飛鳥寺の南にあった「石敷き広場」の一部を検出
県立橿原考古学研究所(以後、橿考研)は、昨年の11月から飛鳥寺の南で第164次調査を実施している。調査の目的は、世界遺産登録に向けた「世界遺産登録推進事業」の一環として、飛鳥京の北限または北部地域の様相を明らかにすることだった。そのため、飛鳥京跡の内郭から北へ約400m、飛鳥寺から南へ約150mの地点に1区と2区の2カ所の調査区が設定された。
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| 上空から見た今回の発掘調査地 |
去る2月9日、橿考研は1区で飛鳥京跡で最大の石組み溝が、そして2区では飛鳥寺南の石敷き広場の一部が見つかったと、マスコミに公表した。
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| 発掘で明らかになった堂塔の方位(*) |
この発掘報道は翌日の10日の新聞各社の紙面でも伝えられ、NHKのテレビでも報道された。マスコミの関心は「石敷き広場」の発見に集中し、石組み溝についてはあまり触れられていなかった、いつもアクセスしているYahooニュースの考古学トピックスは、なぜかこの記者発表を報じなかった。
マスコミ報道で石敷き広場の”発見”を知ったとき、正直なところ「なんで今更」という気分だった。飛鳥寺の南門の南に石敷きの広場が存在していたことは、奈良文化財研究所(=奈文研)が奈良県教育委員会と共同で1956から57年にかけて実施した3次にわたる発掘調査で、すでに判明している。調査内容は、その後に公表された「飛鳥寺発掘調査報告」に詳しい。
同報告書によれば、南門から南へ幅2mの石敷きの参道が45m続き、この参道が南端で、幅20mほどの、これまた石敷きの道路状遺構がT字状に近く交わっていた。しかも、この遺構は参道に直行せず、東で南に七度振れていることも報告されている。
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| 今までの石敷き広場遺構の発掘状況 |
奈文研は1982,83年度にもこの石敷き広場を調査し、南北約20m、東西約70mの広場だったと推定している。さらに2008年11月には、石敷き広場の東北の角を検出している。今回見つかった石敷きは、遺構の南西部分の一部で東西約4m、南北約5mの区域にすぎない。
言ってみれば、すでに存在が判明している遺構の未発掘部分の一部を、たまたま掘り出しただけなのであって、Yahooニュースなどはそれほどニュースバリューを見いださなかったのかもしれない。発掘情報をとかくセンセーショナルに報道したがる新聞各紙も、奈良新聞だけが橿考研の記者発表を一面で報じただけで、他紙は社会面で扱っていた。
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調査2区の発掘現場 手前が石敷き広場の一部。 |
調査地の下の土層から、飛鳥寺造営に用いられたと見られる瓦が出土したという。そうであれば、広場や溝が石を敷いて整備されたのは、飛鳥寺造営後の7世紀前半ごろと考えられる。興味が持たれたのは、正方位に造営された飛鳥寺に取り付く石敷き広場が、なぜ東西軸に対して七度の振れがあるのかという点だ。
飛鳥寺の堂塔は、まず天体観測で南北方向を定め、それと直行する東西線を決めて一塔三金堂を配置している。飛鳥寺の付属設備として石敷き広場が造られたのであれば、東西方向に振れがある理由が分からない。
それと、もう一つ。石敷き広場と通称されている場所は、実は広場ではなくて、飛鳥寺の参道に取り付く門前大通りだった可能性もある。その場合、東西方向の70mの先は何処に通じているのだろうか。新聞報道に接したとき、まずこうした疑問をいだいた。この疑問を氷塊できることを期待しながら、本日の現地説明会に参加することにした。
出典:(*)坪井清足著『飛鳥の寺と国分寺』
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