朋古満は大伴古麻呂か、それとも羽栗吉麻呂(か?
さて、本題に取りかかろう。『遺教経』の奥書に記された中国名・朋古満とは誰なのか。奥書から断言できることは、開元22年すなわち西暦734年2月8日に長安を発って日本へ帰国しようとしていた人物だということだ。奥書では「日本使国子監大學の朋古満」と記述しているが、その意味が判然としない。日本使なら、当時長安に滞在していた第九次遣唐使の随員の一人と推定することが可能だが、国子監大學の留学生だったとなると、ことは面倒だ。
当時の長安には、国立の上級大学として、国子舘、太学館、四門館、律学館、算学館、書学館の6つの学館があった。そのうち国子舘は上流貴族の子弟だけが入学を許された最高学府だった。太学館はそれ以下の貴族の子弟を養育するところ、四門館は一般庶民の秀才が勉学するところだった。
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| 百人一首の中の阿倍仲麻呂 |
唐土に渡って科挙の試験に合格し唐朝の官吏の道を歩んだ阿倍仲麻呂ですら、入学できたのは太学館である。日本においてよほど高位高官の子弟でもなければ、国子舘に入ることなど覚束なかったであろう。我が国は、多くの留学生を唐に送り出したが、その中に国子舘で学んだ者など一人もいない。
しかし、請益生(しょうやくしょう)だったらどうだろうか。当時は、長期の留学生とちがって、専門的な分野のことを短期留学で学ぶ請益生という制度があった。この制度では、その道の専門家が遣唐使と一緒に唐に渡り、遣唐使が滞在中に必要な情報を入手し、遣唐使と一緒に帰国することになる。
717年に派遣された第八次遣唐使では、明法家の大和長岡(やまとのながおか)が請益生として入唐し、遣唐使と一緒に帰朝している。帰朝当時は、法令について不明なところがあれば長岡に質したと伝えられるほどだ。したがって、第九次遣唐使でも請益生として短期留学し、特に国子舘の教授に師事して特別な事を学んで帰った人物がいたのかもしれないが、詳細は不明だ。
我が国の歴史学会では、当然のことながらこの朋古満が誰なのか推定している。そして浮かび上がってきたのが、大伴古麻呂(おおとものこまろ)という人物である。確かに、”古麻呂”を中国名にすれば”古満”である可能性は高い。そのため、佐伯有清、青木和夫、矢野健一、東野治之ら各氏の著作の中でも朋古満=大伴古麻呂とされており、この説が学会でも暗黙の了解事項になっているらしい。だが、大伴古麻呂が第九次遣唐使のメンバーであった証拠は何もない。
大伴古麻呂の人物像を追う
大伴古麻呂は、日中文化交流史の中では特記すべき人物である。彼は次の第十次遣唐使が天平勝宝4年(752)に派遣された時、遣唐副使として唐土に渡っている。その彼を一躍有名にしたのは、唐の天宝十二年(753)の元旦、朝廷で行われた朝賀の式での席次をめぐる争いである。当日の新羅の席次は東列の第一席が与えられていたのに、日本の席次は西列の吐蕃(チベット)の下の第三番になっていた。これを見た古麻呂は、新羅を朝貢国としている日本としてはこうした席次は納得できないと、朝賀の式を仕切る将軍・呉懐実(ごかいじつ)に猛烈に抗議し、新羅と日本の席を入れ替えさせた。
元旦の朝賀の式であえてトラブルを起こしても日本の立場を主張した古麻呂は、いかにも古代軍事氏族の硬骨漢らしい。彼の硬骨漢ぶりは、その後帰国の際にも発揮される。我が国の仏教界の要請を受けて日本への渡航を決意した鑑真和上は、何度も渡航を試みながら、すでに5回も失敗を繰り返していた。そこで、遣唐使の一行は鑑真とその弟子たちを蘇州の黄泗浦(こうしほ)で待機している遣唐使船で日本へ連れて行くことにした。
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| 国宝の鑑真和上座像 |
鑑真とその弟子たちは、大使の藤原清河が乗る第一船に乗船した。しかし、唐の官憲が鑑真和上の渡航を禁止しているのを知った大使は、唐の意向を無視して和尚たちを乗船させ、後になってその事実が露見して外交問題に発展するのを恐れて、一行を下船させてしまう。この大使の処置に義憤を感じた古麻呂は、独断で鑑真一行を自分の乗る第二船に匿った。皮肉なことに、大使の乗った第一船は、途中で季節風に押し流されベトナムに漂着してしまうが、古麻呂の指揮する第二船は、なんとか薩摩国に帰着することができた。六回目の試みでようやく鑑真一行が我が国に来ることができたのは、こうした古麻呂の粋な計らいによるとされている。
