2010/03/20

飛鳥寺西の(つき)の樹の広場とそれを見下ろす蘇我邸と

まもなく桜の時期を迎える飛鳥寺
まもなく桜の時期を迎える飛鳥寺 (撮影2009/04/03)

二つの発掘調査地が結びつけた奇妙な幻想

■ 偶然というものは、時には不思議なイタズラをする。本日、明日香村の二カ所で発掘調査の現地見学会と説明会が行われた。明日香村教育委員会が調査中の飛鳥寺西方遺跡と、奈良文化財研究所(=奈文研)が調査中の甘樫丘東麓遺跡である。

創建当時の飛鳥寺のイメージイラスト
創建当時の飛鳥寺のイメージイラスト
■ 前者では、槻(つき)の樹の広場があったあたりで、7世紀の石敷きと土管が見つかった。後者では谷地をつくる南斜面の中腹を巡る塀の跡が見つかった。

■ 二つの発掘報道がマスコミを通じて公表されたとき、筆者の脳裏に奇妙な光景が浮かんだ。時はタイムスリップして今から1366年前の皇極天皇3年(644)の旧暦3月、今の暦で言えば4月の花の時期であろう。飛鳥寺の西門からゆっくりと飛鳥川に向かって下る槻の樹の広場で、若い皇子たちが輪になって蹴鞠に興じていた。その中に中大兄(なかのおおえ)皇子がいた。彼が勢いよく鞠を蹴ると、勢い余って、右足の皮鞋(くつ)が周囲の見物人の方へ飛んでいった。

■ その皮鞋を拾い上げると、手に持って進み出て、中大兄の前で跪き謹んで奉った男がいた。皮鞋を受け取りながら、中大兄皇子が聞いた。
「そなたの名は?」
男は顔をあげると、皇子の眼をまっすぐに見て答えた。
中臣鎌足(なかとみのかまたり)と申します。以後、お見知りおきを・・・」
一年後の乙巳の変(いっしのへん)で蘇我本宗家を滅亡に追いやる二人の中心人物の初めての出会いを、『日本書紀』はこのように伝えている。

談山神社の蹴鞠
参考:談山神社の蹴鞠会(けまりえ)
■ 筆者のイメージの中では、ちょうどその時、二人の様子を遠くから目撃している人物がいた。その年の11月、大臣の蘇我蝦夷(そがのえみし)と入鹿(いるか)父子が甘樫丘(あまかしのおか)に邸宅を並べ立て、大臣の家を上の宮門(うえのみかど)、入鹿の家を谷の宮門(はざまのみかど)と呼ばせた。たまたまその日は入鹿が工事現場の進捗状況を視察に来ていた。甘樫丘の端に立つと、、槻の木の広場が遠望できた。蹴鞠に興じる集団に彼が視線を向けたとき、ひときわ大きい歓声が周囲の見物人から上がって、中大兄皇子の皮鞋が鞠とともに空中に飛び上がるのが見えた。

■ その皮鞋を捧げ持って皇子の前に進み出る若者をみて、入鹿は首を振った。見覚えがない。そこで、彼に付き従っている東漢氏出身の護衛隊長を振り返って、あの男は何者か聞いた。護衛隊長も知らない様子だった。だが、それから1年後の6月12日、己自身があの若者たちに襲撃されて絶命する運命にあるとは、さすがの入鹿も知るよしもなかった。

■ 偶然に同じ日に開催された二つの発掘現場の説明会は、歴史上名高い乙巳の変(いっしのへん)の発端となっ舞台の現場へ筆者を導いてくれることになった。表土を剥がれて白日に晒された石敷きは、中大兄皇子が、中臣鎌足が、そして、蘇我入鹿も実際に歩いた場所なのだ。



飛鳥寺の西側で7世紀の石敷きを確認、「槻の木の広場」の一部?

■ 古代には、ニレ科の落葉高木の(けやき)を(つき)と呼んでいた。欅と呼ぶようになったのは、室町時代あたりからとされている。そして、古代人は槻の大木を霊異のある木としてあがめ、槻の木がある付近を聖地と考えていた。

■ 蘇我馬子が我が国最初の仏教寺院・飛鳥寺を建立しようとしたとき、寺地として選んだのは真神原(まがみがはら)の中の槻の木の林だった。聖なる場所こそ新しい神を祀るにふさわしいと考えたのだろう。だが、そこには衣縫造の祖・樹葉(このは)の家が建っていた。馬子は強制的に樹葉の家をつぶして寺地として整地させた、と伝えられている。

