2010/02/16

平群石床神社(へぐりいわとこじんじゃ)饒速日命(にぎはやひのみこと)を祀るとされている式内社


平群石床神社の旧社地
平群石床神社の旧社地

古代氏族・物部氏の遠祖とされる饒速日命

が国の天皇家は、その尊厳の深淵を『古事記』や『日本書紀』の伝える天孫降臨神話に求めている。記紀神話では、アマテラスオオミカミ(天照大神)は、孫のニニギノミコト(瓊瓊杵尊)に三種の神器(八尺瓊勾玉、八咫鏡、草薙剣)を授け、この国を支配するために日向の高千穂峰に降臨させたと記す。天皇家はその天神アマテラスの血脈を万世一系で受け継いできた一家であり、それ故に犯すべからざる高貴な存在であるとされてきた。

饒速日命
饒速日命
ころが、この天皇家が尊厳の拠り所とする神話を否定するような伝承が存在し、あろうことか記紀の中でも堂々と記述されている。それが、古代の有族・物部(もののべ)氏の遠祖とされている饒速日命(にぎはやひのみこと、以後、ニギハヤヒ)の伝承なのだ。

ギハヤヒは誠に不思議な神である。天孫のニニギノミコトが日向の高千穂峰に降臨する以前に、アマテラスから10種の神宝をさずかり、三十二人の伴緒(とものお)を率いて天磐船(あめのいわふね)で河内の哮峰(いかるがのみね)に天下ったとされる神である。そして、先住のナガスネヒコ(長髄彦)の一族を服属させ、すでに大和地方を支配していたという。

石切神社拝殿
石切神社拝殿
磐船神社
磐船神社の巨大な磐座
登弥神社
登弥神社
ニギの曾孫にあたるイワレヒコノミコト(磐余彦尊、後の神武天皇)が日向を発って東征してきたとき、ナガスネヒコがイワレヒコに抵抗したことはよく知られている。そこで、ニギハヤヒはナガスネヒコを斬ってイワレヒコに帰順したことになっている。そのニギハヤヒを遠祖とする物部氏は、天皇家と同じ天孫族であり、イワレヒコが大和に進出する以前には、大和の正当な支配者であったと主張しているような伝承だ。

古事記』や『日本書紀』の神話は、その編纂の意図が、天皇家の万世一系を主張し、その尊厳を国民に知らしめることにあった。その気になれば、物部氏の遠祖の伝承など編纂時に簡単に抹殺したり改ざんできたはずなのに、両書間では内容が少し異なるとはいえ、よくぞ書き残したものだと思う。そのこと自体が一つの謎である。

ギハヤヒに関わる神社や遺跡は、奈良県を中心にあちこちに存在する。ニギハヤヒに興味を抱いた筆者は、かってその幾つかを探訪したことがある(石切神社磐船神社登弥神社饒速日命墳墓、長髄彦本拠)。

にも、ニギハヤヒを祭神として祀る神社はいくつかある。その一つが生駒郡平群町越木塚字井戸ノ上に鎮座する平群石床神社(へぐりいわとこ)神社だ。昨年の正月、山背大兄王子の墓の候補の一つとされる西山古墳を平群中央公園に訪ねたことがあり、おおよその土地勘はあった。どのような神社なのか一度訪れてみたいと思いながら、いつの間にか失念していた。

日新聞の日曜版は、「聖地日和」というタイトルで、石と日本人の関係をシリーズで特集している。たまたま橿考研付属博物館の情報コーナーで見た2月7日付けの切り抜きに平群石床神社が紹介されていた。延長5年(927)に編纂された『延喜式』神名帳にも記載されている式内社とのことだが、記事は旧社地に祀られた巨大な磐座のことばかりで、ニギハヤヒのことは何も触れていない。何故なのか気になって出かけてみることにした。

現在の平群石床神社の境内に祀られたさまざまな神々

竜田川駅付近のマップ
竜田川駅付近のマップ
群石床神社の最寄りの駅は、近鉄生駒線の「竜田川」駅である。始発の「王子」駅から三つ目で、約6分で到着する。閑散とした駅で電車を降りて駅員に道を聞くと、線路沿いの道を北に進みなさい、と教えてくれた。

