2010/03/09

遺教経(ゆいぎょうきょう)』の奥書に記された朋古満(ほうこまん)とは何者?

遺教経(ゆいぎょうきょう)』とは・・・・

石山寺の東門
石山寺の東門
賀県の石山寺は紫式部ゆかりの花の寺としてよく知られているが、この寺には『遺教経』という仏典が所蔵されている。後秦の鳩摩羅什(くまらじゅう)が漢訳したもので、正式には『仏垂般涅槃略説教誡経(ぶっしはつねはんりゃくせつきょうかいきょう)』という。

教経と通称されているのは、沙羅双樹のもとでまさに入滅せんとしているとき、参集してきた弟子たちに釈迦が遺言として説いた釈迦の最後の説法をその内容としているためだ。法身(ほっしん)の常住(じょうじゅう)、世間の無常を説き、戒を保ち努力して早く解脱(げだつ)を得、智慧の光明(こうみょう)によって無明(むみょう)の闇を除くべきことを教えている。ちなみに禅宗では、この経典を重んじて仏祖三経の一つとされている。

末尾の奥書
末尾の奥書(おくがき)
字数にして二千五百字ばかりの短い経典だが、唐の太宗が広く天下に流布させようとしたことでも知られている。石山寺に伝わる経典は、末尾に軸付け紙が使われていることから、もとは巻子本、いわゆる巻物だったとされている。

の末尾に奥書(おくがき)が付されていて、「唐清信弟子陳延昌荘厳此大乗経典附日 本 使国子監大學朋古満於彼流傳 開元廿二年二月八日従京發記」と記されている。一般には、これを次のように読んでいる。
唐の清信の弟子・陳延昌(ちんえんしょう)、この大乗経典を荘厳(清書)し、日本使・国子監大學の朋古満(ほうこまん)に附して彼(かしこ)に流伝せしむ 開元二十二年 (734)二月八日、京(長安)より発つときに記す

の経典は、開元22年2月8日に朋古満に託された経巻そのものではなく、平安時代の初めの転写本である。その奥書に記された朋古満という人物について、専門家は、遣唐使として唐土に来た官人または留学生の中国名とみている。ただし、誤写の可能性もあり、別の読み方の可能性もある。筆者はこの朋古満という人物と、彼に経典が託された開元22年2月8日という日付に関心を抱いている。



第九次遣唐使節は唐都・長安まで行ったか、行かなかったか?

八次遣唐使が帰国して14年を経た天平4年(732)、新たな遣唐使の派遣が企画された。8月17日になって、前回の遣唐大使だった多治比県守(たじひのあがたもり)の弟の多治比真人広成(たじひのまひと・ひろなり)が遣唐大使に、中臣朝臣名代(なかとみのあそみ・なしろ)が遣唐副使に任命され、その他の主要メンバーも決定した。その中の一人に、遣唐判官に任命された秦忌寸朝元(はだのいみきちょうげん)がいる。

遣唐使たちを大陸に運ぶ「四つの船」
遣唐使たちを大陸に運ぶ「四つの船」
元は大宝2年(702)の第七次遣唐使と共に唐土に渡った留学僧・弁正が、還俗して現地の女性に生ませた二人兄弟の次男である。彼は第八次遣唐使の帰国に随伴して養老2年(718)、父の祖国日本に渡った。唐語や唐の文化に通じていたため官吏に取り立てられ、今回はそのキャリアを買われて判官という重職に抜擢された。

九次遣唐使の総数は、水手(かこ、船員)などを含めて594人だった。記録に残る遣唐使の中では、最大である。9月4日にはこの大使節団を運ぶ4隻の遣唐使船の建造が、近江、丹波、播磨、備中の各国に命じられた。建造された船が難波津に回送されてくるのは、それから半年後である。

が明けて天平5年(733)3月26日、多治比広成は別れの拝謁のため平城宮を訪れ、使節団の最高指揮権を象徴する節刀を聖武天皇から授けられた。そして4月3日、4隻の船に分乗した遣唐使の一行は、盛大な見送り受けて難波港を出航し、瀬戸内海の各船泊に寄港しながら筑紫に向かった。

