橿原日記 平成22年01月10日

銅鏡の完形なし、多量の破片だけを出土した桜井茶臼山古墳の怪

最初の発掘調査から60年を経て、次々と明らかになった桜井茶臼山古墳の実情

■ 奈良県桜井市の市街地にある桜井茶臼山古墳は、まことに存在感のある古墳時代前期の巨大古墳である。市の南東部に広がる鳥見山(とみやま、245m)から北へのびる一つの尾根を利用して、前方部を南に向けて築かれている。ちょうど三輪山の南の初瀬谷への入口に面した場所にあり、奈良盆地東南部から東へ抜ける昔の初瀬・伊勢街道を見下ろしている。 上空から見ると、端正な姿の柄鏡(えかがみ)の形をした前方後円墳であることが分かる。

桜井茶臼山古墳
後円部を北に向けて桜井市の市街地に横たわる桜井茶臼山古墳

■ この雑木林で覆われた丘陵が古墳であることは、昭和20年代の中頃までまったく知られていなかった。地元でも、南に位置する鳥見山から派生した丘陵としか見られていなかったようだ。理由は簡単である。我が国の古代を記述した『古事記』や『日本書紀』は天皇陵の所在を記しているが、そうした記述にはこの古墳に言及したものがなかったためだ。

桜井茶臼山古墳の所在地
桜井茶臼山古墳の所在地
■ 桜井茶臼山古墳に学術調査のメスが入ったのは、戦後の1949年(昭和24年)から1950年(昭和25年)にかけてである。橿原考古学研究所(=橿考研)が行なった発掘調査で、墳丘の規模は全長207m、後円部の径110m・高さ21.2m、前方部の幅61m・高さ11mであることが判明した。墳丘には埴輪列は築かれていなかったが、段築面は葺石で葺かれていた。さらに、後円部の頂きに縦11.7m、横9.2m、高さ1mの方形の壇が貼石で築かれており、孔のある壺形土器(二重口縁壺形土器)がその周囲に巡らされていた。

■ 方形の壇の下に位置する埋葬施設は、長さ6.8m、幅1.3m、深さ1.6m規模の竪穴式石室だった。石室は板状の石を煉瓦のように積み重ねて築かれ、天井は12枚の巨石でふさがれていた。石室内には木棺が納められていたが、現存していたのは長さ5.2m、幅70cm、厚さ最大27cmの底の部分だけだった。石室内はすでに盗掘で荒らされており、主要な副葬品はなくなっていた。それでも、その残りカスから、前期古墳の副葬品の典型的組合せである銅鏡や玉類、剣や刀などの武器類が、セットで埋葬されていたことが判明した。そして、これらの副葬品の残品から、古墳が築造されたのは、3世紀末から4世紀の初めころと推定された。

■ 銅鏡は、このときの調査で53個の破片として見つかっている。これらの破片から銅鏡を復元すると、斜縁二神二獣鏡、方格規矩四神鏡、獣帯鏡、平縁の神獣鏡が各1面、内行花文鏡が3面、三角縁神獣鏡が4種6面となり、合計で9種類の銅鏡が少なくとも13面副葬されていたと推定された。


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60年ぶりの調査で現れた桜井茶臼山古墳の石室天井石
■ 2009年の年が明けると、この古墳の石室の構造を解明する目的で、橿考研は1月から3月にかけて改めて学術調査を実施した。この調査を皮切りに、桜井茶臼山古墳は次々と驚愕の事実を明らかにし、考古学ファンにとってはたまらない一年となった。

■ まず、後円部中央の封土を剥いだところ、竪穴式石室を覆っていた方形壇の裾(すそ)の10カ所で、直径約30cmの丸太を約1.3m埋め込んだ痕跡が確認された。その他の痕跡は残っていないが、築造当時は南北12.5m、東西10mの方形に約150本の柱を隙間なく並べていたと推測された。柱穴の深さは1.3m、柱の高さは3m近くに及んだとみられている。

「丸太垣」の復元イメージ
「丸太垣」の復元イメージ
■ 橿考研は、死者の魂と外界を区別する結界施設ではないかと想定し、神域を守る神社の玉垣を思わせる構造であることから「丸太垣」と名づけた。このような施設が古墳で見つかったのは、全国で初めてのースである。当時の大王クラスの古墳祭祀の継承や実行は、先代の墓を作って執行されたが、その実態はほとんど分かっていない。丸太垣はそうした大王クラスの葬送儀礼を復元する大きな手がかりになると考えられている。

