2010/02/11

特別展『聖地チベット』見学の後、難波宮遺跡探訪

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難波宮跡公園から見た大阪歴史博物館とNHK大阪放送局(撮影:2006/05/09)

大阪歴史博物館で開催中の特別展『聖地チベット』

聖地チベット展のポスター
聖地チベット展のポスター

国記念日の本日、日本列島の南岸に停滞する前線の影響で全国的に雨になった。参加を予定していたMBSラジオウォーク2010も、はやばやとサンチョ君から参加中止のメールが入った。ぽっかり空いた時間を何で埋めようか思案していると、大阪のAから電話がはいった。退屈しているなら、大阪へ出てこい、という。現在、大阪歴史博物館で開催中の特別展「聖地チベット」を見に行こうとの誘いだった。

阪歴史博物館の前身は大阪市立博物館である。大阪市中央体育館跡地に移転となったNHK大阪放送局の新放送会館との複合施設として、「馬場町」の交差点の角に新しく開館したのは、2001年11月である。今から半世紀も前の学生時代、中央体育館に出かけるのに「上本町八丁目」から「馬場町」まで、よく市電を利用した。当時はバレー部に所属していたが、大学には室内体育館がなかった。それで中央体育館を借りて練習するため、上本町筋を市電でよく行き来したものだ。

六の近鉄百貨店前でAの車にピックアップして貰い、小雨に煙る上本町筋を北に向かった。助手席から眺める街の景観が、記憶の底に眠っていた昔の風景とはずいぶんと異なっていた。中央を走っていた電車の軌道がなくなった道路は、なんとなく間延びして見えた。

ダマルバ座像
ダマルバ座像
阪歴史博物館の6階で開催されている特別展は、「ホタラ宮と天空の至宝」というサブタイトルが付いている通り、世界文化遺産であるホタラ宮やダライラマの夏の離宮であるノルプリンカなどから集められたチベット仏教の優品123点が展示されている。そのうち36点が日本の国宝にあたる「国家第一級文物」だそうだ。

の特別展は大阪が最初ではない。昨年の4月から、すでに九州国立博物館、北海道立近代美術館、東京の上野の森美術館で巡回展示されてきた。多数の国宝級の至宝を、こんなに長期間もよく海外に貸し出せるものだ、と感心していると、2004年からこの特別展が世界中を巡回していると、Aが教えてくれた。

ベットと言えば、中国のチベット民族への弾圧が長年続いており、宗教弾圧も激しく行われてきたようだ。2008年のチベット自治区での騒乱はまだ筆者の記憶に新しい。Aの話では、異常とも思える長期の海外巡回展示は、宗教弾圧に対する世界からの非難を中国政府が回避する意図もあるようだ。そう聞かされると、純粋な立場から宗教芸術品を見ようとする目にも曇りが生じる。

カーラチャクラ父母仏立像
カーラチャクラ父母仏立像像
のためのせいだけではないだろうが、数々のチベット仏像が醸し出す雰囲気に、ずいぶんと違和感を抱いた。我が国の仏教寺院で拝観する仏像の表情は、憤怒の形相をした不動明王を除けば、概して穏やかである。迷える衆生をいかに救済しようかと瞼を半分閉じて瞑想する姿は、見る者の心の奥底まで静謐を与えてくれる。だが、チベット仏像は金色の顔の中央でぱっちりと見開いた瞳で、こちらの魂を射すくめるように鋭く睨む。今にも動き出しそうな躍動感あふれる肢体も、日本の仏像ではあまり見かけない。

くの仏像は多面多臂で恐ろしい形相をしており、配偶女尊と抱き合う忿怒歓喜仏の姿が多く見られる。なかでも、カーラチャクラ父母仏立像は圧巻だった。カーラチャクラとは、サンスクリット語で時間(カーラ)と輪(チャクラ)を意味し、時間の流れを象徴している仏像である。明妃ヴィッシュヴァマーターを抱いた姿で父母仏として表現されるが、いかにも即物的である。一般には、見せるものではないとされ、通常は錦の衣をまとっているという。

十一面千手千眼観音菩薩立像
ポスターにも使われた
十一面千手千眼観音菩薩立像
ベットに仏教が伝来したのは、我が国より新しい。7世紀の初めにソンツェンガンポがチベット高原を統一して吐蕃(とぱん)王国を建設し、唐とネパールから二人の妃を迎えたことを契機に、チベットにおいても仏教が芽吹いた。7世紀末には、ティソンデツェン王の時代に周辺仏教国から僧侶、仏像、経典がチベットに流入し、仏教は国教として発展したという。

