蘇我馬子が守屋の鎮魂を願って造営した立派な方墳のハミ塚古墳?前の橿考研副所長で付属博物館の館長を兼務されていた河上邦彦氏が書かれた『大和の終末期古墳』を読んでいて、考古学者の間では物部守屋が被葬者かもしれないと推定されている古墳が存在しているのを知った。奈良県天理市岩屋町で見つかったハミ塚古墳である。
ハミ塚古墳は名阪国道の東天理インターの近くに築かれていた。この場所が古墳との認識は1994年頃までは地元でもなかったようだ。1995年に名阪国道の側道の拡張のため小山の崖面を30mにわたって幅2〜3m削ったところ、巨石が見つかった。これを契機に発掘調査が実施され、かなり大きな墳丘をもつ古墳で、横穴式石室が内蔵していることがわかった。そこで、翌年に石室と墳丘全体を確認する調査が実施された。 この墓はすでに盗掘の被害にあっていた。その上に、江戸後期から明治の間に多くの石が運び去られていて、当時の状況では玄室、羨道部共に石室の1段目しか残っていなかった。墳丘も元の姿がわからないほど削られていた。それでも様々な知見が得られ、1997年4月には現地説明会も行われた。
発掘で確認された石室の全長は約12mだった。羨道が破壊されていたため正確な長さは不明だが、おそらく15m以上あったものと推察された。玄室の規模は、長さ5.7m、奥行き幅2.92m、玄門幅3.44m、高さは不明である。羨道の現存長は5m、幅は1.8mだった。
この古墳の特徴的な点としては、まず須恵器の破片が床のほぼ全面から出土した。その大きさはほとんどすべてが2〜3cmの大きさで、盗掘の際に壊されたものではなく、あらかじめ人為的に打ち割ってばらまいたと思われる。土器などを割る行為は破砕祭祀の一部であり、被葬者が生の世界から死の世界へ行くとき行われる祭りだったようだ。
玄室の床面には、白と黒の玉砂利が厚さ10cmに敷き並べられていた。床の補強や舗装のために玉砂利を敷く例はあるが、ハミ塚古墳のものはこれらとは基本的に異なり、白と黒の石は道教の陰陽の思想を表しており、ここで陰陽の祭祀行為が行われたのだろうと推察されている。 発掘調査の結果から得られた情報を整理すると、ほぼ上記のようになる。これらの情報から、なぜ被葬者が蘇我ー物部戦争で迹見赤檮(とみのいちい)に射殺された物部守屋と推測することが可能なのだろうか。河上氏の意見をもう少し聞いてみよう。 理由の第一は、ハミ塚古墳は終末期と区分される時期に造られた方墳である点だ。終末期古墳というのは比較的新しい概念で、高松塚古墳が見つかるまでは、後期古墳の一部として扱われ、晩期古墳とか飛鳥時代古墳などの名称で呼ばれていた。しかし、6世紀末頃に前方後円墳が築かれなくなり、それに代わって大型の円墳や方墳が造られるようになり、考古学的に一つの画期があったと見なされるようになった。そのため、古墳時代の時期をそれまでの前期・中期・後期の三期に加えて6世紀末から7世紀末頃を終末期と区分するようになった。
終末期古墳は、その立地から見て風水思想の影響のもとに墓所の選定が行われたようだ。風水思想の普及で山や丘陵の南斜面に墓が築かれるようになり、横穴式石室も南に開口するようになる。高松塚古墳やキトラ古墳の石室に見られる四禽は風水の青龍(東)、朱雀(南)、白虎(西)、玄武(北)は陰陽図緯を示している。 いずれにせよ、6世紀末には天皇や皇族の前方後円墳の造営は終了した。592年に没した崇峻天皇陵とされる赤坂天王山古墳は方墳である。600年頃に没したと思われる押坂彦人皇子の墓とされる牧野(ばくや)古墳は円墳である。587年に没し、6年後に近つ飛鳥に改葬された用明天皇の春日向山古墳(用明天皇陵)や、628年に没し竹田皇子の墓だった植山古墳に合葬され後、やはり近つ飛鳥に改葬された山田高塚古墳(推古天皇陵)も方墳である。そのため、専門家の中には飛鳥寺の建立と方墳や円墳の出現は、まさに蘇我氏専横時代の幕開けと見なす見解もある(山中鹿次氏、『蘇我三代と二つの飛鳥』所収の「コラム3 飛鳥時代の史学と考古学」)。 一方、天理市の布留周辺は物部氏の本拠地として知られ、石上神宮は物部氏の氏神であり、祭祀は物部氏の一族によって執り行われてきた。物部本宗の大連家は587年に滅亡したが、物部連(むらじ)家や物部首(おびと)家は、その後も石上神宮の祭祀者としてかなり繁栄している。物部一族の奥津城として杣之内(そなのうち)古墳群や石上豊田古墳群があるが、後者の中の石上古墳群では、別所大塚、石上大塚、ウワナリ塚古墳(いずれも全長110〜120mの前方後円墳)と続き、その規模は当時の天皇陵を除くと最大規模であり、物部本宗家の首長墓だったようだ。
