平成22年3月27日

天皇を「神」に祭り上げた藤原不比等のプロジェクト

中部大学の大山誠一教授が新たに上梓した『天孫降臨の夢』

大山誠一著『天孫降臨の夢』
大山誠一著『天孫降臨の夢』
部大学の大山誠一教授は昨年の11月末、NHK出版から新著『天孫降臨の夢』を出版された。「藤原不比等のプロジェクト」というサブタイトルが付き、帯に「天皇制にひそむ不比等の企みを暴く」となっている。友人のサンチョ君が面白いから読んでみろと貸してくれた。

山教授は、10年前に『<聖徳太子>の誕生』という衝撃的な内容の著書を上梓したことで知られる日本古代政治史の専門家だ。その著書で、聖徳太子は実在の人物ではなく、『日本書紀』の中でデッチ上げられた架空の人物であるとの説を展開された。当時の為政者が、我が国にも中国の聖人君主に匹敵する天子がいたことを誇示するためだった、とその理由を説明された。

回の著書では、『日本書紀』編纂の最高責任者は藤原不比等(ふひと)であり、宗教的権威として天皇を利用するため、思い切って天皇を神に祭り上げ、天孫降臨、万世一系という神話を創造したとの説を打ち出されたようだ。どのような思索を経てこの破天荒な結論に達したのか興味を抱いたので、さっそく読んでみることにした。



今年初めて訪れた法隆寺を訪れた日は、聖徳太子の祥月命日(しょうつきめいにち)

露店が並ぶ通り
露店が並ぶ通り
徳太子摂政像を安置する聖霊院
徳太子摂政像を安置する聖霊院
る22日、朝から晴天に恵まれたのでブラリと法隆寺を訪れた。春分の日の振り替え休日とあって境内は観光客であふれていた。この日、西院伽藍前から東院伽藍へ続く広い通りには多くの露店が並んでいた。旧暦にあわせた聖徳太子の祥月命日だったためである。この日、法隆寺では聖徳太子の遺徳を称える命日法会のお会式(おえしき)が例年行われる。しかし、10年に1度行われる大会式の聖霊会とは違って、大法要は行われない。

会式では、聖霊院で秘仏の徳太子摂政像の厨子が開扉され、太子像の宝前に、大山立(おおやまたて)と呼ばれる古式の飾り物や餅、大豆、果物などが供えられる。そして、午後1時から聖霊院で法要が営まれ、雅楽の流れる中、寺僧たちが訓迦陀(くんかだ)と呼ばれる仏の徳をたたえる声明を唱え、太子の徳を讃嘆する。

大山立(おおやまたて)
大山立(おおやまたて)
霊院の前に立つと、五色に染めた幕が春風を受けてなびいていた。国宝の聖徳太子像を拝観しようと、初めて聖霊院の外陣に上った。外陣には供物を入れた小さな竹駕籠が無数に並べられ、御簾で区切られた薄暗い内陣は立派な大山立で埋め尽くされていた。しかし、開扉された厨子の中の太子像は供物に隠れて全く見えなかった。

しぶりに訪れた法隆寺では、金堂や大講堂にあらたに設置されたLED照明が導入されていた。特に金堂の諸仏はライトに照射されて堂内でくっきりと浮かび上がって見える。以前は、ボランティアガイドのペンライトに照らされて暗闇の中でぼんやりとしか伺えなかった。

法隆寺金堂の内部
LED照明が取り付けられて
明るくなった法隆寺金堂の内部
堂の中央の間に安置されているのは、止利仏師の作とされる国宝の釈迦三尊像である。その光背には銘文が刻まれている。それによって、この仏像は聖徳太子の病気回復を祈って后(きさき)や王子、諸臣らが発願した太子等身大の釈迦像であり、推古31年(623)3月に完成したことが分かる。

方、東の間にも国宝の薬師如来座像が安置されていて、その光背には用明天皇の病気平癒のために推古天皇と聖徳太子が薬師像の造立を誓願し、607年にこの仏像か完成したとの銘文が刻まれている。

の2つの銘文は、近代史学の基礎を築いた帝国大学の久米邦武教授(1839-1931)が、1905年に著した『上宮太子実録』で、聖徳太子関係史料の中で最も確実な史料として甲種に分類したものの一つである。久米教授は、これらの銘文の他に、中宮時に伝わる天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)の銘文、『日本書紀』に記された憲法17条、および伊予湯岡碑文なども、聖徳太子研究では基本文献とすべき甲種史料とされた。

