飛鳥寺の西側で7世紀の石敷きを確認、「槻の木の広場」の一部?
■ 古代には、ニレ科の落葉高木の欅(けやき)を槻(つき)と呼んでいた。欅と呼ぶようになったのは、室町時代あたりからとされている。そして、古代人は槻の大木を霊異のある木としてあがめ、槻の木がある付近を聖地と考えていた。
■ 蘇我馬子が我が国最初の仏教寺院・飛鳥寺を建立しようとしたとき、寺地として選んだのは真神原(まがみがはら)の中の槻の木の林だった。聖なる場所こそ新しい神を祀るにふさわしいと考えたのだろう。だが、そこには衣縫造の祖・樹葉(このは)の家が建っていた。馬子は強制的に樹葉の家をつぶして寺地として整地させた、と伝えられている。
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| 創建当時の飛鳥寺を西側から見たイメージイラスト |
■ 創建当時の飛鳥寺の西門から飛鳥川にかけての広場には、伐採されずに残された槻の木が何本か残っていたのであろう。飛鳥寺の前に置かれた説明板には、飛鳥寺の復元イメージが添えられている。そのイラストでは、西門前の広場に何本かの槻の木が描かれている。
■ この槻の木の広場は、何回か古代の史書に登場する。『日本書紀』は、乙巳の変の前に中大兄皇子と中臣鎌足が初めて出会った場所として、この広場を紹介している。また、槻の木の広場は飛鳥時代の天皇が群臣に忠誠を誓わせる場としても、あるいは蝦夷(えみし)や隼人(はやと)など遠来の使節を饗応した場所としても、『日本書紀』にはたびたび登場する。
■ さらに、西暦672年の壬申の乱では、槻の木の広場は、大海人(おおあま)皇子軍の初戦の勝利となった場所でもある。この広場は、倭古京を防衛する近江朝廷側の軍営地だった。大海人皇子に味方する大伴連吹負(おおとものむらじ・ふけい)は、その年の6月29日の朝、香具山の西北にあった家から数十騎を率いて出撃し、奇襲攻撃によって、槻の木の下に駐屯していた倭古京防衛軍を瞬く間に制圧してしまった。
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参考:山形県東根市の天然記念物 「東根の大ケヤキ」 |
■ もっとも、上に記した蹴鞠の会での中大兄皇子と中臣鎌足の最初の出会いは、書紀編者のフィクションであるとの説がある。似たような話が、『三国史記』の[新羅本紀・文武王即位前紀]にも載っているためだ。新羅の功臣・金庚信(ユシン)と武烈王として即位する前の金春秋とのつながりを説明する記事が、それである。金庚信は金春秋と蹴鞠をしていて、春秋の服の紐(ひも)を踏んで、引きちぎってしまった。
「これは申し訳ない。幸い私のうちが近いからおいでいただいて縫わせましょう」
そういって家に案内し酒などを出させてもてなしたあと、末の妹の文姫に針と糸をもってこさせ紐を縫わせた。春秋はその美しい文姫の態度や物腰に一目ぼれして、結婚を申しこんだ。そして、二人の間に生まれたのが金法敏、すなわち今の文武王である、という。
■ 金春秋が武烈王(在位654-661)として即位する前の647年、我が国の動静を見極めるため使者としてやってきている。彼は乙巳の変の後の中臣鎌足に会って、自分と金庚信との出会いを語ったかもしれない。その話を鎌足が子供たちに伝えたため、彼の次男だった藤原不比等(ふひと)が父の業績を顕彰するために、書紀編者に作文させたというのである。もちろん、その逆の可能性もあり得る。
■ 明日香村教育委員会は、飛鳥寺の西側の範囲確認調査の一環として、今年の2月から飛鳥寺の西南に約120平米の調査区を設定して、発掘調査を実施してきた。そして、今月17日、その成果をマスコミに公表し、本日午前10時から午後3時まで現地見学会を開催すると発表した。
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| 飛鳥寺西方遺跡遠望 |
