平群谷で栄えた古代豪族平群氏とは
■ 奈良県の西の端に位置する生駒郡平群(ヘグリ)町は、西の生駒山地と東の矢田丘陵に挟まれた平群谷を北から南へ流れる竜田川の流域に発達した地方都市である。池田末則氏の『古代地名紀行 − 大和の風土と文化』によれば、ヘグリのヘは「辺」または「方」の意味で中心から離れた端に近い場所を指し、平群の「群」は「郡」すなわちクニ(国)の意味だそうだ。つまり、平群は、中央のヤマトから見れば隅の郡(くに)を表す古代地名だった。平群と言えば、現在の平群町を本拠地とした古代在地豪族・平群氏を思い出す。 ■ 実は、平群氏のことはよく分かっていない。『日本書紀』などの古文献では、応神朝の頃から軍事氏族として活躍するようになり、履中朝には平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)が国政に携わるようになったとされている。雄略朝に葛城氏が没落すると、木菟の子の真鳥(まとり)が大臣(おおおみ)を歴任して一族の興隆を極めたようだ。
■ もっとも、『日本書紀』は平群氏滅亡の原因を、物部麁鹿火(もののべのあらかい)の娘・影媛を巡る平群真鳥の息子・鮪と稚鷦鷯太子の恋のさや当てとして伝えられている。海柘榴市(つばいち、桜井市)の歌垣において鮪との歌合戦に敗れた太子は、大伴金村に命じて鮪を乃楽山(ならやま)で誅殺させ、498年11月には大臣(おおおみ)の真鳥をも討伐させた。その年の12月、稚鷦鷯が武烈天皇として即位し、大伴金村を大連(おおむらじ)に任じたという。 ■ 武烈天皇に滅ぼされたのは平群本宗家であって、支族はその後も大和王権に大夫(まえつぎみ)を出す有力在地氏族だったようだ。用明天皇2年(587)の物部討伐軍の中に、将軍として参戦した平群臣神手(かむて)の名が見える。天武13年(684)に施行された八色の姓(やくさのかばね)では、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたる朝臣(あそみ)の姓を平群氏にも与えられており、奈良時代には平群朝臣広成が733年の第9次遣唐使節の判官に任命されている。 ■ 平群盆地に盤踞した在地豪族・平群氏の遠祖は、武内宿禰(たけうちのすくね)の子・平群木菟宿禰とされているが、もとより伝承の域をでない。だが、5世紀後半の大和朝廷で活躍した真鳥(まとり)・鮪(しび)父子は実在の人物のようだ。彼らのルーツをたどれば、当時朝鮮半島にあった百済(くだら)からの渡来氏族か、もしくは渡来系の文化を大幅に取り入れて急成長した在地氏族だったのでは、とする説がある。 ■ 事の正否はともかくとして、平群町教育委員会の推定では、平群町には確実な古墳が71基、可能性がある古墳状隆起が32カ所、それ以外の削平で消滅したり埋没してしまった古墳を含めると、全体で100基以上が築造されたと考えられるとのことだ。
【コース】 平群駅 → 三里古墳 → 長屋王墓(梨本南2号墳) → 吉備内親王墓 → ツボリ山古墳 → 西宮古墳 → 剣上塚古墳 → 石床神社旧社地 → 柿塚古墳 → 烏土塚古墳 → 椿井宮山塚古墳 → 宮裏山古墳 → 竜田川駅 ■ 案内役は橿考研の千賀 久氏と平群町教育委員会の村社仁史氏。集合場所は近鉄生駒線の「平群」駅。午前10時の集合ということで、すこし早めに到着したが、すでに多くの参加者が駅前の広場に溢れていた。主催者側に聞くと200名以上の参加があったという。数日前までの真冬の寒さとはうって変わって、暖かい春の日差しが降り注ぐ絶好のハイキング日和となった。以下は、本日の探訪記である。 |
竜田川の左岸に6世紀後半に築かれた三里
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| 県の史跡の指定を受けている三里古墳 |
■ そんな中にあって、三里古墳(所在:生駒郡平群町三里958)は竜田川の左岸(東岸)に築かれた古墳で、「平群」駅から北東約600mほどの所に位置している。住宅の中の坂道を10分ほど歩いて上ると、矢田丘陵から西に延びる尾根の上に築かれた古墳に到着できる。