法隆寺金堂の釈迦三尊像 法隆寺金堂の薬師如来像 中宮時の天寿国繍帳
法隆寺金堂の釈迦三尊像 法隆寺金堂の薬師如来像 中宮時の天寿国繍帳

山氏は1999年に『〈聖徳太子〉の誕生』を出版され、聖徳太子は『日本書紀』編纂の過程で藤原不比等(ふひと)、長屋王、道慈らによって捏造された虚像であり、その目的は日本の律令国家を主催すべき天皇が中国的聖天子像を体現した存在であることを歴史的に示すためであったと結論づけられた。

徳太子が架空の人物であるとする大山説では、久米教授が太子の存在を証明する第一級の史料としたこれらの文字史料を、当然のことながら否定しなければならない。『〈聖徳太子〉の誕生』では、歴史学界のさまざまな知見や推論を駆使して、これらの史料は後世の聖徳太子信仰に基づく産物であるとして、信頼するに足らないとされた。

徳太子は架空の人物であるとする大山教授の衝撃的な説は、一時マスコミの話題になったが、その後の学界の反応は冷ややかだった。特に、文字史料に記述されていないものは存在しないとする大山氏の論法は、学問的な手法を間違われたようだ。文字史料が少ない分、たとえば美術や工芸、民間伝承などさまざまな分野の研究成果を総合することで歴史の実像が見えてくる。しかし、そうした手法を援用しなかった大山説は、学問的には無視された。

問的な根拠をあげた反論が皆無だったことで、大山氏は”すでに、<聖徳太子は実在しない>という理解は学会内外で定着したと言って良い”と自画自賛しておられる。ふつつかながら、小生はHPで山説に対する反論を提示したことがある。(大山説に対する疑問を参照)。しかし、専門家は、尊敬に値する研究はそれを取り上げて批判するが、批判する価値のないものは取り上げない。学問の常道である。



リメイクして再び登場させた聖徳太子虚像論

著『<聖徳太子>の誕生』で、大山氏は『日本書紀』編纂の最終段階で藤原不比等、長屋王および道慈(どうじ)が共同で、実在した厩戸王(うまやとおう)を利用して聖徳太子を創作した、とされた。そして、その背景に704年に帰国した大宝の遣唐使がもたらしたカルチャーショックがあったという。

『<聖徳太子>の誕生』
『<聖徳太子>の誕生』
が国では、645年の乙巳(いっし)の変で権勢を誇った蘇我本宗家を滅亡させると、律令制度に基礎をおく中央集権国家の建設を目指した。しかし、663年白村江(はくすきのえ)の戦いで唐と戦火を交えたため、お手本とすべき唐との没交渉の時代が長く続いた。それにもかかわらず、律令国家の王都にふさわしい藤原京を694年に建設し、701年には大宝律令を完成させた。

宝律令の完成で律令国家の面目を整えた当時の為政者は、大宝2年(702)、約40年ぶりに粟田真人(あわたのまひと)を遣唐執節使とする遣唐使を派遣した。彼らには、まがりなりにも律令国家を建設できたという自負があった。だが、遣唐使たちが大陸で目の当たりにしたのは、繁栄の絶頂期にある盛唐(実際は武即天の周)の文化である。その華やかな中国文化に接して、遣唐使たちは強烈なショックを受けた。

国した彼らの話を聞いて、さらに激しい衝撃を受けたのは、国政の中枢にいた藤原不比等であり、長屋王であったと、大山氏は推測する。彼らは制度の手直しを痛感し、着々と手を打っていく。古い周の時代の思想を基に築かれた藤原京を捨てて、長安の都を模倣した平城京が建設され、710年に遷都した。大宝律令も手直しされ、718年にはリメークされた養老律令が完成した。

聖徳太子像
聖徳太子像
史の編纂についても、従来の万世一系の天皇家を中心に歴史を記述しただけの『古事記』のような史書では、東アジア諸国、特に唐から日本が後進国であると見下されることが危惧された。その嘲りを避けるには、何としても儒仏道に精通した理想的な天子が我が国にも存在したことを示さなければならない。そのために、『日本書紀』の中で聖徳太子を創作したというのが、前作での大山説の論旨である。

