2010/02/14

飛鳥寺の南で基幹排水路と石敷き広場が見つかる

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発掘現場から見た飛鳥寺 (撮影 2010/02/13)

飛鳥寺の南にあった「石敷き広場」の一部を検出

立橿原考古学研究所(以後、橿考研)は、昨年の11月から飛鳥寺の南で第164次調査を実施している。調査の目的は、世界遺産登録に向けた「世界遺産登録推進事業」の一環として、飛鳥京の北限または北部地域の様相を明らかにすることだった。そのため、飛鳥京跡の内郭から北へ約400m、飛鳥寺から南へ約150mの地点に1区と2区の2カ所の調査区が設定された。

今回の発掘調査地
上空から見た今回の発掘調査地

る2月9日、橿考研は1区で飛鳥京跡で最大の石組み溝が、そして2区では飛鳥寺南の石敷き広場の一部が見つかったと、マスコミに公表した。

堂塔の方位
発掘で明らかになった堂塔の方位(*)
の発掘報道は翌日の10日の新聞各社の紙面でも伝えられ、NHKのテレビでも報道された。マスコミの関心は「石敷き広場」の発見に集中し、石組み溝についてはあまり触れられていなかった、いつもアクセスしているYahooニュースの考古学トピックスは、なぜかこの記者発表を報じなかった。

スコミ報道で石敷き広場の”発見”を知ったとき、正直なところ「なんで今更」という気分だった。飛鳥寺の南門の南に石敷きの広場が存在していたことは、奈良文化財研究所(=奈文研)が奈良県教育委員会と共同で1956から57年にかけて実施した3次にわたる発掘調査で、すでに判明している。調査内容は、その後に公表された「飛鳥寺発掘調査報告」に詳しい。

報告書によれば、南門から南へ幅2mの石敷きの参道が45m続き、この参道が南端で、幅20mほどの、これまた石敷きの道路状遺構がT字状に近く交わっていた。しかも、この遺構は参道に直行せず、東で南に七度振れていることも報告されている。

石敷き広場の発掘状況
今までの石敷き広場遺構の発掘状況
文研は1982,83年度にもこの石敷き広場を調査し、南北約20m、東西約70mの広場だったと推定している。さらに2008年11月には、石敷き広場の東北の角を検出している。今回見つかった石敷きは、遺構の南西部分の一部で東西約4m、南北約5mの区域にすぎない。

ってみれば、すでに存在が判明している遺構の未発掘部分の一部を、たまたま掘り出しただけなのであって、Yahooニュースなどはそれほどニュースバリューを見いださなかったのかもしれない。発掘情報をとかくセンセーショナルに報道したがる新聞各紙も、奈良新聞だけが橿考研の記者発表を一面で報じただけで、他紙は社会面で扱っていた。

奥が石敷き広場の一部。手前直角に屈折している溝
調査2区の発掘現場
手前が石敷き広場の一部。
調査地の下の土層から、飛鳥寺造営に用いられたと見られる瓦が出土したという。そうであれば、広場や溝が石を敷いて整備されたのは、飛鳥寺造営後の7世紀前半ごろと考えられる。興味が持たれたのは、正方位に造営された飛鳥寺に取り付く石敷き広場が、なぜ東西軸に対して七度の振れがあるのかという点だ。

鳥寺の堂塔は、まず天体観測で南北方向を定め、それと直行する東西線を決めて一塔三金堂を配置している。飛鳥寺の付属設備として石敷き広場が造られたのであれば、東西方向に振れがある理由が分からない。

れと、もう一つ。石敷き広場と通称されている場所は、実は広場ではなくて、飛鳥寺の参道に取り付く門前大通りだった可能性もある。その場合、東西方向の70mの先は何処に通じているのだろうか。新聞報道に接したとき、まずこうした疑問をいだいた。この疑問を氷塊できることを期待しながら、本日の現地説明会に参加することにした。

出典:(*)坪井清足著『飛鳥の寺と国分寺』


調査1区で見つかった飛鳥京域最大の基幹水路

日の飛鳥は、珍しく晴れ渡った穏やかな朝を迎えた。先日来の真冬に逆戻りしたような北風も、今朝は嘘のように静まりかえっている。柔らかに降りそそぐ朝の光は、春の近いことを感じさせる。その光を受けながら、自転車のペダルをゆっくり踏んで田園の中の道を明日香村に向かうのは、筆者にとって豊饒な時間のひとときである。