東シナ海の波濤を越えて
東シナ海の波濤を越えて
多の那の津で準備万端を整え、良風を待って4隻の遣唐使船が大海原へ船出したのは、7月6日である。その後の一行の足取りは記録されていない。しかし、前回と同様に南路を取り、途中で暴風雨に襲われながらも、なんとか無事に蘇州周辺に着岸した。

唐使の到着は、蘇州の刺史・銭惟正(せんいせい)が派遣した使者によって8月中に都・長安に伝えられた。『冊府元亀』には、「開元二十一年八月日本国朝賀使、真人広成と{従(けんじゅう)五百九十、船行して風に遭い、漂して蘇州に至る」と記録されている。この八月という日付は、遣唐使の到着が長安に伝えられた日付であり、彼らの蘇州到着はおそらく7月の終わり頃か8月の初めであろう。

告を受けた唐朝は、通事舎人の韋景先(いけいせん)を蘇州に派遣して長旅の苦労をねぎらい、使節団を都まで案内させている。遣唐使到着のニュースは、瞬く間に長安や洛陽で研鑽に励んでいた留学生や留学僧の間にも伝られたであろう。これで、やっと17年ぶりに祖国の土を踏めると、彼らは使節の到着を一日千秋の思いで待ったはずである。

平城遷1300年祭に向けて建造中の遣唐使船
平城遷1300年祭に向けて建造中の遣唐使船
の中には留学生の阿倍仲麻呂下道真備(のちの吉備真備)、留学僧の玄ム(げんぼう)らがいた。しかし科挙に合格し唐朝の官吏として、すでに天子を諷諫してその過失を補う左補闕の要職にあった仲麻呂は、玄宗皇帝の信任が厚く帰国が許されなかったことよく知られている話である。

唐使節の到着を心待ちしていたのは、彼らだけではない。すっかり年老いた弁正の家族も、一行の中に遣唐判官秦朝元の名があるのを知って、15年ぶりに里帰りしてくる朝元の成長した姿を早く見たいと、指折り数えてその到着を待っていた。

ころで、第九次遣唐使が天平5年4月に難波を出発したのは、翌年の元旦に唐の朝廷で行われる朝賀の式への参列を睨んでのことであった。朝賀の式とは、毎年元日の朝に皇帝が正殿において皇太子以下の文武百官および各国の使節の拝賀を受ける行事をいう。したがって、遣唐使も年末までに長安到着を目指したはずである。だが、何故だか今回は東都洛陽までしか行かなかったと考えられている。

の理由を示す2つの文献が指摘されている。『資治通鑑』には、開元21年(733)の秋から冬にかけて、関中は異常な飢饉に見舞われたたため、玄宗皇帝は京師の窮状を緩和する目的で翌開元22年正月7日に東都洛陽に移ったと記す。一方、『唐会要』には、遣唐使節は4月に洛陽で玄宗皇帝に朝見し、美濃のアシギヌや水織のアシギヌなどを献上したと記す。

遣唐使の航路
遣唐使の航路
れらの文献をベースに、唐の朝廷から派遣された通事舎人の韋景先(いけいせん)は、使節団を東都洛陽まで案内したと、一般には推測されている。だが、この推測はおかしい。韋景先が歓迎使として長安から蘇州に向かう8月の時点で、玄宗皇帝の洛陽行幸が早々と決定していたのなら、使節団を洛陽まで導いたのは理解できる。しかし、8月の時点では、その年の秋から冬にかけて関中に生じた飢饉が、皇帝以下唐朝の官吏たちを洛陽に引っ越さざるをえないほど大規模になると予測されていたとは思えない。また、開皇23年4月までに洛陽に到着すれば良いのであれば、遣唐使の一行は半年以上も蘇州で足止めをくわされたことになる。そのように長期にわたる無為の滞在は通常考えられない。

