静嘉堂文庫美術館で公開中の国宝・曜変天目と付藻茄子(
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| 茶道具名品展のポスター |
静嘉堂文庫の付属施設である美術館では、2月6日から3月22日までの会期で、茶道具名品展と銘打って美術館が所蔵する茶道具を一般公開している。落ち着いたたたずまいの建物に入ると、右側に受付があり、ゆったりとした広い空間が前面に広がる。建物は丘陵の斜面に建てられていて、窓辺に寄ると美術館の庭園を見下ろすことができる。すでに盛りを過ぎた梅が何本かまだ花を付けていた。
今回の展覧会では、茶碗や茶入、棗(なつめ)、香合(こうごう)、茶杓(ちゃしゃく)、花入れ、水差し、茶壺、掛け物といった茶道具の名品が90点ばかり展示されている。その中での目玉は、国宝の曜変天目(稲葉天目)と、付藻茄子(つくもなす)・松本茄子と並び称される茶入のようだ。
会場で最初に並んで展示されていたのは、に大名物(おおめいぶつ)の付藻茄子と松本茄子である。いずれも南宋から元の時代(13〜14世紀)に作られた唐物茄子茶入で、中国からの伝来品だ。茶の世界では優れた名品を名物(めいぶつ)というが、その中で室町時代に足利将軍家が所持していた道具(東山御物という)や利休時代に最高位に評価された茶入などは、特に大名物と呼ばれている。
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| 藤重藤元によって修復された付藻茄子(*) |
付藻茄子は、高さ7.1cm、胴回りの直径7.4cmと抹茶の茶入としてはやや大きい。室町幕府第3代将軍・足利義満の秘蔵だった唐物茶入で、戦場に行くときも携えて行ったとされる由緒正しい伝世品である。代々足利将軍家で愛用されてきたが、15世紀末になって義政の茶道の師である村田珠光の手に渡った。このとき珠光が九十九貫で買ったことから、「つくも」という名が付いたとされている。
その後、持ち主は転々を変わり、値もつり上がったが、戦国時代には大和の松永久秀が一千貫で買って所持していた。彼はこの茶器を織田信長に献上したことで一国を安堵されたという逸話が残っている。その後、茶入は豊臣秀吉から有馬兵部卿法印則頼、そして豊臣秀頼へと伝えられた。
織田信長はこの茶入を本能寺に持参してきていた。そのため本能寺の変のとき火災で損傷したが、各種の茶会では拝見するたびに賞賛されたという。しかし、元和元年(1615)の大坂夏の陣で、この名器が大阪城落城の折に破損してしまった。
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| 左;松本茄子、右:付藻茄子 |
一方、松本茄子は高さ6.4cm、胴回りの直径6.9cmと付藻茄子に比べて幾分小ぶりである。山名家の家臣だった松本珠報(しゅほう)が所持していたため、この名が付いた。しかし、その後、天王寺屋宗伯を経て武野招鴎(しょうおう)の手に渡ったため、招鴎茄子とも呼ばれている。この茶器は、招鴎の娘婿だった今井宗久が管理していたが、宗久はこれを織田信長に献上した。
その後、なぜかこの茶入が宗久に返され、豊臣秀吉、秀頼へと伝えられた。しかし、付藻茄子と同様に、大坂夏の陣で罹災してしまった。徳川家康は名器を亡くしたことを残念がり、大阪城の焼け跡で茶器を探索させたたところ、付藻茄子や松本茄子の破片が回収された。
そこで、家康は塗師の藤重藤元(とうげん)に付藻茄子を、子の藤厳(とうごん)に松本茄子を漆で繕って修復させた。その超絶した修復ぶりを賞賛した家康は、褒美として付藻茄子を藤元に、松本茄子を藤厳にそれぞれ下賜したという。実物のそばに近年撮影された両茶入のX線写真の映像が示されていた。それには破片を継いだ茶器の姿がはっきりと映し出されていた。
茶入はその形から肩衝(かたつき)・文琳(ぶんりん)・茄子(なす)・丸壷(まるつぼ)・大海(たいかい)などに分けられる。会場には、大名物とされる利休物相(もっそう)や樋口肩衝、中興名物とされる高取大海など様々な茶入が展示されている。それらの中でも茄子は、その落ち着きのある形から唐物茶入の中の最高品として珍重されてきたようだ。
だが、茶道に疎い筆者には、付藻茄子や松本茄子が他の茶入に比べてなぜ優品なのか良く分からない。美術の鑑識眼がないと言われればそれまでだが、本物の芸術的価値よりも、歴史上の著名な茶人や大名・豪商たちの限りない所有欲をかき立てて転々と受け継がれたことで有名になっただけの品のような気がした。