■ この丸太垣は、すでに発見されているメスリ山古墳埴輪列の前身ではなかったかと推定されている。メスリ山古墳とは、桜井茶臼山古墳の南南西約1.6kmに位置するもう一つの巨大前方後円墳で、茶臼山古墳に次いで築造されたとされている。2003年の調査によって、その規模は全長200m、後円部径110m、前方部幅60mであることが確認された。この古墳も後円部の径に比べて、前方部の幅が広がらない柄鏡の形をしている。その後円部の頂上には、中央の長方形の区画の周りに円筒埴輪の列が2重に巡らしてあった。

メスリ山古墳の埴輪列の復元イメージ
メスリ山古墳の埴輪列の復元イメージ
■ 内側の埴輪列は、南・北面に各12本、東面に23本、西面に22本、合計69本が並んで埋められ、東西6.7m、南北13.3mの区画を構成していたという。そのうち石室の主軸線上にあった2本は特殊大型円筒埴輪である。 一方、外側の埴輪列は、北面に23本、南面に20本、東・西両面にともに32本、合計106本が建てられていた。また内側と外側の埴輪列の間には、大型円筒埴輪と高坏形埴輪が配されていた。

>石室内に置かれた木棺の底
石室内に置かれた木棺の底
■ 桜井茶臼山古墳の竪穴式石室には、長さ5.2m、幅70cmの木棺の底が残っていた。1949年の調査では、木棺はトガの巨木と鑑定された。全国の前方後円墳ではコウヤマキ製の木棺が多いことから、この鑑定結果を疑問視する説が多かった。しかし、調査終了とともに石室が埋め戻されたため、再鑑定ができないままだった。それが今回の再調査でコウヤマキであることが判明し、約60年ぶりに「真実」が突きとめられた。

■ その他にも、被葬者に供物(くもつ)をささげることを象徴した二重口縁壺(こうえんつぼ)を壇上に並べていたことが確認された。また、大半が数cm大に割られた三角縁神獣鏡などの鏡片も153点見つかった。さらに、石室周辺からは大量の炭も出土し、被葬者の遺体を石室に埋葬したのち、火を使った儀式が行われたことも判明した。丸太垣跡のすぐ外側には、長さ1m前後の平らな石でふさいだ溝状遺構も2カ所も見つかった。しかし、詳しい調査は8月以降に続行することで調査地は埋め戻された。

水銀朱が塗られれている石室内部
水銀朱が塗られれている石室内部
■ 学術調査は8月から再開された。そして、竪穴式石室の壁面に積み上げられた石や天井石の全面に、「辰砂(しんしゃ)」と呼ばれる水銀朱が塗られていることが判明した。水銀朱は、一部残っていた木棺にも塗られていた。国内の古墳で使われた水銀朱は、これまで奈良県天理市の大和天神山古墳で確認された42キロが最多とされてきた。しかし、桜井茶臼山古墳で使用された水銀朱の使用量を推定すると、それを大きく上回って約200キロにも達し、国内の古墳で使用された量としては最大であるという。

■ 10月22日、橿考研は多量の水銀朱が石室の全面に塗布されていた事実をマスコミに発表し、10月29日からの3日間にわたる現地見学会には大勢の考古学ファンが参集した。見学会初日だけでも2000人が押しかけたとのことだ。多くの見学者を引きつけたのは、「丸太垣」や「水銀朱」の相次ぐ発見だったのだろうが、もう一つ別の理由もあった。

見学会に参集した考古学ファン
見学会に参集した考古学ファン
■ 邪馬台国の女王の死が248年ころとされているが、この墓の埋葬者の死はそれからわずか50年後の頃と思われる。仮に邪馬台国の所在地が桜井の纒向地域であることが確定されたとしよう。その場合、この被葬者は邪馬台国の次の女王・臺與(とよ)の後を継いだ大王だったかもしれないのだ。『古事記』や『日本書紀』が伝える我が国の古代史をひょっとして覆すかもしれない「謎の大王」に対する期待が、見学者たちのロマンを膨らませたにちがいない。

■ そうした期待をさらに増幅するように、橿考研は次のサプライズを用意していた。



盗掘の「残りかす」から見つかった宝の山

一面で記者発表を伝える毎日新聞
一面で記者発表を伝える毎日新聞
■ 新しい年が明けてまだ正月の松飾りも取れない1月7日、橿考研は驚くべき発見を記者発表で明らかにした。桜井茶臼山古墳の石室には、国内最多の13種、81面の銅鏡が副葬されていたことが明らかになったというのだ。

