何故卑弥呼なのか
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象眼が純金だったことを伝える 1月6日付け産経新聞一面の記事 |
筆者は、1月5日に久しぶりに橿原に戻ってきて、翌朝の産経新聞でこのニュースを知った。産経新聞の一面トップは藤井財務相の辞任を伝えていたが、一面の左半分は「象眼は純金 卑弥呼に中国付与?」という見出しでこの金象眼の記事を掲載していた。さらに24面にも「黄金文字で権力誇示?」というタイトルで関連記事を載せていた。
不思議なことに、このニュースを配信したのは産経新聞だけのようだ。インターネットの考古学関連ニュースのサイトにアクセスしても、産経新聞以外のマスコミ各社の報道は見あたらない。一面に堂々と掲載したのであれば、産経新聞は自社のスクープであることを強調したかったのかも知れない。
それにしても、この純金による象眼発見の記事は唐突である。一面を飾るほどのニュースバリューがあるならば、東京文化財研究所は分析結果を正式に公表したはずだが、その時期も発表者も記事の何処にも示されていない。このような新聞報道の5W1Hの原則にもとるような記事は、読者の側にも用心して読む必要がある。時として、時期を失した発見があたかも大発見があったように、紙面の埋め合わせに報道されることがある。
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| 1月6日付け産経新聞24面の関連記事 |
産経新聞24面の関連記事では、3人の専門家のコメントを載せている。京都国立博物館の保存修理指導室長の村上隆氏は、この大刀が日本製であるとする一部の説に対して、3世紀には純金を精錬する技術は未だ我が国にはなく、中国製の可能性を示唆しておられる。ちなみに、村上氏によれば、我が国での純金製品の製造は7世紀後半の飛鳥池遺跡まで待たなければならないとのことだ。
大阪府立弥生文化博物館の館長・金関恕(かなせきひろし)氏は、この中平銘刀の発見者である。氏は「女王になったばかりの卑弥呼が中国に使者を送り、金象眼大刀を譲り受けたのではもないか」とコメントされたようだ。だが、これだけでは金関氏の発言の真意は読者には伝わらない。当時は現在の中国のような統一国家は大陸に存在しない。
金関氏は以前、「邪馬台国の卑弥呼が女王として共立されたことを報告するため、当時遼東地方を支配していた公孫度(こうそんたく)に使節を派遣した可能性がある」との説を出された。卑弥呼が使節を派遣したのは魏ではなく、遼東の公孫度ではなかったかとのユニークな考えである。そのため、魏が公孫度に下賜した金象眼の鉄刀が卑弥呼の使節の手を介して我が国にもたらされたかもしれないと示唆された。しかし、そのような史実を想定することは可能だろうか。
『後漢書』には、倭国大乱は”桓霊の間”と記す。桓霊とは後漢の桓帝(147年-168年)と霊帝(168年-189年)の在位期間を指し、西暦147年から189年の頃をいう。大刀に示す「中平」の年号は184年から189年であり、奇しくもこの時期に含まれる。したがって、倭の女王に推戴されたのは、189年以後のそれに近い頃だったと思われる。
その頃の中国は、後漢王朝が末期的な症状を呈していた時代である。中元元年(184)に起きた黄巾の乱をきっかけに、魏・呉・蜀の三国鼎立時代に突入した。昨年の中国映画「レッドクリフ(赤壁)」で話題になった赤壁の戦いは208年に起きている。後漢の地方官だった公孫度も、黄巾の乱の混乱に乗じて遼東地方に独立政権を樹立し、朝鮮半島の北端である楽浪郡や山東半島まで勢力を伸張した。204年には、公孫度の嫡子である公孫康が楽浪郡の南に帯方郡を設置し、朝鮮半島を勢力下に置くほどだった。公孫度は自領に隣接する魏に臣従を装っていたが、228年に公孫淵が王位を簒奪して即位すると、呉と同盟工作を行うなど密かに独立を謀り、236年に魏の皇帝曹叡から上洛を求められと、反旗を翻して燕王と称した。
公孫度や公孫康が魏に臣従していた頃、洛陽で中平年間に作られた中平の銘がある鉄刀が魏王から公孫氏に下賜された可能性は否定できない。だが、宗主国・魏の権威の象徴ともいうべき刀剣を、東海の島国から使節を派遣してきた倭の女王に公孫度が軽々しく与えることなどあり得るだろうか。そのような行為は、魏の権威に対する冒とく以外の何物でもない。仮にそうした行為が行われたとすれば、公孫淵が魏に反旗を翻した236年以降であり、邪馬台国の卑弥呼が倭国連合の王に共立された直後だったとはとても思えない。