作の『天孫降臨の夢』は大山氏の自説である聖徳太子虚像論をさらに発展させたものである。しかし、新著では、実在した蘇我王朝(?)を抹殺するために、”蘇我馬子の功績を微妙に移し替えることができる人物であり、同時に蝦夷・入鹿を暗殺した乙巳の変を正当化しえるストーリを可能にする人物”として、聖徳太子の虚像創作の目的が変更されている。その前提として、前作にはなかった”蘇我王朝論”が今回新たに追加された。

だし、聖徳太子の実在を裏書きするとされる文献史料に対する批判は前作と変わらず、オーム返しによるリメークの記述に過ぎない。そうした批判を通して相変わらず聖徳太子は実在の人物ではないと主張され、そればかりか、仏教伝来とその後に続く崇仏論争記事も『日本書紀』編者の創作だったと強弁されている。

『日本書紀』に記す552年の仏教伝来の記事は、中国文化の受容をできるだけ早く見せるために隋唐の末法思想を借りたフィクションであり、538年伝来説は、奈良時代の末期になって仏教伝来をさらに早めるために考案した人物がいたのであろうと、大山氏は勝手な推測で両説を否定しておられる。そして、本格的な仏教伝来は588年、馬子の要請で飛鳥寺建設のために百済から渡来した僧侶や技術者たちによってであって、国家レベルの仏教伝来は従来考えているより30年以上も新しかったと主張される。珍説である。


藤原不比等
菊池容斎が描いた藤原不比等
山氏の基本的な視点は、藤原不比等は『日本書紀』編纂の最高責任者であり、『日本書紀』は彼の特別な意図に基づいて編纂されたフィクションであって史実とは何の関係ない、というものである。不比等の意図とは、天皇を宗教的権威に祭り上げることだった。そのため、高天原や天孫降臨という神話を構築し、天皇家の系図を万世一系に作り上げた。こうして天皇という存在を何人も冒すことのできない神に祭り上げたという。だが、それは事実だろうか。

者に言わせれば、藤原不比等が『日本書紀』編纂の最高責任者だったとするのは、大山氏の勝手な思いこみに過ぎず、そうした事実を証明するものはなにもない。そもそも歴史上の人物として藤原不比等が注目されるようになったのは、それほど古いことではない。おそらく、1976年に上田正昭氏が『藤原不比等』を上梓された頃からであろう。右大臣まで上り詰めた人物であるから、奈良時代初期に中央政界で重きをなした人物だったことは間違いない。しかし、奈良時代の史書『日本書紀』や『続日本紀』を紐解いてみても、ほとんどは昇叙の記事ばかりで、彼の業績はトレースできない(参考:『日本書紀』と『続日本紀』に記載された藤原朝臣不比等の関連記事参照)。

原不比等は、天皇家と外戚関係を結び藤原氏の摂関政治の原型を築いた人物として、最近の歴史学界は彼の政治家としての手腕を高く評価している。平城遷都を主導したのは不比等である、大宝律令を編纂したのも不比等である、『日本書紀』編纂の最高責任者も不比等である・・・と、まるで律令体制の三本の柱である都城の建設、律令の制定、史書の編纂がすべて彼の主導で実施されたと言わんばかりである。では、その証拠はと問われると、刑部親王(おさかべしんのう)が主宰する大宝律令制定メンバーの一人だったことが文献上で確認できる程度で、それ以外の業績は専門家の単なる推測の域をでない。律令政治の根幹は太政官制度である。その意志決定機関は左右大臣・大納言・中納言・参議からなる議政官である。合議によって物事は決定された。一人の実力者によって全てが決したわけではない。

もそも藤原不比等が『日本書紀』に登場するのは、持統天皇3年(688)2月26日 に刑部(ぎょうぶ)省の判事に任命された時点だ。その時の位階は直広肆(じきこうし)、天武天皇14年(685)に施行された冠位四十八階の諸臣の部の第十六階である。時に不比等31歳。「大化改新」の功労者である中臣鎌足の次男にしては、年齢の割に低い官位である。忘れてならないのは、壬申の乱の結果、中臣金(なかとみのかね)をはじめとする鎌足の同族の有力者が近江朝の要人として処罰され、天武朝では中臣(藤原)氏は朝廷の中枢から一掃されていた事実である。有力な後ろ盾を持たない不比等は、下級官人からの立身を余儀なくされたはずである。

