2010/03/03

椀の中に満天の星空の神秘をたたえた稲葉天目

静嘉堂文庫美術館
静嘉堂文庫美術館

国分寺崖線の雑木林の中にある静嘉堂文庫美術館(せいかどうぶんこびじゅつかん)

慢にも何にもならないが、筆者はこの年になるまで茶の湯とはトンと縁がない。家内は女性の嗜みとして結婚前に華道と茶道を習ったようで、嫁入り道具の一つとして茶釜や茶器を一揃え持ってきたが、一度も正式に茶を点(た)ててくれたことがない。まして茶道の作法など教えて貰ったこともない。

人の一人に、近所の娘さんに自宅で茶を教えている友人がいる。先日彼から連絡があって、静嘉堂文庫美術館で茶道具名品展が開催中で、国宝の曜変天目が久しぶりに公開されているから、後学のために是非見ておけという。
「ヨウヘン? テンモク? 何だ、それは?」
耳慣れない言葉に思わず聞き返してしまい、彼から一通りの説明を受けたが、何よりも現物を己の目で見てみるのが一番だと諭(さと)された。

静嘉堂文庫美術館の所在地
静嘉堂文庫美術館の所在地
嘉堂文庫美術館というのも、あまり聞き慣れない美術館である。さっそくインターネットで検索して、所在地とアクセス方法をホームページで確かめると、本日探訪に出かけることにした。所在地は東京都世田谷区岡本2−23−1。東京都と神奈川県の県境を流れる多摩川に近い。最寄りの駅は東急田園都市線の「二子玉川」駅である。駅前のバスターミナル@番乗り場から東急コーチバスの31番または32番系統に乗り、6番目のバス停「静嘉堂文庫」で下車すれば、徒歩5分ほどで美術館に到着するという。


静嘉堂文庫美術館の正門
静嘉堂文庫美術館の正門
後1時過ぎに乗ったバスは、商店街の中の狭い道を何回か右折や左折を繰り返しながら10分ほどで、「静嘉堂文庫」バス停に到着した。付近は樹木が多い、閑静な住宅街である。バスの後尾を追うように少し坂道を上っていくと、突然、左手に石の門柱が現れ、そこが美術館の正門になっている。

門を入ると、神社の参道のように両脇に巨木が立ち並ぶ道が一直線に100mほど続いて、小さな崖にぶつかる。参道と異なるのは、道の縁に並ぶ大樹が常緑樹ではなく、まだ新芽を吹いていない落葉樹であることぐらいだ。住宅街の中に忽然と現れた雑木林がいかにも武蔵野の面影を残す世田谷らしい。

区立岡本静嘉堂緑地
区立岡本静嘉堂緑地
の付近は、立川市の北東から延々と東西に続いている国分寺崖線と呼ばれる高さ10mから20mの段丘に位置している。崖線の北側は雑木林で、南側は崖の真下からわき出る野川が潤す水田だった。今でこそ宅地開発の影響で、崖線に沿って見られた武蔵野の自然が浸食されてしまったが、それでも緑と水に恵まれたわずかな空間が区立岡本静嘉堂緑地として残っているのは嬉しい。

本静嘉堂緑地は、もともと岩崎家が所有する庭園で、昭和20年頃までは岩崎家で維持管理されていたそうだ、静嘉堂文庫美術館は、その緑地の中の崖の上に位置している。谷戸川にかかる橋を渡ると、道は直角に右に曲がり、崖の北側に沿って長々と続いている。それなりに傾斜のある坂道で、年配者にはいささかきつい上り坂である。

美術館へ続く坂道
美術館へ続く坂道
円池の周りに建てられた大正期の建物・静嘉堂文庫
円池の周りに建てられた大正期の建物・静嘉堂文庫
陵の頂きにたどり着くと、広場の中心に円池が築かれている。まず目に入るのが、円池の向こう側にそびえる二階建ての瀟洒な静嘉堂文庫だ。イギリスの郊外住宅のようにスクラッチ・タイル貼りの建物が、周囲の木々に囲まれて落ち着いた雰囲気を醸し出している。三菱の四代目社長だった岩崎小弥太(いわさきこやた、1879〜1945)が、父・弥之助の収集した日本と中国の貴重な古典籍を永久に保存し、研究者に公開することを目的に建てた建物である。およそ20万冊の古典籍を収蔵しているという。

