『天平の甍』の中で気づいた誤り
筆者は最近、墓誌の発見で有名になった遣唐留学生・井真成(せいしんせい)に惹かれて、奈良時代の遣唐使について少し史料を漁ってみた(平成22年1月27日付け橿原日記参照)。その時仕入れた生半可な知識が邪魔したのか、『天平の甍』の中にも史実と異なる点がいくつもあるのに気づいた。
もとより井上靖氏は小説家であって歴史学者ではない。いくつかの創作やフィクションを盛り込むことで、物語を史実のように描くことは許されるであろう。しかし、史実や事実から逸脱して読者に間違った知識をあたえるような記述は、やはり控えるべきだったと思う。勿論、部分的に史実と異なる内容が含まれているからといって、この文学作品の質を損なうものではない。
以下に、筆者が気づいた誤りと思われる箇所を幾つか参考までに列挙しておこう。
第九回遣唐使船は渡海に3ヶ月以上もかかった?
『天平の甍』の記述に従って、第九次遣唐使船が中国の蘇州に漂着するまでの行程を追ってみよう。
■ 第八次遣唐使が帰国してから18年を経た天平4年(732)になって、ようやく次の遣唐使派遣が企画され、遣唐大使・多治比真人広成(たじひのまひと・ひろなり)、遣唐副使・中臣朝臣名代(なかとみのあそん・なしろ)以下遣唐判官(複数名)が任命されたのは、その年の8月17日である。9月4日には、近江、丹波、播磨、備中の4カ国に4隻の船の建造が命じられた。
■ 天平5年(733)閏(うるう)3月26日、大使広成は拝朝して節刀を受ける。
■ 4月3日、4隻の遣唐使船が難波津を出航。途中、武庫(むこ)、大輪田泊(おおわだのとまり)、魚住泊(うおずみのとまり)、韓泊(からどまり)、ムロ生泊(むろふのとまり)、多麻浦(たまのうら)、神島(こうのしま)、備後長井浦(ながいのうら)、安芸風速浦(かざはやのうら)、長門浦(ながとのうら)、周防国麻里布浦(まりふのうら)、熊毛浦(くまげのうら)、豊前分間浦(わくまのうら)など寄港しながら、4月中頃に筑紫の大津浦に到着。
■ 4月の終わり、大津浦を発航して、外海に乗り出す。節刀を受けて約一ヶ月後のことである。
■ 普照をはじめ留学僧たちは船酔いに苦しめられた。それがおさまる頃には、船は凪や暴風雨に見舞われながら、8月になってようやく蘇州に漂着した。筑紫の大津浦を出てから実に3ヶ月以上船は海上を漂よっていたことになる。
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| 遣唐使船の航路 |
遣唐使船の航路がそれまでの朝鮮半島の沿岸沿いに行く北路から、東シナ海を一挙に横断する南路を取るようになったのは、大宝2年(702)に派遣された第七次遣唐使以降のことである。筑紫の大津浦を出た後、五島列島で風待ちをして良風が得られれば、一気に東シナ海を横断する。だが、このルートを取るには潮の流れと風の方向を常に考えなければならない。
東シナ海では、黒潮が南西から北東へ相当強い勢いで流れている。潮の流れは広い川のようなもので、船は当然川下へ流される。このため、杭州湾口にある船山列島付近から日本の五島列島に渡る航路はきわめて容易だが、逆に五島列島から揚子江口に向かうには、困難が伴う。
東シナ海では、冬の間は北風が強く、夏の期間は南または南東の風が弱く吹く。秋は北東風が多く、春は不定である。したがって日本から中国へ行くには東よりの風が吹く時期を、中国から日本へ来るときは西寄りの風が吹く時期を選ぶべきである。しかし、冬の北西風はきわめて強く、構造の弱い船では追い風でも航海は無理である。加えて、台風の時期も問題である。台風が発生しやすい7月から10月は警戒を要し、特に8月から9月にかけては台風に遭うものと考えて良い。構造の弱い船はなんとしても避けなければならない時期である。