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| 石室を見下ろしながら説明する千賀氏 |
■ この古墳を有名にしているのは、玄室の奥壁の床面から70cmの所に設けられた石棚の存在であろう。石棚の大きさは幅2.5m、長さ1.4m、厚さ45cmである。石棚がある古墳は、奈良県下では3例しか見つかっておらず、他の2例は吉野川沿いにある岡峰古墳と槙ヶ峰古墳である。吉野川の下流にあたる紀ノ川の河口付近に営まれた岩橋古墳群にも石棚をもつものが多い。そのため、三里古墳の被葬者と紀氏との関係がとりざたされている。
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| 石室の羨道部分 |
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| 石室の実測図(*) |
■ 主葬である組合家型石棺に伴う副葬品として金銅製の馬具や武具、須恵器、土師器が豊富に出土している。これらの副葬品から6世紀中葉から後半に埋葬が続けられたと推測されている。
■ 封土が剥ぎ取られているため、この古墳の形態は分かっていない。円墳と前方後円墳の両方の可能性があり、円墳ならば直径24m、前方後円墳なら長さ35m程度と推測されている。
奈良時代初期、政界トップにいた皇親政治家の長屋王墓(梨本南2号墳)
■ 三里古墳から丘陵の斜面に築かれた田んぼの縁を下ってくると、やがて国道168号線の「三里」交差点に出る。交差点を渡り、北西方向の道を進むと、右手にこんもりとした森が見えてくる。宮内庁が管轄する長屋王墓(所在:平群町 梨本 字前 758番地)である。 ■ 長屋王は、天武天皇の皇子の高市皇子を父に、天智天皇の皇女の御名部皇女(元明天皇の同母姉)を母に持つ皇親政治家である。平城京遷都後、右大臣・藤原不比等が政界の中心的存在だったが、養老4年(720年)に彼が没すると、長屋王は皇親の代表として政界を主導し権勢を誇った。不比等の子である藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)にとって、長屋王の権勢は面白いはずがなかった。 ■ 神亀元年(724)、元正天皇は皇位を首皇子(おびとおうじ)に譲り、首皇子は聖武天皇として即位した。聖武天皇の后は不比等の娘である光明子(こうみょうし)だった。3年後の神亀4年(727)、聖武天皇と光明子の間には基王(もといおう)が生まれた。基王は生後わずか32日で皇太子に立てられたが、翌年病死してしまう。そこで、藤原四兄弟は光明子を皇后に格上げしようと運動するが、ことごとに長屋王に反対された。
■ 『続日本紀』には、長屋王が亡くなった翌日に、使いを遣わして長屋王と吉備内親王の遺骸を生馬山(いこまやま、生駒山)に葬るとのみ記す。その日、聖武天皇は次のように勅した。「吉備内親王には罪がないから、例に準じて葬送せよ。ただ笛や太鼓による葬楽はやめよ。長屋王は犯した罪により誅せられたのであるから、罪人であるとはいえ皇族なので、その葬り方を醜いものにしてはならない」 ■ しかし、葬地は明確に示されておらず、『延喜式』にも長屋王の墓については記録されていない。そして、1000年の月日が流れた。江戸中期ににまとめられた『大和志』に、なぜか「双墓(ならびばか) 梨本村にあり。 一は長墓と称し左大臣正二位長屋王、一は宇司墓と称し二品吉備内親王‥‥‥」と記され、平群町梨本にある二つの塚が、長屋王夫妻の墓と考えられるようになった。 ■ 長屋王墓は直径15m、高さ1.5mほどの円墳で、明治26年の記録には「丸石で三重に囲む」と記述されているという。明治34年、伝承に従って現在の墳墓が長屋王墓に治定され、墓域が整備された。現在は宮内庁が長屋王墓として管理している。長屋王が自決したのは、旧暦2月12日である。その命日にあたる新暦の3月20日前後に、宮内庁は長屋王の正辰祭(しょうしんさい)を行っている。
