| 元号 | 西暦 | 年齢 | 高虎の主な出来事 |
|---|---|---|---|
| 弘治2年 | 1556 | 1 | 近江国犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)で土豪・藤堂虎高の次男としてまれる(長兄高則は早世)。幼名は「与吉」と名乗った。 |
| 永禄3年 | 1560 | 5 | (桶狭間の戦い) |
| 永禄4年 | 1561 | 6 | (川中島の戦い) |
| 元亀元年 | 1570 | 15 | 浅井長政に仕え、姉川の戦いで初陣を飾り、長政から感状を受ける。 |
| 元亀3年 | 1572 | 17 | 同僚を殺して浅井家を出て,浅井氏の旧臣だった阿閉貞征に仕える。1ヶ月で勤めをやめ、三河まで流浪し、路銀を使い果たしてしまった高虎は、空腹のために、立ち寄った餅屋で並べてあった餅を無銭飲食する。 |
| 天正元年 | 1573 | 18 | 浅井氏が織田信長によって滅ぼされると、浅井氏の旧臣だった磯野員昌に家臣として仕え80石を与えられる (この年、室町幕府が滅びる) |
| 天正3年 | 1575 | 20 | 磯野家を出て織田信澄(のぶずみ)に仕える。 |
| 天正4年 | 1576 | 21 | 信澄の許で、丹波攻めで名のある武将を討ち取る功を立てるが、80石からの加増が無いことを不満として出奔する。織田家を出て、羽柴秀長に仕え300石の所領を与えられる |
| 天正6年 | 1578 | 23 | 羽柴秀吉の毛利攻略に従い、秀長麾下として戦う。 |
| 天正8年 | 1580 | 25 | 播磨三木城を攻めて、中国一の大力とされた敵将賀古六郎右衛門を討ち、名馬「賀古黒」を得る。戦功により3000石を加増されて3300石となる。 |
| 天正9年 | 1581 | 26 | 一色修理大夫の息女(久芳夫人)と結婚する。 |
| 天正10年 | 1582 | 27 | (本能寺の変) 山崎の戦いに従う。 |
| 天正11年 | 1583 | 28 | 賤ヶ岳の戦いなどに従軍する。賤ヶ岳の戦いで抜群の戦功を挙げたため、秀吉より1000石、秀長より300石の加増を受け4600石となる。 |
| 天正12年 | 1584 | 29 | 小牧・長久手の戦いに参陣する。 |
| 天正13年 | 1585 | 30 | 紀伊国の一揆平定線に従う。四国の長宗我部氏と戦う。戦功により5400石加増され1万石となる。秀長の和歌山城築城および大和郡山城改修に関与する |
| 天正14年 | 1586 | 31 | 家康の上洛に際して、家康の京都屋敷の造営を担当する。高虎は自費で門を造営し、高虎のつくった建物と配慮に感激した家康は、刀を感謝のしるしとして贈る |
| 天正15年 | 1587 | 32 | 九州征伐で、根白坂の戦いで島津軍に攻められた味方を救援する活躍を見せ、戦功により従五位下に叙せられ「佐渡守」と称する。 秀吉は、紀州と四国平定の際の戦功により高虎に1万石を加増し紀伊粉河2万石の領主に封じる。高虎は、この時に粉河寺境内脇の猿岡山に粉河城を築き、文禄元(1592)年に朝鮮出兵のために粉河を去るまでの七年間在城した。 丹羽長秀の三男「仙丸(後の高吉)を養子とする。 |
| 天正16年 | 1588 | 33 | 秀吉の命を受けて、長崎の収公のため現地に赴く。 |
| 天正18年 | 1590 | 35 | 秀長軍を率いて、北条氏と戦う。 |
| 天正19年 | 1591 | 36 | 豊臣秀長が没する。養子豊臣秀保が襲建し、その重臣となる。 |
| 文禄元年 | 1592 | 37 | 豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍する(文禄の役) |
| 文禄4年 | 1595 | 40 | 豊臣秀保が没し主家が廃絶となり、高野山に出家する。 その将才を惜しんだ豊臣秀吉の説得により還俗し、5万石を加増されて伊予板島(現在の宇和島)7万石の大名となる。 |
| 慶長元年 | 1596 | 41 | 慶長の役に従い、水軍を指揮する。
弟正高を江戸に人質として差し出す(慶長5年または6年とする異説あり)。正高、後に家康より下総国内で3000石の知行地を与えられる。 |
| 慶長2年 | 1597 | 42 | 慶長の役では、漆川梁海戦で朝鮮水軍の武将・元均率いる水軍を殲滅するという武功を挙げる。 |
