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隋末から初唐の頃、反乱軍に身を投じながら、唐軍に降った後は唐の全国制覇のために活躍し、晩年には唐・高句麗戦争で高句麗を滅亡に導いた武人がいる。彼の当初の名は徐世勣(じょせいせき)だが、高祖・李淵から国姓の李を与えられて李世勣(りせいせき)と改名し、さらに太宗・李世民が即位するとその諱(いみな)の「世」を避けて李勣(りせき)と名乗った人物である。彼の生涯を年表風にまとめてみると、次のようになる。
●李勣は曹州離狐(山東省)の比較的豊かな家の生まれだった。総章2年(669)に76歳で亡くなったと伝えられている。逆算すると、出生は開皇14年(594)になる。当時の氏名は徐世勣と言った。
●17歳のとき、隋末の混乱に乗じて山東省の瓦崗寨(がこうさい、現在の河南省北東部の河南安陽市滑縣あたり)によって蜂起しカク譲の反乱軍に身を投じる。徐世勣は年少にもかかわらず、カク譲よりも才能を発揮し、カク譲軍は徐世勣の主導によって動くようになったという。瓦崗寨の賊徒を討伐するために煬帝は斉州通主の張須陀に二万人を授けて派遣した。徐世勣は張須陀の軍としばしば交戦し、ついに張須陀を戦死させている。
●その頃、李密(りみつ)が王世充(おうせいじゅう)に敗れて瓦崗寨に逃げてきた。徐世勣は彼を迎え入れてカク譲に代わる首領として李密を押したてた。さらに、王世充の軍と戦い、奇計を用いて破った。その功によって、李密から東海郡公とされた。
●義寧元年(617)、河南および山東地方で大洪水が起こり、民衆の過半が溺死する事態が生じた。このとき、徐世勣は黎陽の穀倉を奪って飢えた民を集めることを李密に進言し受け入れられた。そこで、彼は兵五千人を率いて黎陽を襲撃し、穀倉を開いて貯蔵物資を民間に散財し、十日のうちに精兵二十万余を得た。江都で煬帝を弑した宇文化及(うぶんかきゅう)の軍がこの食料を求めて攻撃してきたので、これを撃退した。
●義寧2年(618)、魏公を名乗っていた李密は、王世充との会戦に敗れて、長安に拠る李淵のもとに降り、唐朝から光禄卿、■国公を授けられた。李密と共に唐に降った徐世勣を、李淵は自らの直臣として迎え入れ、黎陽総管、上柱国、莱国公を授けた。まもなく右武衛大将軍を加え、曹国公に改封して国姓の李を与え、良田五十頃を下賜し、甲冑一そろいを授けた。これ以降、彼は李世勣の名で知られる。唐の全国統一戦で、李世勣は李世民(後の太宗)の軍の中核として活躍し、竇建徳・王世充討伐に功績を挙げた。
●武徳8年(625)、突厥が并州を侵した。李世勣は行軍総管となり、突厥を太谷で撃ち、これを奔らせた。
●武徳9年(626)、玄武門の変により、高祖・李淵は8月に李世民に譲位し、李世民が二代目皇帝として即位すると、李世勣は并州都督を拝し、食邑九百戸を加増された。これ以降、李世民の諱を避けて李勣と名乗るようになる。
●貞観3年(629)、李世民は充実した国力を背景に突厥討伐を実施する。李勣は通漢道行軍総管として出兵し、雲中に入って突厥の刮利可汗と遭遇、白道で大会戦となり、突厥を破って磧口に屯した。突厥は使者が遣わし和平を請い、李世民は詔を発して刮利可汗を許した。しかし、李勣は定襄道大総督として出兵していた李靖と策を巡らし翌貞観4年(630)、双方の軍を率いて突厥の軍を壊滅させ頡利可汗を捕虜とした。突厥の軍が尽く投降してきたので、俘虜五万余を獲て帰還した。
●貞観11年(637)、李勣は英国公に封ぜられ、光禄大夫、并州大都督府長史に任じられた。しかし、彼は任地には赴かず、朝廷にあって本領である太子右衛卒の任に励んだ。李勣が在職した十六年の間、并州では法令が厳粛でいきわたり、人々は李勣の職を讃えた。李世民は侍臣たちに向かい、「隋の煬帝は賢良なものを選び取ることが出来ず、辺境を按撫できず、ただ長城を修築するだけで突厥に備えた。彼の常識は迷惑であり、その結果が現在である。朕は今李勣に并州を任せ、彼はついに突厥を遁走させ、恐れさせた。塞外を安寧させるに、長城などよりよほど勝るではないか?」と語ったという。
●貞観15年(641)、召されて入朝し兵部尚書を授かり、家に帰ることなく京師で職に就く。たまたま節延■(だ)とその兄の子・大度設が騎兵八万を率いて南侵し、李思摩の部落を犯した。李世民は李勣を朔州行軍総管に任じ、李勣は騎兵三千を率いて節延■を追撃、青山において交戦し、大いにこれを破り王一人を殺し、俘獲した酋長、兵卒は五万余人にのぼった。
