橿原日記 平成22年1月24日

秋津遺跡:伝説の地に出現した古代の祭祀遺跡

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 国道24号線の「宮戸橋」付近から見た葛城と金剛の鞍部
神武天皇が交尾しているトンボに喩えたという山並みが連なる

葛城氏の祖とされる人物の墓の近くで見つかった秋津遺跡

室秋津島宮址の碑
室秋津島宮址の碑
■ 我が国の本州を表す古語は、"あきつしま"または"あきづしま"(秋津島、秋津洲)だった。『古事記』には大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)、『日本書紀』には大日本豊秋津洲(おおやまととよあきつしま)と記す。その秋津島を地名とする地域が、現在の奈良県御所(ごせ)市の室(むろ)には存在した。第6代孝昭天皇の宮は室秋津島宮(むろのあきづしまのみや)と呼ばれた。宮山古墳の麓の室八幡神社の境内に、その宮址を示す石碑が建っている。

■ 現在、近畿圏の外郭環状道路の一部として京奈和(けいなわ)自動車道が建設中だ。京都市を起点として奈良県を北から西に抜けて和歌山市に到る全長約120kmの高速道路である。まだ計画中あるいは工事中の区間がところどころにあり、全線が開通しているわけではない。そのうちの大和郡山JCTと五条北ICTを結ぶ区間を大和御所(やまとごせ)道路というが、その一部である御所区間が平成18年に工事に着工した。

■ 橿原考古学研究所(橿考研)や関係する市の教育委員会は、数年前から計画路線上の土地の緊急発掘調査を実施してきた。今までにも、たとえば弥生時代の水田遺構や灌漑施設が出土した萩之本遺跡や環濠集落跡の川西根成柿遺跡が見つかっていて、それぞれ現地説明会が開かれた(平成20年2月16日付け橿原日記参照)。

秋津遺跡付近のマップ
秋津遺跡付近のマップ
■ これらの遺跡からさらに南に下った御所市の池之内地区や條地区は、明治の頃「秋津村」と呼ばれた地域である。京奈和自動車道はこの地域を貫通する。そこで、橿考研は昨年7月から道路計画地の約6500平米について発掘調査を実施してきた。後述のようにさまざまな遺構が見つかったが、遺構はさらに南に広がっており調査は今後も継続される。橿考研は調査が一段落ついたところで、去る1月21日、今までの発掘の成果をマスコミに公表し、4世紀前半に活動した豪族の館祭りの場の可能性のある遺構が見つかったことを明らかにした。そして、付近一帯の古名にちなんで、この調査地を「秋津遺跡」と名づけた。

発掘現場から見た国見山
発掘現場から見た国見山
■ ちなみに、トンボのことを昔は”あきづ”と呼んだ。『日本書紀』は、神武天皇が付近の丘から国見をしたとき、「狭い国だが、蜻蛉(あきづ)の雌雄が交尾して飛んでいくように山々が続いて、囲んでいる」 と言われたと伝えている。この伝承が元になって、付近一帯の地名が秋津になった。遺跡の南東方向に標高229mの小山がある。神武天皇が国見をした山に比定され、国見山と呼ばれている。国見山といい室秋津島宮といい、秋津遺跡の付近は、古代伝説の豊富な場所柄である。

■ 秋津遺跡の南西方向には、この地方で有名な古墳がある。背後の巨勢丘陵から延びる尾根の先端に築かれた全長238mの前方後円墳で、宮山古墳という。御所市大字室に所在するので、別名を「室の大墓」とも呼ばれている。 5世紀前半の築造で、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の墓の有力な候補とされている。宮山古墳の北西には、ネコ塚と呼ばれる方墳がある。宮山古墳の後に造営されたと推測されているが、あるいは宮山古墳の陪塚(ばいちょう)かもしれない。現在、墳丘は貸農園になっている。