現地説明会の光景
現地説明会の光景
地説明会の開始は午前10時半に予定されていたが、30分ほど前に会場に着いた。受付で説明会の資料を受け取ると、出土した土器片などを展示しているテントをのぞいた後、2カ所の調査区を見てまわった。その間に説明会の参加者がどんどんと増えてきて、いつの間にか会場は一杯になった。

0時半丁度に説明会が始まった。橿考研の埋蔵文化財部長の挨拶に続いて、発掘責任者の東影氏から調査区1区と2区について発掘の経過と発掘の成果について、要領のよい説明があった。

現地説明会の光景
調査1区全景(南から)

調査1区で注目を集めたのはなんと言っても、南の端から見つかった石組みの溝である。東西方向の溝で、検出した長さは4m、深さは80cm、幅は最大3mもあった。溝の南面には30〜40cmの石を3段に積み上げ、北面は藤原京の頃に破壊されたと思われ、側石(がわいし)が2段文だけ残っていた。南面の石よりやや大きい石が用いられていたようだ。

石組み溝の南壁 石組み溝の北壁
石組み溝の南壁 石組み溝の北壁

の場所は、飛鳥京域に含まれる区域である。そのため、京域の東側の丘陵地帯に降った大量の雨水を飛鳥川へ流す基幹排水路だったのでは、と推測されている。

1区の石組み溝からの出土遺物 出土した軒丸瓦や丸瓦など
1区の石組み溝からの出土遺物 出土した軒丸瓦や丸瓦など

跡から大量の土器が見つかっている。土師器や須恵器を中心に、コンテナ40箱以上もあったそうだ。その中には、筒を差し込む穴をあけた徳利のような「はそう」と呼ばれる古墳時代からの器や、杯や蓋のある器、大小さまざまな皿などで、飛鳥寺創建時の瓦と同じ文様の軒丸瓦もあった。しかし、大半は7世紀後半の遺物なので、それらの出土から、溝が埋まった時期が特定できたとのことだ。

1区の中央で見つかった掘立柱塀の遺構 石敷き広場の東端を南北に走る石組み溝の延長
1区の中央で見つかった掘立柱塀の遺構 石敷き広場の東端を南北に走る石組み溝の延長

区の中央付近からは、掘立柱塀の遺構が発見された。一辺が1.4mの柱穴が2.7m間隔で南北に5間分並んでいたが、柱はすべて抜き取られていた。この掘立柱塀が見つかった面の下層には、南北方向の石列も確認されている。そこから出土した土器は飛鳥時代後半のもので、掘立柱はこれらの下層の遺構を埋めて整地した後に建てられたと思われるとのことだ。

らに、1区の北西の隅では、石組み溝の一部も確認されている。この溝は石敷き広場の東の端に南北方向に築かれた溝の延長部分だと考えられている。



調査2区で見つかった石敷き広場は南縁の一部

調査2区の全景(北より)
調査2区の全景(北より)

明会の会場で、思いがけず友人のサンチョ君に声をかけられた。穏やかな日差しに誘われて、彼も自転車で発掘現場の見学に訪れたとのことだ。二人で連れ立って、調査1区を見学した後、調査2区のほうに回った。2区は1区の西側約90mの地点に設定され、南北方向に掘削されていた。

調査2区の北側部分で見つかった石敷き広場の一部
調査2区の北側部分で見つかった石敷き広場の一部

の調査区の北の端で、石敷き広場の一部が見つかった。広場の南西にあたる部分で、掘り出されたのは東西約4m、南北約5mの区域である。その表面は、直径30〜40cmの平たい石を敷き詰め、南側はやや大きな石で縁取りされていた。その縁から一段さげて幅80cmの石敷きテラスが張り出し、その南に幅約90cm、深さ30cmの丁寧な造りの側溝が東西方向に築かれていた。

>石敷き広場の葺石
石敷き広場の葺石
時の飛鳥人の履き物がどのようなものであったか知らないが、現代の我々でもスニーカーでも履かなければこの石敷きの上は歩きづらいように思えた。石敷きの上に小砂利なり土が葺いてあったのかと、説明員に聞いてみた。しかし、そのような痕跡は見つからなかったとのことだ。そうであれば、蘇我馬子をはじめとする飛鳥人は、一歩一歩足下に注意を払いながら、この石敷きの上を歩いたことになる。