者は、韋景先に先導された遣唐使節の一行が9月中には蘇州を出発し、遅くとも11月末ころまでには長安城に到着し、皇城の中にある鴻臚寺の横の鴻臚客館で旅装を解いたものと推察している。しかし、長安城に到着してみると、飢饉の影響で皇帝との謁見の日取りが決まらず、長く鴻臚客館で足止めされたものと思われる。おそらく2月の初めになって、初めて東都での朝見の日取りが通達されたのであろう。そこで、一行は慌てて長安から洛陽に引き返すことになったに違いない。そのことを伺わせる史料が最近になって発見された。他ならぬ「井真成の墓誌」である。


井真成墓誌銘の拓本
井真成墓誌銘の拓本
成16年(2004)10月11日、新聞各紙は朝刊の一面トップで、姓を「井」、字を「真成」という日本人留学生の墓誌が中国の西安市郊外で発見された、と大々的に報じた。日中両国の文献史料にもいっさい登場せず、日中交流史の専門家すら知らなかった留学生がいたことで、我々は大いに驚かされた。

の後、日中両国の研究者によって様々な角度からこの墓誌に検討が加えられて来たが、今もって井真成(せいしんせい)という人物像が確定していない。まず、彼の本名であるが、当時の出身氏族から類推して、葛井真成(ふじいのまなり)とする説と井上忌寸真成(いのうえのいみき・まなりとする説が、専門家からだされている。しかし、どちらかに断定するには至っていない。

真成が唐土に渡った時期についても、二つの説がある。日本では、養老の遣唐使(717年の第八次遣唐使)に随伴してきた長期留学生と見なしている。しかし、中国の学者は、天平の遣唐使(733年の第九次遣唐使)に随行してきた短期留学の請益生かあるいは使節の随員だったとする説を出している。

井真成墓誌の蓋
井真成墓誌の蓋
の他にも疑問がある。墓誌発見当時は井真成は第二の阿倍仲麻呂であるとの指摘があった。墓誌には、玄宗皇帝が彼の死を悼み尚衣奉御(しょういほうぎょ)という官位を贈り、葬儀の費用は唐の政府が負担したと記されていたためである。尚衣奉御とは、皇帝の衣服を管理する部門の責任者で、従五品上に相当する。そこで、井真成も阿倍仲麻呂のように科挙に合格し、唐の官吏の道を歩んだのでは、と推察された。しかし、それにしては墓誌には彼の官歴がいっさい記されていない。

誌はまた、”勉学の努力を続け、道を聞き知ること未完のうちに不慮の死をとげた”と記していて、井真成は留学生として学問を続けていた印象も与える。しかし、唐の制度では官立学校の在学期間は最長9年までで、それ以上は滞在もできなかったはずであり、17年の長期にわたって留学したとの見解は成立しがたいとの指摘がある。

のように、井真成の実像にはまだ謎の部分が多いが、墓誌は、彼が開元22年(734)正月■日、唐の都・長安において36歳で不慮の死をとげ、同年2月4日、萬年縣サン水の東原に、礼にのっとって埋葬された、と伝えている。おそらく、彼も第九次遣唐使が帰国するとき、一緒に日本に戻ること楽しみにしていたに違いない。それが、その直前に不慮の死を得て異土に骨を埋めることになった。その悔しさを代弁するかのように、墓誌は”形は既に異土に埋もれ、魂は故郷に帰らんことを庶(こいねが)う”と結んでいる。

長安城図
長安城図(出典:佐藤武敏著「長安」)
真成が死亡した日は、墓誌の一部が欠損しているため、一月の何日だったかは不明である。それにもかかわらず、2月4日に埋葬されている。当時の風習としてはあまりに短い喪の期間だったと指摘する専門家がいる。おそらく、何かの事情で埋葬時期を早める必要があったのであろう。そのための理由として、遣唐使の一行が長安に滞在していて、しかも洛陽への移動スケジュールがすでに決まっていたことを想定するのは無理だろうか。

真成の葬儀には、同じ時期に唐に渡った阿倍仲麻呂や下道真備、僧玄ムらが出席しにちがいない。長安で井真成と親交があったと思われる弁正や彼のファミリーも当然参列して弔辞を述べたであろう。この葬儀は、唐朝の政府の手によって行われた。当時長安に滞在していたと思われる遣唐使の一行も参列して、同胞の最後を見送ったであろう。だが、彼らの東都洛陽への移動日は前もって2月8日に決まっていた。本来ならもっと長い期間喪に服すところだが、差し迫った旅立ちのため、葬儀は繰り上げて行われたと解したい。