■ さあ大変である。1月8日(金)付けの全国紙(朝日、毎日、読売、産経)や地方紙の奈良新聞などは、朝刊の一面でこのニュースを伝え、社会面で大きなスペースを割いて関連記事を掲載していた。
各紙が一面の見出しにつけたタイトルは次の通りである。

○(朝日新聞) 銅鏡81枚 最多の副葬 卑弥呼時代示す文字も
○(毎日新聞) 国内最多 銅鏡81枚確認 ヤマト政権大王墓 巨大権力示す
○(読売新聞) 銅鏡 最多81面の破片 邪馬台国と大和王権つなぐ?
○(産経新聞) 大王墓裏付ける最多81面超の鏡片 豪華な副葬「正始元年」破片も 卑弥呼の銅鏡か
○(奈良新聞  国内最多 銅鏡81枚 三角縁神獣鏡も 卑弥呼と関係か

■ いずれのタイトルにも「銅鏡81面」の文字が踊っていて、いかにこの記者発表が衝撃的だったかが伺える。多数の鏡を埋葬した古墳としては、椿井(つばい)大塚山古墳(京都府木津川町)の37面、黒塚古墳(奈良県天理市)の34面、さらには平原(ひらばる)1号(福岡県前原市)の40面などが知られている。だが、桜井茶臼山古墳に埋葬されていたとされる鏡の数量は圧倒的で、これまでの発見例を倍以上も上回る。

副葬されていた銅鏡
種類面数
三角縁神獣鏡26面
内行花文鏡(国産)10面
内行花文鏡(舶載)9面
画文帯・斜縁・四乳神獣鏡16面
半肉彫神獣鏡5面
環状乳神獣鏡4面
だ龍鏡4面
細線獣帯鏡3面
方格規矩鏡2面
単き鏡1面
盤龍鏡1面
■ さらに興味深いのは、これらの銅鏡は完形また破損した形で出土したしたのではない。大きさが1cmから2cm程度の鏡の破片として見つかったものがほとんどで、完全に元の鏡の形に復元できるものは一面もなかった。60年前の調査では、53個の破片が見つかっており、それらの破片から銅鏡を復元すると、上記のように9種類の銅鏡が少なくとも13面副葬されていたことがすでに分かっていた。昨年の調査では、石室周辺から出した土を5ミリネットのふるいにかけて遺品の「残り物」を採取したところ、新たに石製品62点、球類50点、鉄製品55点とともに、銅鏡の破片331点が見つかった。

■ 橿考研は1996年から銅鏡の精密な計測を行い、三角縁神獣鏡200面以上を含む700面以上の銅鏡に関するデータを集めてビジュアル化した「三次元デジタル・アーカイブ」を備えている。そこで、60年前の出土破片と合わせて384点の破片を一個ずつ、このデジタル・アーカイブと照合し精密に解析した結果、81面分を確認することができた。この作業には3ヶ月を要したという。しかし、それでも破片のうち180点は種類が特定できず、銅鏡の総数はさらに多くなる見込みである。

一面で記者発表を伝える毎日新聞
「是」の字が見つかった破片(毎日新聞より)
■ 三角縁神獣鏡の破片の一つに、「」という字が刻まれているものがあった。この縦1.7cm、横1.4cmの小さな破片を「三次元デジタル・アーカイブ」のデータと照合した結果、蟹沢古墳(群馬県高崎市)から出土した「正始元年」の銘がある三角縁神獣鏡に刻まれた字と形が同じで、同じ鋳型から作られた鏡であることが判明した。正始(せいし)元年は西暦240年。卑弥呼が魏の都洛陽に派遣した使節が、魏の皇帝から下賜された銅鏡100枚を含む品々を携えて帰国した年の魏の年号である。

■ 正始元年(240)の年号が記された鏡は、上記の蟹沢古墳の他に森尾古墳(兵庫県富岡市)と竹島御家老屋敷古墳(山口県周南市)からも出土しているが、邪馬台国の有力な候補地である奈良県では今まで見つかっていなかった。ちなみに、卑弥呼が使節を派遣した景初3年(239)の銘がある三角縁神獣鏡は、和泉黄金塚古墳(大阪市和泉市)や神原古墳(島根県雲南市)で見つかっている。

■ 不思議なことに、実在するはずがない景初4年の銘が入った鏡も広峰15号墳(京都府福知山市)や持田古墳群(宮崎県高鍋町)で出土している。魏の二代目皇帝・明帝(曹叡)は景初3年(239)1月1日に崩御し、曹芳(そうほう)が皇位を嗣いだが、その年は景初3年の年号がそのまま用いられ、翌年(240)の1月に正始元年と改元された。したがって、景初4年という年号は存在しないのだが、なぜかこの年号の銘がある三角縁神獣鏡が我が国では見つかっている。



