尊厳の深淵は神話にある。その神話に多くの異説があるのでは国民に対する示しがつかない。『古事記』で統一的な神話を作り上げることができたのに、なぜそれを踏襲しなかったのだろうか。 大山氏は『日本書紀』の神話に幾つもの異説が並記されているのは、構想段階の試行錯誤によるものだと、平然とうそぶかれている。天孫降臨神話ひとつ取ってみても、長い時間の経過の中で様々な構想が生まれ、それが未整理のまま記載されたことになる。そのような内容のものが正史に値するとでも言われるのだろうか。 |