東シナ海の海上距離は365海里、すなわち675キロほどしかない。大津浦を発航してから3ヶ月以上かかって蘇州に到着したというのは、いかにも長すぎる。第十二回遣唐使の場合は、宝亀8年6月24日に現在の五島列島福江島の玉の浦を出航して唐に向かったが、8日後の7月3日に揚州管内の海陵県に着いている。
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| 『入唐求法巡礼行記』 |
『入唐求法巡礼行記』を現した円仁は第十五次遣唐使に従って入唐した。『入唐求法巡礼行記』は、承和5年(838)6月13日に博多津から3度目の渡海に挑戦した日から始まっている。円仁は遣唐大使藤原常嗣が乗る第一船に乗船した。しかし、順風が得られず、3日間博多湾頭で過ごし、さらに志賀島の裏で5日間風待ちをして、ようやく6月22日、東北風を得て五島列島を目指して船出した。
翌日の朝10時に、第一船と第四船は五島列島の最北にある有救島(今の宇久島)に到着し、その日の夕方6時に帆を上げて、東シナ海に乗り出した。夜間航行のため、両船は松明(たいまつ)などで互いに連絡を取り合っていたが、そのうち第四船の姿を見失ってしまう。円仁が乗船している第一船は、途中で嵐にあい帆柱を折りながら7月2日に、揚子江河口の揚州海陵県白潮鎮桑田郷東梁豊村に到着した。円仁は唐土に着いた日付けを感慨深げにこう記している。
"日本国の承和5年7月2日、すなわち大唐の開成3年7月2日なり。年号は異なるといえども、しかも月日は共に同じ”
すなわち、6月23日の夕方、五島列島の最北にある有救島から船出して、8日間で揚子江河口に到着している。
以上のように文献に残る東シナ海横断日数は、五島列島を起点としてもせいぜい8日程度である。博多湾を起点と考えても『天平の甍』のように3ケ月以上を要するとはとても思えない。おそらく作者たる井上靖氏の思い違いか、史料の読み違いであろう。ちなみに、『扶桑略記』には、4月3日に盛大な見送りを受けて難波津を出帆した遣唐使船4隻は、瀬戸内を通って筑紫に向い、そこで準備万端をを整え、7月6日博多那の津を出帆して唐に向かって旅立ったとある(上田雄著『遣唐使全航海』p.94)
第九次遣唐使は西都長安まで行かず、東都洛陽で玄宗皇帝に朝見した?
『天平の甍』は、蘇州に漂着した後の第九次遣唐使一行の足取りを次のように記述している。
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| 玄宗皇帝 |
"広成らが蘇州に漂着したことは、直ちに蘇州刺史、銭惟正(せんいせい)に依って中央に奏せられ、接待役として通事舎人(つうじとねり)の韋景先(いけいせん)が蘇州にやって来て一行を慰労した。それから一行のうちで許されたものだけが、大運河でベン州へ上陸、陸路洛陽に向かうことになった。
大使広成らが洛陽に入ったのは翌天平六年、つまり、玄宗帝の開元二十二年(734)の四月であった。蘇州へ到着してから八ヶ月を経ている。一行は西都長安にはいらず、東都洛陽にはいったのは、玄宗帝がこの年洛陽に幸し、そのまま長安に戻らず唐の朝廷は洛陽にあったためである。"
だが、こうした記述はどうも史実を反映していないようだ。『資治通鑑』によると、開元21年(733)の秋冬、京師は異常な飢饉に見舞われ、玄宗はその窮状を緩和する目的で、翌年の正月7日に東都洛陽に移った。したがって、遣唐使節の一行が玄宗皇帝と朝見できたのは、洛陽城であり、開元22年の4月だった。だが、通事舎人の韋景先に案内されて先ず向かったのは、西都長安ではなかったのか。8月に蘇州に到着しているのであれば、その年の内に長安に到着していてもおかしくない。