元22年2月4日の早朝、白土を塗った霊柩車が井真成の棺の載せて長安城を出ると、東に向かった。棺の前には、葬儀用の赤い旗印が掲げられていた。旗には玄武を描き、死者の官職と姓名が白字で記されている。この旗は棺を埋葬するとき、棺の上に置かれるものである。官費で挙行された葬儀だけに、霊柩車の前後には規定された人数の鼓笛隊が続いたことであろう。



朋古満は大伴古麻呂(おおとものこまろ)か、それとも羽栗吉麻呂(はぐりのよしまろ)か?

て、本題に取りかかろう。『遺教経』の奥書に記された中国名・朋古満とは誰なのか。奥書から断言できることは、開元22年すなわち西暦734年2月8日に長安を発って日本へ帰国しようとしていた人物だということだ。奥書では「日本使国子監大學の朋古満」と記述しているが、その意味が判然としない。日本使なら、当時長安に滞在していた第九次遣唐使の随員の一人と推定することが可能だが、国子監大學の留学生だったとなると、ことは面倒だ。

時の長安には、国立の上級大学として、国子舘、太学館、四門館、律学館、算学館、書学館の6つの学館があった。そのうち国子舘は上流貴族の子弟だけが入学を許された最高学府だった。太学館はそれ以下の貴族の子弟を養育するところ、四門館は一般庶民の秀才が勉学するところだった。

阿倍仲麻呂
百人一首の中の阿倍仲麻呂
土に渡って科挙の試験に合格し唐朝の官吏の道を歩んだ阿倍仲麻呂ですら、入学できたのは太学館である。日本においてよほど高位高官の子弟でもなければ、国子舘に入ることなど覚束なかったであろう。我が国は、多くの留学生を唐に送り出したが、その中に国子舘で学んだ者など一人もいない。

かし、請益生(しょうやくしょう)だったらどうだろうか。当時は、長期の留学生とちがって、専門的な分野のことを短期留学で学ぶ請益生という制度があった。この制度では、その道の専門家が遣唐使と一緒に唐に渡り、遣唐使が滞在中に必要な情報を入手し、遣唐使と一緒に帰国することになる。

17年に派遣された第八次遣唐使では、明法家の大和長岡(やまとのながおか)が請益生として入唐し、遣唐使と一緒に帰朝している。帰朝当時は、法令について不明なところがあれば長岡に質したと伝えられるほどだ。したがって、第九次遣唐使でも請益生として短期留学し、特に国子舘の教授に師事して特別な事を学んで帰った人物がいたのかもしれないが、詳細は不明だ。

が国の歴史学会では、当然のことながらこの朋古満が誰なのか推定している。そして浮かび上がってきたのが、大伴古麻呂(おおとものこまろ)という人物である。確かに、”古麻呂”を中国名にすれば”古満”である可能性は高い。そのため、佐伯有清、青木和夫、矢野健一、東野治之ら各氏の著作の中でも朋古満=大伴古麻呂とされており、この説が学会でも暗黙の了解事項になっているらしい。だが、大伴古麻呂が第九次遣唐使のメンバーであった証拠は何もない。

 大伴古麻呂の人物像を追う

伴古麻呂は、日中文化交流史の中では特記すべき人物である。彼は次の第十次遣唐使が天平勝宝4年(752)に派遣された時、遣唐副使として唐土に渡っている。その彼を一躍有名にしたのは、唐の天宝十二年(753)の元旦、朝廷で行われた朝賀の式での席次をめぐる争いである。当日の新羅の席次は東列の第一席が与えられていたのに、日本の席次は西列の吐蕃(チベット)の下の第三番になっていた。これを見た古麻呂は、新羅を朝貢国としている日本としてはこうした席次は納得できないと、朝賀の式を仕切る将軍・呉懐実(ごかいじつ)に猛烈に抗議し、新羅と日本の席を入れ替えさせた。