武天皇8年(679)5月に吉野の誓いが行われた頃、不比等は21歳だったため、大山氏は大宝律令で制定された選叙令の規定から類推して、不比等も叙位され律令官僚としての道ををスタートしたと考えておられるようだ。そして、天武の皇后だった鸕野讚良(うののさらら、後の持統天皇)の懐刀として草壁皇子擁立に努め、天武天皇15年(686)9月に天武が崩御すると、草壁皇子のライバルである大津皇子を謀反の疑いで死に追いやったのは不比等の謀略であるとまで言われる。

法隆寺所蔵の橘婦人念持仏
法隆寺所蔵の橘婦人念持仏
かし、筆者は不比等が持統天皇の股肱の臣として活躍するようになるのは、持統天皇が登極した687年以降と想定している。彼が政治の表舞台に出てくるのは、697年に草壁皇子の遺児・軽皇子(文武天皇)の擁立に功績があったためである。もちろん、その陰には、命婦として宮中に仕え、軽皇子の乳母を務めて後宮で勢力を振るった県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ、後の橘三千代)の力添えがあった。県犬養三千代は美努王(みぬおう)と結婚し、葛城王(後の橘諸兄)・佐為王・牟漏女王を生んだが、美努王が持統天皇8年(694)大宰帥として筑紫に赴任した後、藤原不比等の後妻となって光明子(後の光明皇后)を生んでいる。逆の見方をすれば、後宮に大きな影響力を持つ県犬養三千代を妻としたことで、天皇家との太いパイプができ、不比等の将来が開けたと言って良い。不比等は生涯三千代に頭が上がらなかったにちがいない。

なみに、天武天皇の時代から後宮に仕えてきた功績に対して、三千代は和銅元年(708)、元明天皇から橘宿禰(たちばなのすくね)の姓を賜わった。不比等が死亡した翌年の養老5年(721)には正三位に叙せられた。同じ年、元明天皇が危篤におちいった際に出家している。彼女が亡くなったのは、それから12年後の天平5年(733)1月11日。法隆寺の阿弥陀三尊像を安置した木造の厨子は、橘夫人念持厨子と伝えられている。


隆寺の前身である斑鳩寺(=若草伽藍)は天智9年(670)4月30日の払暁、出火によって一屋も余すことなく焼け落ちた。伽藍を焼き尽くす火の勢いはものすごいものだったのだろう。天空高く舞い上がる熱風のせいで、「大雨が降り雷鳴が轟いた」と『日本書紀』は記している。

若草伽藍の塔心礎/
若草伽藍の塔心礎
鳩寺の檀越は上宮王家だった。その上宮王家は643年に蘇我入鹿(そがのいるか)らによって一族をことごとく滅ぼされている。通常の寺でも檀越がいなくなれば自然と消滅してゆくのが世の習いだ。だが、斑鳩寺は焼け跡の傍に、太子信仰の殿堂として不死鳥のように蘇った。それが再建法隆寺、すなわち現在の法隆寺西院伽藍であり、再建時の法灯を今に守り続けている。

山氏は、670年の火災のとき、止利仏師の作とされている法隆寺金堂の釈迦三尊像を寺僧たちが担ぎ出したため、傷が一つもない状態で現存しているのが信じられないと言われる。何しろ、釈迦三尊像は光背と合わせて422キロもある。豪火の中を簡単に運び出される代物ではない。やはり、法隆寺再建後に新たに作られたもので、止利仏師の作などというのは全くの虚構であると考えておられるようだ。

迦三尊像の光背に彫られた銘文は、確かに大山氏が指摘されるように後世に追記された文章のようだが、それをもって釈迦三尊像が推古31年(623)に止利仏師が完成させたものとは言えないと決めつけられると、ちょっと待ってと言いたくなる。この仏像が焼失前の斑鳩寺で本尊として祀られていた証拠はない。むしろ、太子信仰の高まりの中で、完成した法隆寺の金堂に他の寺から移された可能性が高い。法隆寺の近くには法起寺や法輪寺、中宮寺など聖徳太子ゆかりの寺が点在している。そのいずれかに祀られていた仏像だったとしても不思議ではない。