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東京国立博物館に展示されている 東大寺山古墳出土の花形環頭金象眼銘大刀 |
魏志倭人伝には次のような魏の皇帝の詔書の内容が記載されている。
「また、特に汝(=卑弥呼)に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張(さいはんかけい:模様を細かく斑に表した織物)・白絹五十匹.金八両・五尺刀二口・銅鏡百牧・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなりと。・・・」(現代語訳:すなわち、汝(=卑弥呼)に対するこれらの下賜品を装封して、使節の難升米・牛利に託す。使節が帰国したなら、目録にあわせてこれらの品々を受けとり、それを汝の国中の人に示し、我が国が、汝をあわれんでいるのを知らしめよ。ゆえに、鄭重に汝の好物を下賜するのである・・・)
金関氏はまた、この記述の中の”五尺刀二口”に着目して、その一本が金象眼の大刀と考えられたようだ。そして、「東大寺山古墳の大刀の年号と半世紀ほどずれているものの、中国の権威の象徴であることは変わりない」とし、「当時の倭国では相当の権力者でも本物の金を目にすることはなかったはず。中国の権威を帯びた金色の銘文の大刀をかざすことで、各地域の王を統治しようとしたのではないか」と推測しておられる。
しかし、こうした推測にも疑問が残る。卑弥呼の遣使が景初二年(238)ではなくて景初三年(239)が正しいとするなら、卑弥呼の使節はその年の6月に帯方郡に到着し、太守劉夏は配下の人間に一行を魏の都・洛陽まで案内させている。使節の一行が魏の三代目皇帝・曹芳(そうほう)と謁見したのは、その年の12月だったようだ。だが、彼らが謁見した曹芳は、二代目の明帝(曹叡)が正月朔(1日)に崩御し、皇位を継いだばかりのわずか8歳の少年だった。あまりに幼年であるために、大将軍・曹爽と太尉・司馬懿(しばい)が補佐につき政務を取り仕切ったとされている。
卑弥呼が239年に魏に遣使した目的は、新皇帝就任の表敬訪問か、あるいは前の年の238年に太尉・司馬懿が燕を討伐してこれを滅亡させた事に対する慶賀だったと思われる。だが、海路はるばる東海の島国から使節を派遣してきた女王に対して、魏の朝廷は、半世紀以上も前に作られた中古の、しかも前王朝の銘が入った鉄刀などを下賜したであろうか。新王朝の沽券にかかわるというものである。金関氏はまた、当時の我が国では権力者でも本物の金を目にすることはなかったと推察されているが、そんなことはない。後漢を建国した光武帝が卑弥呼の時代から2世紀も遡る西暦57年に、倭国連合のひとつ奴国に与えたのは金印だった。
京都教育大名誉教授(古代史)の和田萃(あつむ)氏も「銘文が純金なのは、中国王朝が倭国を重視していた証しとも考えられる」と指摘しておられる。そして、4世紀中ごろに築造された東大寺山古墳に副葬されていた点については、「卑弥呼の時代以来、大和政権中枢に権力の象徴として保管されていたが、政権が安定し、中国の権威に頼らなくても統治できるようになったため、東大寺山古墳の被葬者に与えられたのではないか」とコメントしておられる。
金関、和田両氏も、東大寺山古墳の被葬者が、日本書紀などに将軍として登場しこの古墳一帯に拠点を置いたという大豪族・ワニ氏の首長であり、彼の武勲をたたえて金象眼の大刀が時の王権から与えられたと考えておられる。そうした見解はおそらく正しいであろう。だが、産経新聞がコメントを求めた専門家はいずれも邪馬台国畿内説の論者である。彼らの発想の原点は、常に邪馬台国は畿内にありき、である。纒向地方が大和王権の発祥の地であることは間違いないだろが、そこに卑弥呼の邪馬台国があったとは現時点で断定できない。こうした専門家のコメントを読むたびにいつも痛感するのだが、なぜマスコミは邪馬台国九州説の論者のコメントも合わせて併記しないのか。報道の中立性の観点からも、対立する識者の意見も記載しておくべきである。単に読者のロマンを刺激することを目的としたような報道は、三流紙のやることである。
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