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| 本日午後1時半から開催された現地説明会の様子 (撮影2010/02/20) |
判じ絵のような検出遺構の謎を読み解く専門家の苦労
後に発掘責任者が行った解説を要約すると、次のようになる。
●第4期(紫色)は、淳仁天皇の時代(758 - 764)の遺構を示す。この時期、東西方向に塀が設置され、塀の北側に2棟の建物と塀の南側の1棟の建物が建てられたことを示す柱穴が見つかった。このうち、塀の北側の建物5と呼ばれる柱跡からは、根石と考えられる石が見つかっていて、礎石建物だった可能性がある。さらに建物5の東側で南北方向の溝跡も検出されている。
現地説明会の冒頭で、奈文研の埋蔵文化財部長が挨拶されたが、その中で今回の発掘遺構の柱穴は見極めが非常に難しかったことを吐露された。遺構解析の難易度を100を最高とした場合、今回の調査地区は95くらいの解析の難しさだったそうだ。 実際にそうだったであろうと思う。わずか70年ほどの短期間に6回も整地し建物の建て替えが行われている。しかも、聖武天皇が平城京に還都してからの35年間に限定すれば、5回も整地作業が行われ新しい建物の立て替えが行われたことになる。 表土を剥いだ後の地層は小石を含んでおり、無数の柱穴が点在している。素人の目には全ての穴が同一レベルに位置しているようにしか見えず、よく建物跡の前後関係が判断できるものだと感心した。まるで判じ絵のように大地に描かれたパズルを読み解くことができるのは、やはり遺構が語りかける声をしっかり受け止めることができる専門家にしかできないワザであろう。
興味深いのは、発掘調査区のほぼ中央を東西に築かれていた通路が、3期から4期に移る時点で廃され、中央に塀を設けてその北側と南側に建物が建てられている点だ。4期が淳仁天皇が在位した時期(758 - 764)にあたるなら、この天皇を擁立した藤原仲麻呂の絶頂期に一致する。前の年の757年7月、仲麻呂は己の専横に不満を持つ橘奈良麻呂一味の反乱計画を密告によって未然に防止した。そして、443人を処罰し不満分子を一掃すると、翌年に大炊王を光仁天皇として即位させた。 しかし、道鏡を寵愛する孝謙上皇との溝が深まった764年、藤原仲麻呂は謀反を企てるが失敗、越前に逃げて再起を図るが近江で官軍に捉えられて斬首される(藤原仲麻呂の乱)。淳仁天皇は仲麻呂と関係が深かったことを理由に廃位を宣告され淡路島に流され、孝謙上皇が称徳天皇として重祚した。仲麻呂の全盛時代、東院地区に邸宅が築かれたようだが、乱の後取り壊されて元の通路に戻されたようだ。
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身近に感じられた大宮人たちの足跡
解説者の話によると、光仁天皇の時代(770 - 781)に相当する6期には、この調査地の中央を幅15m(50尺)の道路が東西方向に築かれていた。しかも、その道路は西の調査区外で、以前に発見された基壇を持つ門に続いていたという。宝亀4年(773)2月には楊梅宮(やまもものみや)が東院地区に造営されたと記録されていることから、道路は楊梅宮に至る道路ではなかったかと推察される。 この道路跡の真ん中を見学者の通路が設けられていた。しかも鉄パイプで仕切られていた見学者通路は途中から、露出した小石混じりの地表を歩くように設定されている。遺構を破壊しないように、さすがに通路部分はシートが被われていた。発掘調査地区では、現在は建物や塀の柱穴の跡しか見ることができない。実際は当時の官人たちの足跡も多く刻まれていたはずである。彼らの足跡を踏みしめるように、21世紀の我々が同じ大地を歩けることに、不思議な感動を覚えた。想像をたくましくすれば、三々五々と連れだって東宮や東院に向かう彼らの話し声が風に乗って聞こえてくるようだった。 それにしても、わずか70年ほどしか続かなかった奈良時代なのに、この地区では6回も整地して建物の建て替えが行われたとは・・・。しかも、聖武天皇が平城京に還都してからの35年間に限定すれば、5回も新しい建物の立て替えが行われたことになり、どう考えてみても異常である。その異常さの背景に思いを巡らせると、奈良時代という潮流の底にあった権力闘争のすさまじさが見えてくる。