旦の朝賀の式であえてトラブルを起こしても日本の立場を主張した古麻呂は、いかにも古代軍事氏族の硬骨漢らしい。彼の硬骨漢ぶりは、その後帰国の際にも発揮される。我が国の仏教界の要請を受けて日本への渡航を決意した鑑真和上は、何度も渡航を試みながら、すでに5回も失敗を繰り返していた。そこで、遣唐使の一行は鑑真とその弟子たちを蘇州の黄泗浦(こうしほ)で待機している遣唐使船で日本へ連れて行くことにした。

国宝の鑑真和上座像
国宝の鑑真和上座像
真とその弟子たちは、大使の藤原清河が乗る第一船に乗船した。しかし、唐の官憲が鑑真和上の渡航を禁止しているのを知った大使は、唐の意向を無視して和尚たちを乗船させ、後になってその事実が露見して外交問題に発展するのを恐れて、一行を下船させてしまう。この大使の処置に義憤を感じた古麻呂は、独断で鑑真一行を自分の乗る第二船に匿った。皮肉なことに、大使の乗った第一船は、途中で季節風に押し流されベトナムに漂着してしまうが、古麻呂の指揮する第二船は、なんとか薩摩国に帰着することができた。六回目の試みでようやく鑑真一行が我が国に来ることができたのは、こうした古麻呂の粋な計らいによるとされている。

が、大伴古麻呂のこのような働きは、第十次遣唐使のときのものである。第九次遣唐使の一員として彼が唐土に渡った形跡は、残念ながら存在しない。それどころか、第九次遣唐使が派遣された天平5年(733)当時の政界の事情を勘案すると、古麻呂が唐土に渡った可能性は限りなくゼロに近かったと思われる。当時の古麻呂は、従六位上の治部少丞として治部省に勤める官人だったが、遣唐使が派遣される3年前の729年2月には、平城京では長屋王の変が起きている。藤原四兄弟(南家:武智麻呂、北家:房前、式家:宇合、京家:麻呂)が、無実の長屋王を誣告の罪で告訴し自殺に追いやった事件である。古代からの軍事氏族として大和朝廷に仕えてきた大伴氏としては、新興の藤原氏の兄弟たちが次々と政界に進出してくるのを快く思わず、皇族の長屋王に接近していた。その一員だった古麻呂は、藤原一族の強引な敵対勢力排除のやり方に義憤を感じていたはずである。

屋王側の主要人物だった大伴一族の長老・大伴旅人は、事件の起きる一年前に、藤原氏の巧みな工作によって九州の太宰府に左遷されていた。大伴氏系図によれば、古麻呂は大伴旅人の弟の宿奈麻呂(すくなまろ)の子供で、旅人から見れば甥にあたる。長屋王の変があった翌年、旅人は太宰府で天然痘の病におかされたとき、異母弟の大伴稲公(おおとものいなきみ)と共に甥の古麻呂も太宰府に呼んで、大伴一族の将来を託している。旅人の目には、古麻呂が将来、大伴一族を束ねる頼もしい若者に見えていたのだろう。幸い、旅人の病は回復し、その年の12月に大納言に任ぜられて平城京に戻ったが、翌年の7月、再び病を得て67歳で没した。

伴旅人が没したとき、その子の大伴家持(やかもち)はまだ14歳に達したばかりである。必然的に、大伴一族の将来は稲公や古麻呂にかかってきた。そのころ藤原四兄弟の対抗勢力として橘諸兄(たちばらのもろえ)が台頭し始めていた。古麻呂たちは、諸兄に与し一族の安泰を画策するようになった。そのような時期に、たとえ遣唐使節に推薦されたとしても、古麻呂がその任務と引き受けたとは思えない。