| 慶長3年 | 1598 | 43 | 慶長の役の戦功により、1万石加増されて8万石の大名となり大津城を得る。 (豊臣秀吉が没する) |
| 慶長4年 | 1599 | 44 | 長高連の息女(松寿夫人)を側室とする。父虎高死去する。 |
| 慶長5年 | 1600 | 45 | 関ヶ原の戦いで、徳川家康率いる東軍に属して勝利。12万石加増され 伊予半国20万3千石の大名として国府城に入城する。 |
| 慶長6年 | 1601 | 46 | 後の二代藩主・高次誕生。近江膳所城の築城に関与する。支城の伊予甘崎・灘両城を改修する。 |
| 慶長7年 | 1602 | 47 | 渡辺勘兵衛を普請奉行として今治城の築城を開始する。完成は慶長9年(1604)。三重の堀に海水を引き入れた特異な構造で、当時は海から堀へ直接船で入ることができた。海上交通の要所今治らしく海を最大限に活用した城となっていた。日本三大水城の一つに数えられている。 |
| 慶長8年 | 1603 | 48 | (家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開く) |
| 慶長9年 | 1604 | 49 | 伏見城の修築に関与する |
| 慶長10年 | 1605 | 50 | 松寿夫人と子高次を、江戸に人質として差し出す。 |
| 慶長11年 | 1606 | 51 | 江戸城の修築に関与し、天守作事および二の丸・三の丸の拡張の功により2万石を加増される。 |
| 慶長12年 | 1607 | 52 | 官途を「佐渡守」から「和泉守」に改める。 |
| 慶長13年 | 1608 | 53 | 8月、徳川家康に伊賀・伊勢への転封を命じられ、伊賀上野城、安濃津城に入城し、22万石を領する。9月に伊賀上野に入城し、10月には津に入城する。 家康は高虎の才と忠義を高く評価し、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用した。 |
| 慶長14年 | 1609 | 54 | 丹波篠山城の築城に関与する |
| 慶長15年 | 1610 | 55 | 丹波亀山城の改修に関与する |
| 慶長16年 | 1611 | 56 | 正月から伊勢津城・伊賀上野城の改修に着手する。二条城で家康・秀忠会見の接待役をする。家康の命で、肥後熊本藩の監国に赴く。 |
| 慶長18年 | 1613 | 58 | 禁裏仙洞御所の修築に関与する。上野城天守が倒壊する。伊予板島の富田氏が改易され在番を命じられ、藤堂良勝を派遣する。 |
| 慶長19年 | 1614 | 59 | 江戸城本丸の修築に関与する。大阪冬の陣に従軍するため、10月に津城炉を出発する。 |
| 元和元年 | 1615 | 60 | 大阪夏の陣に従軍する。戦功により、従四位下に叙せられ、伊勢国4郡の内で5万石加増され27万石余となる。 |
| 元和2年 | 1616 | 61 | (徳川家康が没する) 日蓮宗から天台宗に改宗する。家康の遺命により日光東照宮造営に関与する。秋から工事にかかり約半年で完成した。 高虎に対する家康の信頼は高く、家康死去の際には枕元に侍ることを許された。家康は「天下に大事ある時は一の先手を高虎、二の先手を直孝」「藤堂家は末代までも伊賀・伊勢から動かしてはならない」と遺言を残したという。 |
| 元和3年 | 1617 | 62 | 秀忠より伊勢国田丸領5万石を加増され32万石余を領する |
| 元和5年 | 1619 | 64 | 徳川頼宣の和歌山転封に伴い、田丸領を大和国4郡および山城国1郡と交換する。 |
| 元和6年 | 1620 | 65 | 大阪城の改修に関与する。徳川秀忠息女和子(のちの東福門院)の入内交渉に尽力する。宮中の和子入内反対派公家の前で「和子姫が入内できなかった場合は責任をとり御所で切腹する」と言い放ち、強引な手段で押し切ったという。 |
| 元和7年 | 1621 | 66 | 二条城の改修に関与する。讃岐高松藩の監国の命を受け、外祖父の立場で藩政を補佐し、西島之友を派遣する。 |
| 寛永3年 | 1626 | 71 | 上野寛永寺の造営に関与する。京都南禅寺山門を寄進する。 |
| 寛永4年 | 1627 | 72 | 寛永寺に東照社を造営する。 |
| 寛永7年 | 1630 | 75 | 眼疾により失明し、10月5日江戸の藩邸で没する。江戸上野の寒松院に葬られる。 |