橿原日記 平成22年01月30日

死者は太陽の没する国に行くと信じた古代エジプトの人々

パピルスに描かれた「死者の書」
パピルスに描かれた「死者の書」

サンシャインシティで開催中の「吉村作治の新発見!エジプト展」

サンシャインシティ
サンシャインシティ
■ 大寒の時期としては日中は暖かく3月の陽気だというので、久しぶりに池袋に出た。池袋駅からサンシャインシティに向かう「60階通り」は、池袋一の繁華街である。終末の午後だったせいか、歩行者天国の通りは若者たちで溢れかえり、世の中の不況風などまるで無縁とでもいうように、楽しげに語らいながらすれ違っていく。

■ さすがに古稀を迎えた年配者の一人歩きは見かけない。時折、昔を懐かしむように散策に出かけてきた年寄り夫婦に出会う程度だ。人混みをかき分けながら先へ進むと、やがて首都高速の高架の向こうに60階建てのサンシャインシティのビルが見えてくる。巣鴨刑務所跡に1978年に建設された超高層複合商業ビルである。

エジプト展のポスター
エジプト展のポスター
■ 本日のお目当ては、サンシャインシティ文化館の7階にある古代オリエント博物館で開催されているエジプト展だった。太陽の船プロジェクト開始記念と銘打って、「吉村作治の新発見!エジプト展」が昨年から各地を巡回し、現在は2月7日までの会期で東京で開催されている。エジプト展が開かれるたびに、過去何回か見学したことがあるが、ミイラそのものとミイラマスクの展示が目玉であることが多かった。

■ 今回のエジプト展も「古代エジプトのミイラと死生観」がテーマだそうだ。しかし、わずかに子供のミイラが入った木棺のレプリカだけで、本物のミイラは展示されていない。主な展示品は、吉村作治氏が率いる早稲田大学古代エジプト調査隊が最近発掘した品々と、カイロ博物館から貸し出された70点の出土品である。それと合わせて、早稲田隊が1987年にクフ王の大ピラミッド脇で発見した「第2の太陽の船」の引揚げ・復元プロジェクトも紹介している。

吉村作治氏
吉村作治氏
■ 吉村作治(1943 〜)という考古学者は、時折テレビの番組でも拝見しているお馴染みのエジプト考古学者である。1966年にアジア初の早大エジプト調査隊を率いてエジプトに赴いて以来、40年以上にわたって発掘調査を継続しており、ルクソール西岸の「マルカタ南・魚の丘遺跡」「クルナ村貴族墓」「王家の谷・西谷遺跡」、カイロ南郊の「アブ・シール南遺跡」「ダハシュール北遺跡」などを発掘し、ギザのクフ王の大ピラミッド脇で発見した「第2の太陽の船」の引き上げ・復元なども実施している。

■ エジプトにおける学術的発掘調査は、フランス・イギリスなどのヨーロッパ諸国が19世紀初頭から実施してきた。調査団は発見の見返りとして発掘品の分配を求めたため、多くの出土品がエジプトから運び出されてしまった。しかし、早稲田大学古代エジプト調査隊は、発掘品を国外に持ち出すことなく、そのすべてをエジプト国内にとどめ、保存・研究を行なう体制を確立させてきた。そうした姿勢がエジプト政府の共感を得、今回の展示会では、早稲田隊による発掘品をエジプト政府の特別の協力により借り受け、日本で公開しているとのことだ。

セヌウのミイラマスク
セヌウのミイラマスク
■ 早稲田大学古代エジプト調査隊の最近の発掘実績としては、先ず2005年1月にエジプトのカイロ郊外のダハシュール北遺跡で未盗掘の墓を発見をあげなければならない。その墓から中王国時代第13王朝期(約3800年〜3600年前)の「セヌウ」という名の司令官(アチュウ)がミイラマスクをつけて眠っている木棺を掘り出した。未盗掘のミイラが完全な形で発掘された事例としては最古級であり、青いミイラマスクと彩色箱型木棺は発見後一躍世界的に有名になった。このマスクと木棺が2008年に全世界に先駆けて日本で初公開された。

■ 2007年は吉村氏にとって実り多い年だった。1月には、ダハシュール北遺跡のセヌウの墓の近くで3個の未盗掘・未開封の木棺を発見した。そのうちの一個は新王国第18王朝時代末期から19王朝初期の「アメン神殿の上級職人」の称号を持つ「ウイアイ」という人物の黒色に塗装された人型棺だった。ミイラは布に包まれ、木製の杖を左肩から右足にかけて斜めに持ち、頭の下には枕が置かれていた。