創建当時の飛鳥寺を西側から見たイメージイラスト
創建当時の飛鳥寺を西側から見たイメージイラスト
■ 創建当時の飛鳥寺の西門から飛鳥川にかけての広場には、伐採されずに残された槻の木が何本か残っていたのであろう。飛鳥寺の前に置かれた説明板には、飛鳥寺の復元イメージが添えられている。そのイラストでは、西門前の広場に何本かの槻の木が描かれている。

■ この槻の木の広場は、何回か古代の史書に登場する。『日本書紀』は、乙巳の変の前に中大兄皇子中臣鎌足が初めて出会った場所として、この広場を紹介している。また、槻の木の広場は飛鳥時代の天皇が群臣に忠誠を誓わせる場としても、あるいは蝦夷(えみし)や隼人(はやと)など遠来の使節を饗応した場所としても、『日本書紀』にはたびたび登場する。

■ さらに、西暦672年の壬申の乱では、槻の木の広場は、大海人(おおあま)皇子軍の初戦の勝利となった場所でもある。この広場は、倭古京を防衛する近江朝廷側の軍営地だった。大海人皇子に味方する大伴連吹負(おおとものむらじ・ふけい)は、その年の6月29日の朝、香具山の西北にあった家から数十騎を率いて出撃し、奇襲攻撃によって、槻の木の下に駐屯していた倭古京防衛軍を瞬く間に制圧してしまった。

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参考:山形県東根市の天然記念物
「東根の大ケヤキ」
■ もっとも、上に記した蹴鞠の会での中大兄皇子と中臣鎌足の最初の出会いは、書紀編者のフィクションであるとの説がある。似たような話が、『三国史記』の[新羅本紀・文武王即位前紀]にも載っているためだ。新羅の功臣・金庚信(ユシン)と武烈王として即位する前の金春秋とのつながりを説明する記事が、それである。金庚信は金春秋と蹴鞠をしていて、春秋の服の紐(ひも)を踏んで、引きちぎってしまった。
「これは申し訳ない。幸い私のうちが近いからおいでいただいて縫わせましょう」
そういって家に案内し酒などを出させてもてなしたあと、末の妹の文姫に針と糸をもってこさせ紐を縫わせた。春秋はその美しい文姫の態度や物腰に一目ぼれして、結婚を申しこんだ。そして、二人の間に生まれたのが金法敏、すなわち今の文武王である、という。

■ 金春秋が武烈王(在位654-661)として即位する前の647年、我が国の動静を見極めるため使者としてやってきている。彼は乙巳の変の後の中臣鎌足に会って、自分と金庚信との出会いを語ったかもしれない。その話を鎌足が子供たちに伝えたため、彼の次男だった藤原不比等(ふひと)が父の業績を顕彰するために、書紀編者に作文させたというのである。もちろん、その逆の可能性もあり得る。


■ 明日香村教育委員会は、飛鳥寺の西側の範囲確認調査の一環として、今年の2月から飛鳥寺の西南に約120平米の調査区を設定して、発掘調査を実施してきた。そして、今月17日、その成果をマスコミに公表し、本日午前10時から午後3時まで現地見学会を開催すると発表した。

飛鳥寺西方遺跡遠望
飛鳥寺西方遺跡遠望

■ 天気予報では、今週末は全国的に春の嵐が吹き荒れる最悪の予想を出していたが、今朝の明日香地方は雲一つなく晴れ渡り、南風のせいで気温もどんどん上昇してきた。このような日は明日香をサイクリングするのにうってつけである。そんな訳でサンチョ君を誘って、春霞にかすむ周囲の山々に時折視線を投げながら、ノンビリと自転車を駆って明日香村に向かった。

■ 発掘現場は、先月14日に県立橿原考古学研究所(=橿考研)が行なった飛鳥寺南の現地説明会の会場に近く、場所はその時確認してあった。いつも散策する田園の中の遊歩道の脇である。

上空から撮影した調査地の写真
上空から撮影した調査地の写真
■ 明日香村教育委員会が今回実施した発掘調査は、平成20年度から実施している飛鳥寺西方地域の範囲確認の一環である。 調査地は3つの区画に分けて発掘が行われ、展示された上空からの写真を見ると1区から3区の調査区が東西方向に並んでいる。

■ 受付で受け取った資料によると、調査地一区では、幅約1.2m、深さ15cmの石組みの溝が見つかった。底には拳大の川原石を敷いてあるが、側石のいくつかは抜き取られている。石組みのすぐ西に、50〜70cmの不整形な形で柱穴が掘られているのが見つかった。柱を抜き取った跡に黄褐色の山土を埋めた可能性があるという。さらに、その柱穴の手前に土管暗渠が埋められていた。幅1.6m、深さ1mを掘り下げて、直径20cmほどの瓦製の土管が埋めてあるのを見下ろすことができた。