この著名な万葉歌は、 太宰少弐として太宰府に赴任していた万葉歌人の小野老(おののおゆ、?〜737))が、遙か遠い都の春を思い描いて詠んだ歌とされている。平城の都を、爛漫と咲き誇る桜の花に見立てた歌は、後世の人々の平城京に対するイメージを固定化させてしまったようだ。また、現在の日本人の多くは、東大寺大仏や正倉院御物に代表される天平文化の華やかな時期として奈良時代をとらえているようだ。だが、実際は陰惨な暗い時代だった、と筆者は見ている。 その証(あかし)の一つは、奈良時代に用いられた「天平」という年号だ。奈良時代は、710年の平城遷都から784年の長岡京遷都まで74年間続いた。その間、729年に改元された「天平」という年号は「天平感宝」、「天平勝宝」、「天平宝字」、「天平神護」と引き継がれ、767年になってようやく「神護景雲」に改められる。ほぼ半世紀にわたって”天下泰平”を祈念し天平という年号を採用し続けた背景には、年号に込めた祈念とは逆に、庶民の塗炭の苦しみがあったことを逆説的に示していると言えよう。 奈良時代は、藤原不比等(ふじわらのふひと)が天皇の姻戚としての地位を確立し、その息子たちである藤原四家が中央政界に巨大な勢力を築いていった時代である。したがって藤原氏の繁栄を快く思わない皇族や豪族との政争がたびたび繰り返された。729年(天平元年)の長屋王の変、740年(天平12年)の藤原弘嗣の乱、757年(天平宝字元年)の橘奈良麻呂の変、764年(天平宝字6年)の藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱と、史上でもよく知られた政争や戦乱が頻発している。
しかし、そうした見方は皮相的である。757年7月に橘奈良麻呂の乱が起こったが、逮捕された奈良麻呂は、藤原永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた」と謀反を白状したという。何時の時代でも、わが世の春を謳歌するのは、ごく一部の上層の特権階級だけである。ほどんどの国民は彼らの悪政によって塗炭の苦しみを舐めさせられてきた。東院地区の度重なる立て替え工事に徴用された人々も、声にならない怨嗟の声をあげながら働いたにちがいない。
ビニールテープで表示された建物遺構を眺めながら、工事現場で働く当時の庶民の様子を勝手に空想していると、背後にある人物の視線を感じた。振り返ってみたが誰もいなかった。しかし、その人物は確かに何かを語りかけようとしていた。ややあってその人物の姿がおぼろげながら見えてきた。直刀を佩いた精悍な顔つきの官人だった。いかにも硬骨漢らしい人物に心当たりがあった。
大伴古麻呂(おおとものこまろ、?〜757)とは、軍事氏族として大和朝廷に仕えてきた古代の名門氏族の一員である。新興氏族の藤原氏が天皇家と姻戚関係を結び、朝堂を壟断するのを許せなかった彼は、陰謀で殺された橘諸兄(たちばなのもろえ)の遺児・橘奈良麻呂と結び、時の実力者・藤原仲麻呂を除こうと反乱を計画した。しかし、山背王らの密告によって計画が露見し、奈良麻呂・道祖王・黄文王らと一緒に捕えられ、拷問の末絶命したとされている。 大伴古麻呂は、筆者の好きな人物の一人である。彼は7年前の750年(天平勝宝2年)、第十次遣唐使の副使に任命され、752年に大使・藤原清河とともに入唐している。翌753年の正月、唐の玄宗皇帝が臨席して諸蕃の朝賀を受けたとき、日本の席次が西畔(西側)第二席で、新羅の東畔第一席より下だった。そのため、古麻呂は唐の将軍呉懐実(ごかいじじつ)に抗議して、新羅より上席に代えさせたというエピソードはよく知られている。 またこの第十次遣唐使が帰国する際には、鑑真和上を同行させようとしたが、唐の官憲がこれを禁じた。そのため、大使の藤原清河は鑑真一行の乗船を拒否したが、古麻呂は独断で自分が乗る副使船に乗船させたという。六回目の試みでようやく鑑真一行が我が国に来ることができたのは、こうした古麻呂の粋な計らいによるとされている。この人物に興味を持ち彼の生涯をおってみたいと思っている気持ちが、本人に伝わったのかもしれない。 |