「セペクハト」の木棺
「セペクハト」の木棺
■ セヌウの墓の東隣で見つかった墓穴は深さ3.6mの所で墓穴が南北に別れ、それぞれの部屋からから長方形の木棺が未開封のまま安置されていた。時代的には、中王国時代の第13王朝(セヌウとほぼ同じ頃)もので、木棺に記されたヒエログリフ(神聖文字)から「セペクハト」と「セネトイトエス」という名の夫婦の棺であることが分かった。

■ 夫の「セペクハト」は葬祭神官であり、木棺の中の人型木棺の中にミイラとして入っていた。ミイラの頭部は頭髪を象ったファイアンス製(石英の粉末を固めて胎とし、色釉をかけて焼成した焼き物)のビースが装飾として施され、胸から足にかけても、色鮮やかな装飾とヒエログリフが描かれていた。妻の「セネトイトエス」のミイラはカルトナージュ製のミイラマスクをかぶっていたが、何が原因か不明だが、そのマスクは破壊されていた。

■ 2007年10月22には、「ウイアイ」の墓のすぐ北に位置する未盗掘の墓から「親子のミイラ」の棺が未開封の状態で発見された。 人型木棺の側面に描かれたヒエログリフから親のミイラは、「チャイ」という職人だったことが判明した。墓中の南側には、子供のミイラが箱型の木棺に納められた状態で同時に見つかった。親子のミイラを同時に発見した例は少なく、エジプト学史上では珍しいとされた。

■ 吉村氏を団長とする早稲田大学古代エジプト調査隊が古代エジプトの未盗掘の墓を発見できたのは、衛星写真分析などのハイテク技術を導入した調査方法のたまものとされている。何事にも積極的な吉村氏は、2007年4月に日本初の完全インターネット講義によるサイバー大学を設立し、初代学長に就任している。



奇妙に仏教と似ている古代エジプト人の死生観

エジプト展の入口
エジプト展の入口
■ サンシャインシティ文化館の7階にある古代オリエント博物館を訪れるのは、今回が初めてである。受付を済ませ、大理石に囲まれた細い通路を進むと展示会の会場がある。最初のブースには古代エジプトの年表や、カイロ博物館のコレクションから出品された神々の小さな像とその系図が示されていた。まずはエジプト学の初歩を頭に入れて見学くださいという配慮か。

ギザの三大ピラミット
第4王朝時代のギザの三大ピラミット

■ 古代エジプトと言えば、誰しも巨石を四角錐に積み上げたピラミッドをまず思い浮かべる。古代エジプトでは、古王国時代になって初めてのピラミッドである階段ピラミッドが作られる。これをきっかけとして、次々とピラミッドが作られ続ける。首都カイロからナイル川を挟んでおよそ20km西南にあるギザの三大ピラミッドは有名だ。古王国時代に属する第4王朝(BC2613頃 - BC2494頃)のクフ王、カフラー王、メンカウラー王の墓である。

古代エジプトの年表
古代エジプトの年表
■ しかし、古王国時代の最後の第6王朝(BC2345頃 - BC2185頃)になると石でピラミッドを造る時代は終焉を迎える。2008年11月、第6王朝を開いたテティ王の母親にあたるシェシェティ女王のピラミッドがサッカラで発見された。エジプト国内で118基目のピラミッドであるが、土台の一辺が22mと小さい。

■ 緻密な計算のもとで作られたピラミッドが何のために作られたのかは、実はよく分かっておらず、様々な説がある。その一つに、古代エジプト人は太陽信仰があったことから、「太陽へ昇る階段」としてピラミッドを崇めたのだという。根拠として、古代のエジプト人はピラミッドのことを「メル」「ムル」と呼んでいたことをあげている。「メル」とか「ムル」は「「昇る」という意味だそうだ。

入場券
入場券
■ ナイルの河岸で農耕生活を営む古代エジプト人は、太陽を信仰した。毎日眺める太陽は、早朝に地平線から姿を現して、夕方に西の地平に姿を消し、そして翌朝には再び東の空に昇ってくる。こうした自然現象が「死したものが再び甦る」という死生観を彼らに植え付けたようだ。そして、太陽の沈む西の地平に来世があると考え、ナイル川の西岸を「死者の町(ネクロポリス)」とし、墓地などの造営を行い、対岸の東岸は「生者の町(アクロポリス)」として、王宮や神殿などを建てた。

■ 我々日本人は、人間は肉体と魂から成り立っていると考えるのが一般的だが、古代エジプト人は肉体(アクト)と魂(バー)と精霊(カー)の3つで成り立っていたと考えていた。そして、人間が死ぬと、アクトは滅びバーは死後の世界に旅立つが、アクトがそのままであれば、いつかカーの力でバーを呼び戻し、死者は復活できると考えた。ただし、復活は現世への再生ではなく、死者の楽園(あの世)で第二の人生を歩むことを意味した。