(*) 長屋王の邸宅は平城宮の東南角に隣接する高級住宅街に位置し、約30,000平米を占めていた。1986年、そごうデパートの奈良出店が決まり、建設予定地の発掘調査したところ、広さ6ヘクタール(甲子園球場の1.5倍)に及ぶ広大な邸宅跡が見つかり、粘土層に守られた大量の木簡が出土した。その中に「長屋親王宮鮑大贄十編」の文字があったことや、『日本霊異記』の長屋王の変に関する説話では「長屋親王」と称されていることなどから、その場所が長屋王邸と判明した。現在はそごうデパートがイトーヨーカ堂に代わっている。 |
長屋王と共に自害して果てた妃を埋葬した吉備内親王墓
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| 吉備内親王墓の遙拝所 |
■ 神亀6年(729)2月12日、長屋王が謀反の疑いをかけられて自殺したとき、妃の吉備内親王も4人の皇子達と自害して果てた。彼女を埋葬したとされる墓が、長屋王墓の北西約150mの住宅に囲まれた丘陵斜面に築かれている。
■ 方形の石垣と生垣で囲まれた陵墓で、南側に長い石段の参道が取り付いている。生け垣の中をのぞき込むと、赤茶けた大地に樹木が数本手入れもされないまま放置されていた。
■ この直径20m、高さ2m程の円墳は、明治26年の記録によれば、ウシヲ塚という名で呼ばれ「鍵の手に組まれた3つの大石(横穴式石室?)があり、墳丘に埴輪が分布していたとのことだ。明治34年に吉備内親王の墓であると治定され、現在は宮内庁で管理している。また、梨本雛王塚出土の形象埴輪片が宮内庁に保管されているとのことだ。
■ 遙拝所の横に立つ石碑には「岡宮天皇皇女 吉備内親王御墓」と刻まれている。岡宮(おかのみや)天皇とは、一般には聞き慣れない天皇名だが、皇位に就くことなく持統天皇3年(689年)4月に亡くなった草壁皇子のことである。淳仁天皇即位後の天平宝字2年(758)に「岡宮御宇天皇」の称号が追贈された。吉備内親王は草壁皇子と阿陪皇女(あへのひめみこ、後の元明天皇)との間に生まれた次女で、同母兄姉に氷高皇女(元正天皇)と珂瑠(かる)皇子(文武天皇)がいる。
平群谷の古墳の変遷を考える上で重要なツボリ山古墳
■ ツボリ山古墳の墳丘は、宅地造成で削り取られて元の形を留めていない。一辺が20m程度の方墳の可能性があるという。石室も羨道の上半分を欠いているが、床面全体にこぶし大の石が敷き詰められている。石室の規模は、玄室が長さ4.25m、幅2.2〜2.5m、、高さ2.45m、羨道が長さ4.65m、幅1.4mとのことだ。
■ 玄室と羨道に、それぞれ1基の刳り抜き式の家形石棺が安置されている。いずれも二上山の白色凝灰岩製である。玄室に置かれた棺は蓋石が半分残っている。屋根部にやや下向きの縄掛突起がついていて、その形態から7世紀初頭の頃のものと思われる。石室の構造とともに、この石棺の形式は平群谷の古墳の変遷を考える上で重要な位置を占めるとされている。 ■ 発掘調査が実施されたが、古墳にともなう副葬品は見つからなかったとのことである。羨道に置かれた石棺の手前にフェンスが設けられているが、そこから石室の内部を覗くことができる。
■ 蛇足ながら、ツボリという変わった名称は”坪里”という地名から生じたのではないかと思われるとは、千賀氏の解説である。 |
整美な切石で築かれた横穴式石室を持つ西宮古墳
■ ちょうどお昼時だったので、古墳の見学は後回しにして、参加者は中央公園のあちこちに散って弁当を広げた。公園の枯れた芝生の上に腰を下ろして、燦々と降り注ぐ昼下がりの日差しの中で食べる弁当の味は格別だった。駅のコンビニで買ってきた弁当だったが、ハイキング気分を満喫しながら食すると、気のせいか普段とは違った味がした。 ■ 西山古墳は竜田川駅の北北西600mの所に造営された方墳である。この古墳を初めて調査したのは考古学者として著名な梅原末治博士だった。昭和10年(1935)に調査して、直径24mの円墳であると発表した。しかし、この梅原説に疑問を抱かれたのは、前の橿考研付属博物館長だった河上邦彦氏である。河上氏は昭和50年(1975)に初めてこの古墳を見学し、方墳ではないかとの疑いを抱かれた。その後の測量調査で、一辺の長さ36m、高さ約7.5mの三段築成の方墳であることが判明した。
