橿原日記 平成22年1月20日

天理市岩屋町のハミ塚古墳は物部守屋の奥津城?

丁未の変(ていびのへん)の敗北で滅亡した古代の有族・物部本宗家

物部守屋大連墳
国道25号線に面して築かれた「物部守屋大連墳」

西暦587年は、我が国の古代史にとってエポックメーキングな年だった。大和政権の大臣(おおおみ)と大連(おおむらじ)という最高位に君臨した二大豪族が河内の地で武力衝突し、凄惨な戦いを繰り広げた。両氏族の名をとって蘇我−物部戦争、あるいはその年の干支から丁未(ていび)の変という。

日本書紀』の崇峻天皇前紀は戦いの様子を克明に記している。用明天皇2年(587)秋7月、大臣の蘇我馬子(そがのうまこ)は諸皇子と諸臣とに勧めて、大連(おおむらじ)の物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼそうとした。そして、泊瀬部皇子(はつせべのみこ)をはじめとする諸皇子や紀男麻呂(きのおまろ)らの諸豪族と一緒に、軍勢を率いて守屋を討った。

物部守屋の別邸跡に建つ大聖勝軍寺
物部守屋の別邸跡に建つ大聖勝軍寺
勢は志紀郡(しきのこおり)から守屋の渋河の家に至った。守屋は自ら子弟と奴の兵士たちを率いて、稲城(いなぎ)を築いて戦った。このとき、守屋は衣摺の地の榎(えのき)の木股に登って、来襲してくる敵を木の上から眺め、雨のように矢を射かけたという。

際の主戦場は衣摺の地だったようだ。守屋はこの地に稲城を築かせている。稲城とは、敵の矢を防ぐために、刈った稲を横木にかけて柵のように並べた一種の防壁である。彼はこの稲城を砦として、子弟や兵士たちを叱咤激励しながら戦っている。自ら榎(えのき)に登って、雨のように矢を敵軍に射かけたのもこの地である。

際、物部軍は強かったらしい。『日本書紀』は”その軍は強く勢いが盛んで、家に満ち野に溢れた。皇子たちと群臣の軍は弱くて、恐れをなし三度退却した”という。参戦した厩戸皇子(うまやとのみこ、後の聖徳太子)がヌリデの木を切り取って四天王の像を造り、仏法の加護を祈願したとする逸話はこのときのものである。

局は迹見赤檮(とみのいちい)という剛の者が、守屋を矢で射落としてこれを殺すことで、ようやく物部の軍が四散し戦いは終わった。こうして討伐軍が勝利し、物部氏の本宗家は滅亡した。最大の政敵を武力で葬り去ったことで、その後の蘇我家は未曾有の繁栄を享受することになる。


守屋首洗池
守屋首洗池
阪府八尾市太子堂3丁目には、大聖勝軍寺(だいせいしょうぐんじ)という寺がある。物部守屋の渋河の邸宅があった跡地に建つ寺院で、聖徳太子が建立したといわれる河内三太子のひとつで、「下の太子」または太子堂の名で知られている。大聖勝軍寺の境内や周辺は、蘇我−物部戦争に関する史跡が多く、まるでメモリアルパークのようだ。

屋の首を洗ったとされる守屋池が境内の入口近くにある。迹見赤梼(とみのいちい)が放った鏑矢(かぶらや)で倒れた守屋の首を、秦河勝(はたのかわかつ)が切り取って洗ったと伝えられる池で、俗に「守屋首洗池」とも言われている。近くの八尾市立病院脇の路地を入った奥には、守屋を射た鏑矢が落ちその矢を埋めたとされる鏑矢塚(かぶらやづか)の石碑が、飲食店の看板に囲まれて立っている。また、この鏑矢を放った弓を埋めた弓代塚(ゆみしろづか)も、近くの竜華中学校の南側にあり石碑が立っている。