■ そうした意味で、古代エジプト人は死を新たな人生のはじまりと見なしていたと考えて良い。彼らにとって、死後の肉体の保存は、来世での生活のために欠かせないことだった。死者の肉体をミイラにして現世と変わらぬ状態で保存し、また墓の中には現世と代わらぬ状態で生活出来るように家具や食べ物などの副葬品が納めた。

■ 今回のエジプト展のテーマは「古代エジプトのミイラと死生観」である。ミイラ作りのプロセスの解説と使用された器具が展示されていて興味深かった。「歴史の父」として知られる古代ギリシャのヘロドトス(BC484頃〜BC425頃)は、すでに「エジプト紀行文」の中で目撃したミイラ作りのプロセスを次のように記している。

ミイラを作るアヌビス神
ミイラを作るアヌビス神
1.遺体がミイラ職人の仕事場に運び込まれると、職人は木製のミイラの3通りの見本を見せ、どの型のミイラを調製して欲しいか依頼者に尋ねる。
2.価格の折り合いがつくと、依頼者は引き上げ、職人は仕事場に残ってミイラ作りにかかる。
3.まず、曲がった刃物や薬品を用いて鼻孔から脳髄を摘出する
4.鋭利なエチオピア石(黒曜石)で脇腹に沿って切開し、心臓以外の臓腑を取り出し、四種のカノポスの壺に収めて保存する。
5.遺体を70日間天然のソーダに漬けて水分を取り、脂肪や筋肉組織を破壊させて皮膚と骨だけにする。
6.70日が過ぎると、遺体を洗い、上質の麻布を裁って作った包帯で全身を巻き、その上にニカワとして代用しているゴムを塗りつける。
7.近親者がミイラを受け取り、人型の木箱の収め、箱の蓋をして葬室内の壁際にまっすぐ立てておく
8.棺が墓に納めるとき、死後の世界で再び生きられるように生命機能を取り戻すための「口開きの儀式」が行われる

■ 遺体をミイラに整え、棺に納めるには莫大な経費を要した。当初は、ミイラになれるのはファラオ(王)、貴族、高級官僚、位の高い神官に限られた。しかし、中王国時代(BC2040-BC1750)になると、ミイラ作りは中流階級から一般庶民僧への広がったとされている。

オシリスの裁判の場面、心臓の計量
オシリスの裁判の場面、心臓の計量
■ ブースの一画に「死者の書」が幾つかに区分けされ、解説を付けて展示されていた。「死者の書」は、古代エジプトで死者とともに埋葬されたパピルスの巻き物である。死者の霊魂が肉体を離れてから冥府の国アアルに入るまでの過程を描いた祈祷書で、冥福を祈り死者と共に葬ったとされている。絵とヒエログリフ(神聖文字)で構成されているが、順を追って見ていくと結構面白い。

■ 「死者の書」の中のハイライトは、心臓を天秤にかける死者の裁判の章だろう。天秤の一方には死者の良心を表す心臓を載せ、他方には法と真実の象徴である羽根を載せて、犬またはジャッカルの頭部を持つ死者の神アヌビスが、天秤の目盛りを見つめている場面が描かれている。死者の心臓が真理の羽より重ければ、生前は罪深く不徳の人だったということで、天秤が傾いて心臓が転げ落ち、アメミットという鰐(わに)に似た怪物に食べられてしまう。

■ 真理の羽と釣り合いが取れれば、冥界アアルの王オシリスの治める死後の国へ導かれ、自分もオシリスとなって来世で食べ物に困らずに至福の生活を永遠に続けられる。したがって、心臓をなくすことは、死者の楽園に復活できなくなることを意味する。ミイラが安置された墓の壁面には、死者の審判で神々に好印象を与えるために、生前に成した「良いこと」がビッシリと書かれている。

冥界の王オシリス
冥界の王オシリス
■ 「死者の書」が語る最後の審判のくだりを見て、冥界の王オシリスと仏教で死者の生前の罪を裁く閻魔(えんま)のイメージがだぶった。考えてみると古代エジプト人の宗教観と我々日本人が信奉する仏教とは、類似する箇所がある。まず、いずれも多神教である。仏教にさまざまな仏がいるように、エジプトの神話にも太陽神ラーをはじめ様々な神々が存在する。

■ 我々は極楽浄土が西方にあると見なしているように、古代エジプト人も太陽が沈む西に来世があると考えていた。また、インドにおける蓮華と同じように、エジプトでもロータス(睡蓮、すいれん)が神聖な花とされてきた。エジプト神話では太陽神ラーは睡蓮から生まれたとされ、古代エジプトの新王国時代には、ロータスは上エジプトの象徴として紋章に使われた。



2010/01/31作成 by pancho_de_ohsei
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