■ 古墳の二段のテラスには玉砂利が敷かれ、斜面には扁平な石が全面に貼ってあった。周囲にはハの字形に開いた周濠が廻らしてあり、北・東・西に尾根の地形を取り込んで約100m四方の墓域としていた。そのため、風水思想に基づいて墓位置が決められたと推測されている。
■ 石室内には、兵庫県の竜山石で作られた刳り抜き式石棺の身の部分が残っている。装飾性の高い石棺で、外面の上下に帯状の突帯が掘り出されれており、橿原市菖蒲池古墳の石棺を簡略したスタイルとされている。 ■ 羨道から須恵器の高坏や坏の蓋が出土しており、その形式から古墳の築造時期は7世紀中葉から後半と推定されている。
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横穴式石室が採用される前段階の様相を示す剣上塚
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| 剣上塚古墳の墳丘 |
■ 剣上塚古墳は、西から延びる尾根地形の丘陵上に築かれた直径23mほどの円墳で、平群駅の南西1kmほどの住宅地の中に位置する。この古墳が特に注目されているのは、その石室の構造にあるようだ。横穴式石室が採用される前の段階の様相を示しているという。平群町教育委員会の発掘調査で、長さ3.6m、幅1.0mの玄室に、その半分ほどの幅の横口が西側に付いていることが判明した。すなわち、竪穴系の埋葬施設に横口を取り付けた初期横穴式石室の一種で、”竪穴系横口式石室”と呼ばれているものである。
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| 剣上塚古墳の頂上に登る丘 |
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| 剣上塚古墳の埋葬施設(*) |
■ 副葬品としては、石室の右壁寄りに頸甲・肩甲を伴う三角板鋲留短甲や古式の剣菱形杏葉、鉄剣・鉾・鏃(やじり)などが 出土した。墳丘の斜面からは円筒埴輪や形象埴輪が見つかっており、これらの埴輪、須恵器、馬具などの特徴から、築造時期は5世紀中葉から後半に遡ると考えられている。
■ 甲冑や初期の馬具が副葬されていたことから、被葬者は武人的な性格の持ち主で、渡来文化を積極的に受け入れた新興勢力の族長だったと推測される。おそらく、彼の主導で5世紀中頃がら平群谷の開発が積極的に開始されたであろう。墳丘の上に立つと、平群谷を四方に見渡すことができ、彼の墓が絶好の位置に築かれているのが分かる。
巨岩を磐座
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| 石床神社旧社地遠望 |
■ 剣上塚古墳から次の柿塚古墳に向かう途中で、石床神社の旧社地に立ち寄った。石床神社は『延喜式』神名帳で「平群石床神社」と記された古社で、古くは巌上(いわかみ)社とか岩神(いわかみ)と呼ばれたように、高さ7.8m、横幅18mの岩石を神体として祀る神社だった。古い信仰形態を窺わせる神社だったが、大正13年(1924)に境外摂社だった素盞嗚神社に遷座した。そのため、今はそちらが石床神社と呼ばれ、以前の場所は旧社地として保存され、巨岩の前に赤い鳥居が建っている。
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| 大正時代の境内図(**) |
■ 鬱蒼と生い茂る常緑樹に隠れるように聳えている巨岩は、ほの暗い境内の中で今でもなお十分な存在感を示している。赤い鳥居の前に立って、その岩を眺めると、古代人が神の降臨する依り代として崇拝した理由も納得がいく。どの様な神の降臨を願ったのかと、つい問うてみたくなる。祭神として祀られた巨岩は陰石としても崇められたという。そうであれば、豊かな実りを約束してくれる神の降臨を願ったにちがいない。