ジアの仏教文化圏の中で、現在も生活に根ざした密教が息づいているのは、チベットと日本だけだそうだ。密教思想はインドで体系化され、6世紀から7世紀頃に中国に伝わった。我が国の密教は、9世紀に空海や最澄によって伝えられたもので、『大日経』に説かれる胎蔵界曼荼羅と『金剛頂経』に説かれる金剛界曼荼羅を重視している。一方、チベットの密教は、8世紀以降にインドから伝わり教義が整理されたもので、瑜伽(ゆが)タントラ、無上瑜伽(むじょうゆが)タントラと呼ばれる密教経典を重視し、本尊の多くは多面多臂で恐ろしい形相をしている。



地下に保存されている5世紀代と前期難波宮の倉庫群遺構

面多臂で憤怒の形相のチベット仏像にいささか食傷気味になって、特別展の会場を出た。エレベータで博物館の一階まで降りてくると、
「ついでだから、難波宮遺跡を探訪していこう」
とAが言った。前期難波宮の八角殿や後期難波宮の大極殿を復元整備した難波宮跡公園は、高速道路を挟んで歴史博物館の南東に位置している。しかし、外は雨である。

「管理棟」の遺構展示
前期難波宮内裏西方官衙の「管理棟」の遺構展示
の史跡見学など気が進まないと言うと、Aは笑って、
「探訪する場所はこの博物館と隣のNHK大阪放送局の建物の地下にある」
とフロアの一画を指さした。そこは、床に硬質ガラスが埋め込まれ、床下がのぞき込めるようになっている。ガラスの上に立つと、発掘調査の現場でよく見かける表土を剥いだ地形を見下ろすことができ、柱を抜き取った穴の印が目に付いた。それは「管理棟」と命名された建物の遺構だった。

の説明によると、大阪歴史博物館とNHK大阪放送局の建設工事に先立って敷地の発掘調査を実施したところ、5世紀後半と前期難波宮の頃の倉庫群跡が見つかった。5世紀代の倉庫群は確認できただけでも16棟の大型掘立柱建物が120mほどの範囲に規則正しく建設されていた。いずれも正確に南北を意識して建てられ、床を支える床柱とは別に2本の棟持ち柱を持っている。そのため、大陸のすぐれた技術で設計されたものと考えられ、「法円坂遺跡」と命名された。

倉庫群の遺構
倉庫群の遺構イラスト(難波宮跡ガイドマップより)
う一方の倉庫群は、5世紀代の倉庫群の並びと直行する方向に建てられた6棟の建物で構成され、その背後に2列に並ぶ堀跡も見つかった。さらに、近くから特殊な構造をもつ「並び倉」や管理棟と思われる建物の遺構も出土している。これらの建物群は、645年の乙巳(いっし)の変の後に遷都した孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」の一部と見られ、前期難波宮の内裏西方官衙(だいりせいほうかんが)と名付けられた。

成3年(1991)2月、これらの遺構群を建物の地下や南側の公園に保存し、一部は遺構そのものを発掘した状態で観覧できる形で保存する方針が決定され、現在の博物館とNHK大阪放送局の建物は遺跡の上に建てられた。

難波宮遺跡探訪受付カウンター
難波宮遺跡探訪受付カウンター
までに何回か大阪歴史博物館を訪れたが、倉庫群の地下遺構が見学できるとは知らなかった。「管理棟」の遺構展示の脇に難波宮遺跡探訪受付カウンターがある。そこに、学芸員やボランティアのガイドが待機しており、1時間おきに建物の地下に保存されている遺構を案内してくれるというので、早速申し込んだ。一般の見学は20分ほどだが、南側の史跡公園の案内も含めると40分かかる。だが、こちらの案内は一日に一回だけのようだ。

倉庫の柱穴の跡を示すフロアのデザイン
倉庫の柱穴の跡を示すフロアのデザイン
ランティアガイドに説明されて、あらためて気づいたのだが、博物館やその周辺には遺構を示すさまざまな仕掛けが施されている。博物館一階のフロアには丸い輪が一列に描かれている。単なるフロアのデザインだとばかり思っていたが、倉庫の柱穴の位置を示しているという。建物の外には植え込みがあるが、その樹木の一本一本も柱穴の位置を表しているとのことだ。


難波の堀江掘削当時の地形
難波の堀江掘削当時の地形
文時代の中期(約5000〜4000年前)には、現在の上町台地の東側には、大阪湾から入り込んだ広大な河内湾が存在した。しかし、淀川と旧大和川から河内湾に流れ込む土砂で、上町台地の北側に大きな砂州がどんどん伸びていった。そして、弥生時代中期(約2000年前)には、この砂州が河内湾を大阪湾から遮断してしまった。そのため、河内湾の淡水化が進んで、河内湖に変わった。

墳時代になっても、淀川と旧大和川から流れ込む土砂で河内湖はどんどん浅くなり、大雨が降る毎に湖岸の集落は洪水に見舞われた。4世紀末から5世紀はじめにかけて、乾田農法という新しい農耕技術とU字形鍬先を含む新しい鉄製農具の携えた渡来人が朝鮮半島から移住してきた。彼らの一部は上町台地の周辺に住み着いて原生林を切り開いていった。5世紀は「倭の五王」の時代と言われるように、この頃には日本列島を代表する政治勢力が河内・和泉地方に生まれている。この政治勢力にとって、難波地域は西国や朝鮮半島、中国への交通の要地として特別な意味を持つ地域だった。