それを伺わせる史料が残っている。石山寺に残る『遺教経』の奥書(おくがき)である。そこには「唐の清信の弟子・陳延昌が、この経典の日本への流布を願って清書したものを、日本の使・朋古満に託し、彼が開元22年 (734)2月8日、京(長安)を発つときに記す、と書かれているという。これが事実であれば、第九次遣唐使はせっかく長安入りしたが、正月に皇帝に拝謁できないままで長安で待機・逗留を余儀なくされ、玄宗皇帝との拝謁は4月に洛陽でかなうと知らされて、2月8日に慌てて洛陽に向かった様子が伺える。
実は、長安で病死した遣唐留学生・井真成の葬儀が2月4日に行われている。彼は、第九次遣唐使が帰国するとき、吉備真備や玄ムらと共に日本に戻る予定だったが、正月■日に死んでしまった。通常は埋葬までにもっと長い期間喪に服すところ、遣唐使たちの洛陽行きを考慮して、早めに葬儀が行われた可能性がある。第九次遣唐使の一行は、同胞の異国での死を悼んでこぞって葬儀に参加したものと思われる。
ところで、『遺教経』の奥書に記された朋古満とは何者だろうか。大伴古麻呂であるとする説と、朋古満ではなくて「羽古満」と呼んで阿倍仲麻呂の付き人として在唐中だった羽栗吉麻呂(はぐりのよしまろ)に比定する説がある。
玄ムは吉備真備や阿倍仲麻呂らより1年早く入唐した?
普照たちは、帰国する大先輩の僧玄ムに洛陽の大福先寺で会った。その玄ムについて、『天平の甍』では、なぜか霊亀2年に入唐、爾来今日まで19年唐土にあった人物である、と記している。霊亀2年は西暦716年にあたる。この年に遣唐使は派遣されていない。玄ムが唐に渡ったのは養老元年(717)の第八回遣唐使派遣のときであり、吉備真備や阿倍仲麻呂、大和長岡らと同じ時期だった。別の箇所でも、”真備は玄ムより一年あとの養老元年、第八次遣唐使船に依って阿倍仲麻呂らと共に入唐した留学生”と記述されている。どうやら井上靖氏は玄ムの入唐を真備や仲麻呂より1年早いと見ておられたようだ。何かの錯誤があったとしか思えない。
『天平の甍』のタイトルの元になった不思議なエピソード
『天平の甍』の末尾で、井上靖氏は不思議なエピソードを記している。天平宝字2年(758)に渤海国に派遣した小野国田守(おののくにたもり)が帰国するとき、不思議なものを普照のために持ち帰ってきた。唐から渤海を経て日本の僧・普照宛に託送されてきた一個の甍(いらか)で、寺の大棟の両端に載せる鴟尾だった。送り主は不明とのことだ。おそらく、井上氏のフィクションであろう。
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| 唐招提寺金堂の大棟の端に聳える鴟尾 |
普照は東大寺の自分の住む寺坊の入口にその鴟尾を置いておいたが、3ヶ月目に唐招提寺の工事を司る藤原高房に差し出した。唐招提寺の主な建物が大体落成したのは天平宝字3年(759)8月だった。”普照は唐招提寺の境内へ入ると、その度に金堂の屋根を仰いだ。そこの大棟の両端に自分が差し出した唐様(からよう)の鴟尾の形がそのまま使われてあったからである”と記されている。
しかし、金堂は、上述したように鑑真と一緒に来日した西域人の安如宝(あんにょほう)が、延暦元年(781)頃に完成させたと考えられている。 普照がどんなに長生きしたとしても、唐招提寺金堂の大棟の両端に据えられた鴟尾を仰ぎ見ることはなかったであろう。
なお、井上氏は遣渤海使の名を小野国田守と記すが、小野田守(おののたもり)が正しい。天平宝字元年(757)、遣渤海大使に任命され,翌年渤海使楊承慶ら23人をつれて帰国したが、このとき、唐で安禄山の反乱が起こったことを報告した人物として知られている。
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