2010/02/01

何かがおかしい三角縁神獣鏡論争

桜井茶臼山古墳から出土した銅鏡の384点の破片の波紋

並べられた銅鏡の破片(毎日新聞より)
並べられた銅鏡の破片(毎日新聞より)
良県桜井市にある桜井茶臼山古墳を調査していた県立橿原考古学研究所(橿考研)は去る1月7日、この古墳には国内最多の13種、81面の銅鏡が石室に副葬されていたと公表した。石室の床から収集した384点の鏡の破片を「三次元デジタル・アーカイブ」のデータと一つ一つ照合した結果、この驚くべき事実が判明したというのだ。

思議なことに完形の銅鏡は一枚もなく、見つかったのはほとんどが1〜2cmの指先ほどの破片だった。しかも、特定できたのは約200点の破片だけであり、他の180点についてはどの鏡のどの部位か分かららず、実際はもっと多くの鏡が副葬されていた可能性もあるという。

らに驚くべき事実も明らかにした。「是」という字が刻まれていた縦1.7cm、横1.4cmの小さな破片は、蟹沢古墳(群馬県高崎市柴崎)から出土した「正始(せいし)元年」の銘がある三角縁神獣鏡に刻まれた字と形が同じで、同じ鋳型から作られた鏡のものだった。正始元年(240)は邪馬台国の女王卑弥呼が魏に派遣した使節が帰国してきた年である。


一面で記者発表を伝える毎日新聞
「是」の字が見つかった破片(毎日新聞より)
志倭人伝の記述を信用するなら、前年の景初3年(239)の6月、卑弥呼は難升米(なんしょうまい)らを遣魏使節として朝鮮半島の帯方郡に派遣した。一行は魏の皇帝に謁見して奴隷その他の貢ぎ物を献じたいと申し出たので、太守の劉夏(りゅうか)は役人に命じて一行を都・洛陽に送らせた。その年の12月、使節に引見した魏の皇帝・曹芳(そうほう)は、詔を下して卑弥呼を親魏倭王となし金印紫綬を与えることとし、数々の下賜品を帰国する使節の一行に託し、持ち帰って国中に示せと命じた。その下賜品の中に邪馬台国論争で話題になっている「銅鏡百枚」があった。

志倭人伝はさらに続ける。正始元年(240)、使節は再び帯方郡まで戻ってきたが、帯方郡の太守は劉夏から弓遵(きゅうじゅん)に代わっていた。弓遵は建中校尉の梯儁(ていしゅん)を使節に同行して倭国に行かせ、卑弥呼に親魏倭王の位を授け、皇帝の詔書を伝え、下賜品を与えた。そこで、卑弥呼は詔書を持たせた使節を送り、皇帝に感謝した。


三角縁神獣鏡の特徴
三角縁神獣鏡の特徴(近つ飛鳥博物館作成)
弥呼は、魏の皇帝から下賜された鏡を重要拠点の勢力に与え服従させたとされている。だが、彼女の君臨した邪馬台国はどこに所在したかは、今もって不明である。学界の主流は「畿内説」と「九州説」の二説に大きく分かれているが、未だに決着を見ていない。畿内大和説をとる論者は、卑弥呼に下賜された銅鏡は三角縁神獣鏡であり、卑弥呼は各地の首長に臣従の証としてその鏡を与えたと主張してきた。

角縁神獣鏡とはその名の通り、鏡の縁の断面部分が三角形になっており、背面の模様に神と獣が刻まれている鏡をいう。直径は23cm前後の大きさであり、鏡面がゆるやかな凸面を持っている。前漢鏡や後漢鏡と違って、この鏡は主に近畿圏を中心として、全国各地の古墳から出土する。したがって畿内大和説を支持する有力な物的証拠のように思われた。

蟹沢古墳出土の正始元年鏡
蟹沢古墳出土の正始元年鏡
初は、邪馬台国=畿内大和説の説得力のある証拠品に思えたが、そのうちさまざまな問題点が指摘されるようになった。古墳の発掘調査が進むにつれて三角縁神獣鏡の数がどんどん増えて、その総数はすでに500枚を越えていると思われ、正確な数値を把握している者は専門家にもいない。まだ発掘調査されていない古墳もあり、相当数の三角縁神獣鏡が地中に眠っている可能性は高く、学者によっては1000枚はあると推測する人もいる。

