橿原日記 平成22年1月14日

東京国立博物館で出会った土偶たち

国宝の土偶三体
国宝の土偶三体: 左から「縄文のビーナス」、「中空土偶」、「合掌土偶」(*)


東京国立博物館で開かれている大英博物館帰国展「国宝土偶展」

「国宝土偶展」のポスター
「国宝土偶展」のポスター
本の土偶を紹介する「THE POWER OF DOGU」という展示会が、昨年の9月10日から11月22日までイギリスの大英博物館で開催された。その展示品の帰国を記念して、「国宝 土偶展」が現在、東京国立博物館の本館で開催されている。会期は2月21日(日)までである。

宝の指定を受けている土偶は、現在のところ上に示した「縄文のビーナス」、「中空土偶」、「合掌土偶」の3点だけだが、一堂に揃って展示されるのは、今回が初めてだそうだ。その他にも、重要文化財23点、重要美術品2点を含めて土偶とその関連資料が全部で67点展示されるというので、その開催を楽しみにしていた。

偶とは、縄文から弥生時代にかけて素焼きで作り上げた”ひと形”の土製品である。土偶の発生は今から約13,000年前の縄文時代草創期までさかのぼるという。同じ素焼きでも、古墳時代の墓を飾った人物埴輪ほどの大きさや大らかさはないが、一種独特のさまざまな姿や形は、当時の人々の精神や信仰の世界を具体的に示しているという。

文土器を製作する傍らで、縄文人は同じ粘土をこねて彼らの祈りを示す”ひと形”を作り続けてきた。1万年以上の長い年月の流れの間に、その姿や形はさまざまに変化してきた。現代人は、その豊かな造形に芸術性すら感じて、土偶を愛して止まない。

かし、なんのために土偶が作られたのかは、今もって分からないことだらけのようだ。縄文時代草創期の頃のものは、顔や手足のない単純で小型の土偶が作られた。だが、乳房が見られることから、基本的に女性を表したものと思われる。時代が下がれば、出産間近の女性の姿を現した土偶も多く見つかっており、安産祈願あるいは再生や多産を願って作られたという説がある。

山野をかける土偶」特別展
「山野をかける土偶」特別展のポスター
の一方で、これまで日本全国で発掘された14,000体に近い土偶のほとんどは、手足や頭部の一部が破損していて完形のものが極めて少ない。また破損した部分が周辺から見つかっていない。そのため、病気や怪我を治すため、その部位を打ち砕いて身代わりとしたのでは・・・という説もある。

者がまとまった土偶の展示を見たのは、5年前の平成17年4月までさかのぼる。当時、茨城県の「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」の考古資料館で「山野をかける土偶」という特別展が開催されていた。その折、文化庁美術学芸課文化財調査官の原田昌幸氏の特別講演「土偶の移り変わりと造形」を聴講して、初めて土偶にもさまざまな形態があるのを知った。(平成17年4月24日付け橿原日記参照)

して、特別展では、ハート形土偶や山形土偶、みみずく形土偶、遮光器土偶などを見て、その造形の豊かさに驚いた。ひょっとしてあのとき見た土偶たちとまた再会できるかと思って、本日東京国立博物館に出かけてきた。以下は、「国宝 土偶展」で見た土偶の印象記である。



会場で出会ったさまざまな土偶たち

「土偶展」が開催されている東京国立博物館の本館
「土偶展」が開催されている東京国立博物館の本館 (撮影 2010/01/14)


展示会の会場入口
展示会の会場入口
国宝 土偶展」の会場に当てられているのは、東京国立博物館の本館一階にある特別5室である。二階に続く正面階段の左側の奥に展示会の会場入口があった。残念ながら、会場での撮影は禁止されていたので、内部の様子はお伝えできない。

場は、3つのセクションに分けて土偶と関連資料を展示していた。セクション1 「土偶のかたち」、セクション2 「土偶芸術のきわみ」、セクション3 「土偶の仲間たち」の3つである。


仮面土偶(重要文化財)(**)
クション1「土偶のかたち」では、土偶の移り変わりを実物で紹介するコーナーである。その正面で見学者を迎えてくれるのは、”仮面の女神”の愛称で知られる「仮面土偶」だ。逆三角形の仮面を付け、両手を広げて、まるで”通せんぼう”をしているような形が面白い。

れは、平成12年(2000)8月に長野県茅野市の中ツ原(なかっぱら)遺跡で見つかったほぼ完形の大型土偶である。全長は34cm、重量は2.7キロを測る。中ツ原遺跡は今から約3500年前の縄文時代後期の遺跡で、そのほぼ中央にある墓域の土壙(どこう)の中に横たわるように、この土偶は埋められていた。右足は壊れて胴体から外れており、人為的に壊されていたようだ。

