井真成の墓誌から生じるさまざまな疑問
墓誌の覆斗(ろと)形の蓋には「贈尚衣 奉御井 府君墓 誌之銘」と篆書(てんしょ)で3文字づつ4行に計12文字が陰刻されている。意味は、尚衣奉御(しょういほうぎょ)の官位を贈られた井氏の墓誌、である。ここで留意すべきは、井真成が生前に尚衣奉御の官職に就いていたのではなく、死後贈られたものである点だ。
墓誌の身の部分は、残念なことに、上辺一列の多くの文字が欠損していたが、楷書体で171文字が陰刻で刻まれていた。その内容を読みを示すと、次のようになる(奈良大学教授・東野治之氏の読み下しによる)。
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| 井真成墓誌の釈文 |
贈尚衣奉御井公の墓誌の文。序并(あわ)せたり
公は姓は井、字(あざな)は真成。国は日本と号し、才は天を縦(ゆる)せるに称(かなう)。故に能く命を遠邦に□、上国に馳せ騁(むか)えり。礼楽を蹈(ふ)みて衣冠を襲う。束帯して朝(ちょう)□、与(とも)に儔(たぐ)うこと難し。豈に図(はか)らんや、学を強(つと)めて倦まず、道を問う聞くこと未だ終わらずに、□移舟に遇い、隙(げき)、奔駟に逢わんとは。開元二十二年(734)正月□日、乃ち官弟(かんてい)に終る。春秋、三十六。皇上、□く傷みて、追崇するに典有り。詔して尚衣奉御を贈り、葬は官を令(し)て□せしむ。即ち其の年の二月四日を以て、萬年縣のサン水の□原に葬る。礼なり。嗚呼、素車(そしゃ)、暁に引き、丹旗(たんちょう)、哀を行う。遠□を嗟(なげ)きて、暮日に頽(たお)れ、窮郊を指(おもむ)きて夜台に悲しむ。其の辞に曰く、□は乃ち天常、哀(かなし)きは茲(これ)遠方なること。形は既に異土に埋もれ、魂は故郷に帰らんことを庶(こいねが)うと。(□は欠字)
上記の墓誌の内容は次のように要約できる。
- 墓主は姓を井、字を真成と称する人物で、生国は日本であった
- 才能に恵まれていたので、国命を受けて唐土に渡ってきて、日々勉学に勤めた
- 開元22年(734)正月某日、唐の都・長安において36歳で不慮の死をとげてしまった
- 玄宗皇帝はこれを哀れみ、贈官として尚衣奉御の位を追贈し、葬儀も官給とした
- 同年2月4日、萬年縣●(シ+産)水の東原に、礼にのっとって埋葬された。
しかし、この墓誌の内容から井真成の人物像を浮かび上がらせようとすると、様々な疑問が生じる。それを列記してみよう。
■ 第一の疑問:井真成の日本名
墓誌の二行目には、「公は姓は井、字(あざ)は真成、国号は日本」とあり、日本人であることは間違いない。したがって、井真成という名前は、本人が唐に来てから変更した中国式の名前だと考えられている。
奈良大学の東野治之教授は、「井」を日本名の痕跡と考えて、百済系渡来系氏族の「葛井(ふじい)氏」の出身者で、葛井真成(ふじいのまなり)という姓名ではなかったかと推測されている。これに対して、國學院大學の鈴木靖民教授は、彼の出身は今の大阪府藤井寺市のあたりに生活していた古代の井上氏の一族だったと思われ、井上忌寸真成(いのうえのいみき・まなり)が井真成の日本名だったのでは、と推定しておられる。
いずれの説も、日本の氏族名の一字をとって姓とし、名は日本名の「真成」をそのまま用いたとしておられるのは興味深い。それに対して、出身氏族や日本名に関係なく、好みの中国名を用いたとする考えもある。たとえば阿倍仲麻呂の中国名は晁衡(ちょうこう、または朝衡)だった。西北大学文博院の王維坤(おういこん)教授によれば、「井」という姓は、中国では大変古い起原をもち、現在でも陝西省や遼寧省を中心に分布しているとのことだ。
■ 第二の疑問:井真成の渡唐時期
2つの時期が可能性として指摘されている。先ず、墓誌には井真成は開元22年、すなわち西暦734年の正月□日、官第(かんてい)に終ると記し、その時の年齢は36歳だったという。逆算すれば彼の生年は699年ということになる。したがって、年齢的にみて、彼が渡唐したのは717年(養老元)の第8次遣唐使のときと考えられる。