調査1区の検出状況
調査1区の検出状況

■ 瓦製の土管とは珍しい。我が国で瓦が焼かれたのは飛鳥寺の創建時が最初である。そうであれば、飛鳥寺の創建が一段落して寺の西に広がる槻の木の広場を整地する際に埋め込まれた暗渠ではないのか。そう思って、近くにいた係員に聞いてみたが、どうも詳しいことは現段階では何とも言えないようだ。だが、係員の話だと、土管暗渠を検出したのは今回が初めてではないという。

>飛鳥寺の西門跡
飛鳥寺の西門跡
■ 奈文研が1996年度に実施した西門の西側の調査で、すでに土管暗渠が見つかっているとのことだ。暗渠だけではなく、石組み溝もそのとき検出している。ということは、今回見つかった土管暗渠も石組み溝も、飛鳥寺の西門の外側を南北方向に平行して築かれていたことになる。上に示したイラストには石組み溝がすでに描き込まれている。

■ 調査地1区では、付近一帯が整地された後に整地土の上面にバラスが敷かれている。同じような状況は調査地2区でも広がっていた。ただ、2区では幅5.2mの敷石遺構が見つかっている。この敷石遺構は西門の西側で橿考研が1966年に実施した飛鳥京第11次検査でも検出されていて、今回見つかった部分はその南端ではないかと思われる。

調査地2区
調査地2区の発掘状況
■ 調査地3区では、特にめぼしい遺構は検出されなかったようだ。見学資料ではなにも触れていない。

■ 資料の「まとめ」には、今回の調査の成果として、飛鳥寺西方地域で飛鳥時代の石組み溝、土管暗渠、敷石遺構、バラス敷、柱穴などを確認できたことをあげている。つまり、飛鳥寺西門付近ですでに検出されていた遺構が南側にも展開していたことが分かったというのだ。土管暗渠は南北方向に160m以上、石組み溝は110m以上、敷石遺構は約70mにわたって続いていたことが判明したことになる。

■ 今回の発掘調査でも、この付近が槻の木の広場の一部に相当することを示す物証は得られなかった。飛鳥寺西のさらなる実体解明が期待される。

入鹿の首塚。この下あたりに土管暗渠が敷設されている
西門跡近くの入鹿の首塚。この下あたりに土管暗渠が敷設されている。


甘樫丘東麓遺跡の背後の丘陵上で見つかった柱列は城柵(きかき)の跡か

甘樫丘東麓遺跡の今回の調査区
甘樫丘東麓遺跡の今回の調査区


現地説明会資料
現地説明会資料と調査区
■ 奈良文化財研究所(=奈文研)は、甘樫丘の東側の谷で見つかった甘樫丘東麓遺跡の発掘調査を2005年度から継続して実施している。今回の調査では、昨年の調査地の東側と北側に約850平米の調査区を設定して昨年12月から発掘調査を実施してきた。

■ 今回の調査では前回の調査地の東側の遺構の確認と、北側で見つかった丘陵山麓の石敷遺構(平成21年6月21日付け橿原日記参照)の確認に主眼が置かれた。しかし、なぜだか途中から北側の丘陵斜面にそってトレンチが入れられ、斜面の中腹で塀を巡らせたような掘立柱の柱列2条を検出した。

■ そのことを去る18日にマスコミに公表すると、新聞各紙は「蘇我氏邸宅の堀の跡か」(毎日)、「蘇我氏邸 堀の跡?」(読売)「入鹿邸、城柵で要塞化?」(朝日)、「丘の上部に蝦夷邸宅か?」(奈良)などと見出しを付けて報じた。奈文研が公式に認めたわけでもないのに、いずれの新聞社も甘樫丘東麓遺跡が西暦644に建てられた蘇我入鹿の邸宅跡で決まりといった姿勢をくずしていない。まったく、その単細胞的な発想には呆れかえるばかりである。

■ 考えても見よ。645年の乙巳の変の前年になって、我蝦夷・入鹿父子がわざわざ自分たちの邸宅を甘樫丘に並び立てた理由は何なのか? 蘇我氏の横暴に対する官人たちの反発の空気を察知して、彼らを威圧し蘇我の権勢を見せつけるために、砦のような邸宅を甘樫丘の高みや谷に営んだのではなかったか? そうであれば、官人たちが出入りする当時の皇極女帝の飛鳥板蓋宮から見て、城塞のような堅固な邸宅を否応なく意識せざるを得ない場所に立地していなければならない。残念ながら、現在の甘樫丘東麓遺跡からは、目の前の小山に遮られて飛鳥板蓋宮を見ることはできない。筆者は入鹿の邸宅は現在の谷ではなく、もっと北の谷に築かれたと想定している。