偶の胴は大きく、中央にヘソを示す円形の突起が見られ、丁寧な文様が施されている。下腹部は張り出し、妊娠した女性を示している。祭祀などで使用された女神を表現したものと思われるが、なによりも人目を引くのは、ビヤ樽のように太くがっしりし両脚である。その太さが安定感を与えていると同時に、今にも動き出しそうな力をみなぎらせている。この土偶は平成18年(2006)に重要文化財に指定された。


立像土偶(重要文化財
立像土偶(重要文化財)(**)
成元年(1989)、山形県舟形町の西の前遺跡からあまりにも現代的な造形の土偶が見つかった。縄文時代中期(BC3000 - BC2000)に製作された土偶で、全長の高さは45cmもあり、今まで出土した土偶の中では最大とされている。他のずんぐりむっくりで短足の土偶を見慣れた目には、すらりとした8等身の優美な姿はいかにも爽やかに感じられる。そのため、平成10年(1998)に重要文化財に指定され、以前は「縄文のビーナス」の愛称で知られていた。

前は、と断ったのには理由がある。実は同じ年の9月に長野県茅野市米沢の棚畑遺跡から完形の妊婦を象った土偶(後述)が発見された。こちらの土偶は平成7年(1995)に国宝に指定され「縄文のビーナス」と通称されるようになった。そのため、西の前遺跡出土のものは単に「立像土偶」と呼ばれるようになった。

aaaaa
前は平凡だが、その洗練されたフォルムはすばらしく、肩から胸、腰から脚へと至るラインがまことに美しい。頭部は扁平で扇形に作られ、後頭部と顔面は内彎し、目や鼻などの顔面表現はない。腰の部分は大きく後ろに屈曲し、尻はゆるやかな凸面を呈している。脚部は角状の柱を二本寄せ合わせて腰につなぎ合わせたようであり、表裏ともに太めで浅い沈線で斜線状の模様が描かれている。

の土偶は人の形を究極までデフォルメして完成させており、現代のアートとして紹介されても十分に通じる造形である。海外でも高い評価を受けているとのことだが、まさに縄文造形の優品と言ってよい。


ハート形土偶(重要文化財)
ハート形土偶(重要文化財)(**)
偶は縄文時代を通してみられるが、早期(BC7000 - BC4000)や前期(BC4000 - BC3000)のものは少ない。中期(BC3000 - BC2000)には東日本を中心に分布するようになり、目、鼻、口がはっきり表現されるようになる。後期(BC2000 - BC1000)になるとハート形の顔をした土偶や、後頭部が突出した三角形の顔をした山形土偶、丸い目や口をつけたみみずく土偶など多彩になる。

文時代後期の関東地方ではハート形の顔を持つ土偶が多く作られた。文字通りハート形の顔をしているので則物的にハート形土偶と通称されているが、今回展示されていた土偶は、その特異な造形から日本を代表する古代造形の一つとしてよく知られている。第二次世界大戦中の昭和16年(1941)、群馬県吾妻郡岩島村(現在の東吾妻町)で行われたJR吾妻線郷原駅建設工事に際し、その調査中に石囲いの中から横に寝かされた状態で発見された。高さは約30.5cmを測る。

異なハート形の顔は、鼻、眉毛、口にかけての輪郭のみで表現されており、頭や額、耳、頬、顎などが省かれている。そのため、ハート形の仮面をかぶった姿を表しているのか、それとも顔そのものがデフォルメされているのか分からない。しかし、胸の小さな乳房の表現から女性像であることは分かる。乳房の間に臍(へそ)を表現した小さな穴があり、そこから下がる線は妊娠線だといわれている。おそらく健康な生命の誕生を祈願して作られた人形なのだろう。

の土偶には背面を含めて体の要所に渦巻き文が施してある。また、肩は大きいが、そこからぶら下がる手は小さい。しかし、アーチ状の表現された足腰は縄文女性の力強さを今に伝えている。戦後の昭和26年(1951)にこの土偶の存在が公式に発表されると、その抽象的な表現を芸術界も高く評価し、一大センセーションを巻き起こした。それから14年後の昭和40年(1965)には、国の重要文化財の指定を受けている。現在は個人蔵だが、東京国立博物館に寄託されている。


aaaaa
みみずく土偶(重要文化財)
文時代後期中頃(約3500年前)になると、霞ヶ浦のほとりで頭部の形がオムスビのような山形をしている山形土偶が作られるようになった。約3000年前の縄文時代後期後半から晩期前半になると、山形土偶から変化した不思議な髪型をした土偶が関東地方を中心に作られるようになる。