その時の井真成の年齢は19歳、青雲の志に燃える颯爽とした青年として、留学には最も適した年頃だったと思われる。このときの遣唐使団は、717年3月に難波を出航し、同年10月に長安に到着している。出港時の人数は557人、4隻の船に分乗して長安に向かった。
このときの遣唐使船には後に活躍するそうそうたる留学生たちが乗船していた。阿倍仲麻呂(19歳)、下道真備(22歳、後に吉備真備と改名)、大和長岡(29歳)、さらに学問僧の玄ム(げんぼう)、理鏡(りきょう)などである。したがって、この第8次遣唐使はその人員数といい陣容といい、それまでの遣唐使史上空前の派遣だった。
もう一つの可能性は、733年(天平5)に派遣された第9次遣唐使船による渡唐である。この時の遣唐留学生に井真成が選ばれたのであれば、すでに35歳に達している。その年の4月に4隻の船に分乗して難波を出航した遣唐使たちが蘇州に到着したのはその年の8月、しばらく現地に逗留して長安に入京したのは、その年も押し迫った11月から12月頃であっただろう。
この年、長安をはじめとする関中一体は深刻な飢饉に見舞われた。このため玄宗皇帝も開元22年(734)の正月から東都洛陽へ緊急避難をせざるをえなかった。第9次遣唐使はせっかく長安入りしたが、正月に皇帝に拝謁できないままで長安に待機・逗留を余儀なくされた。『冊符元亀』によれば、玄宗皇帝との拝謁がかなったのは開元22年の4月、洛陽においてであった。そのために、一行が長安を発って洛陽に向かったのは2月8日だったことが判明している。
中国側の研究者は、井真成がこのとき短期留学の請益生(しょうえきしょう)または遣唐使節の随員として入唐したと想定している。しかし、その可能性は薄いと思われる。井真成は年が明けた開元22年の正月□日に死亡しているのだ。長安滞在期間わずか1〜2ヶ月で玄宗皇帝から尚衣奉御の官位を追贈されるほど親しくなれたとはとても思えない。
■ 第三の疑問: 井真成の長期にわたる滞在期間
唐の制度では、大学に入学を希望する場合、門地に応じて入学できる学校が違った。当時の長安には、国立の上級大学として、国子舘、太学館、四門館、律学館、算学館、書学館の6つの学館があった。国子舘は上流貴族の子弟が入学する学校で、規模も最大だった。太学館はそれ以下の貴族の子弟を養育するところ、四門館は一般庶民の秀才が勉学するところだった。阿倍仲麻呂は太学館で学んだが、井真成はおそらく四門館に在学していたのだろう。
外国からの留学生・留学僧の唐土における生活費は唐朝が負担し、時服糧料を給付していたとされている。ただし、時服糧料には支給年限があった。大学の在学期間は最長で9年とされていたから、支給期間も長くて9年程度だったと思われる。この期間内に井真成は阿倍仲麻呂のように科挙に合格して唐朝に仕えたのだろうか。仮に唐朝の官職を歴任したのであれば、「尚衣奉御」という一種の名誉官職を追贈されたのは理解できる。
しかし、この点に関して墓誌の内容は分かりづらい。一方で、”衣冠を着ける身分を踏襲し、朝服姿で宮廷に立てば誰も並び比べる者はないほどだった”と言いながら、他方では”勉学の努力を続け、道を聞き知ること未完のうちに不慮の死をとげた”と記している。この部分の解釈については、学者の間でも意見が分かれる。
官職に就くことができず大学で勉学を続けたとしても、9年間で生活費の支給は打ち切られる。したがって、その後の8年間はどのように生活していたのだろうか。その場合、ヒントになるキーワードは彼が死亡した場所とされる官第である。専修大学の亀井明徳教授は、留学生の時服糧料が打ち切られた井真成は、職掌人として生活していたのでは、と推測される。
唐朝では九品官に入らない吏・胥吏・流外・職掌・雑食人など多数の官庁勤務者が働いていた。彼らは総称して職掌人と呼ばれ、諸司に所属し実務を担当していた。井真成が鴻臚寺典客署に所属する職掌人だったならば、鴻臚寺典客署が保有する雑賃官第(賃貸官舎)を住まいとしていたはずであるという。
■ 第四の疑問: 尚衣奉御の位が追贈された背景