弥呼に下賜された鏡の数は100枚である。それを大きく越える鏡の発見で、邪馬台国=畿内大和説をサポートする根拠が揺らぎだした。その点を指摘されると、畿内論者は、卑弥呼や彼女の後を嗣いだ台与(とよ)は何回も使節を派遣しており、三角縁神獣鏡の入手は100枚に限定する必要はない、あるいは、三角縁神獣鏡には魏から下賜された舶載鏡とそれを模して鋳造した国内産の鏡があり、100枚以上見つかって当然だと反論した。

森尾古墳出土の正始元年鏡
森尾古墳出土の正始元年鏡
竹島御家老屋敷古墳の正始元年鏡
竹島御家老屋敷古墳
の正始元年鏡
角縁神獣鏡を邪馬台国畿内説の根拠とするには、もう一つの大きな欠点がある。卑弥呼に下賜した鏡は魏の官営工房で鋳造されたはずだが、鏡の縁が三角になっている特殊な鏡は、今までに中国大陸から一枚も見つかっていない。畿内論者はこの点に関しても、魏は卑弥呼のために特鋳させた鏡であるとか、あるいは帯方郡があった朝鮮半島で作らせたのでは、といった反論がなされている。

馬台国畿内説と九州説の間で繰り返されてきたこうしたバトルを振り返ってみると、三角縁神獣鏡を邪馬台国が畿内にあったとする説の論拠とするには、素人目にも無理があるような気がする。現在では、前方後円墳などの発生地をヤマトとすることで、邪馬台国畿内説を唱える考古学者が多い。

んな中にあって、桜井茶臼山古墳出土の鏡片から正始元年の銘を持つ三角縁神獣鏡が存在したことが明らかになった。ちなみに、この年号が記された鏡は、今までに上記の蟹沢古墳(高崎市柴崎)と森尾古墳(兵庫県富岡市)と竹島御家老屋敷古墳(山口県周南市)の3カ所からしか出土していない。今回の発見は鏡そのものではなくその一部にすぎないが、ともかくも4例目が見つかったことになる。

1.7cmx1.4cmの銅鏡の破片が再燃させた邪馬台国論争

月22日と31日付けの産経新聞インターネット版によると、正始元年の銘がある三角縁神獣鏡は、卑弥呼との関係をクローズアップさせ、考古学者たちの研究者魂を一気にヒートアップさせているという。

加茂神社古墳出土の景初三年銘三角縁神獣鏡
景初三年銘三角縁神獣鏡
(島根県の加茂神社古墳出土)
えば、山口大学の近藤喬一名誉教授は、正始元年鏡が出土した3カ所がいずれも大和から遠く離れた地方であることに着目して、
「当時の大和政権にとって、瀬戸内海は朝鮮半島や中国と結ぶメーンルートであり、瀬戸内海航路を確実に掌握するため、竹島御家老屋敷古墳(山口)の被葬者に正始元年鏡を与えた」、「しかし、瀬戸内海が使えなくなった場合を想定し、日本海航路を“保険”として確保するため、森尾古墳(兵庫)の被葬者にも正始元年鏡を与えた」、「蟹沢古墳(群馬)にあるのは、東国を押さえるためだった」と、コメントしておられるとのことだ。

うした見解に対して、正始元年鏡が中国で1枚も見つかっていないことを理由に、卑弥呼とは無関係であり、国産の鏡であると考える見解もある。

橿考研の菅谷文則所長は、
「正始元年の鏡を見て、ただちに邪馬台国という単語が出てきそうだが、それに踊らされるべきではない」とし、「正始元年鏡は、倭国の使者が帰国してから、日本国内で作られたものであり、卑弥呼に下賜された鏡ではない」と自説を述べておられる。

椿井大塚山古墳から出土した三角縁神獣鏡
京都府椿井大塚山古墳出土の三角縁神獣鏡
うした意見に異を唱える研究者は、
「三角縁神獣鏡に描かれた文様の変遷は、中国の出土遺物にみられる文様の変遷と共通している」と客観的な根拠を挙げ、「中国製は揺るがない」と反論しているとのことだ。