と髪は赤く塗られ、まん丸の目と口に加え、やはりまん丸の大きな耳飾りをつけている。顔が”みみずく”に似ていることから「みみずく土偶」と呼ばれている土偶である。会場には埼玉県の真福寺貝塚から出土したみみずく土偶が展示されていた。

福寺貝塚は、埼玉県さいたま市岩槻区にある縄文時代後期から晩期(今から約3500年から2800年前)にかけて営まれた貝塚・集落跡である。大正時代から幾度となく発掘調査が行われ、縄文時代晩期の竪穴住居跡や土偶、勾玉など縄文時代の様子を伝える貴重な遺物が出土した。

aaaaa
みずく土偶も壊されて出土することが多く、完形のものはほとんどなく、呪術に用いられたのではないかと考えられている。縄文晩期の遮光器土偶文化へ向けた過渡期の信仰を担う重要な土偶と推察されている。今回展示されているみみずく土偶は、20cm位の小さくて可愛い感じの土偶だ。重要文化財の指定を受けており、平成15年(2003)、東京国立博物館が旧所有者から購入し、現在は博物館蔵になっている。


遮光器土偶
遮光器土偶(重要文化財)(**)
偶は縄文時代中期(BC3000 - BC2000)にはそれまでの板状の扁平なものから立像へと発展するが、なぜか数は激減する。しかし縄文時代の後期(BC2000 - BC1000)から晩期(BC1000 - BC400)になると,様式化した各種の土偶が登場し、その極致を迎える。特に晩期には抽象と具象を備えた土偶が東北地方を中心に発達する。

鏡をかけているように目を大きく表現した土偶が、縄文晩期には主に東北地方で出現した。その目の部分がエスキモーが雪中の光除けに着用した遮光器に似ていることから「遮光器土偶」と呼ばれる土偶である。一般に「土偶」といえば、この型のものが連想されるほど有名な土偶である。今回の展示では、明治20年(1887)に青森県つがる市の亀ケ岡遺跡から出土した、片足のない遮光器土偶が展示されていた。

aaaaa
光器土偶の特徴は、目が顔の大半を占めているのに対し、鼻がない。体は左右対称の文様で全面に渡って覆われており、まるで鎧を付けているようだ。胸には半球形の乳房が貼り付けられており、肩が張り、腕は短く逆円錐形で、指は3本しかない。人間の形を逸脱した極めて特徴的な造形から、かってソ連のSF作家カザンチェフは”宇宙服を着た異星人の像ではないか”と憶測したことが知られている。


縄文のビーナス
縄文のビーナス(国宝)(**)
クション1「土偶のかたち」で時系列的に様々な形状の土偶を見た後にセクション2「土偶芸術のきわみ」に回ると、国宝の指定を受けた三体の土偶だけが展示されていた。前後左右から見学できるようにガラスケースに納められた土偶の周りには、やはり見学者の数が多い。まずは、ミロのビーナスならぬ「縄文のビーナス」である。

の土偶は、長野県茅野市米沢にある縄文中期(4500年前)の棚旗遺跡から平成元年(1989)に出土した。縄文環状集落の中央にある広場から完全な状態で発掘されたそうだ。一見して妊婦を象ったことがわかる土偶で、平成7年(1995)に国宝に指定された。正式には「国宝(完全大形)妊娠土偶」という。というのは、同じ年に山形県の西ノ前遺跡から発掘された「立像土偶」も、「縄文のビーナス」と呼ばれることがあるためである。

体は下方に重心がある安定した立像で、全長は27cm、重量は2.14キロを測る。頭は頂きが平らに作られ、円形の渦巻き文が見られる。そのため、帽子をかぶっている姿だと言われている。文様は頭部以外には見あたらない。

はハート形の仮面をかぶった形をしている。切れ長のつり上がった目や、尖った鼻に針で刺したような小さな穴、小さなおちょぼ口などは、八ヶ岳山麓の縄文時代中期の土偶に特有の造形だそうだ。腕は左右に広げられているが、手は省略されている。胸はには乳房が小さくつまみのように付けられているだけだが、腹と尻は大きく張り出しており、妊娠した女性の様子をよく表している。


合掌土偶
合掌土偶(国宝)(**)
成9年(1997)6月、青森県八戸市の風張(かざはり)1遺跡から縄文後期後半(約3500年前)の遺物が多数出土し、その中に竪穴住居の壁面に寄りかかるように置かれた土偶があった。。一般に、土偶はごみ捨て場や遺構外で出土する例が多く、住居の片隅に置かれた状況で出土した例は珍しい。出土したとき、この土偶は左足部分が欠けていた。しかし、その部分は2.5mほど離れた床面から見つかった。