だが、大伴古麻呂のこのような働きは、第十次遣唐使のときのものである。第九次遣唐使の一員として彼が唐土に渡った形跡は、残念ながら存在しない。それどころか、第九次遣唐使が派遣された天平5年(733)当時の政界の事情を勘案すると、古麻呂が唐土に渡った可能性は限りなくゼロに近かったと思われる。当時の古麻呂は、従六位上の治部少丞として治部省に勤める官人だったが、遣唐使が派遣される3年前の729年2月には、平城京では長屋王の変が起きている。藤原四兄弟(南家:武智麻呂、北家:房前、式家:宇合、京家:麻呂)が、無実の長屋王を誣告の罪で告訴し自殺に追いやった事件である。古代からの軍事氏族として大和朝廷に仕えてきた大伴氏としては、新興の藤原氏の兄弟たちが次々と政界に進出してくるのを快く思わず、皇族の長屋王に接近していた。その一員だった古麻呂は、藤原一族の強引な敵対勢力排除のやり方に義憤を感じていたはずである。
長屋王側の主要人物だった大伴一族の長老・大伴旅人は、事件の起きる一年前に、藤原氏の巧みな工作によって九州の太宰府に左遷されていた。大伴氏系図によれば、古麻呂は大伴旅人の弟の宿奈麻呂(すくなまろ)の子供で、旅人から見れば甥にあたる。長屋王の変があった翌年、旅人は太宰府で天然痘の病におかされたとき、異母弟の大伴稲公(おおとものいなきみ)と共に甥の古麻呂も太宰府に呼んで、大伴一族の将来を託している。旅人の目には、古麻呂が将来、大伴一族を束ねる頼もしい若者に見えていたのだろう。幸い、旅人の病は回復し、その年の12月に大納言に任ぜられて平城京に戻ったが、翌年の7月、再び病を得て67歳で没した。
大伴旅人が没したとき、その子の大伴家持(やかもち)はまだ14歳に達したばかりである。必然的に、大伴一族の将来は稲公や古麻呂にかかってきた。そのころ藤原四兄弟の対抗勢力として橘諸兄(たちばらのもろえ)が台頭し始めていた。古麻呂たちは、諸兄に与し一族の安泰を画策するようになった。そのような時期に、たとえ遣唐使節に推薦されたとしても、古麻呂がその任務と引き受けたとは思えない。
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| 吉備真備像 |
それでは、天平勝宝4年(752)の第十次遣唐使で大伴古麻呂が遣唐副使に任命されたのは何故か。一説には、当時、光明皇太后の信任が厚く、孝謙天皇とも良好な関係にあり、紫微中台の令(長官)となって、左大臣橘諸兄と権勢を競うようになった藤原仲麻呂が、橘諸兄追い落としのために打った布石の一つと考えられている。諸兄の有力なブレーンだった玄ムは、745年に筑紫観世音寺別当に左遷され、翌年没している。同じブレーンの一人だった吉備真備は751年に筑前守、肥前守に左遷されていた。その真備が、何故か753年になって遣唐副使に追加任命されている。
今回の遣唐使節では、すでに大伴古麻呂が遣唐副使に任じられている。吉備真備の追加任命で副使が2名になったが、このような例は過去にはない。そのため、使節団の人事の裏には、藤原仲麻呂の陰湿な工作があったとの推測がなされている。大伴古麻呂も吉備真備も橘諸兄の側近である。その二人が乗る遣唐使船が東シナ海で暴風雨に遭遇し、海の藻屑と消えてくれれば、それにこしたことはないと、藤原仲麻呂は考えたというのだ。遣唐使節の派遣が単に中国文化の導入を目的とした文化的事業と見なすのは表層的である。その裏側には泥臭い政争があったことも忘れてはならない。
ついでだから、その後の大伴古麻呂を伝えておこう。鑑真の一行を第二船に匿って帰国した翌年の天平勝宝6年(754)4月、古麻呂は太政官左弁官局の長官である左大弁(さだいべん)に任じられた。従四位上に相当する官であり、参議に次ぐ要職である。
天平勝宝8年(756)2月になると、左大臣橘諸兄が聖武上皇の病気に際して酒の席で不敬の言があったと讒言され、辞職に追い込まれた。隠居した諸兄は、翌年の天平勝宝9年(757)の1月に亡くなったが、諸兄の息子の橘奈良麻呂は、藤原仲麻呂の専横に不満を持つ者たちを集めて仲麻呂を除こうと画策していた。
その計画とは、兵を発して仲麻呂殺し、皇太子の大炊王を退け、次いで皇太后の宮を包囲して駅鈴と玉璽を奪い、右大臣豊成を奉じて天下に号令し、その後天皇を廃し、塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から天皇を推戴するというものであった。この陰謀の首謀者の一人に大伴古麻呂の名があった。しかし、密告によって計画が明るみに出、天平勝宝9年7月4日に関係者が逮捕された(橘奈良麻呂の変という)。
獄内での取り調べは過酷を極めたという。杖で全身を何度も打つ拷問に耐えかねて古麻呂を含む多くの関係者が獄死したと伝えられている。
もう一人の可能性は、阿倍仲麻呂の{人(けんじん)だった羽栗吉麻呂
朋古満が大伴古麻呂ではないとすると、他に該当する人物がいるのだろうか。実は、もう一人候補として挙げられる人物が存在するのだ。その名を羽栗吉麻呂(はぐりのよしまろ)という。阿倍仲麻呂の{人(従者)として、717年に唐土に渡った人物である。佐藤信氏などが比定している人物だが、そのためには『遺教経』の奥書に記された中国名は誤記で、実は朋古満ではなく「羽吉満」と読み替えなければならない。