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| 国宝 大名物 曜変天目茶碗(稲葉天目)(*) |
その美しさに目を奪われたのは、展示会場の中央に置かれたガラスケースの中の曜変天目(ようへんてんもく)と名づけられた茶碗である。友人から聞いた話では、黒い釉薬(うわぐすり)のかかった焼き物を、我が国では「天目」と呼んでいるそうだ。「天目」の語源についてはいくつか説があるが、一般には、中国浙江省にある天目山の名に由来するとされている。
浙江省は古くから茶の名産地として知られ、抹茶法による喫茶の風習が流行した南宋の時代(12〜13世紀)、天目山の禅宗の寺々では、福建省の建窯で焼かれた黒い釉薬のかかった茶碗(すなわち建盞(けんさん))が、従来の青磁茶碗に代わって盛んに用いられるようにった。鎌倉時代に禅宗の教学を学びに天目山に赴いた我が国の禅僧たちが、こうした茶碗を持ち帰り天目茶碗と呼んだのが始まりのようだ。
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| 真上から見た曜変天目茶碗の内側(*) |
抹茶を攪拌すると茶の色が白くなるので、黒い茶碗にはよく映える。そんなことから黒い釉薬の天目茶碗がもてはやされるようになった。それに加えて厚みもあるので、熱が長持ちするという。国宝の曜変天目茶碗は高さ7.2cm、口径12.2cm。喫茶用の茶碗としては普通の大きさのようだが、黒い釉薬が塗られた外側と異なり、内側は周囲に瑠璃色の光彩を放つ大小の班文が無数に浮き出ている。その輝きは、まるで茶碗の中に満天の星空を見るような神秘的な美しさである。
こうした班文は、ガラス越に四面から見てみると、角度によって微妙に色が変化するのが分かる。装飾のこうした色の変化に似たものを以前に何処かで見たような気がした。間もなく、それが子供の頃田舎にあった茶器入れの丸い蓋に描かれていた螺鈿(らでん)細工だったことを思い出した。
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| 京都大徳寺龍光院所蔵の曜変天目 |
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| 大阪藤田美術館所蔵の曜変天目 |
天目茶碗の内部の漆黒の釉面に結晶のように浮き出た大小の斑文は、釉上に生じた極微の薄い膜のようなもので、決して人為的に描かれたものではない。器の焼成中に生じた偶然の変化によるもので、これを「窯変」とか「容変」と言っていた。それを何時の頃からか詩的に「曜変」と表現するようになったという。ちなみに曜変の「曜」は輝くという意味である。
足利将軍家の座敷飾りを扱った故実書は、様々な唐物茶碗を分類し格付けしているそうだ。その中で「曜変」は茶碗の筆頭に上がられていて、室町時代から「建盞の内無上也、世上に無き物なり」と、その言語に絶する美しさが絶賛されてきた。この美術館が所蔵する曜変天目は「稲葉天目」の異名を持つ。もともとは徳川将軍家の柳営御物(りゅうえいぎょぶつ)だったものが、三代将軍家光から乳母の春日局に下賜され、春日局の嫡孫だった稲葉美濃守守正則に受け継がれたためである。大正7年、稲葉家の売り立てで姻戚の小野光影が購入し息子の哲朗に継承されたが、昭和9年に岩崎小弥太の所有となった。
静嘉堂文庫美術館が所蔵する「稲葉天目」を含めて、現在までに存在が確認されている曜変天目茶碗は世界に3椀しかない。本場の中国にも欧米にもなくて日本だけにしかない貴重な文化財である。残りの2つは、京都大徳寺龍光院と大阪藤田美術館が所蔵している。これら3椀のうち、光彩が最も鮮やかなのは「稲葉天目」だそうだ。
平日の午後とあって、美術館を訪れた見学者の数はそれほど多くない。そのおかげで、稲葉天目を収めたガラスケースの周りを何周も回りながら、極めてまれな天の配剤が生み出した自然の妙を心ゆくまで鑑賞することができた。この茶器は陶工が意図して制作したものではない。この名器を所有してきた茶道愛好家も、実際に喫茶に使わなかったような気がした。類い希な逸品として観賞用に愛でてきたのかもしれない。ともかくも、友人の勧めで目の保養ができたことは有り難かった。
(*) 絵はがきからコピー
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