粉々に粉砕された銅鏡の384点の破片の謎

並べられた銅鏡の破片(毎日新聞より)
並べられた銅鏡の破片(毎日新聞より)
■ この「銅鏡81面」出土のニュースをマスコミの報道で知ったほとんどの人たちは、まず疑問を抱いたはずである。なぜ貴重な鏡がバラバラにされ、しかも一つとして完形に復元できるものはなかったのか? と。鏡の破片は最大で縦11.1cm、横6.3cmで、大半は1〜2cmの指先ほどの大きさだった。

■ 桜井茶臼山古墳は鎌倉時代に盗掘の被害にあっている。盗掘者にとって、緑青色に変色した銅鏡など盗み出すほどの価値もないとして、木棺の内外から放り出して作業の最中に踏みつけて割ってしまったのだろうか。そうでであれば、つなぎ合わせれば元の形に復元できる破片がその周辺に散乱していなければならない。だが、残っていたのは粉々に壊された一部の破片だけである。残りの部分は何処に消えたのだろうか。

■ この古墳は鎌倉時代以後にも第二次世界大戦中か終戦直後にも盗掘にあっているという。資源が不足した時代だった。そこで、福永伸哉・大阪大学大学院教授は、銅の素材を求めて石室に入り込んだ盗掘者が、盗品として足がつかないように粉々に壊して持ち去ったのでは、と推測されている。しかし、わざわざ狭くて暗い石室内で粉砕するより、銅鏡をそのままの形で外の広い場所に持ち出して粉砕した方が、作業ははるかに楽であり、また石室から持ち出すのも楽だったはずだ。

椿井大塚山古墳から出土した三角縁神獣鏡
椿井大塚山古墳から出土した三角縁神獣鏡
■ 別の意見もある。樋口隆康・京都大学名誉教授は、「いくら盗掘されても、これほど粉々に壊されるはずがなく、最初から破片で納めたのでは」とコメントしておられる。「被葬者は生前、破損した鏡を集めてリサイクルし、新しい国産鏡を作り出す役割を担っていた」と推測され、その象徴として破片を埋葬したと考えられておられるようだ。だが、卑弥呼の時代からせいぜい50年、未だ古墳時代前期という段階で、リサイクルしなければならないほど銅鏡が不足していたとはとても思えない。

■ 筆者には、古墳に副葬された銅鏡の性格が今ひとつよく分からない。以前の銅鏡の研究では故人となられた京都大学名誉教授・小林行雄氏の「同笵鏡論」によって、大和王権への服属の印として、地方の豪族に分かち与えたもので、被葬者の遺族たちが故人の威信材として鏡を副葬したと考えられてきた。しかし、服属の証なら1面で済むはずなのに、大抵の古墳には複数面の鏡を埋葬している。大和王権のお膝元と言える椿井大塚山古墳黒塚古墳の被葬者などは30面以上も副葬されていた。

河北定県八角廊村40号墓出土の金縷玉衣
河北定県八角廊村40号墓出土の金縷玉衣
■ 一方、鏡には霊力があるとされ、現在でも銅鏡を本殿に祀っている神社が多い。その霊力は古代には破邪の力があると見なされ、被葬者を悪霊から守るため棺の内外に置かれたとする説がある。そうであれば、枚数が多いほど破邪の霊力は強いと見なされ、財力のある首長たちは、競って銅鏡を求めたであろう。それにしても、81面の鏡は多い。筆者は81面の鏡と聞いて、昨年の中国旅行で遼寧省博物館の国家宝蔵展に展示されていた河北定県八角廊村40号墓出土の金縷玉衣を思い出した。悪霊が被葬者にとりつくのを防ぐとすれば、このように鏡を配置したのかもしれない。

■ だが、石室で81面あるいはそれ以上の鏡が粉々に破壊されていた理由は謎のままである。あるいは、この古墳の被葬者に積年の恨み懐いていた敵対勢力が、ある時点で墓を暴き、被葬者を守っていた鏡を遺骸から取り払い、その霊力を封じるために粉々に踏み砕いたのだろうか。そして、それでも鏡の霊力の再生を恐れて、粉砕された破片の主な部分を石室から持ち去ったのだろうか。

【追記】鏡の破片などの出土品は、橿考研の付属博物館で1月13日から31日まで展示される。



2010/01/010作成 by pancho_de_ohsei
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