「室の大墓」と呼ばれている室宮山(むろみややま)古墳
「室の大墓」と呼ばれている宮山古墳

■ 葛城襲津彦に関する逸話は、『日本書紀』の神功皇后摂政紀、応神天皇紀、仁徳天皇紀などに記されていて、実に魅力的な人物である(『日本書紀』に記された葛城襲津彦の伝承参照)。4世紀から5世紀にかけて対朝鮮外交や軍事に携わり、朝鮮から俘虜を連れ帰った武将として伝承化されている。彼が連れてきた渡来人たちは、葛城山麓に住み着き、鍛冶生産(武器・武具などの金属器)を始めとする様々な手工業に従事し、葛城氏の経済力の強化に貢献したとされている。その一方で、襲津彦は特定の実在人物ではなく、4〜5世紀に対朝鮮外交や軍事に携わった葛城地方の豪族たちの姿が象徴・伝説化された英雄であったと見る説もある。

宮山古墳の靱形(ゆきがた)埴輪
宮山古墳の靱形(ゆきがた)埴輪
■ いずれにせよ、渡来人の高い生産性に支えられた葛城氏の実力は極めて巨大で、大王家のそれと肩を並べるほどだった。そうした経済力や政治力を背景に、葛城氏は5世紀の大王家と継続的な婚姻関係を結んだ。記紀によれば、襲津彦の娘・磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后となり、履中・反正・允恭の3天皇を生んでいる。襲津彦の子・葦田宿禰(あしだのすくね)の娘・黒媛は、履中天皇の妃となり、市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)などを生んだ。葦田宿禰の子・蟻臣(ありのおみ)の娘・ハエ媛は押磐皇子に嫁ぎ、顕宗天皇と仁賢天皇を生んだ。さらに襲津彦の孫・円(つぶら)の娘・韓媛(からひめ)は雄略天皇の妃として、清寧天皇を設けている。

■ つまり、仁徳より仁賢に至る9代の天皇のうち、安康天皇を除いた8人の天皇が、葛城氏の娘を后妃か母としていることになる。こうした婚姻関係から、歴史学者の直木孝次郎氏は、5世紀のヤマト政権はまさに「大王と葛城氏の両頭政権」であったと指摘された。

■ 奈良盆地の西南部に位置する葛城地方は広大であり、一般には北葛城と南葛城の2つの地域に分けられる。北葛城には有名な馬見古墳群(うまみこふんぐん)がある。北葛城郡の河合町や広陵町から大和高田市にかけて広がる馬見丘陵地帯に営まれた県下でも有数の古墳群である。全長240mの巣山古墳を筆頭に10基ほどの巨大古墳で構成され、4世紀末から6世紀にかけて造営されたと推定されている。そのため、葛城襲津彦の後裔たちの墓域ではないかと考えられている。

金剛・葛城山麓
南郷遺跡群が展開する金剛・
葛城山麓(東からの鳥瞰図)
■ 一方、南葛城には、金剛山東麓に約1km四方にわたって展開する古墳時代中期の大集落・南郷遺跡群がある。1995年に発掘調査された南郷安田遺跡をはじめとして、さまざまな遺跡が見つかっており、5世紀の第2四半期には、葛城氏の手によって渡来系の技術集団が計画的に南郷地区の配置され、大量の手工業製品を生産する当時の「工業団地」が出現したことをうかがわせる。そうした事実を裏付ける記述が『日本書紀』にもある。葛城襲津彦が朝鮮半島から連行してきた捕虜を桑原(くわはら)・佐糜(さび)・高宮(たかみや)・忍海(おしぬみ)の四つの邑に住まわせたと記す。

■ このように、文献史学からも考古学からも、5世紀代の葛城氏の繁栄を裏付けることはできる。しかし、襲津彦以前の葛城氏がいつ頃、どの様に成立したかはよく分かっていない。『古事記』には単に葛城襲津彦が伝説上の人物である武内宿禰(たけちのすくね)の子の1人と記すだけだ。そのような状況の中で、このたび秋津遺跡で4世紀前半の祭祀(さいし)の場とみられる施設跡が発見されたことは、襲津彦以前の葛城氏の実態を探り出す手がかりになるかも知れない。

秋津遺跡の発掘現場
秋津遺跡の発掘現場
■ 橿考研が作成した見学資料によると、宮山遺跡は古墳時代前期(4世紀前半)に活動の中心があったという。この遺跡が葛城氏に関係するものであるならば、遺跡の西南に位置する宮山古墳よりも古い時代に葛城氏はこの地域に勢力圏を拡大していたことになる。そのため、和田萃・京都教育大名誉教授は、4世紀前半の大和盆地に“東の纒向(まきむく)、西の葛城”の二大勢力があったことがはっきりした、とコメントしておられる。