嘉堂文庫は一般の見学者には公開されていない。しかし、研究者や大学生以上でしかるべき紹介状を有れば、原本を資料として閲覧することができる。閲覧は予約制であり、入室に際しては正装が必要だそうだ。こうした点は建物同様に、なんとなく旧財閥の格式というものを感じさせて面白い。建物の設計者は桜井小太郎(1870 〜 1953)。イギリスで建築を学び、英国風の落ち着いた品格のあるデザインを得意としたという。岩崎小弥太も、明治33年にイギリスに留学し、ケンブリッジ大学を卒業した英国通である。

平成4年4月に開館した美術館
平成4年4月に開館した美術館
線を静嘉堂文庫から左に巡らせると、逆光の中で静嘉堂文庫美術館の建物が静かなたたずまいを見せている。そもそも「静嘉堂」という名称は、三菱の二代目社長・岩崎弥之助(1851〜1908)が、中国の古典『詩経』に出てくる大雅、既酔編の「邉豆静嘉」の句から採った彼の堂号で、祖先の霊前に供える供物が立派に整うとの意味だそうだ。

治時代は西欧文化が偏重され、東洋文化がとかく軽視されがちな世相の時代だった。そんな風潮の中にあって、東洋固有の文化財を愛惜しその散逸を恐れた岩崎弥之助は、明治25年(1892)頃から本格的な収集を開始したという。弥之助の収集は、絵画、彫刻、書跡、漆芸、茶道具、刀剣など広い分野にわたっていた。長男の小弥太も父の遺志を引き継ぎ、収蔵品の拡充につとめたが、彼は特に中国陶磁を系統的に集めたとされている。

うして父子二代にわたって、国宝7点、重要文化財83点を含むおよそ20万冊の古典籍と6,500点の東洋古美術品が収集された。当初は、静嘉堂は駿河台にあった岩崎邸内に設けられ、次に高輪の邸内に移された。そして弥之助が他界した後の大正13年(1924)、弥之助の17回忌を記念して小弥太がこの場所に移し替えた。

和52年(1977)に静嘉堂文庫の横に付属の静嘉堂文庫展示館が設置され、所蔵する美術品の一般公開が行われるようになった。そして、静嘉堂創設百周年を記念して、平成4年(1992)4月に新館が建設され、静嘉堂文庫美術館として開館した。 この美術館では常設展示は行なっておらず、年に4〜5回展覧会を開催している。

岩崎弥太郎を祀った廟廟
岩崎家の玉川廟
術館の脇から広大な旧岩崎家庭園の森が広がっている。森の中には遊歩道があり、自由に散策できる。三菱財閥岩崎家の二代目・弥之助が死去したとき、四代目の小弥太が岩崎家の納骨堂として建てた岩崎家玉川廟が、散策路の途中にある。設計はニコライ堂などを作ったことで知られる建築家ジョサイア・コンドル((Josiah Conder)である。明治43年(1910)に建てられたドーム型の屋根を持つ洋風の建物は、創建当時を思わせる大理石貼りの造りが今も美しい。正面にライオンに似た狛犬が置かれている。



静嘉堂文庫美術館で公開中の国宝・曜変天目(ようへんてんもく)付藻茄子(つくもなす)

茶道具名品展のポスター
茶道具名品展のポスター
嘉堂文庫の付属施設である美術館では、2月6日から3月22日までの会期で、茶道具名品展と銘打って美術館が所蔵する茶道具を一般公開している。落ち着いたたたずまいの建物に入ると、右側に受付があり、ゆったりとした広い空間が前面に広がる。建物は丘陵の斜面に建てられていて、窓辺に寄ると美術館の庭園を見下ろすことができる。すでに盛りを過ぎた梅が何本かまだ花を付けていた。

回の展覧会では、茶碗や茶入、棗(なつめ)、香合(こうごう)、茶杓(ちゃしゃく)、花入れ、水差し、茶壺、掛け物といった茶道具の名品が90点ばかり展示されている。その中での目玉は、国宝の曜変天目(稲葉天目)と、付藻茄子(つくもなす)・松本茄子と並び称される茶入のようだ。

