最初の発掘調査から60年を経て、次々と明らかになった桜井茶臼山古墳の実情
■ 奈良県桜井市の市街地にある桜井茶臼山古墳は、まことに存在感のある古墳時代前期の巨大古墳である。市の南東部に広がる鳥見山(とみやま、245m)から北へのびる一つの尾根を利用して、前方部を南に向けて築かれている。ちょうど三輪山の南の初瀬谷への入口に面した場所にあり、奈良盆地東南部から東へ抜ける昔の初瀬・伊勢街道を見下ろしている。 上空から見ると、端正な姿の柄鏡(えかがみ)の形をした前方後円墳であることが分かる。
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| 後円部を北に向けて桜井市の市街地に横たわる桜井茶臼山古墳 |
■ この雑木林で覆われた丘陵が古墳であることは、昭和20年代の中頃までまったく知られていなかった。地元でも、南に位置する鳥見山から派生した丘陵としか見られていなかったようだ。理由は簡単である。我が国の古代を記述した『古事記』や『日本書紀』は天皇陵の所在を記しているが、そうした記述にはこの古墳に言及したものがなかったためだ。
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| 桜井茶臼山古墳の所在地 |
■ 桜井茶臼山古墳に学術調査のメスが入ったのは、戦後の1949年(昭和24年)から1950年(昭和25年)にかけてである。橿原考古学研究所(=橿考研)が行なった発掘調査で、墳丘の規模は全長207m、後円部の径110m・高さ21.2m、前方部の幅61m・高さ11mであることが判明した。墳丘には埴輪列は築かれていなかったが、段築面は葺石で葺かれていた。さらに、後円部の頂きに縦11.7m、横9.2m、高さ1mの方形の壇が貼石で築かれており、孔のある壺形土器(二重口縁壺形土器)がその周囲に巡らされていた。
■ 方形の壇の下に位置する埋葬施設は、長さ6.8m、幅1.3m、深さ1.6m規模の竪穴式石室だった。石室は板状の石を煉瓦のように積み重ねて築かれ、天井は12枚の巨石でふさがれていた。石室内には木棺が納められていたが、現存していたのは長さ5.2m、幅70cm、厚さ最大27cmの底の部分だけだった。石室内はすでに盗掘で荒らされており、主要な副葬品はなくなっていた。それでも、その残りカスから、前期古墳の副葬品の典型的組合せである銅鏡や玉類、剣や刀などの武器類が、セットで埋葬されていたことが判明した。そして、これらの副葬品の残品から、古墳が築造されたのは、3世紀末から4世紀の初めころと推定された。
■ 銅鏡は、このときの調査で53個の破片として見つかっている。これらの破片から銅鏡を復元すると、斜縁二神二獣鏡、方格規矩四神鏡、獣帯鏡、平縁の神獣鏡が各1面、内行花文鏡が3面、三角縁神獣鏡が4種6面となり、合計で9種類の銅鏡が少なくとも13面副葬されていたと推定された。
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| 60年ぶりの調査で現れた桜井茶臼山古墳の石室天井石 |
■ 2009年の年が明けると、この古墳の石室の構造を解明する目的で、橿考研は1月から3月にかけて改めて学術調査を実施した。この調査を皮切りに、桜井茶臼山古墳は次々と驚愕の事実を明らかにし、考古学ファンにとってはたまらない一年となった。
■ まず、後円部中央の封土を剥いだところ、竪穴式石室を覆っていた方形壇の裾(すそ)の10カ所で、直径約30cmの丸太を約1.3m埋め込んだ痕跡が確認された。その他の痕跡は残っていないが、築造当時は南北12.5m、東西10mの方形に約150本の柱を隙間なく並べていたと推測された。柱穴の深さは1.3m、柱の高さは3m近くに及んだとみられている。
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| 「丸太垣」の復元イメージ |
■ 橿考研は、死者の魂と外界を区別する結界施設ではないかと想定し、神域を守る神社の玉垣を思わせる構造であることから「丸太垣」と名づけた。このような施設が古墳で見つかったのは、全国で初めてのースである。当時の大王クラスの古墳祭祀の継承や実行は、先代の墓を作って執行されたが、その実態はほとんど分かっていない。丸太垣はそうした大王クラスの葬送儀礼を復元する大きな手がかりになると考えられている。