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鏑矢塚 弓代塚
鏑矢塚 弓代塚

して、物部守屋の遺体を葬ったとされる場所が、大聖将軍寺近くの八尾市立病院の正面に築かれている。八尾市内で一番交通量の多い国道25号線沿いに築かれた「物部守屋大連墳」が、その墓所とされている。

守屋の墓所とされる「物部守屋大連墳」
守屋の墓所とされる「物部守屋大連墳」
っとも、この場所に守屋が埋葬された確証はない。ただ、『河内鑑名所記』や『河内名所図絵』には、小さな塚上の丘の上に一本松のある姿がえがかれていて、明治の初期に堺県の知事だった小河一敏が、表に「物部守屋大連墳」と刻した立派な墓碑を建立し、周囲に玉垣を作った。

我−物部戦争では、守屋は衣摺(きぬずり)の地に稲城を設けて戦ったとされている。その場所は現在も衣摺(きずり)という地名で東大阪市に残っている。近鉄大阪線の「弥刀」駅の近くの金岡公園からさほど離れていないところに一条山光泉寺(所在 東大阪市衣摺3−15−25)という寺がある。その築地塀の角にある地蔵堂に沿うように、地名縁起を記した「衣摺顕彰之碑」建っている。それによれば、”聖徳太子(厩戸皇子)は、やむを得ぬ戦いのために亡くなった守屋を惜しんで、守屋戦死の大榎(えのき)に袖を摺りつけて落涙されたので、この地を衣摺と呼ぶことになったという”。さらに、”稲城の跡は、衣摺神社、光泉寺となり、大榎は脇芽が相次ぎ生い茂り、その巨大な根株は大正初期まで存在していた”と記している。

光泉寺の「衣摺顕彰之碑」 光蓮寺の『稲城址』の石碑
光泉寺の「衣摺顕彰之碑」 光蓮寺の『稲城址』の石碑

たがって、筆者は光泉寺付近が蘇我−物部戦争の主戦場だったとばかり思っていたが、実はもう一カ所稲城が築かれたと伝承されている場所が八尾市内にあった。大聖将軍寺から南へ1kmほど行ったところにある光蓮寺(所在 八尾市南木の本7丁目135)があり、その門前に『稲城址』の石碑が建っている。昭和14年に建てられた高さ145cmの自然石だが、この地は物部守屋が稲束を積んで砦を構えたという伝承地であり、守屋の死後その址を寺としたのが光泉寺の起源である、と記されている。ちなみに光蓮寺の住職の名前も稲城姓だそうだ。

から1400年以上も昔に氏族同士が戦った古戦場の正確な場所などは、ずいぶん以前に人々の記憶の中で風化してしまっている。その曖昧な記憶があちこちに伝承地を生んだとしても致し方がないことであろう。どちらかの伝承地が正しいのかは、今となっては判定のしようがない。あるいは、どちらの伝承地も実は正しくないのかも知れない。



蘇我馬子が守屋の鎮魂を願って造営した立派な方墳のハミ塚古墳?

の橿考研副所長で付属博物館の館長を兼務されていた河上邦彦氏が書かれた『大和の終末期古墳』を読んでいて、考古学者の間では物部守屋が被葬者かもしれないと推定されている古墳が存在しているのを知った。奈良県天理市岩屋町で見つかったハミ塚古墳である。

ハミ塚古墳付近のマップ
ハミ塚古墳付近のマップ

側道脇のハミ塚古墳
側道脇のハミ塚古墳

ミ塚古墳は名阪国道の東天理インターの近くに築かれていた。この場所が古墳との認識は1994年頃までは地元でもなかったようだ。1995年に名阪国道の側道の拡張のため小山の崖面を30mにわたって幅2〜3m削ったところ、巨石が見つかった。これを契機に発掘調査が実施され、かなり大きな墳丘をもつ古墳で、横穴式石室が内蔵していることがわかった。そこで、翌年に石室と墳丘全体を確認する調査が実施された。