釈迦三尊像の主尊
法隆寺金堂の釈迦三尊像

れに加えて、釈迦三尊の造形は明らかに北魏様式である。図式的な衣文の処理、アーモンド形の眼、アルカイックスマイル、太い耳たぶ、首に三道(3つのくびれ)を刻まない点など、後世の日本の仏像と異なった様式を示し、大陸風が顕著である。 中国の北魏時代に彫られた竜門石窟や鞏県石窟を訪れてみれば、類似の造形の仏像にいくらでもお目にかかることができる。この仏像が止利仏師の作ではなくて再建された法隆寺のために新たに作られた仏像などと公言したら、仏教美術史を知らない者の戯言と笑われるのがオチだ。

隆寺のような大寺院が、何時、誰によって再建されたのかよく分かっていない。史料が残っておらず、再建時期も特定できないのだ。したがって、7世紀末または8世紀初めの再建といった曖昧な表現が使われている。

再建法隆寺の金堂
再建法隆寺の金堂
かし、『法隆寺縁起資財帳』によれば、持統天皇7年(693)10月に諸国で仁王会が行われた時、天皇から法隆寺に仏具・法具が寄進され、また、翌年5月に金光明経百部を諸国に送った時にも、その内の八部が法隆寺に送られてきたという。これらの仁王会の実施や金光明経の配布は『日本書紀』の記載とも一致しており、事実だったのだろう。そうであれば、693年の時点で法隆寺は再建されていたか、あるいは再建工事はかなり進んでいたものと推察できる。

しもその頃に法隆寺の金堂が完成して、新たに本尊が制作されたのであれば、その仏像は白鳳様式であって、北魏様式ではない。だが、現実に法隆寺金堂に鎮座しているのは北魏様式の釈迦三尊蔵である。このことは、大山氏の推論を真っ向から否定し、不比等が『日本書紀』の中で聖徳太子の虚像をでっち上げるはるか以前から、聖徳太子はすでに人々の信仰の対象になっていたことを裏付けている。この一事をもってしても、大山氏の聖徳太子虚像説は机上の空論にすぎないことがわかる。



大山教授が指摘する『日本書紀』の虚構の矛盾

日本書紀
日本書紀
初のボタンを掛け違えたら、ボタンの穴は最後まで合わない。これが、大山誠一教授の近著『天孫降臨の夢』を読んで感じた印象である。最初のボタンの掛け違いは、『日本書紀』に描かれた聖徳太子は実在の人物ではなく、編纂の最終段階で作り上げられた架空の人物であるとしたことだ。この聖徳太子虚像論を前著でぶちあげたばっかりに、大山氏はそのほころびを取り繕うのに必死になっておられる。

ず、架空の聖徳太子を作り上げた理由として、前著では、東アジア、特に唐から侮りを受けないために我が国にも儒仏道に精通した聖天子が存在したことを示すことにあった、とされた。しかし、近著では、実在した蘇我王朝の痕跡を消し去るために、蘇我馬子の功績を微妙に移し替えることができる人物として、藤原不比等の主導で聖徳太子の虚像が創作されたと目的が変更されている。

 蘇我王朝は実在したか?

山氏は、藤原不比等が『日本書紀』編纂を主導するに当たって、どうしても隠蔽しなければならない王朝が実在したという。それが蘇我王朝である。天皇家が皇祖神アマテラスから万世一系であったことを示すためには、この王朝の存在を否定しなければならない。そのために考え出されたのが聖徳太子という虚像だというのだ。蘇我馬子が天皇として行なった実績を聖徳太子の業績に巧妙にすり替えることでこの王朝の実在を否定できる。

『隋書』a
『隋書』
我王朝が実在したことを示すために、大山氏は『隋書』に示された遣隋使関連記述を援用しておられる。『隋書』の記述と『日本書紀』の推古朝の記述は矛盾する点が多く、以前から問題視されている箇所である。そのため、蘇我馬子が天皇であったとする説は過去にも提唱されている。

隋書』には、開皇20年(西暦600年)倭王が使節を派遣してきたことが記録されている。そこには、倭王は阿毎多利思比孤(あめのたりしひこ)といい、皇后の他に後宮にも女性6〜700人ほど囲い、太子もいたと記されている。西暦600年の倭王は推古女帝であるが、『隋書』が記す倭王は明らかに男性である。

れだけではない。607年に小野妹子を遣隋使として派遣した際は、煬帝は倭国の国情視察のために裴世清(はいせいせい)を答礼使として送り込んできた。裴世清は来朝して倭国の歓迎を受け、倭国王とも謁見している。『隋書』には裴世清の帰国報告をもとに記述したと思われる箇所がある。だが、その何処にも倭国王が女性だったとは触れていない。