世紀後半には、大和朝廷の政治勢力は現在の奈良県桜井市がある磐余地方に移る。しかし難波は引き続き外交・西国経営の要地であった。特に難波津は大和朝廷の表玄関としてその重要性を増していた。難波津まで運ばれてきた西国からの物資や半島諸国からの献上品を大和に移送するには、陸路を運ぶより川船で河口湖から大和川をさかのぼって運ぶ方が便利である。さらに、上町台地東北部の集落は、水はけが悪いため大雨が降るたびに洪水に見舞われていた。しかし水路を築いて河口湖の水を大阪湾に導くことで、これらの集落を水害から守ることができる。

法円坂遺跡の復元イメージ
法円坂遺跡の復元イメージ
うした一石二鳥の効果をねらって、上町台地の北側にあたる天満砂堆を東西に切り開いて水路が造られることになった。これが難波の堀江であり、現在の大川の最初の姿である。『古事記』は仁徳紀11年に「宮の北の野原を掘りて南の水を引きて西の海に入る。因りて、その水を名付けて堀江という」と記している。しかし、実際に堀江の開削が行われたのは5世紀後半から6世紀の初めころと推察されている。

波の堀江が掘削されると、難波津まで運ばれてきた西国からの物資を川船に積み替えて大和に回送するために、一時的に保管しておく倉庫が必要になった。そのため難波の堀江を見下ろす丘に、掘立柱式の巨大な倉庫が何棟も築かれた。それがおそらく法円坂遺跡として発掘された倉庫群であろう。


前期難波宮復元イメージ
前期難波宮復元イメージ
西暦645年6月、乙巳(いっし)の変で専横を極めた蘇我蝦夷・入鹿(そがのえみし・いるか)父子を滅ぼした後、中大兄皇子、中臣鎌子らによって上町台地に本格的な首都宮殿の建設が企画された。難波長柄豊碕宮(なにわながらのとよさきのみや)という。652年に宮が完成すると、孝徳天皇がこの新しい宮に遷宮した。654年に孝徳天皇が薨去した後、皇位を継いで重祚(ちょうそ)した斉明天皇は飛鳥板蓋宮に遷宮した。しかし、宮殿の建物は686年正月に火事で全焼するまで存続した。天平16年(744)になって、同じ場所に聖武天皇によって宮殿が築かれた。このため両宮殿を区別するために、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮を前期難波宮、聖武天皇の宮を後期難波宮と呼んでいる。

倉庫の柱穴の跡を示すフロアのデザイン
倉庫の柱穴の跡を示すフロアのデザイン
掘調査で検出された前期難波宮の倉庫群とそれに関連した付帯施設は、宮の西北の隅に位置していたことから内裏西方官衙と名づけられた。その地下遺構を見学するには、見学者はいったん博物館を出て、防災センター入口と書かれた外の階段を下りて地下の展示室に入っていくようになっている。長い通路の先の行き止まりに、ガラスに囲まれた展示室があった。見学者は左右のガラスを通して、通路の左側に内裏西方官衙の倉庫跡を、右側に南北塀の跡をそれぞれ見ることができる。

内裏西方官衙の倉庫跡 倉庫群の復元イメージ
内裏西方官衙の倉庫跡 倉庫群の復元イメージ

南北塀の跡 南北塀の復元イメージ
南北塀の跡 南北塀の復元イメージ

下遺構の中に灯籠のように並んでいる円筒の明かりは、建物の柱があった位置を示している。ガラスの内側には、倉庫跡や塀跡の復元イメージがイラストで示されていた。倉庫跡の遺構は、万灯籠のような光の列にほんのりと照らし出されて一種独特な幽玄の世界を醸し出している。孝徳天皇の皇后・間人(はしひと)皇女と中大兄皇子の道ならぬ恋の密会の現場も、あるいはこれらの倉庫の陰だったのかもしれない、と勝手に空想してみた。

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復元された掘立柱倉庫
のため見学は中止したが、博物館の南にある史跡公園には高床式の大型倉庫が復元されている。内部の広さは190平米、床下の高さは1.5mと巨大である。復元にあたっては、当時の工法にできるだけ近い手法にこだわって建てたとのことだ。

お、本日は見学できなかったが、内裏西方官衙の西にある谷の中に、湧き水を集める泉施設とそこから北西に延びる石組み溝が築かれている。前期難波宮に水を供給した水利施設跡で地下遺構として保存されている。一日に一回、水利施設跡の見学も兼ねた遺跡探訪も開催されるが、雨が降った時は中止になるようだ。




2010/02/12作成 by pancho_de_ohsei return