の墓はすでに盗掘の被害にあっていた。その上に、江戸後期から明治の間に多くの石が運び去られていて、当時の状況では玄室、羨道部共に石室の1段目しか残っていなかった。墳丘も元の姿がわからないほど削られていた。それでも様々な知見が得られ、1997年4月には現地説明会も行われた。

発掘当時の現場写真
発掘当時の現場写真(*)
ず、周辺のトレンチ発掘の結果、この古墳は復元長が東西48.8m、南北45.6mの方墳であると判断され、さらに墳丘は2段築造に復元できると推定された。終末期古墳としては、明日香村の石舞台古墳カナヅカ古墳に匹敵する最大クラスの規模である。周辺にはコの字形の堀状の遺構があり、石室は南西側に開口した両袖式の横穴式石室で巨大な花崗岩が使われていた。しかし、自然石を多少加工した程度で、切石にはまだ達していなかった。

掘で確認された石室の全長は約12mだった。羨道が破壊されていたため正確な長さは不明だが、おそらく15m以上あったものと推察された。玄室の規模は、長さ5.7m、奥行き幅2.92m、玄門幅3.44m、高さは不明である。羨道の現存長は5m、幅は1.8mだった。

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石室の内部(*)
棺は兵庫県加西市の長石(おさいし)を使用した刳り抜きの家型石棺で、破砕されていたが接合して復元すると、長辺だけに3対計6個の縄掛突起が付くことが分かった。この形態の棺蓋は珍しく、全国的に見ても静岡県で2例見つかっているだけだそうだ。出土遺物としては、須恵器片、土師器片、金環、太刀の握頭につく鉄地銀張りの捩環頭片、 刀装具と思われる金銅製品、長頭鏃片などがあった。築造時期は、出土した須恵器などから6世紀末から7世紀初めとされているが、河上氏は諸条件から見て6世紀末頃と見られるとコメントしておられる。

の古墳の特徴的な点としては、まず須恵器の破片が床のほぼ全面から出土した。その大きさはほとんどすべてが2〜3cmの大きさで、盗掘の際に壊されたものではなく、あらかじめ人為的に打ち割ってばらまいたと思われる。土器などを割る行為は破砕祭祀の一部であり、被葬者が生の世界から死の世界へ行くとき行われる祭りだったようだ。

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石室の壁面に残っていた漆喰(*)
に、石室の壁面には白い漆喰が部分的に残っていた。石室内に水が入り込むのを防ぐために石と石の目地の部分に漆喰を塗るのは一般的に行われるが、この古墳では壁面全体に塗られていたようだ。壁面だけではなく、石棺の外面も全体に漆喰を塗り、白い石棺を造っていた。破邪のために石室に水銀朱を塗った例はよく聞くが、ハミ塚古墳は漆喰を塗って白い部屋を演出したようだ。

室の床面には、白と黒の玉砂利が厚さ10cmに敷き並べられていた。床の補強や舗装のために玉砂利を敷く例はあるが、ハミ塚古墳のものはこれらとは基本的に異なり、白と黒の石は道教の陰陽の思想を表しており、ここで陰陽の祭祀行為が行われたのだろうと推察されている。


掘調査の結果から得られた情報を整理すると、ほぼ上記のようになる。これらの情報から、なぜ被葬者が蘇我ー物部戦争で迹見赤檮(とみのいちい)に射殺された物部守屋と推測することが可能なのだろうか。河上氏の意見をもう少し聞いてみよう。

由の第一は、ハミ塚古墳は終末期と区分される時期に造られた方墳である点だ。終末期古墳というのは比較的新しい概念で、高松塚古墳が見つかるまでは、後期古墳の一部として扱われ、晩期古墳とか飛鳥時代古墳などの名称で呼ばれていた。しかし、6世紀末頃に前方後円墳が築かれなくなり、それに代わって大型の円墳や方墳が造られるようになり、考古学的に一つの画期があったと見なされるようになった。そのため、古墳時代の時期をそれまでの前期・中期・後期の三期に加えて6世紀末から7世紀末頃を終末期と区分するようになった。