■ 付近の井文字川岸一帯は片麻状黒雲母花崗岩の巨石が多数露出していて、古墳時代から飛鳥時代にかけて石材の産地だったとされている。近くに築かれた柿塚古墳や烏土塚(うどつか)古墳、西宮古墳などの石室は、この地の花崗岩を用いて築かれた。
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| 石床神社の額を掲げた鳥居 | 陰石とされる岩の切れ目 |
左片袖式石室が築かれている6世紀前半の柿塚古墳
■ 石床神社の旧社地に立って前方を見ると、谷向こうの丘陵の上の葉を落として聳える落葉樹の小さな森が見える。それが竜田川駅の西800mに位置する柿塚古墳(所在地:生駒郡平群町椹原)の墳丘である。この古墳は6世紀前半に築造された、直径約30m、高さ6mほどの小さな円墳である。
■ 石室の中は多量の土砂が流入しているが、玄室の奥には緑泥片岩の板石を組み合わせた箱式石棺が主軸に直交するように置かれている。石棺の西小口の部分が幅が広いことから、被葬者は西枕で埋葬されたものと推測されている。盗掘の際に石棺の蓋は破壊され、副葬品は持ち去られていた。
■ 6世紀前半になると左片袖式で四壁の持ち送りが強い石室が現れる。その典型がこの柿塚古墳である。6世紀後半になると、両袖式石室を持つ古墳が築かれるようになる。玄室の奥壁と前は垂直だが、左右の壁はやや持ち送りになっていて、当時は巨石を用いて高く広い空間を造ろうとしていたことが伺える。この形態の古墳はこの後訪れる烏土塚古墳で見られる。 ■ 7世紀になると、ツボリ山古墳のように両袖式ながら規模の小さい石室に代わっていき、前壁と奥壁の上部が斜めに積まれるようになる。7世紀の中頃になると西宮古墳で見たように、整備な切石を用いた石室が築かれるようになり、四壁と天井石の間には漆喰が塗られる。また、玄室の床には板石が敷き詰められ羨道より一段高くして、横口式石槨の要素が加わってくるという。
■ 柿塚古墳の開口部は多量の土砂が埋まり狭くなっているが、内部は見学できる。そのため、後学のため石室を一目見ておこうという見学者の長蛇の列ができた。入口は? と思って見に行くと、ひと一人がロープを伝ってやっと潜りこめる程度の広さしかない。200名以上の参加者が順番に潜るとしたら、どれだけ時間がかかるかわからない。そう思って、内部の見学はあきらめた。別の機会に訪れてゆっくり見学することだって可能だ。 |
近畿では埴輪列を巡らす最も新しい古墳とされている烏土塚
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| 烏土塚古墳遠望 |
■ 竜田川駅から西200mの丘陵上に、周囲の造成から島状に残された古墳がある。竜田川西岸の見晴らしのよい場所に営まれた前方後円墳で、烏土塚古墳(所在:生駒郡平群町西宮)という。墳丘の規模は、全長が60.5m、後円部径35m、高さ8m、前方部幅31mを測り、平群町最大の古墳である。
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| 烏土塚古墳の墳丘実測図(**) |
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| 烏土塚古墳の横穴式石室(*) |
■ 埋葬の主体部は、玄室の奥壁と後円部の中心が一致するように造られた両袖式の横穴式石室で、南に開口している。玄室の規模は長さ6m、幅2.8m、高さ4.3m 羨道は長さ8.2m、幅1.9m、高さ2mを測る。玄室は高さがあり、側壁がやや内側に傾いている。しかし前壁と奥壁は垂直に築かれている。
■ 玄室と羨道に二上山の凝灰岩製の組合せ石棺が安置され、玄室に置かれた石棺の東外側の面には斜格子文が線刻されていた。数度の盗掘を受けていたが、玄室には奥壁付近に土器類、馬具、矢、鉾、鋸、刀子が、また石棺の東と北側には、武器、土器、鏡が置かれ、石棺のまわりに日常の愛用品を埋葬したものと思われる。一部は副葬位置を保っていて、鉾を奥壁に立てかけるなど立体的に配置した様子が伺えたとのことだ。出土品から6世紀後半の築造と考えられている。