要領良い話っぷりの奈文研の女性調査員
要領良い話っぷりの奈文研の女性調査員
■ 甘樫丘東麓遺跡でも、本日11時から現地説明会が予定されているので、参加することにした。飛鳥寺西方遺跡からは徒歩10分もあれば到達できる。ただ、車道沿いの遊歩道はかなり傾斜があるので、ゆっくりと自転車を押していった。

■ 11時から始まった説明は、珍しく奈文研の女性調査員が担当した。彼女は今回の発掘調査を主導したが、説明会は初めてというので、幾分緊張ぎみだった。だが、歯切れが良く要領のよい話しぶりは好感が持てた。

今回の調査地の出土遺構
今回の調査地の出土遺構
■ 彼女は今回の調査区を3つに区分して説明してくれた。調査区の中程は地山や整地土の上に建物5棟、柱列3条などを示す柱穴が多数見つかった。この場所では遺構面が50cm近く削って平らにされていて、これらの建物跡の時期を特定することはできない。しかし、7世紀以降に4時期ほど変遷があったことが伺えるとのことだ。

■ 北側の丘陵の麓で前回見つかった石敷は、今回の調査で全範囲が確認できたとのことだ。石敷の最大幅は2.5m、長さは11.5mを測る。石敷の丘陵側は面を揃えて石が並び、それに隣接して素掘りの溝が築かれていた。一方、谷川は石敷に沿って石組溝が巡らしてある。石敷の西の端は浅い土坑で破壊され、東の端は3ツの石が置かれ、石組溝の石は抜き取られていた。

■ 石敷の周辺から土器が出土している。その土器の年代によって、石敷が築かれたのは7世紀中頃で7世紀後半には廃絶されたものと推測される。丘陵側の素掘りの溝は石敷を敷設する前に何度か付け変えられていて、石敷は下層の素掘りの溝を埋めた後に築かれたようだ。そのため、石敷は軟弱な地盤を固めるために築かれたと思われる。また、石敷の北側は高さ0.5〜1mほどの段状に造成されていて、この段差は石敷きより西側にも続いている。

建物や柱列の柱穴 丘陵の麓で見つかった石敷
建物や柱列の柱穴 丘陵の麓で見つかった石敷

■ 一方、北東の丘陵斜面に伸ばした調査区では、斜面の中腹で、丘陵の尾根に沿うように、掘立柱跡の列が2条発見された。そこは、丘陵の裾から10mほど上ったところで、幅3mほどの比較的傾斜が緩やかな平坦地になっており、その先は再び上り傾斜になる。

甘樫丘東麓遺跡の今回の調査区
甘樫丘東麓遺跡の今回の調査区

■ 南側の柱列2は、一辺70cmの四角形の柱穴(深さ50cm)が3個と直径25cmの円形の柱穴10個が同じ等高線上に約11m並んでいた。その柱列から3mほど離れた北側の柱列2では、一辺70cm〜1mの四角形の柱穴(深さ50cm)が3個並んでいた。

丘陵中腹で見つかった柱列の柱穴
丘陵中腹で見つかった柱列の柱穴
柱列2の復元イメージ
柱列2の復元イメージ
■ 検出された柱列はほんの一部であり、どのような施設なのかは即断できない。しかし、塀か柵のような区画施設と見なして大差はないものと思われる。柱列2は柱の間の距離が不揃いでであり、また直線に築かれているわけではないが、一連の構造物の遺構であると判断される。この構造物がどの様にして作られたかを推理するイメージが、説明板に張り出されていた。

■ 彼女の説明によると、最初の親柱と思われる太い柱を建て、その間に深さ20cmほどの溝を掘り、さらに溝の底に直径20cmほどの小さい穴を掘って細い柱を立てた後に、全体の柱の根本を埋めたようだ。こうした工法で作られたと推定される構造物を、彼女は3つ指摘した。溝を掘り細い柱を並べ立て土壁を塗った大壁建物の壁のような土塀、柱と柱の間に立て板を並べて固定した板塀、および親柱と親柱の間に板を渡し小柱に縛り付けて固定した柵、である。

■ 柱列付近では、7世紀前半の土器片が3点ほど見つかっている。柱列跡が7世紀に存在した塀か柵のような区画施設ならば、丘の上部にも建物があった可能性が高まった。そのため、今後の発掘調査の方向性が見えてきたと奈文研は考えているようだ。『日本書紀』には、蘇我蝦夷の家は「上の宮門(みかど)」、蘇我入鹿の家は「谷の宮門」と呼ばれていたとし、「家の外に城柵(きかき)を築いた」と描写されている。奈良新聞などは、早々とこの柱列を蘇我氏邸宅の堀跡か?と推測している。だが、この丘陵は谷と谷の間を東に突き出た狭い尾根で、頂上に邸宅が建つほどのスペースは存在しない。



2010/03/21作成 by pancho_de_ohsei return