ハミ塚古墳の横穴式石室
ハミ塚古墳の横穴式石室(*)
末期古墳は築造の観点から、幾つかの顕著な特徴が見られるという。河上氏によれば、まず後期古墳は寿陵であったが、終末期古墳では死後に墓作りが始まった。このため殯(もがり)の期間が長くしなければならなくなった。墳丘は上記のように前方後円墳から円墳・方墳へ変化しその規模は小さくなるが、反対に内部の横穴式石室はより大きく立派になり、巨石を使うようになる。さらに、墳丘や横穴式石室に企画性が認められるようになり、墓作りが国の管理によって行われるようになったことが推察できるとのことだ。

末期古墳は、その立地から見て風水思想の影響のもとに墓所の選定が行われたようだ。風水思想の普及で山や丘陵の南斜面に墓が築かれるようになり、横穴式石室も南に開口するようになる。高松塚古墳やキトラ古墳の石室に見られる四禽は風水の青龍(東)、朱雀(南)、白虎(西)、玄武(北)は陰陽図緯を示している。

ずれにせよ、6世紀末には天皇や皇族の前方後円墳の造営は終了した。592年に没した崇峻天皇陵とされる赤坂天王山古墳は方墳である。600年頃に没したと思われる押坂彦人皇子の墓とされる牧野(ばくや)古墳は円墳である。587年に没し、6年後に近つ飛鳥に改葬された用明天皇の春日向山古墳(用明天皇陵)や、628年に没し竹田皇子の墓だった植山古墳に合葬され後、やはり近つ飛鳥に改葬された山田高塚古墳(推古天皇陵)も方墳である。そのため、専門家の中には飛鳥寺の建立と方墳や円墳の出現は、まさに蘇我氏専横時代の幕開けと見なす見解もある(山中鹿次氏、『蘇我三代と二つの飛鳥』所収の「コラム3 飛鳥時代の史学と考古学」)。

方、天理市の布留周辺は物部氏の本拠地として知られ、石上神宮は物部氏の氏神であり、祭祀は物部氏の一族によって執り行われてきた。物部本宗の大連家は587年に滅亡したが、物部連(むらじ)家や物部首(おびと)家は、その後も石上神宮の祭祀者としてかなり繁栄している。物部一族の奥津城として杣之内(そなのうち)古墳群石上豊田古墳群があるが、後者の中の石上古墳群では、別所大塚、石上大塚、ウワナリ塚古墳(いずれも全長110〜120mの前方後円墳)と続き、その規模は当時の天皇陵を除くと最大規模であり、物部本宗家の首長墓だったようだ。

ハミ古墳
終末期古墳としては、石舞台古墳やカナヅカ古墳に匹敵するハミ塚古墳

れに続くのが1辺50mのハミ塚古墳であるが、この方墳も同時期の古墳としては最大級である。興味深いのは、その次の時代に位置づけられる古墳がこの古墳群には存在しない。河上氏はそうしたハミ塚古墳の築造時期や規模から、被葬者を物部守屋とするのがもっともふさわしいと憶測しておられるようだ。

記の山中氏も、墓主体は蘇我馬子で、被葬者は物部守屋であるとの興味深い解釈をしておられる。蘇我馬子が蘇我−物部戦争(丁未の変)で守屋を死に追いやった後にその鎮魂を願って立派な方墳の墓を造ったというのである。かなり飛躍した発想だが、筆者もその可能性は否定できないと思う。独断と偏見であることを十分承知した上で、その理由を以下に述べる。

我−物部戦争は、百済から伝えられた仏教を公式に受け入れるかどうかで、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏が最終的に武力で決着させた宗教戦争のように言われている。しかし、物部氏も氏寺の渋川寺を建立していたと思われ、筆者はこの説に荷担しない。また、用明天皇亡き後次期皇位継承者をめぐる争いで、蘇我馬子と物部守屋が対立したことが原因とする説がある。確かに、守屋は穴穂部(あなほべ)皇子を推したが、馬子は具体的にどの皇子を推したか不明瞭であり、この説にも筆者は荷担しない。