■ この古墳の墳丘には、円筒埴輪が樹立してあった。近畿圏では、6世紀後半の古墳に埴輪列を廻らすのは珍しく、埴輪を飾った最も新しい古墳とされている。さらに、石室の入口前底部から巫女や家、靫(ゆき)などの形象埴輪が、須恵器の子持高坏、大甕などと一緒に出土し、墓前祭祀が行われた様子が明らかになっている。
■ 石室は施錠されているが、教育委員会の特別の配慮で石室の内部が見学できるというので、中へ入ってみた。玄室の奥の石棺の身の部分だけが置かれていた。
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| 普段は施錠されている石室の入口 | 玄室の奥にある石棺の身の部分 |
近畿の初期横穴式石室をもつ古墳として注目されてきた椿井宮山塚
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| 地名の起源となった椿井井戸 |
■ 西暦587年7月の物部守屋討伐戦には、平群神手(へぐりのかみて)も将軍として参戦した。しかし、討伐軍が苦戦したので、神手は平群氏の祖先を祀る春日神社に参拝し、この地に椿の枝を突き立てて戦勝を祈願した。すると一夜にして杖が芽吹いて葉が繁り、傍らから冷泉がわき出した。これは戦いの瑞祥である喜んだ神手は、聖徳太子と共にその水を飲み、兵士たちにも振る舞った。すると士気が大いに上がり、守屋戦に大勝することができたという。そこで、この井戸を「椿井」として大切にしてきたことが、地名の興りになったという。
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| 平群氏春日神社の境内 |
■ この古墳は、剣上塚古墳に続く時期の墓で、石室の規模は玄室が長さ4.2m、幅2.9m、高さ3.1m、羨道が長さ0.8m、幅1.0mを測る。玄室の壁は高さ1mほどまでは垂直に積み、それより上は急に内側に持ち送る積み方をしている。天上石に特に大きな石材を選んでいるわけではない。すなわち、明確な天井石が使われていない穹窿(そうきゅう)式の石室で、近畿の初期横穴式石室をもつ古墳として早くから注目されてきた。築造年代は、5世紀中期から末期と推定され、奈良県では古い時期の古墳である。
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| 石室を覗き込む見学者たち |
■ 椿井宮山古墳は穹窿式の石室を実際に見ることができる貴重な古墳だった。しかし、兵庫県南部地震で天井付近の石材が抜け落ちてしまい、非常に危険な状態にあるため、残念ながら現在は内部を見学できない。そのため、千賀氏は内部の構造を写した写真を用意してくれていた。それをデジカメにコピーしたのが以下の写真である。
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| 玄室前室(右側に広い袖がある) | 玄室の奥壁(上半がドーム状になっている) |
平群氏春日神社の裏山に築かれた宮裏山古墳
■ 平群氏春日神社の裏山には、その名もずばり「宮裏山古墳」と呼ばれている円墳がある。この古墳にアクセスするには、神社から少し南に下り、突き当たりのかなり急な山道を東へ少し登らなければならない。しばらく登ると、古墳の石室の石が雑木林の中に露出している。宮裏山古墳は、矢田丘陵から西に延びる尾根の上に築造された直径約15mほどの、あまり存在感を感じさせない古墳である。
■ この古墳も内部を見学できる。しかし、入口から土砂が流入しているため、腹這いにならないと石室に入れない。中に入ると、開口部からは想像もつかないほど玄室の天井は高く感じられるそうだ。しかし、列を作って順番待ちする気力はなく、内部観察はあきらめた。墳丘に上ると、2カ所で天井石が欠けており、懐中電灯の明かりで内部の様子を確認している見学者の様子がその穴からのぞき込めた。
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(*) 友史会作成「友史会報第519号」から転記
(**)平群町教育委員会「へぐり古墳案内」から転記