多くの研究者が一番頭を悩ましているのは、玄宗皇帝が井真成の死を哀れみ、尚衣奉御の官位を追贈するとともに、葬儀の費用も官費で賄うよう詔を下した背景だろう。阿倍仲麻呂と同様に、井真成も科挙に合格して朝服姿で唐の官吏としての道を歩んでいたのであれば、玄宗が皇帝付きの衣服係であった尚衣奉御という清官(従五品上)を贈り、官費で葬儀を執り行うよう命じたとしても、納得がいく。
だが、井真成の墓誌の4分の一(4行分)が空白で残されているのが引っかかる。彼が唐朝の官職を歴任したのであれば、この部分に必ずその職歴を示して功績を賛美するはずであるが、墓誌にはそうした記述はいっさい無い。さらに、専修大学の亀井明徳氏の研究によれば、井真成の墓誌の大きさは無品の官吏のそれに相当するサイズであるという。こうしたことを考慮すると、井真成が第二の阿倍仲麻呂だったというイメージにはどうしても浮かんでこない。
勝手な憶測が許されるなら、こうした矛盾を氷塊する想定がたった一つある。同じ時期に留学生として唐土に渡り、博学宏才と称され、玄宗皇帝に寵遇された阿倍仲麻呂の存在である。科挙を受験して合格した仲麻呂は、725年に洛陽の司経局校書として任官し、728年には左拾遺、731年には左補闕と官位を重ねていった。735年ころ、仲麻呂は門下省に属する左補闕の役職にあり、天子を諷諫してその過失を補うことを掌っていた。玄宗皇帝に側近し、その信頼も厚かった。
一方、仲麻呂の出世を横目で身ながら、井真成は9年間大学に籍を置いたが、科挙試験にも合格できず時服糧料も打ち切られて、何処かの役所の職掌人として市井の隅でほそぼそと暮らしていたと仮定しよう。同じ志を抱いて唐土に渡った同士として、仲麻呂と井真成は友人としての深い絆で結ばれており、仲麻呂が井真成の境遇を常に心に掛けていたであろう。
その友人が帰国を目前にしながら、不慮の死を遂げた。日頃から井真成は望郷の念にかられながら、故郷に錦を飾ることを夢見ていたことを仲麻呂は知っていた。友人の死に接して、その餞(はなむけ)に何ができるかを考えたとき、仲麻呂が思いついたのは、井真成が優秀な留学生で唐朝から葬送費用を支給される待遇だったことを故郷の人々に印象づける演出ではなかったか。彼は玄宗皇帝に懇願して、相当な官位を追贈し、官費でもって盛大な葬儀が執り行えるよう画策した。そうとでも考えないと、墓誌に示された疑問は解消できない。
開元22年(734)2月4日の早朝、白土を塗った霊柩車が井真成の棺の載せて長安城を出ると、東に向かった。棺の前には、葬儀用の赤い旗印が掲げられていた。旗には玄武を描き、死者の官職と姓名が白字で記されている。この旗は棺を埋葬するとき、棺の上に置かれるものである。官費で挙行される葬儀だけに、霊柩車の前後には規定された人数の鼓笛隊が続いたことであろう。
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| ■(シ+覇)水にかかる現在の■(シ+覇)橋 |
葬儀に参加したのは友人の仲麻呂や17年間の長安の生活で知己を得た人々だけではない。井真成を連れて帰国する予定になっていた第9次遣唐使の大使・丹治比広成(たじひのひろなり)、副使の中臣名代(なかとみのなしろ)その他の団員の姿もあったであろう。彼らは4日後の2月8日には、旅装を整えて洛陽城に向かわなければならない。本来ならもっと長い期間喪に服すところだが、差し迫った旅立ちのため、葬儀を早めて貰った。
一行が向かった先は、長安城の東の郊外を南北に流れる■(シ+覇)水(はすい)である。その河の東側の河岸段丘にある墓地に、棺を納める墓壙が掘られていた。さまざまな副葬品と共に、棺は東方の故郷を向いて埋葬された。井真成の墓誌の最後は異例とも思われる次の一文で締めくくられている。
哀(かなし)きは茲(これ)遠方なること。形は既に異土に埋もれ、魂は故郷に帰らんことを庶(こいねが)うと。
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