残念ながら、紙上での現地説明会参加

■ 秋津遺跡は葛城襲津彦の眠る宮山古墳のすぐ近くで発見された。古代、朝鮮半島に出向いて活躍した襲津彦に惹かれている筆者としては、是非とも自分の目で確認しておきたい遺跡である。その現地見学会は、本日の午前10時から午後3時に行われると報道されていた。残念ながら、筆者は埼玉の自宅に戻っていて、説明会には参加できない。その悔しい思いを察してか、友人のサンチョ君が説明会に参加して、現場の様子を写真で知らせてくれた。そこで彼が提供してくれた資料で、紙上での現地見学を試みることにする。

現地説明会方面の標識 盛土の上の説明会会場
現地説明会方面の標識 盛土の上の説明会会場

■ 秋津遺跡は決して交通の便が良いところではない。最寄りの駅はJR和歌山線の「玉手」駅である。駅から南西に向かって1.7キロの田園風景の中を歩くことになる。サンチョ君によれば、本日はポカポカ陽気だったので、葛城・金剛連山を右手に見ながら、およそ30分をかけて田園散策気分で現地に到着したとのことだ。

発掘遺構を見てまわる見学者たち
発掘遺構を見てまわる見学者たち

■ 途中で道を右折して少し進むと発掘現場に着いた。現地説明会の受付けテントは道路を挟んで発掘現場の南にあった。受付で説明会の資料を受け取り、その足で説明会の会場に向かった。会場は遺跡の土を剥いで積み上げた見学用の盛り土の上に築かれていた。その上に立って北側を見れば、今回の発掘現場の全体が見下ろされた。発掘箇所は2カ所に別れており、手前の大きい区画が南区、向こう側の小さな区画が北区である。

■ 盛り土の上には、説明用の展示パネルが置かれていた。そこには、現場を上空から撮影した写真、主な検出遺構模式図、出土した方形区画施設の復元図、およびその施設を模して作られた囲形(かこいがた)埴輪の写真が貼られていた。説明員は展示パネルを使って、今回の出土遺構の様子を丁寧に説明してくれた。

主な検出遺構模式図
主な検出遺構模式図(説明会資料より)
■ 南区ではこの遺跡を特徴づける方形の施設が3カ所見つかっており、方形区画施設1,2,3と名づけられていた。いずれも二本の柱穴に挟まれた溝が方形を巡る構造になっており、溝には板材をすき間なく並べ、両側から柱と横木で挟んで固定していたようだ。こうした塀は、内部の掘立柱建物が外部から見えないようする目隠しが目的だったと推察されている。

■ 方形区画施設1は、東西方向30m、南北方向14mの長方形をしており、施設全体が検出された。この施設内では掘立柱建物が1棟見つかっている。方形区画施設2の区画は部分的にしか発掘されていないが、方形区画施設3は、北側の一辺が逆L字になる構造で、南北18m以上、東西40m以上の大きな区画である。内部には目隠し塀(柵2)を伴う掘立柱建物が2棟見つかっており、この遺跡の中心的な施設と考えられている。この施設は、北辺を鍵の手状に屈折させて出入り口を作っていた。

二本の柱穴に挟まれた約20cmの溝
二本の柱穴に挟まれた約20cmの溝
■ 方形区画施設1の北側には施設に平行に掘られた溝1と溝2、および流路1が見つかっている。ここからは多くの遺物が出土しており、朝鮮半島で出土する韓式土器や東海・北陸・山陰・東部瀬戸内海地域などの土器が多く、各地との交流の広さを物語っている。さらに、フイゴの羽口(風を送る管)や鉄滓(てつさい)など鍛冶に係わるものや、銅の鏃なども見つかっており、古墳時代前期の普通の集落とは異なる様相を示している。