はすぐに、国道168号線の「協和橋東詰」交差点から西に延びてくる道と踏切のそばで交差する。後は、その交差点で左折して、若井集落の中の道を進めばよいとのことだ。どうやら、昨年の1月、平群中央公園へ行くのに歩いたのと同じ道のようだ。

標識
途中の標識
標識
途中の標識
落の中で、中央公園方面への道と別れるが、要所要所の標識が立っているから道に迷うことはない、駅から神社までの距離はおよそ1.4キロ、徒歩で20分も歩けば到着できる、とは駅員の言だ。

陵の山肌に築かれた若井地区の道路は、それなりに屈折した坂道の連続で、はじめての者には分かりにくい。駅員は一本道だから簡単ですよと言っていたが、やはり途中で何度か住民に道を確かめながら進むことになった。塚木塚地区に入ると、道は丘陵の急斜面を下っていった。

を下り終わったところが、三叉路の交差点になっていて、その角のミラーに3つの神社の名前を記した標識が貼り付けてあった。石床(いわとこ)神社と消渇(しょうかち)神社、それに旧石床神社である。最初は、その意味が分からなかった。

現在の平群石床神社
現在の平群石床神社
識が示す方向の道は、右手に高い石垣がそびえ、左手に竹藪が続く上り坂である。坂の途中にまた標識があって、右手の石段を上ると、越木塚地区の集会所があった。集会所の横に「式内大社平群石床神社」と刻んだ碑が建ち、その前を古ぼけた参道が石の鳥居を抜けて奥の拝殿に向かって続いていた。

会所の前に、2枚の説明板が置かれている。一つは消渇・石床神社の説明であり、もう一方の古ぼけた説明板は、越木塚青年団が記した石床神社の由緒記である。両者を読み比べてみて、ようやくこの神社の由来がおぼろげながら理解できた。

平群石床神社の拝殿
平群石床神社の拝殿

初、素盞嗚命(すさのおのみこと)を祭神として祀る素盞嗚神社と、地域の産土神である正勝(まさかつ)の神を祀る末社の消渇(しょうかち)神社が、この社地にはあった。素盞嗚神社は鳥居の正面に鎮座し、消渇神社は鳥居の手前を左に曲がり、階段を登ったところに現在も位置している。


拝殿前の狛犬
拝殿前の天保5年(1834)の狛犬
瓦葺きの覆屋内に三つの社殿
瓦葺きの覆屋内に三つの社殿
方、『延喜式』神名帳で「平群石床神社」と呼ばれた神社は、現在の社地から少し離れた南方の小字・石床(いしどこ)に鎮座し、古くは巌上(いわかみ)社とか岩神(いわかみ)と呼ばれたように、高さ7.8m、横幅18mの岩石を神体として祀る神社だった。創起は舒明天皇3年(631)で、神武天皇の挙国創業に功績があったニギハヤヒを祀ったという。三代実録によれば、貞観元年(859)正月27日、従五位下から従五位上に昇叙されたほどの式内大社だった。

正13年(1924)になって、境外摂社だった素盞嗚神社に遷座することになった。その結果、石床神社の現在の本殿には中央に剣刃石床別命(けんじんいわとこわけのみこと)を祀り、左右の社殿には太玉命と本来の祭神だった素盞嗚命が合祀されている。

床神社の拝殿前には、天保五年(1834年)の銘がある狛犬が奉納されている。拝殿脇から本殿を覗くと、瓦葺きの覆屋の下に三つの社殿が並んいた。中央が剣刃石床別命を祀る社殿である。拝殿の奧には神籠石が置かれているとのことだが、残念ながら遠目には見ることができなかった。


方、消渇神社は、室町時代に旅の僧の信海(しんかい)が腰の病を治してもらってから、下半身の病気に御利益があるとして、末社の方が村人に信仰されるようになった。消渇とは、喉が渇いて小便が出なくなる”かちのやまい”や 婦人の淋病(りんびょう)のことである。

土の団子をつくる屋形 消渇神社へ続く石段
土の団子をつくる屋形 消渇神社に続く石段

戸時代になると、消渇神社という社名から女性の病気や性病に効果があるとして、京都祇園からの参拝者も多くなり、参道には茶店も出るほど賑わったという。願掛けには、境内階段下の屋形で土の団子を十二個つくり、これを供えて祈願し、願いが叶うとお礼に米の団子を十二個お供えする。

