残念ながら、紙上での現地説明会参加
■ 秋津遺跡は葛城襲津彦の眠る宮山古墳のすぐ近くで発見された。古代、朝鮮半島に出向いて活躍した襲津彦に惹かれている筆者としては、是非とも自分の目で確認しておきたい遺跡である。その現地見学会は、本日の午前10時から午後3時に行われると報道されていた。残念ながら、筆者は埼玉の自宅に戻っていて、説明会には参加できない。その悔しい思いを察してか、友人のサンチョ君が説明会に参加して、現場の様子を写真で知らせてくれた。そこで彼が提供してくれた資料で、紙上での現地見学を試みることにする。
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| 現地説明会方面の標識 |
盛土の上の説明会会場 |
■ 秋津遺跡は決して交通の便が良いところではない。最寄りの駅はJR和歌山線の「玉手」駅である。駅から南西に向かって1.7キロの田園風景の中を歩くことになる。サンチョ君によれば、本日はポカポカ陽気だったので、葛城・金剛連山を右手に見ながら、およそ30分をかけて田園散策気分で現地に到着したとのことだ。
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| 発掘遺構を見てまわる見学者たち |
■ 途中で道を右折して少し進むと発掘現場に着いた。現地説明会の受付けテントは道路を挟んで発掘現場の南にあった。受付で説明会の資料を受け取り、その足で説明会の会場に向かった。会場は遺跡の土を剥いで積み上げた見学用の盛り土の上に築かれていた。その上に立って北側を見れば、今回の発掘現場の全体が見下ろされた。発掘箇所は2カ所に別れており、手前の大きい区画が南区、向こう側の小さな区画が北区である。
■ 盛り土の上には、説明用の展示パネルが置かれていた。そこには、現場を上空から撮影した写真、主な検出遺構模式図、出土した方形区画施設の復元図、およびその施設を模して作られた囲形(かこいがた)埴輪の写真が貼られていた。説明員は展示パネルを使って、今回の出土遺構の様子を丁寧に説明してくれた。
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| 主な検出遺構模式図(説明会資料より) |
■ 南区ではこの遺跡を特徴づける方形の施設が3カ所見つかっており、方形区画施設1,2,3と名づけられていた。いずれも二本の柱穴に挟まれた溝が方形を巡る構造になっており、溝には板材をすき間なく並べ、両側から柱と横木で挟んで固定していたようだ。こうした塀は、内部の掘立柱建物が外部から見えないようする目隠しが目的だったと推察されている。
■ 方形区画施設1は、東西方向30m、南北方向14mの長方形をしており、施設全体が検出された。この施設内では掘立柱建物が1棟見つかっている。方形区画施設2の区画は部分的にしか発掘されていないが、方形区画施設3は、北側の一辺が逆L字になる構造で、南北18m以上、東西40m以上の大きな区画である。内部には目隠し塀(柵2)を伴う掘立柱建物が2棟見つかっており、この遺跡の中心的な施設と考えられている。この施設は、北辺を鍵の手状に屈折させて出入り口を作っていた。
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| 二本の柱穴に挟まれた約20cmの溝 |
■ 方形区画施設1の北側には施設に平行に掘られた溝1と溝2、および流路1が見つかっている。ここからは多くの遺物が出土しており、朝鮮半島で出土する韓式土器や東海・北陸・山陰・東部瀬戸内海地域などの土器が多く、各地との交流の広さを物語っている。さらに、フイゴの羽口(風を送る管)や鉄滓(てつさい)など鍛冶に係わるものや、銅の鏃なども見つかっており、古墳時代前期の普通の集落とは異なる様相を示している。
■ 北区では2棟の竪穴住居跡の一部と流路2,それに方形の池の土杭が見つかった程度で、たいした遺構は出土していない。