吉備真備像
吉備真備像
れでは、天平勝宝4年(752)の第十次遣唐使で大伴古麻呂が遣唐副使に任命されたのは何故か。一説には、当時、光明皇太后の信任が厚く、孝謙天皇とも良好な関係にあり、紫微中台の令(長官)となって、左大臣橘諸兄と権勢を競うようになった藤原仲麻呂が、橘諸兄追い落としのために打った布石の一つと考えられている。諸兄の有力なブレーンだった玄ムは、745年に筑紫観世音寺別当に左遷され、翌年没している。同じブレーンの一人だった吉備真備は751年に筑前守、肥前守に左遷されていた。その真備が、何故か753年になって遣唐副使に追加任命されている。

回の遣唐使節では、すでに大伴古麻呂が遣唐副使に任じられている。吉備真備の追加任命で副使が2名になったが、このような例は過去にはない。そのため、使節団の人事の裏には、藤原仲麻呂の陰湿な工作があったとの推測がなされている。大伴古麻呂も吉備真備も橘諸兄の側近である。その二人が乗る遣唐使船が東シナ海で暴風雨に遭遇し、海の藻屑と消えてくれれば、それにこしたことはないと、藤原仲麻呂は考えたというのだ。遣唐使節の派遣が単に中国文化の導入を目的とした文化的事業と見なすのは表層的である。その裏側には泥臭い政争があったことも忘れてはならない。

いでだから、その後の大伴古麻呂を伝えておこう。鑑真の一行を第二船に匿って帰国した翌年の天平勝宝6年(754)4月、古麻呂は太政官左弁官局の長官である左大弁(さだいべん)に任じられた。従四位上に相当する官であり、参議に次ぐ要職である。

平勝宝8年(756)2月になると、左大臣橘諸兄が聖武上皇の病気に際して酒の席で不敬の言があったと讒言され、辞職に追い込まれた。隠居した諸兄は、翌年の天平勝宝9年(757)の1月に亡くなったが、諸兄の息子の橘奈良麻呂は、藤原仲麻呂の専横に不満を持つ者たちを集めて仲麻呂を除こうと画策していた。

の計画とは、兵を発して仲麻呂殺し、皇太子の大炊王を退け、次いで皇太后の宮を包囲して駅鈴と玉璽を奪い、右大臣豊成を奉じて天下に号令し、その後天皇を廃し、塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から天皇を推戴するというものであった。この陰謀の首謀者の一人に大伴古麻呂の名があった。しかし、密告によって計画が明るみに出、天平勝宝9年7月4日に関係者が逮捕された(橘奈良麻呂の変という)。

内での取り調べは過酷を極めたという。杖で全身を何度も打つ拷問に耐えかねて古麻呂を含む多くの関係者が獄死したと伝えられている。

 もう一人の可能性は、阿倍仲麻呂の{人(けんじん)だった羽栗吉麻呂

古満が大伴古麻呂ではないとすると、他に該当する人物がいるのだろうか。実は、もう一人候補として挙げられる人物が存在するのだ。その名を羽栗吉麻呂(はぐりのよしまろ)という。阿倍仲麻呂の{人(従者)として、717年に唐土に渡った人物である。佐藤信氏などが比定している人物だが、そのためには『遺教経』の奥書に記された中国名は誤記で、実は朋古満ではなく「羽吉満」と読み替えなければならない。

玄宗皇帝
玄宗皇帝
は、羽栗吉麻呂はどのような人物だったのだろうか。阿倍仲麻呂に従って渡唐して17年間、彼は仲麻呂に仕えながら、その間に唐の女性と結婚し、二人の男子をもうけている。その子供たちに付けた名前が面白い。長男は(つばさ)、次男は(かける)である。17年の在唐生活の間、吉麻呂がどれほど強い望郷の念を抱いていたかが分かろうというものである。

九次遣唐使が蘇州の港に到着したことは、主人の阿倍仲麻呂から伝えられた。仲麻呂は、すでに左補闕として玄宗皇帝を諫言する要職にあり、信頼も厚かったが、次の遣唐使が来るのは何時になるのか分からないから、皇帝に帰国の許可を得るつもりだという。これで主人ともども長年待ち望んだ故国の土を再び踏むことができる・・・。 吉麻呂は山背(やましろ)国乙訓(おとくに)郡の生まれである。彼の心は早くも生まれ故郷へ、そして平城の都へと飛んだ。