それに続くのが1辺50mのハミ塚古墳であるが、この方墳も同時期の古墳としては最大級である。興味深いのは、その次の時代に位置づけられる古墳がこの古墳群には存在しない。河上氏はそうしたハミ塚古墳の築造時期や規模から、被葬者を物部守屋とするのがもっともふさわしいと憶測しておられるようだ。 上記の山中氏も、墓主体は蘇我馬子で、被葬者は物部守屋であるとの興味深い解釈をしておられる。蘇我馬子が蘇我−物部戦争(丁未の変)で守屋を死に追いやった後にその鎮魂を願って立派な方墳の墓を造ったというのである。かなり飛躍した発想だが、筆者もその可能性は否定できないと思う。独断と偏見であることを十分承知した上で、その理由を以下に述べる。 蘇我−物部戦争は、百済から伝えられた仏教を公式に受け入れるかどうかで、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏が最終的に武力で決着させた宗教戦争のように言われている。しかし、物部氏も氏寺の渋川寺を建立していたと思われ、筆者はこの説に荷担しない。また、用明天皇亡き後次期皇位継承者をめぐる争いで、蘇我馬子と物部守屋が対立したことが原因とする説がある。確かに、守屋は穴穂部(あなほべ)皇子を推したが、馬子は具体的にどの皇子を推したか不明瞭であり、この説にも筆者は荷担しない。 もともと蘇我馬子は大臣として物部守屋は大連として、大和王権の中にあって車の両輪のように特に敵対する立場にはなかった。実際はその逆で、馬子の妻は守屋の妹の布都(ふつ)姫だったことからも推量できるように、両者の関係は良好だったと思われる。
炊屋姫としては当然穴穂部皇子と物部守屋に激しい怒りを懐いた。まず、叔父の馬子に命じて穴穂部皇子を殺させている。それでも怒りがおさまらなかったのか、勅を下して物部守屋追討を馬子に命じている。敏達天皇の皇后の勅とあっては、大臣の馬子としても豪族や皇族を糾合して、守屋討伐の軍をおこさなければならない。しかし、馬子が本気で守屋を討伐しようとしたかどうかは疑問である。何しろ相手は昔からの軍事氏族の名門である。まともに戦っては互いに深手を負うことは避けられない。炊屋姫を奉じて一応追討軍を組織したが、適当なところで休戦に持ち込もうと考えていたものと思われる。 ところが、この蘇我−物部戦争を物部氏追い落としの絶好の機会と待ち望んだ人物がいた。物部氏と並んで古代の軍事氏族の族長だった大伴咋(おおとものむらじ くい)である。咋の父の大伴金村は継体天皇から欽明天皇の時代、大連として大和政権の頂点に君臨していたが、欽明天皇元年(540年)、守屋の父・物部尾輿(おこし)に任那4県割譲の責任を問われ、政治的主導権を物部氏に奪われた。父の屈辱を晴らし、軍事氏族として返り咲くには物部本宗家を滅ぼすしかない。日頃からそう考えていた大伴咋は、蘇我馬子の制止も聞かず、先頭に立って守屋軍に襲いかかったであろう。
守屋の妹の布姫は、兄の遺骸を正式に埋葬することを夫の馬子に頼んだ。馬子としても、大和王権の中にあって長い間肩を並べて政治を主導してきた相手である。その鎮魂のためにも、物部本宗家の総帥にふさわしい墓を築いて丁重に埋葬してやるにこしたことはない。馬子がそう感じ、そう行動したのであれば、ハミ塚古墳の被葬者は守屋だった可能性は十分にありうる。 現在、ハミ塚古墳の石室はコンクリートでふさがれている。 |
【参考文献】
・河上邦彦著『大和の終末期古墳』(学生社)
・西川寿勝・相原嘉之・西光慎治著『蘇我三代と二つの飛鳥』(新泉社)
【引用】
* 河上邦彦著『大和の終末期古墳』より