ンチョ君は、石敷き広場が川原石で埋め尽くされているのを見て驚いたようだ。飛鳥は何処を掘っても、川原石を敷いた遺構が顔を出し、いったい何処から膨大な川原石を運んできたのか、と首をかしげた。飛鳥京の発掘現場では、建物跡以外はどこでも石敷きの空間が現れ、飛鳥は石の都だったと評されるくらいだ。近くの飛鳥川から運び込んだだけでは、とても絶対量が足りなかったはずだ。

鳥京の最後の王宮は天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮だった。しかし、その建物の大部分は天武の母の斉明天皇が築かせた飛鳥岡本宮を受け継いだものだ。斉明天皇の言えば、盛んに土木工事を行ったことで知られる女帝である。王宮の荘厳化のために、飛鳥京域全体を石敷きで飾るくらいのことは考えたかもしれない。そのために徴発される民衆の苦労はたまったものではなかったであろう。

L字形の石組み溝
L字形の石組み溝
敷き広場の南に、幅60cmのL字形の石組み溝が築かれていた。溝は南に延び、7m先で東に直角に屈折していた。この溝の下層から寺院建築に用いられた瓦が出土している。そのため、広場や溝に石を敷いて整備した時期は飛鳥寺造営以後で、7世紀前半頃だったようだ。この溝も石敷き広場と同じ方位であることから、飛鳥寺に関係するものと考えられている。

L字形の石組み溝
L字形の石組み溝
区の南側では、東西方向に土手のような高まりが見つかっている。下端の幅は7m、上端の幅は4m、高さは40cmをはかるという。さらに、その南側には砂利敷きが広がっていた。これらの遺構が何だったのかは、現時点では判明していない。


ころで、石敷き広場は、広場なのか道路なのかを発掘担当者に質問してみた。しかし、今までの発掘データからだけではなんとも言えないそうだ。広場としてみた場合、北東の角は確認されており、また今回南の縁が明らかになったが、南東の角や広場の西側がどのあたりまで広がるのかは分かっていない、場合によっては、南東の隅は延長されて現在のバス通りに接続されている可能性もあるという。そうであれば、限られた空間の広場ではなく、飛鳥寺の南門の前を通る大通りだったことになる。

飛鳥寺本堂に掲げられた復元イメージ
飛鳥寺本堂に掲げられた復元イメージ
日本書紀』によれば、587年7月に蘇我馬子が諸皇子や群臣に呼びかけて物部守屋を滅ぼしたとき、仏の加護を得て戦いに勝利したなら、寺を建立し仏法を広めることを誓った。そして、物部氏を滅ぼした翌年、現在の飛鳥寺がある付近に建っていた衣縫造の祖・樹葉(このは)の家をつぶして寺地とし、整地を行なったとされている。この地が選ばれたのは、霊異のある槻(つき)の大木があったためで、当時はこのあたりが聖地と考えられていたとする説がある。 それ以前、この付近は真神が原と呼ばれていたが、無人の荒野ではなかったようだ。当然、何らかの地割りがすでに行われていたであろう。

西側から見た飛鳥寺復元イメージ
西側から見た飛鳥寺復元イメージ
院の建立には広範な資材置き場や工事現場が寺の近くに必要である。当然のことながら、付近の土地は整地され、倉庫や工人たちが寝起きする小屋が多数築かれたはずである。それらは古くからの方位に基づいて築かれたものと思われる。それが、東西方向に7度ほど振れる方位ではなかったか。

我馬子が建立した飛鳥寺は、単なる仏教寺院ではなかった。今流に言えば、総合的な文化施設だった。回廊で囲まれた一塔三金堂が並び立つ境内は聖なる空間として、僧侶以外が立ち入ることは許されなかったが、南門前では、大道芸よろしく歌舞音曲が一般の民衆に供せられたであろう。そうした大衆娯楽の場として適当な空間を想定した場合、そこは広い門前の通りであり、広場としても利用できた空間であってもよい。かっての工事現場が飛鳥寺建立の後、一部石で舗装されて広場に変わったと想定するのは無理だろうか。


2010/02/15作成 by pancho_de_ohsei return