■ 今回の南区出土遺構で最も興味深かったのは、掘立柱建物を囲った隠し塀である。二本の柱穴に挟まれた約20cmの溝を築き、その溝に厚さ約15センチの板材をすき間なく並べ、両側から柱と横木で挟んで固定していた模様だ。しかも、柱を埋めた深さから、塀の高さは約2メートルと推測されている。目隠し塀の内部に建てられた掘立柱建物の目的は何だったのだろうか。
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| 方形区画施設の復元図 |
囲形埴輪 |
■ 塀に囲われた建物を表した埴輪が大阪府八尾市の心合寺山古墳(しおんじやまこふん)から出土していて、囲形(かこいがた)埴輪と呼ばれている。見つかった3つの方形区画施設をそれぞれ復元すれば、この埴輪に示されたのと類似の施設になる。しかも、これらの施設はいずれも同じ方位をしている上に、いずれも数十年間で建て替えていたようだ。遺構近くの川跡では、祭祀の道具とされる小型の壺などが多く捨てられていた。 こうしたことから、橿考研はこれらの塀が「政治や祭りを行う神聖な空間を囲んでいた」と推測している。
■ 塀に囲まれた建物が同じ方位で並んでいるのは、先頃話題になった纒向遺跡の宮殿跡に似ている。数十年ごとに場所を変えて建物が建て替えられたのであれば、伊勢神宮の式年遷宮を思い出す。いずれにしても、現段階では祭祀場跡と見なすのが一番妥当な見解だろう。
■ しかし、出土品を展示しているコーナーで、方形区画施設1の近くから出土したというフイゴの羽口や鉄滓(てつさい)など鍛冶に係わる遺品を見て、この遺跡を祭祀施設と見なしてよいのか、いささか躊躇を感じた。あるいは近くに渡来系工人たちの鍛冶工房が隣接していたのだろうか。
■ 現在の筆者の最大の関心事は、秋津遺跡が葛城氏に係わるものかどうかという点である。橿考研の発表では、この遺跡の活動の中心は古墳時代前期の4世紀前半とのことだ。近くに築かれた宮山古墳(室の大墓)の築造年代は古墳時代中期の5世紀前半とされている。仮に宮山古墳の被葬者が葛城襲津彦と仮定して、襲津彦から1世紀もさかのぼる時代に、葛城氏はすでに南葛城を支配下におくことができたのだろうか。
■ かって、この地域は古代氏族鴨族が盤踞していたとされている。弥生時代の中頃、鴨族の一部が金剛山の東斜面から大和平野の西南端にある今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波(かもつは)神社をまつって水稲栽培をはじめた。また御所市東持田の地に移った一派も葛木御歳(かつらぎみとし)神社を中心に、同じく水稲耕作を行っていたとされている。鴨都波神社のある付近には鴨都波遺跡がある。この遺跡では弥生時代中期(前1世紀)から末期(3世紀)さらに古墳時代前期(4世紀)に続く墓が見つかっている。鴨都波遺跡を営んだのは鴨族だったのか、それとも葛城氏だったのか。
■ 何時のころか、葛城山麓を離れた鴨族の一派が奈良盆地を北上し、奈良山を越えて加茂町まで勢力を伸ばし、さらに現在の京都の上加茂、下加茂の辺りにまで進出して定着し鴨氏になったとされている。 一方、『新撰姓氏録』によれば、応神14年に渡来したとされる秦氏も当初は「大和朝津間腋上地(わきがみのち)」に住んだようだ。腋上は秋津のすぐ近くである。秦氏も鴨族の移住と時を同じくして、京都盆地に入り込んだと思われる。
■ 北葛城にいた葛城氏が紀州への路を確保するために南葛城に進出してきたのであれば、古代氏族の鴨氏や渡来氏族の秦氏との軋轢がこの地方で起きたと想像するのは、それほど突飛ではあるまい。葛城襲津彦の先祖たちは、これらの氏族を南葛城らどのように駆逐したのだろうか。
謝辞 このレポートをアップできたのは、ひとえにサンチョ君から提供願ったスナップや当日入手された見学資料のお陰である。末尾ながら改めて謝意を表したい。
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