■ 北区では2棟の竪穴住居跡の一部と流路2,それに方形の池の土杭が見つかった程度で、たいした遺構は出土していない。

■ 今回の南区出土遺構で最も興味深かったのは、掘立柱建物を囲った隠し塀である。二本の柱穴に挟まれた約20cmの溝を築き、その溝に厚さ約15センチの板材をすき間なく並べ、両側から柱と横木で挟んで固定していた模様だ。しかも、柱を埋めた深さから、塀の高さは約2メートルと推測されている。目隠し塀の内部に建てられた掘立柱建物の目的は何だったのだろうか。

方形区画施設の復元図 囲形埴輪
方形区画施設の復元図 囲形埴輪

■ 塀に囲われた建物を表した埴輪が大阪府八尾市の心合寺山古墳(しおんじやまこふん)から出土していて、囲形(かこいがた)埴輪と呼ばれている。見つかった3つの方形区画施設をそれぞれ復元すれば、この埴輪に示されたのと類似の施設になる。しかも、これらの施設はいずれも同じ方位をしている上に、いずれも数十年間で建て替えていたようだ。遺構近くの川跡では、祭祀の道具とされる小型の壺などが多く捨てられていた。 こうしたことから、橿考研はこれらの塀が「政治や祭りを行う神聖な空間を囲んでいた」と推測している。

■ 塀に囲まれた建物が同じ方位で並んでいるのは、先頃話題になった纒向遺跡の宮殿跡に似ている。数十年ごとに場所を変えて建物が建て替えられたのであれば、伊勢神宮の式年遷宮を思い出す。いずれにしても、現段階では祭祀場跡と見なすのが一番妥当な見解だろう。

フイゴ羽口 鉄滓 車輪石など
フイゴ羽口 鉄滓 車輪石など

■ しかし、出土品を展示しているコーナーで、方形区画施設1の近くから出土したというフイゴの羽口や鉄滓(てつさい)など鍛冶に係わる遺品を見て、この遺跡を祭祀施設と見なしてよいのか、いささか躊躇を感じた。あるいは近くに渡来系工人たちの鍛冶工房が隣接していたのだろうか。

■ 現在の筆者の最大の関心事は、秋津遺跡が葛城氏に係わるものかどうかという点である。橿考研の発表では、この遺跡の活動の中心は古墳時代前期の4世紀前半とのことだ。近くに築かれた宮山古墳(室の大墓)の築造年代は古墳時代中期の5世紀前半とされている。仮に宮山古墳の被葬者が葛城襲津彦と仮定して、襲津彦から1世紀もさかのぼる時代に、葛城氏はすでに南葛城を支配下におくことができたのだろうか。

■ かって、この地域は古代氏族鴨族が盤踞していたとされている。弥生時代の中頃、鴨族の一部が金剛山の東斜面から大和平野の西南端にある今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波(かもつは)神社をまつって水稲栽培をはじめた。また御所市東持田の地に移った一派も葛木御歳(かつらぎみとし)神社を中心に、同じく水稲耕作を行っていたとされている。鴨都波神社のある付近には鴨都波遺跡がある。この遺跡では弥生時代中期(前1世紀)から末期(3世紀)さらに古墳時代前期(4世紀)に続く墓が見つかっている。鴨都波遺跡を営んだのは鴨族だったのか、それとも葛城氏だったのか。

■ 何時のころか、葛城山麓を離れた鴨族の一派が奈良盆地を北上し、奈良山を越えて加茂町まで勢力を伸ばし、さらに現在の京都の上加茂、下加茂の辺りにまで進出して定着し鴨氏になったとされている。 一方、『新撰姓氏録』によれば、応神14年に渡来したとされる秦氏も当初は「大和朝津間腋上地(わきがみのち)」に住んだようだ。腋上は秋津のすぐ近くである。秦氏も鴨族の移住と時を同じくして、京都盆地に入り込んだと思われる。

■ 北葛城にいた葛城氏が紀州への路を確保するために南葛城に進出してきたのであれば、古代氏族の鴨氏や渡来氏族の秦氏との軋轢がこの地方で起きたと想像するのは、それほど突飛ではあるまい。葛城襲津彦の先祖たちは、これらの氏族を南葛城らどのように駆逐したのだろうか。


謝辞 このレポートをアップできたのは、ひとえにサンチョ君から提供願ったスナップや当日入手された見学資料のお陰である。末尾ながら改めて謝意を表したい。



2010-01-26作成 by pancho_de_ohsei return