隋書』は唐の貞観10年(636)に魏徴(ぎちょう)の総裁のもとで、顔師古(がんしこ)、孔頴達(くえいたつ)などの名臣が編纂したもので、618年の隋滅亡からわずか18年後の完成である。さらに、唐王朝は高祖李淵が隋の恭帝から禅譲を受けて建国した王朝であり、隋の大興城が戦火に曝されたわけではない。編纂に利用できる史料も、隋王朝の生き残りも大勢いた。また、倭国との通交で虚偽の記載を行なう理由もなかった。言ってみれば、両国の使節の往来は同時代史の記録である。

方、『日本書紀』はどうか。完成は養老4年(720)、『隋書』に遅れること84年後のことである。史実の信憑性という観点からすれば、当然『隋書』に軍配があがるであろう。では、遣隋使を隋に派遣し、また来朝した隋使・裴世清が謁見した倭王は誰だったのか。大山氏はその人物こそ蘇我馬子であるとされる。その証拠として、2年後の推古18年(610)に新羅と任那の使節が来朝したとき、蘇我馬子が彼らと接見した事実をあげている。『日本書紀』の記述では、いずれの外交儀礼にも推古女帝も聖徳太子もまったく登場していない。

が、こうした大山氏の理解は、ためにする理解の仕方である。裴世清と接見したのは確かに推古女帝ではなかった。しかし、彼女の名代として聖徳太子だったとどうして解釈しないのだろうか。『日本書紀』は、推古女帝の登極に際して聖徳太子を皇太子に指名して、政務を総裁させ、国政執行の権限をことごとく任せたと明記している。聖徳太子が倭国の代表として外交の場で隋使・裴世清と接見して少しもおかしくない。もとより裴世清の帰朝報告には、己の手柄を誇張するために、例えば倭王の後宮には女性が6〜700人いたといった虚偽記載があったであろうことは容易に想像できる。

日本書紀』の推古紀の記述はほとんどが聖徳太子の業績関連であり、推古天皇の影は薄い。同様なことは崇峻紀や用明紀にも言えるとして、大山氏はこれら3天皇は実在しなかった、その時期に実在したのは蘇我王朝であったと、乱暴にも推論される。

山氏はさらに蘇我王朝の実在を証明するために、蘇我氏4代の墓にも着目される。蘇我稲目の墓とされる五条野丸山古墳、馬子の墓とされる石舞台古墳、蘇我蝦夷・入鹿の墓として有力視されている五条野の宮ケ原1・2号墳はいずれも明日香周辺に一している。そして、これでは誰が見ても、飛鳥の支配者として君臨していたのは蘇我氏としか考えられないと言われる。しかし、明日香はもともと蘇我氏の領地だったところである。蘇我氏の族長たちの墓が築かれて当然だ。

山氏の推論を簡単に否定できるものが明日香にはある。百歩譲って蘇我王朝が存在したと仮定した場合、その王宮はどこにあったのか。考古学的には、7世紀前後の宮跡として、小治田宮跡や飛鳥古京跡の実在がすでに証明されている。しかし、現在話題になっている甘樫丘東麓遺跡は、蘇我入鹿が敵対勢力から自らを護り、蘇我氏の威厳を示すために乙巳の変の前夜に築いた邸宅跡とされている。蘇我王朝が実在した場合は、その王宮は飛鳥京だったはずであり、蘇我蝦夷・入鹿父子が甘樫丘に邸宅を築く必要などなかった。大山氏はこの矛盾をどの様に釈明されるのだろうか。

天武天皇は凡庸な政治家だったか?