■ この丸太垣は、すでに発見されているメスリ山古墳の埴輪列の前身ではなかったかと推定されている。メスリ山古墳とは、桜井茶臼山古墳の南南西約1.6kmに位置するもう一つの巨大前方後円墳で、茶臼山古墳に次いで築造されたとされている。2003年の調査によって、その規模は全長200m、後円部径110m、前方部幅60mであることが確認された。この古墳も後円部の径に比べて、前方部の幅が広がらない柄鏡の形をしている。その後円部の頂上には、中央の長方形の区画の周りに円筒埴輪の列が2重に巡らしてあった。
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| メスリ山古墳の埴輪列の復元イメージ |
■ 内側の埴輪列は、南・北面に各12本、東面に23本、西面に22本、合計69本が並んで埋められ、東西6.7m、南北13.3mの区画を構成していたという。そのうち石室の主軸線上にあった2本は特殊大型円筒埴輪である。 一方、外側の埴輪列は、北面に23本、南面に20本、東・西両面にともに32本、合計106本が建てられていた。また内側と外側の埴輪列の間には、大型円筒埴輪と高坏形埴輪が配されていた。
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| 石室内に置かれた木棺の底 |
■ 桜井茶臼山古墳の竪穴式石室には、長さ5.2m、幅70cmの木棺の底が残っていた。1949年の調査では、木棺はトガの巨木と鑑定された。全国の前方後円墳ではコウヤマキ製の木棺が多いことから、この鑑定結果を疑問視する説が多かった。しかし、調査終了とともに石室が埋め戻されたため、再鑑定ができないままだった。それが今回の再調査でコウヤマキであることが判明し、約60年ぶりに「真実」が突きとめられた。
■ その他にも、被葬者に供物(くもつ)をささげることを象徴した二重口縁壺(こうえんつぼ)を壇上に並べていたことが確認された。また、大半が数cm大に割られた三角縁神獣鏡などの鏡片も153点見つかった。さらに、石室周辺からは大量の炭も出土し、被葬者の遺体を石室に埋葬したのち、火を使った儀式が行われたことも判明した。丸太垣跡のすぐ外側には、長さ1m前後の平らな石でふさいだ溝状遺構も2カ所も見つかった。しかし、詳しい調査は8月以降に続行することで調査地は埋め戻された。
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| 水銀朱が塗られれている石室内部 |
■ 学術調査は8月から再開された。そして、竪穴式石室の壁面に積み上げられた石や天井石の全面に、「辰砂(しんしゃ)」と呼ばれる水銀朱が塗られていることが判明した。水銀朱は、一部残っていた木棺にも塗られていた。国内の古墳で使われた水銀朱は、これまで奈良県天理市の大和天神山古墳で確認された42キロが最多とされてきた。しかし、桜井茶臼山古墳で使用された水銀朱の使用量を推定すると、それを大きく上回って約200キロにも達し、国内の古墳で使用された量としては最大であるという。
■ 10月22日、橿考研は多量の水銀朱が石室の全面に塗布されていた事実をマスコミに発表し、10月29日からの3日間にわたる現地見学会には大勢の考古学ファンが参集した。見学会初日だけでも2000人が押しかけたとのことだ。多くの見学者を引きつけたのは、「丸太垣」や「水銀朱」の相次ぐ発見だったのだろうが、もう一つ別の理由もあった。
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| 見学会に参集した考古学ファン |
■ 邪馬台国の女王の死が248年ころとされているが、この墓の埋葬者の死はそれからわずか50年後の頃と思われる。仮に邪馬台国の所在地が桜井の纒向地域であることが確定されたとしよう。その場合、この被葬者は邪馬台国の次の女王・臺與(とよ)の後を継いだ大王だったかもしれないのだ。『古事記』や『日本書紀』が伝える我が国の古代史をひょっとして覆すかもしれない「謎の大王」に対する期待が、見学者たちのロマンを膨らませたにちがいない。
■ そうした期待をさらに増幅するように、橿考研は次のサプライズを用意していた。
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