ともと蘇我馬子は大臣として物部守屋は大連として、大和王権の中にあって車の両輪のように特に敵対する立場にはなかった。実際はその逆で、馬子の妻は守屋の妹の布都(ふつ)姫だったことからも推量できるように、両者の関係は良好だったと思われる。

コンクリートで塞がれたハミ塚古墳の石室
コンクリートで塞がれたハミ塚古墳の石室−1
たがって、蘇我−物部戦争の直接の原因は敏達天皇の皇后だった炊屋姫(かしきやひめ、後の推古天皇)の私怨だったのでは、と筆者は考えている。守屋が推す穴穂部皇子は、いささか強引な皇子だったようだ。夫・敏達天皇の殯の宮に仕える炊屋姫を犯そうと殯の宮へ侵入しようとしたり、その侵入を敏達天皇の寵臣・三輪逆(みわのさこう)に阻止されて逆上し、守屋に命じて逆を殺害させている。

屋姫としては当然穴穂部皇子と物部守屋に激しい怒りを懐いた。まず、叔父の馬子に命じて穴穂部皇子を殺させている。それでも怒りがおさまらなかったのか、勅を下して物部守屋追討を馬子に命じている。敏達天皇の皇后の勅とあっては、大臣の馬子としても豪族や皇族を糾合して、守屋討伐の軍をおこさなければならない。しかし、馬子が本気で守屋を討伐しようとしたかどうかは疑問である。何しろ相手は昔からの軍事氏族の名門である。まともに戦っては互いに深手を負うことは避けられない。炊屋姫を奉じて一応追討軍を組織したが、適当なところで休戦に持ち込もうと考えていたものと思われる。

ころが、この蘇我−物部戦争を物部氏追い落としの絶好の機会と待ち望んだ人物がいた。物部氏と並んで古代の軍事氏族の族長だった大伴咋(おおとものむらじ くい)である。咋の父の大伴金村は継体天皇から欽明天皇の時代、大連として大和政権の頂点に君臨していたが、欽明天皇元年(540年)、守屋の父・物部尾輿(おこし)に任那4県割譲の責任を問われ、政治的主導権を物部氏に奪われた。父の屈辱を晴らし、軍事氏族として返り咲くには物部本宗家を滅ぼすしかない。日頃からそう考えていた大伴咋は、蘇我馬子の制止も聞かず、先頭に立って守屋軍に襲いかかったであろう。

コンクリートで塞がれたハミ塚古墳の石室
コンクリートで塞がれたハミ塚古墳の石室−2
いの趨勢はその時の勢いでどちらに転ぶか分からない。咋に先導された大伴の軍勢の覇気は、他の豪族軍の士気にも影響を与え、結局追討軍の勢いが勝って、馬子の腹づもりとは別に僚友・守屋を死地に追い込んでしまった。守屋の死骸は馬子の前で首実検され、首は切り落とされて炊屋姫のもとに送られ、死体は大聖勝軍寺の近くに仮埋葬されたであろう。

屋の妹の布姫は、兄の遺骸を正式に埋葬することを夫の馬子に頼んだ。馬子としても、大和王権の中にあって長い間肩を並べて政治を主導してきた相手である。その鎮魂のためにも、物部本宗家の総帥にふさわしい墓を築いて丁重に埋葬してやるにこしたことはない。馬子がそう感じ、そう行動したのであれば、ハミ塚古墳の被葬者は守屋だった可能性は十分にありうる。

在、ハミ塚古墳の石室はコンクリートでふさがれている。



【参考文献】
・河上邦彦著『大和の終末期古墳』(学生社)
・西川寿勝・相原嘉之・西光慎治著『蘇我三代と二つの飛鳥』(新泉社)
【引用】
* 河上邦彦著『大和の終末期古墳』より


2010/01/20作成 by pancho_de_ohsei

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