山氏は、もっと乱暴な推論を『天孫降臨の夢』の中で展開している。皇位継承にからんで命の危険に曝された大海人皇子がかろうじて吉野の山中に緊急避難し、兄の天智天皇の崩御で王権簒奪のため挙兵してわずか一ヶ月で近江朝廷を倒し、飛鳥で天武朝を開いた天皇を、大山氏は無能な皇子、凡庸な天皇だったと最低の評価を与えている。

天武天皇像
天武天皇像(矢田山金剛寺蔵)
は、大海人皇子が壬申の乱で勝利できたのは何故か。それは大海人皇子の人望でも実力でもなく、白村江の戦いでの敗戦というトラウマのせいだったという。壬申の乱が勃発する半年前の天智10年(671)11月、唐は新羅と対決するため、郭務宗(かくむそう)を派遣して軍事援助を要請してきた。近江朝廷は諸豪族や民衆の気持ちを無視してこの要請を受けて軍事物資を与えた。そのため、朝鮮半島での戦乱に巻き込まれるのを危惧した多くの豪族たちが大友皇子の出兵を阻止するために、大海人皇子側に傾いたというのである。

鳥浄御原で即位した天武天皇は、一貫して皇族だけの皇親政治をおこなったことで知られる。律令国家の確立を目指して飛鳥浄御原令の制定や国史の編纂、あるいは新しい王都・藤原京の建設を命じている。それにもかかわらず、大山氏はなぜか、天武の治世は庚午年籍に続く戸籍の作成もなく、律令の編纂も計画しない、政権全体としてはその方向性がまるで見えないとして、凡庸な政治家であったとこき下ろしている。その意図がよく見えないが、皇后の鸕野讚良と藤原不比等が組んで超越的王権を確立しようとしたと主張するための伏線だろうか。

山氏とは逆に、筆者は天武天皇は極めて優秀な政治家であったと考えている。そもそも『日本書紀』のような国史の編纂を命じたのは天武自身ではなかったか。国史の撰修と律令の制定は、律令国家にとって車の両輪のようなものである。国史によって我が国の成り立ちを律令官僚たちに示し、律令によって新しい時代を統治するルールを示す。当時の為政者が、国家的プロジェクトとしてその双方の完成に情熱を傾けたのは当然であろう。もちろん、国史編纂には天武天皇の別の意図があったことは否めない。王権簒奪という汚名を打ち消すことである。『日本書紀』30巻のうち、天武紀に2巻も当てられている。天皇一代の事績のためにこれほど多くの紙数を割かれた天皇は他にいない。この事実を大山氏はどの様に説明するつもりか。


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納得できない天孫降臨神話の創作説

が天から地上へ降り立って始祖となる神話は、東アジア周辺の各地に見られ、なにも我が国に特別なものではない。例えば、朝鮮半島に古代に存在した伽揶地方では、始祖の首露王が亀旨(くじ)峰に天降ったという神話が伝わっている。一般に、神話とはさまざまな民族や地域が古くから伝えてきたものと考えられている。ところが、大山教授は『古事記』や『日本書紀』に記されている記紀神話はすべて、これらの史書の編纂段階で藤原不比等を中心とする編者たちによって創作されたとするインパクトのある説を提唱しておられる。

「斎庭(ゆにわ)の稲穂」(部分)(今野可啓画)
「斎庭(ゆにわ)の稲穂」(部分)(今野可啓画)
々が一般に聞かされている『古事記』の天孫降臨神話とは次のようなものである。すなわち、アマテラスとタカミムスビは、アマテラスの子・オシホミミを、平定が終わった葦原中国(あしはらなかつくに)に天降って治めさせようとした。オシホミミが天降りの準備をしている間に、彼とタカミムスビの娘との間にニニギが生まれた。それでアマテラスとタカミムスビは、孫にあたるニニギに葦原中国の統治を委任し、天降りを命じた。

日本書紀』では、天孫降臨神話は巻二「神代下」の冒頭部分で、タカミムスビが真床追衾(まとこおうふすま、玉座を覆うフスマ)でニニギを包んで日向の襲の高千穂の峯に天降りさせたとする本文と、8つの異説を並記して記されている。大山氏は、内容が断片的で物語として体をなしていない4つの異説を除き、残りの4説と本文を独自の方法で分析された。

して、天孫降臨神話は司令神に着目した場合、アマテラス系とタカミムスビ系の2系統の神話があったことを突き止められ、両系の間にはさまざまな違いがあることを指摘された。たとえば、@ タカミムスビ系では最初からニニギが降臨するが、アマテラス系では先ずオシホミミが降臨を命じられ、途中でニニギに代わっている、A タカミムスビ系だけが、ニニギを真床追衾に包んで降臨させている、B アマテラス系だけがニニギに神宝と神勅を授け、降臨にアメノコヤネなど複数の神を随伴させている、C 両系では降臨先が異なる、などである。『古事記』の天孫降臨神話は、二つの系統を兼ね備えた感があり、両系の折衷である。