場で最初に並んで展示されていたのは、に大名物(おおめいぶつ)の付藻茄子と松本茄子である。いずれも南宋から元の時代(13〜14世紀)に作られた唐物茄子茶入で、中国からの伝来品だ。茶の世界では優れた名品を名物(めいぶつ)というが、その中で室町時代に足利将軍家が所持していた道具(東山御物という)や利休時代に最高位に評価された茶入などは、特に大名物と呼ばれている。

藤重藤元によって修復された付藻茄子
藤重藤元によって修復された付藻茄子(*)
藻茄子は、高さ7.1cm、胴回りの直径7.4cmと抹茶の茶入としてはやや大きい。室町幕府第3代将軍・足利義満の秘蔵だった唐物茶入で、戦場に行くときも携えて行ったとされる由緒正しい伝世品である。代々足利将軍家で愛用されてきたが、15世紀末になって義政の茶道の師である村田珠光の手に渡った。このとき珠光が九十九貫で買ったことから、「つくも」という名が付いたとされている。

の後、持ち主は転々を変わり、値もつり上がったが、戦国時代には大和の松永久秀が一千貫で買って所持していた。彼はこの茶器を織田信長に献上したことで一国を安堵されたという逸話が残っている。その後、茶入は豊臣秀吉から有馬兵部卿法印則頼、そして豊臣秀頼へと伝えられた。

田信長はこの茶入を本能寺に持参してきていた。そのため本能寺の変のとき火災で損傷したが、各種の茶会では拝見するたびに賞賛されたという。しかし、元和元年(1615)の大坂夏の陣で、この名器が大阪城落城の折に破損してしまった。

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左;松本茄子、右:付藻茄子
方、松本茄子は高さ6.4cm、胴回りの直径6.9cmと付藻茄子に比べて幾分小ぶりである。山名家の家臣だった松本珠報(しゅほう)が所持していたため、この名が付いた。しかし、その後、天王寺屋宗伯を経て武野招鴎(しょうおう)の手に渡ったため、招鴎茄子とも呼ばれている。この茶器は、招鴎の娘婿だった今井宗久が管理していたが、宗久はこれを織田信長に献上した。

の後、なぜかこの茶入が宗久に返され、豊臣秀吉、秀頼へと伝えられた。しかし、付藻茄子と同様に、大坂夏の陣で罹災してしまった。徳川家康は名器を亡くしたことを残念がり、大阪城の焼け跡で茶器を探索させたたところ、付藻茄子や松本茄子の破片が回収された。

こで、家康は塗師の藤重藤元(とうげん)に付藻茄子を、子の藤厳(とうごん)に松本茄子を漆で繕って修復させた。その超絶した修復ぶりを賞賛した家康は、褒美として付藻茄子を藤元に、松本茄子を藤厳にそれぞれ下賜したという。実物のそばに近年撮影された両茶入のX線写真の映像が示されていた。それには破片を継いだ茶器の姿がはっきりと映し出されていた。

入はその形から肩衝(かたつき)・文琳(ぶんりん)・茄子(なす)・丸壷(まるつぼ)・大海(たいかい)などに分けられる。会場には、大名物とされる利休物相(もっそう)や樋口肩衝、中興名物とされる高取大海など様々な茶入が展示されている。それらの中でも茄子は、その落ち着きのある形から唐物茶入の中の最高品として珍重されてきたようだ。

が、茶道に疎い筆者には、付藻茄子や松本茄子が他の茶入に比べてなぜ優品なのか良く分からない。美術の鑑識眼がないと言われればそれまでだが、本物の芸術的価値よりも、歴史上の著名な茶人や大名・豪商たちの限りない所有欲をかき立てて転々と受け継がれたことで有名になっただけの品のような気がした。


曜変天目(稲葉天目)
国宝 大名物 曜変天目茶碗(稲葉天目)(*)
の美しさに目を奪われたのは、展示会場の中央に置かれたガラスケースの中の曜変天目(ようへんてんもく)と名づけられた茶碗である。友人から聞いた話では、黒い釉薬(うわぐすり)のかかった焼き物を、我が国では「天目」と呼んでいるそうだ。「天目」の語源についてはいくつか説があるが、一般には、中国浙江省にある天目山の名に由来するとされている。