うした論者に問いたい。三角縁神獣鏡が1面も中国で出土しない理由は何なのか、また、舶載鏡とされている鏡の材料分析で、日本製でないことがすでに証明されているのか、と。こうした素人が抱く単純な疑問に対して、未だに納得のいく説明はなされていないような気がする。

属考古学の新井宏氏によれば、鉛同位体比(lead asotope ratio)分析を活用すれば、鏡の制作地を推定できるそうだ。古代青銅の成分は主に銅、錫、鉛の三種であり、これらはすべて鉱石を精錬して得られる。鉛には、質量数の異なる4種の安定同位体(204Pb、206Pb、207Pb、208Pb)があるが、鉱床生成の年代によって同位体比は異なる 。したがって、鉛の安定同位体比を分析することで、青銅原料の産地を推定できるとのことである。

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大型放射光施設(SPring-8)
前に、京都市の泉屋博古館(せんおくはくこかん)は、所蔵する中国鏡69面と国産鏡18面、三角縁神獣鏡8面の計95面について、これらの青銅鏡の材料に含まれる微量の銀とアンチモンの割合を、世界最大級の放射光分析施設(愛称SPring8、Super Photon ring-8 GeV)を使って分析した。そして、2004年5月15日に三角縁神獣鏡=中国製説に有利と思わせる分析結果を新聞各社に発表した。

の分析結果に疑問を抱かれた新井氏は、鉛同位体比分析を活用して、泉屋博古館の三角縁神獣鏡のほとんどは、国産の鏡の鉛同位体比に極めて近く舶載鏡ではないことを突き止められた。化学分析によって鏡の材料の原産地が突き止められるのであれば、4面の景初三年銘鏡も鉛同位体比分析で生産地を特定するのが先決ではあるまいか。

らに、別の疑問もある。卑弥呼が魏の皇帝から下賜された正始元年鏡を権威の象徴として地方に配り国内を統治したのであれば、もっと多くの正始元年鏡が出土して良いはずである。それが4面程度だけだとは余りに少ない。

弥呼の使節に託された銅鏡100枚が、本当に正始元年鏡だったのかどうかにも疑問がある。魏志倭人伝には、卑弥呼の使節が帯方郡にやってきたの景初3年(239)の6月、彼らが帯方郡の役人に引率されて都洛陽に到着して魏の皇帝に謁見したのはその年の12月、そうであれば翌年の正始元年(240)の初めには帰国の途に着いているはずである。正始元年の銘を記入した鏡を急いで官営の鏡工房に特鋳させたとしても、彼らの帰国までに100枚も完成したとは、とても思えない。


井茶臼山古墳から出土した銅鏡の破片は、研究者の間で別のバトルも生んでいる。三角縁神獣鏡は権威の象徴として地方に配られた最も重要な鏡であるというのが従来の定説だった。だが、そうした定説に否定的な見解が出された。

平原(ひらばる)遺跡出土の内行花文鏡
平原(ひらばる)遺跡出土の内行花文鏡
橿考研の菅谷文則所長は、大型で高い製造技術を要する国産の内行花文鏡こそ、初期大和政権の権威の象徴だったのでは、と推測されている。

阪大大学院教授の福永伸哉氏も、「卑弥呼の時代は強大な中国の権威を国内統治に利用できたが、、桜井茶臼山古墳が築造された4世紀前後は中国の内政悪化で影響力が低下しており、倭国王は独自に権威の象徴を創出する必要があった」とし、その象徴が国産の内行花文鏡であった、と考えておられる。

とよりこうした意見に対して、三角縁神獣鏡こそ権威の象徴としてふさわしいとする論者は多い。

者にとって、桜井茶臼山古墳の銅鏡をめぐる最大の疑問は、なぜ粉砕された破片の形でしか発見できなかったのかという点である。盗掘の際に破壊されたにしては、破砕の仕方が異常である。被葬者が銅鏡製作集団の管理者であり、製作現場で不良品として破壊された銅鏡片が散乱する土が石室の床に敷かれたのでは・・・との推測もある。しかし、茶臼山古墳は3世紀末から4世紀初め頃に築造された全長200mの堂々たる前方後円墳である。被葬者が鏡製作集団のボスなどという身分だったとは到底思えない。初期大和政権の大王またはそれに準じるクラスの人物だったはずである。そのような被葬者の石室に廃材が混入した土など用いるだろうか。




2010/02/01作成 by pancho_de_ohsei
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