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| 玄宗皇帝 |
では、羽栗吉麻呂はどのような人物だったのだろうか。阿倍仲麻呂に従って渡唐して17年間、彼は仲麻呂に仕えながら、その間に唐の女性と結婚し、二人の男子をもうけている。その子供たちに付けた名前が面白い。長男は翼(つばさ)、次男は翔(かける)である。17年の在唐生活の間、吉麻呂がどれほど強い望郷の念を抱いていたかが分かろうというものである。
第九次遣唐使が蘇州の港に到着したことは、主人の阿倍仲麻呂から伝えられた。仲麻呂は、すでに左補闕として玄宗皇帝を諫言する要職にあり、信頼も厚かったが、次の遣唐使が来るのは何時になるのか分からないから、皇帝に帰国の許可を得るつもりだという。これで主人ともども長年待ち望んだ故国の土を再び踏むことができる・・・。 吉麻呂は山背(やましろ)国乙訓(おとくに)郡の生まれである。彼の心は早くも生まれ故郷へ、そして平城の都へと飛んだ。
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| 興慶宮公園にある阿倍仲麻呂の記念碑 |
だが、玄宗皇帝は仲麻呂の帰国願いを受け付けなかった。逆に、今しばらく朕の傍にいて、まつりごとを助けて欲しいと懇願された。皇帝の命で主人が帰国できないと知って、せっかく膨らんだ吉麻呂の胸は沈んだ。彼の心情を察した仲麻呂は、今回の遣唐使に随伴して帰国することを許してくれた。しかし、吉麻呂にはやっかいな問題が待っていた。唐王朝は外国人が唐の女性と結婚することは認めたが、帰国の際に連れ帰ることは禁止していた。
我が子に一度は父の生まれ育った国を見せてやりたい、機会があれば必ずまた長安に来させるから、翼と翔を連れて帰ることを許して欲しい・・・ 彼は時間をかけて妻女を説得した。後年、吉麻呂はその約束を守っている。天平宝子3年(759)に第十一次遣唐使が派遣されたとき、弟の翔は禄事に任命され生まれ故郷に渡った。彼はそのまま唐土に止まって、老いた母親の面倒をみ、ついに日本に戻ることはなかった。兄の翼も777年の第十四次遣唐使の准判官に任命されて唐土に渡っている。齢はすでに60歳近い老人だった。翌年帰国すると、遣唐使の功績により従五位下に叙せられた。その後も順調に出世し、798年(延暦17)5月に正五位下で数奇な人生を閉じた。行年80歳だったという。
羽栗吉麻呂には帰国するに当たってもう一つ悩みがあった。仲麻呂の{人として17年を唐土で過ごしたが、帰国しても何も誇るべき知識を身につけていないことに気付いた。これでは、帰国しても年齢を考えるとまともな官職につくことは覚束ない。主人の仲麻呂に相談すると、短期間だが国士舘大学で聴講生として律令制度を学んで帰れと教えられた。今まで日本からの留学生で国士舘大学で学んだ者はいない、お前が国士舘で学んだという経歴を、日本の官僚たちもおそらく無視することはないだろう、と仲麻呂は愉快そうに笑った。そして、早速その手続きをしてくれた。
最後になったが、開元22年 (734)2月8日の朝に吉麻呂宅の門前で交わされた次のような会話が、筆者の妄想の中で耳元で聞こえて来るような気がする。
吉麻呂の家族が、最後の朝食を共に取ろうとしていたとき、一人の来訪者があった。戸口に出てみると一人の僧侶が朝霧の中に立っていた。吉麻呂の姿を見て、彼は念を押すように聞いた。
「あなたが国士舘大学で学ばれた羽吉満どのか?」
「いかにも」と答えると、僧侶は、
「私は清信和尚の許で修行中の陳延昌と申すものです。あなたが近々帰国されるとの噂を聞いて訪ねてまいりました。是非お願いしたいことがあるのです」
と、懐から一巻の経典を取り出した。そして、こう付け加えた。
「これは釈迦の臨終の際に弟子たちに遺言として説いた最後の説法を記したお経です。私はその貴重な説法を海東の島国の方々にも流布したいと思って必死で写経しました。どうか私の願いを叶えて頂きたい」
吉麻呂は若い僧侶の目を見た。その瞳は実に清く澄んでいた。まるで相手を信じ切ったような目で見返されると、吉麻呂も否とは言えなくなった。黙ってうなずくと、僧侶は頭陀袋から筆を取り出して、経巻の末尾にさらさらと一文を書き記した。吉麻呂が覗き込むと、彼に経巻を託した理由とその日付が記されていた。
吉麻呂がその経巻を押し頂くように受け取った。僧侶は彼に向かって合掌し、
「長旅が恙なきものでありますようお祈りしております」
と言って深々を叩頭した。そして、再び振り返ることなく朝霧の中に消えていった。
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