消渇神社の拝殿と本殿 拝殿に供えられた土の団子
消渇神社の拝殿と本殿 拝殿に供えられた土の団子

渇神社へ続く階段に向かうと、階段の手前に小さな屋形があり、そこで土の団子を作る設備が用意されていた。土の団子というからにはそれなりの大きさだと思ったが、拝殿に飾られた十二個の団子を見ると、ビー玉のように小さい。中には、願いが叶ったのか米の団子が供えられていた。


渇神社の左上の丘陵に登る石段があった。登ってみると、ボロボロになった土塀に囲まれた広庭の隅に小さな素木の春日造の祠がある。かつて七社山の祭神をここへ遷座して七社神社とした社である。石燈籠に「七社大明神天明八年(1788)申十二月越木塚村座中」とある。社殿の前に一枚の板が置かれていた。「那羅志大神」と書かれているそうだが、判読できなかった。

七社神社の社殿 七社神社の社地を囲む土塀
七社神社の社殿 七社神社の社地を囲む土塀

旧社地で祀られていたのは、古い信仰形態を窺わせる巨石

旧社殿へ続く狭い田舎道
旧社殿へ続く狭い田舎道
赤い鳥居が建つ旧社地
赤い鳥居が建つ旧社地
群石床神社の旧社地は、越木塚地区の東南部の外れにあり、伊文字川流域を見おろす丘陵の斜面に位置している。現在の社地からほぼ南へ300mほどの所だ。平群神社の前の坂道を少し上った所に、左の斜面へ下る標識が出ていた。標識に示された民家の間の狭い道を下っていきながら、石床神社が本当にニギハヤヒを祀った神社なのか疑問を感じていた。

木塚青年団が立てた説明板には、舒明天皇3年に饒速日尊、すなわちニギハヤヒを祀るためにこの神社を建立した、と確かに書かれていた。『大和志料』でも、日本惣国風土記に饒速日尊と記されているという。だが、なぜこの場所がニギハヤヒゆかりの場所なのかを語る伝承は伝わっていないようだ。

治の神名帳には、祭神は剣刃石床別命(けんじんいわとこわけのみこと)とされていた。大正13年(1924)から神社は旧社地から現社地へ遷座したが、現在の社殿の主祭神も剣刃石床別命になっている。

ったい何時から祭神の名前が饒速日尊から剣刃石床別命に変わったのか。そもそも剣刃石床別命とはいかなる神なのか。ニギハヤヒの別名なのか、それとも異なる神なのか。すくなくとも、インターネットで検索した範囲では、この神の名は他に見あたらない。なんとも不思議な祭神である。

性崇拝の対象とされてきた磐座(陰石
性崇拝の対象とされてきた磐座(陰石
同上
同上
社地は、シイやカシなどの常緑樹が繁茂する山の斜面に位置している。右手に積まれた石垣の間に、突然朱塗りの鳥居が見え、そのすぐ向こうに巨大な岩石が聳えて見えた。この社地には、当初から本殿も拝殿もなく、鳥居と社務所があっただけだという。神体は崖面に露出した高さ6m、横幅18mの巨大な花崗岩である。

の巨岩は磐座(いわざ)であり、神が降臨する依り代として古くから祀られてきたと聞いている。境内に立つと、いかにも原始的な古代信仰の場に身をおいたようで、悠久の時の流れというものが実感できる。

は、この磐座は一枚磐ではない。幾つかの巨岩の折り重なっているようだ。最初は樹木の枝に遮られてよく分からなかったが、岩石の接触面が縦の筋になっていて下部で穴を形成している。したがって、見ようによっては女性の陰部に見える。そのため、磐座ではなくて陰石であるとも言われている。

の東西を問わず、古くから岩の裂け目が性崇拝の対象とされ、五穀の豊穣を祈る祭りの場とされてきた例は多い。この社地も磐座の前に鳥居しかなかったというから、原始信仰の形態を今に伝える貴重な霊地だったと言えよう。

旧社地の前面に広がる風景
旧社地の前面に広がる風景
社地から前面を見ると、緩やかな傾斜地に田畑が広がっている。このあたりは花崗岩の巨石が多数露頭しており、古墳時代から飛鳥時代にかけて石材の産地だったそうだ。近くに築かれた烏土塚(うどつか)古墳や西宮古墳の石室は、この地の花崗岩を用いていると聞いている。


2010/02/17作成 by pancho_de_ohsei
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