■ 天気予報では、今週末は全国的に春の嵐が吹き荒れる最悪の予想を出していたが、今朝の明日香地方は雲一つなく晴れ渡り、南風のせいで気温もどんどん上昇してきた。このような日は明日香をサイクリングするのにうってつけである。そんな訳でサンチョ君を誘って、春霞にかすむ周囲の山々に時折視線を投げながら、ノンビリと自転車を駆って明日香村に向かった。
■ 発掘現場は、先月14日に県立橿原考古学研究所(=橿考研)が行なった飛鳥寺南の現地説明会の会場に近く、場所はその時確認してあった。いつも散策する田園の中の遊歩道の脇である。
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| 上空から撮影した調査地の写真 |
■ 明日香村教育委員会が今回実施した発掘調査は、平成20年度から実施している飛鳥寺西方地域の範囲確認の一環である。
調査地は3つの区画に分けて発掘が行われ、展示された上空からの写真を見ると1区から3区の調査区が東西方向に並んでいる。
■ 受付で受け取った資料によると、調査地一区では、幅約1.2m、深さ15cmの石組みの溝が見つかった。底には拳大の川原石を敷いてあるが、側石のいくつかは抜き取られている。石組みのすぐ西に、50〜70cmの不整形な形で柱穴が掘られているのが見つかった。柱を抜き取った跡に黄褐色の山土を埋めた可能性があるという。さらに、その柱穴の手前に土管暗渠が埋められていた。幅1.6m、深さ1mを掘り下げて、直径20cmほどの瓦製の土管が埋めてあるのを見下ろすことができた。
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| 調査1区の検出状況 |
■ 瓦製の土管とは珍しい。我が国で瓦が焼かれたのは飛鳥寺の創建時が最初である。そうであれば、飛鳥寺の創建が一段落して寺の西に広がる槻の木の広場を整地する際に埋め込まれた暗渠ではないのか。そう思って、近くにいた係員に聞いてみたが、どうも詳しいことは現段階では何とも言えないようだ。だが、係員の話だと、土管暗渠を検出したのは今回が初めてではないという。
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| 飛鳥寺の西門跡 |
■ 奈文研が1996年度に実施した西門の西側の調査で、すでに土管暗渠が見つかっているとのことだ。暗渠だけではなく、石組み溝もそのとき検出している。ということは、今回見つかった土管暗渠も石組み溝も、飛鳥寺の西門の外側を南北方向に平行して築かれていたことになる。上に示したイラストには石組み溝がすでに描き込まれている。
■ 調査地1区では、付近一帯が整地された後に整地土の上面にバラスが敷かれている。同じような状況は調査地2区でも広がっていた。ただ、2区では幅5.2mの敷石遺構が見つかっている。この敷石遺構は西門の西側で橿考研が1966年に実施した飛鳥京第11次検査でも検出されていて、今回見つかった部分はその南端ではないかと思われる。
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| 調査地2区の発掘状況 |
■ 調査地3区では、特にめぼしい遺構は検出されなかったようだ。見学資料ではなにも触れていない。
■ 資料の「まとめ」には、今回の調査の成果として、飛鳥寺西方地域で飛鳥時代の石組み溝、土管暗渠、敷石遺構、バラス敷、柱穴などを確認できたことをあげている。つまり、飛鳥寺西門付近ですでに検出されていた遺構が南側にも展開していたことが分かったというのだ。土管暗渠は南北方向に160m以上、石組み溝は110m以上、敷石遺構は約70mにわたって続いていたことが判明したことになる。
■ 今回の発掘調査でも、この付近が槻の木の広場の一部に相当することを示す物証は得られなかった。飛鳥寺西のさらなる実体解明が期待される。
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| 西門跡近くの入鹿の首塚。この下あたりに土管暗渠が敷設されている。 |
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