江省は古くから茶の名産地として知られ、抹茶法による喫茶の風習が流行した南宋の時代(12〜13世紀)、天目山の禅宗の寺々では、福建省の建窯で焼かれた黒い釉薬のかかった茶碗(すなわち建盞(けんさん))が、従来の青磁茶碗に代わって盛んに用いられるようにった。鎌倉時代に禅宗の教学を学びに天目山に赴いた我が国の禅僧たちが、こうした茶碗を持ち帰り天目茶碗と呼んだのが始まりのようだ。

真上から見た曜変天目茶碗の内側
真上から見た曜変天目茶碗の内側(*)
茶を攪拌すると茶の色が白くなるので、黒い茶碗にはよく映える。そんなことから黒い釉薬の天目茶碗がもてはやされるようになった。それに加えて厚みもあるので、熱が長持ちするという。国宝の曜変天目茶碗は高さ7.2cm、口径12.2cm。喫茶用の茶碗としては普通の大きさのようだが、黒い釉薬が塗られた外側と異なり、内側は周囲に瑠璃色の光彩を放つ大小の班文が無数に浮き出ている。その輝きは、まるで茶碗の中に満天の星空を見るような神秘的な美しさである。

うした班文は、ガラス越に四面から見てみると、角度によって微妙に色が変化するのが分かる。装飾のこうした色の変化に似たものを以前に何処かで見たような気がした。間もなく、それが子供の頃田舎にあった茶器入れの丸い蓋に描かれていた螺鈿(らでん)細工だったことを思い出した。

京都大徳寺龍光院所蔵の曜変天目
京都大徳寺龍光院所蔵の曜変天目
大阪藤田美術館所蔵の曜変天目
大阪藤田美術館所蔵の曜変天目
目茶碗の内部の漆黒の釉面に結晶のように浮き出た大小の斑文は、釉上に生じた極微の薄い膜のようなもので、決して人為的に描かれたものではない。器の焼成中に生じた偶然の変化によるもので、これを「窯変」とか「容変」と言っていた。それを何時の頃からか詩的に「曜変」と表現するようになったという。ちなみに曜変の「曜」は輝くという意味である。

利将軍家の座敷飾りを扱った故実書は、様々な唐物茶碗を分類し格付けしているそうだ。その中で「曜変」は茶碗の筆頭に上がられていて、室町時代から「建盞の内無上也、世上に無き物なり」と、その言語に絶する美しさが絶賛されてきた。この美術館が所蔵する曜変天目は「稲葉天目」の異名を持つ。もともとは徳川将軍家の柳営御物(りゅうえいぎょぶつ)だったものが、三代将軍家光から乳母の春日局に下賜され、春日局の嫡孫だった稲葉美濃守守正則に受け継がれたためである。大正7年、稲葉家の売り立てで姻戚の小野光影が購入し息子の哲朗に継承されたが、昭和9年に岩崎小弥太の所有となった。

嘉堂文庫美術館が所蔵する「稲葉天目」を含めて、現在までに存在が確認されている曜変天目茶碗は世界に3椀しかない。本場の中国にも欧米にもなくて日本だけにしかない貴重な文化財である。残りの2つは、京都大徳寺龍光院大阪藤田美術館が所蔵している。これら3椀のうち、光彩が最も鮮やかなのは「稲葉天目」だそうだ。

日の午後とあって、美術館を訪れた見学者の数はそれほど多くない。そのおかげで、稲葉天目を収めたガラスケースの周りを何周も回りながら、極めてまれな天の配剤が生み出した自然の妙を心ゆくまで鑑賞することができた。この茶器は陶工が意図して制作したものではない。この名器を所有してきた茶道愛好家も、実際に喫茶に使わなかったような気がした。類い希な逸品として観賞用に愛でてきたのかもしれない。ともかくも、友人の勧めで目の保養ができたことは有り難かった。

(*) 絵はがきからコピー




2010/03/03作成 by pancho_de_ohsei return