興慶宮公園にある阿倍仲麻呂の記念碑
興慶宮公園にある阿倍仲麻呂の記念碑
が、玄宗皇帝は仲麻呂の帰国願いを受け付けなかった。逆に、今しばらく朕の傍にいて、まつりごとを助けて欲しいと懇願された。皇帝の命で主人が帰国できないと知って、せっかく膨らんだ吉麻呂の胸は沈んだ。彼の心情を察した仲麻呂は、今回の遣唐使に随伴して帰国することを許してくれた。しかし、吉麻呂にはやっかいな問題が待っていた。唐王朝は外国人が唐の女性と結婚することは認めたが、帰国の際に連れ帰ることは禁止していた。

が子に一度は父の生まれ育った国を見せてやりたい、機会があれば必ずまた長安に来させるから、翼と翔を連れて帰ることを許して欲しい・・・ 彼は時間をかけて妻女を説得した。後年、吉麻呂はその約束を守っている。天平宝子3年(759)に第十一次遣唐使が派遣されたとき、弟のは禄事に任命され生まれ故郷に渡った。彼はそのまま唐土に止まって、老いた母親の面倒をみ、ついに日本に戻ることはなかった。兄のも777年の第十四次遣唐使の准判官に任命されて唐土に渡っている。齢はすでに60歳近い老人だった。翌年帰国すると、遣唐使の功績により従五位下に叙せられた。その後も順調に出世し、798年(延暦17)5月に正五位下で数奇な人生を閉じた。行年80歳だったという。

栗吉麻呂には帰国するに当たってもう一つ悩みがあった。仲麻呂の{人として17年を唐土で過ごしたが、帰国しても何も誇るべき知識を身につけていないことに気付いた。これでは、帰国しても年齢を考えるとまともな官職につくことは覚束ない。主人の仲麻呂に相談すると、短期間だが国士舘大学で聴講生として律令制度を学んで帰れと教えられた。今まで日本からの留学生で国士舘大学で学んだ者はいない、お前が国士舘で学んだという経歴を、日本の官僚たちもおそらく無視することはないだろう、と仲麻呂は愉快そうに笑った。そして、早速その手続きをしてくれた。


後になったが、開元22年 (734)2月8日の朝に吉麻呂宅の門前で交わされた次のような会話が、筆者の妄想の中で耳元で聞こえて来るような気がする。

麻呂の家族が、最後の朝食を共に取ろうとしていたとき、一人の来訪者があった。戸口に出てみると一人の僧侶が朝霧の中に立っていた。吉麻呂の姿を見て、彼は念を押すように聞いた。
「あなたが国士舘大学で学ばれた羽吉満どのか?」
「いかにも」と答えると、僧侶は、
「私は清信和尚の許で修行中の陳延昌と申すものです。あなたが近々帰国されるとの噂を聞いて訪ねてまいりました。是非お願いしたいことがあるのです」
と、懐から一巻の経典を取り出した。そして、こう付け加えた。
「これは釈迦の臨終の際に弟子たちに遺言として説いた最後の説法を記したお経です。私はその貴重な説法を海東の島国の方々にも流布したいと思って必死で写経しました。どうか私の願いを叶えて頂きたい」

麻呂は若い僧侶の目を見た。その瞳は実に清く澄んでいた。まるで相手を信じ切ったような目で見返されると、吉麻呂も否とは言えなくなった。黙ってうなずくと、僧侶は頭陀袋から筆を取り出して、経巻の末尾にさらさらと一文を書き記した。吉麻呂が覗き込むと、彼に経巻を託した理由とその日付が記されていた。
吉麻呂がその経巻を押し頂くように受け取った。僧侶は彼に向かって合掌し、
「長旅が恙なきものでありますようお祈りしております」
と言って深々を叩頭した。そして、再び振り返ることなく朝霧の中に消えていった。


参考文献:宇治谷猛訳『続日本紀』(講談社学術文庫)、上田雄著『遣唐使全航海』(草思社)、渡辺晃宏著『平城京と木簡の世紀』(講談社 日本の歴史04)、専修大学・西北大学共同プロジェクト編『遣唐使の見た中国と日本』


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