ニニギが降臨したとされる高千穂峯
ニニギが降臨したとされる高千穂峯
山氏によれば、天孫降臨神話は当時の皇位継承を反映して創作されたもので、もともとは単純なストーリだったと言われる。持統天皇は、皇位を息子の草壁皇子に継承させようとしたが、草壁が早世したため孫の軽皇子の成長を待って譲位した。アマテラスを持統天皇、草壁皇子をオシホミミ、軽皇子をニニギに置き換えてみれば、その間の事情がよく分かる。

が、こうした対比は大山氏のオリジナリティではない。すでに梅原猛氏も指摘されている。梅原氏は、祖母から孫に皇位継承されたのは、古事記編纂時の女帝持統天皇から文武天皇の一回きりなので、この継承を正当化しようとした後付けの理屈ではないかと見ておられる。

山説のユニークな点は、『日本書紀』編者が天孫降臨を構想の途中で当時の皇位継承を反映して二転三転とストーリを変更せざるを得ず、その間にアマテラスが出現し、高天原が構想され、天孫降臨というモチーフが成立し、それがさらに複雑に展開することになったとしておられる点だ。

山氏は、持統天皇が息子の草壁皇子の即位を念願し、その実現を藤原不比等に託されたとし、この草壁擁立計画を「プロジェクトX」と呼んでいる。残念ながら草壁の死でこのプロジェクトは幻に終わった。しかし、このプロジェクトによって草壁皇子を神格化するための天皇神話が構想されたという。

壁皇子の死の後、軽王子の即位を目的とした計画が開始された。新たな「プロジェクトY」である。この時点で、アマテラス系の神話が構想され、司令神としてアマテラスが登場し、降臨神が途中でオシホミミからニニギに交替する神話の骨格ができあがったという。

雲4年(707)に文武天皇が25歳の若さで崩御した。皇位を継ぐべき首(おびと)皇子はまだ7歳だった。そこで不比等は中継ぎとして元明天皇の即位をはかり、首皇子即位のための「プロジェクトZ」をスタートさせる。首皇子は不比等にとって孫である。そこで、不比等自身をイメージさせるタカミムスビをアマテラスに代わる司令神として登場させ、タカミムスビ系の天孫降臨神話が誕生したという。


世紀末から8世紀初めにかけての複雑な皇位継承にからめて、天孫降臨神話が二転三転しながら藤原不比等が主導する記紀編纂の過程で成立したとする大山説は、確かに興味深い。だが、大山説は神話の骨子をなぞっただけで、記紀神話の根本的な謎について何も触れていない。天孫降臨部分だけでなく記紀神話全体を通して、『古事記』では一つのストーリで神話が展開し、異説は一つもない。しかし、『日本書紀』では天孫降臨以外の部分も含めて異説のオンパレードである。

古事記』の神話が統一された物語として編纂された理由は、その序文に示されている。天武天皇10年(681)、天皇は諸家が先祖から伝え持っている帝紀と本辞が、真実と違って虚偽を加えているものが多いことを憂え、その内容の削偽定実を命じた。そのためさまざまな説から真実と思われるものを選択して、公の史書として編纂しなおしている。だが、『古事記』より後に成立したにもかかわらず、なぜ『日本書紀』の神話には異説が多いのか。

れに対する大山氏の見解は、一つの神話について、幾つかの伝承があるからといって、それが伝承過程の多様さ、複雑さを意味しているのではなく、むしろ神話の構想段階の試行錯誤によるものであるという。だが、筆者は大山氏のこうした考えに納得できない。『日本書紀』はいやしくも官撰の歴史書である。まして『日本書紀』編纂の目的は万世一系の天皇家の尊厳を示すことにあるのではなかったか。その尊厳の深淵は神話にある。その神話に多くの異説があるのでは国民に対する示しがつかない。『古事記』で統一的な神話を作り上げることができたのに、なぜそれを踏襲しなかったのだろうか。

山氏は『日本書紀』の神話に幾つもの異説が並記されているのは、構想段階の試行錯誤によるものだと、平然とうそぶかれている。天孫降臨神話ひとつ取ってみても、長い時間の経過の中で様々な構想が生まれ、それが未整理のまま記載されたことになる。そのような内容のものが正史に値するとでも言われるのだろうか。



2010/03/27作成 by pancho_de_ohsei return