偶は、座った状態で両腕を膝の上に置き、正面で手を合わせ、指を結んだポーズを取っている。そのため「合掌土偶」と名付けられた。両手を合わせた姿は大変珍しく、天を仰ぎ、一心不乱に深い祈りを捧げる様子が伝わってくる秀作である。その祈りは、新たな生命への安産祈願か、あるいは自然の恵みや豊かな暮らしへの豊穣祈願だったかもしれない。

体には、乳房や性器、肛門など人体的特長が表現され、さらに一束ねにした髪型、入れ墨をした唇、首飾り、肩パットなどの衣服がそれぞれ表現されている。全身に顔料を塗布した痕跡があり、製作当時は真っ赤な土偶だったと推測されている。

掌する姿ではなくて、出産時の坐産という分娩体位の姿勢を表現しているとの見方もある。そう言われれば、眉をつり上げた顔の表情や力強く握り締められた両手の印象から、出産時の姿を表しているようにも見える。この土偶が国宝に指定されたのは新しい。平成21年(2009)3月のことである。


中空土偶
中空土偶(国宝)(**)
体展示された国宝の最後は、函館市南茅部地区の著保内野(ちょぼないの)の畑で、昭和50年(1975)8月に農作業中の主婦が偶然に掘り当てた土偶である。内部が中空になっているため「中空土偶」と名づけられた。町教委は、緊急調査でこの土偶が縄文時代後期の集団墓の一角に埋納されていたことを確認している。

偶は頭部の一部と両腕が欠損していたものの、ほぼ完全な形で見つかった。高さ41.5p,幅20.1p,重さ1,745グラムと,現存する中空土偶としては国内最大級の大きさである。

部から足元まで当時の衣装と思われる文様がくっきりと施されている。その精巧な作りと写実的な表現から,当時の精神文化を知る学術的価値の高い貴重な資料として高く評価され、また土偶造形の頂点を示すものとして、平成19年(2007)6月に北海道初の国宝の指定を受けた。



人面付き深鉢形土器
馬場小室山遺跡出土の「人面付き深鉢形土器」
クション3「土偶の仲間たち」のコーナーでは、深鉢形土器や土面、動物形土製品など土偶の仲間と思われる縄文時代の出土品が展示されていた。その中に懐かしい土器があった。埼玉県さいたま市の緑区三室にある馬場小室山(ばんばおむろやま)遺跡から出土した「人面付き深鉢形土器」である。側面に人の顔が浮き彫りされたこの深鉢土器は、埼玉県の有形文化財に指定されている。

場小室山遺跡は、今から約5000年から3500年前の縄文時代中期から晩期までの長期にわたって、継続して営まれた住居跡遺跡で、縄文時代中期には、直径150mにおよぶ環状集落が形成されていたことが分かっている。縄文後期から晩期にかけては、竪穴住居跡とともに墓域や特殊な土坑が構築されるとともに、直径数十メートルにおよぶ環状盛土遺構が形成されていたことも判明している県を代表する縄文遺跡である。

面付き深鉢形土器は、昭和57年(1982)の発掘調査で、第51号土坑から30個以上の粗製土器とともに出土した。この土器を初めて見たのは、平成17年(2005)の1月、場所は見沼たんぼを見下ろす台地に上に建つさいたま市立浦和博物館だった。昭和56年(1981)の発掘調査で破片で発見された土偶装飾付土器と共に、並んでガラスケースの中に展示されていた(平成17年1月30日付け橿原日記参照)。


月7日付けの毎日新聞インターネット版の「余録」には、面白い記事が出ていたので紹介しておこう。鬼頭宏著「人口から読む日本の歴史」によると、狩猟採集民だった縄文人は短命で、平均寿命の推計値は男女とも14.6歳だそうだ。また、15歳まで生きた男女の平均余命は男女平均で16年で、31歳程度まで生きのびた。そのため、一族の集団の存続のためには、15歳以上の女性は平均余命いっぱいの16年の間に、2年に1回の割で出産しなければならなかった計算になるという。

かも、出産そのものが現在とは違って何倍も生命の危険を伴う行為だった。土偶は、そうした縄文人の生命への祈りを宿しているという。

るほど、と思った。安産を願って盛んに女性の土偶を造り続けた縄文人の旺盛な創作活動の背後には、母体の生命の安全と種族保存の切実な願いがあったのだ。21世紀の我々が彼らの遺品をあたかも古代の芸術品のように鑑賞することなど、彼らのあずかり知らぬことだった。


(*) ポスターよりコピー
(**)絵はがきよりコピー


2010/01/17作成 by pancho_de_ohsei
return