●この頃、李勣は突然の病気に倒れ、薬として髯を焼いたものを服用して治療していた。それを聞いて、李世民は自分の髯を切り、彼のために薬とした。李勣は頓首したが、その拍子に喀血し、それでも泣いて感謝した。李世民は「朕が薬を作るのは社稷のためだ。謝るには及ばない」と言ったという。
●貞観17年(643)、李湛が皇太子に立てられた。李勣は改めて太子・事兼太子左衛卒に任ぜられ、位を特に進められて同中書門下三品とされた。李世民は私的に宴会を開いて「朕が幼子を托すに、卿を越えると思われるものはいない。公はかつて李密に仕えて彼を棄てず、今また太子を棄てることのない事を願う」と語った。李勣は李世民の意気に感じ、涙を流したが、咄嗟に指をかんで血を流し、泣いてない風を装ったという。李勣は大いに酔い潰れ、李世民は彼のために布団をかけてやった。感じ入った李勣は唐と太子のために力を尽くそうと誓った。
李勣と高句麗戦争
●貞観18年(644)、太宗・李世民が高句麗に親征し、李勣は遼東道行軍大総管として歩騎6万と蘭州と河州の胡人を率いて参戦した。このとき彼は蓋牟城(がいむじょう、現・蕪順市古城子)、遼東城(現・遼陽市)、白巌城(遼陽市当方30kmの燕州城))など数城を攻め落としている。唐軍は安市城(遼寧省鞍山市海城県英城子)を攻めたが抜くことができず、そのうち冬が訪れ、食糧もなくなりかけたので、太宗は勅命を出して軍を返した。
●3年後の貞観21年(647)、太宗が再度高句麗討伐軍を派遣したとき、太子・事(たいしせんじ)の李勣を再び遼東道行軍大総管に任命した。李勣の兵3千を率いて遼河を渡り高句麗を攻撃した。李勣の軍隊は南蘇城(撫順市営盤東方の鉄背山城)や木底城(瀋陽新賓県西北の木奇)など数城を落として帰国した。冬12月、高句麗の宝蔵王は第二王子を派遣して謝罪してきたので、太宗はこれを許した。
●貞観23年(649)5月、太宗李世民は李勣の才を恐れ、彼を左遷して疊州都督とした。そして、皇太子に対して「もし李勣が任地へ行くことを渋るようであれば即座に殺せ。もし任地へ素直に赴くようであれば、お前が即位した後に中央に呼び戻してやれ」と言い残して、53歳で没した。李勣も太宗の思惑を察知していたので、この詔勅が出た後に家にも帰らずにその足で任地へと赴いた。
●貞観23年(649)6月、皇太子李治が高宗として即位すると、李勣は呼び戻されて中書門下三品とされ、さらに9月には尚書左僕射・同中書門下三品(宰相)とされ、一躍朝廷の重鎮のひとりとなった。翌年の永徽元年(650)10月には、李勣は左僕射を辞任したが、永徽4年(653)2月には司空となっている。すなわち、高向玄理が長安に赴く1年前に、李勣は司空を拝命したことになる。隋では司空は名誉職であり、兵権を持たなかった。隋の制度を踏襲した唐でも同じだったと思われるが、李勣はその後も軍を背景にして中央政界で隠然たる地位を保っていたと思われる。
●永徽6年(655)正月、高句麗は、百済済・靺鞨とともに新羅の北部国境を侵略し、33城を取った。新羅王金春秋(太宗武烈王)は使者を唐に派遣し、救援を求めたため、その年の2月、営州都督の程名振(ていめいしん)と左衛中郎将の蘇定方(そていほう)が高麗を討った。その後、顕慶3年(658)6月にも、程名振が高句麗と赤烽鎮で戦いこれを破っている。いずれの年も、李勣自身が兵を率いて高句麗に出兵した形跡はない。彼の名が高句麗戦に登場するのは、660年の百済滅亡後の乾封元年(666)以降である。
●乾封元年(666)、この年蓋蘇文(がいそぶん)が死去したので、その長子の男生が莫離支(ばくりし)となった。初めて国政を行なうため諸城を巡回中に、その弟の男建と男産に追われ、国内城に逃げ込んだ。そして、その子の献勢を唐に派遣して救援を求めた。6月、唐の高宗は軍を派遣し、男生を救出すると、冬12月に李勣を遼東道行軍大総管・兼安撫大使とし、その指揮で河北諸州の租賦をすべて遼東に送り軍事に備えた。
●乾封2年(667)9月、李勣は高句麗西部の要害である新城(撫順市北関山城)を抜き、さらに十六城を下した。新城は左驍大将軍の契■(クサ冠+必)何力に守らせた。
●総章元年(668)2月、春正月、右相の劉仁軌(りゅうじんき)を遼東道副大総管として、■(赤+おおざと)処俊(かくしょしゅん)と金仁問(きんじんもん)をこれに副えた。2月、李勣らは扶余城(吉林省白城扶余県)を抜いた。九月、李勣は平壌城を抜いた。唐軍は一ヶ月余りにわたって平壌城を包囲したので、宝蔵王は、泉男産に白旗をもって李勣の軍営に行き降伏を告げさせた。10月、李勣が帰還しようとしているとき、高宗は詔により宝蔵王および男建を斬り、太宗の昭陵に献ぜよと命じた。李勣は軍容を整えて凱歌を奏して長安城に戻り、昭陵に首を献じた。
●1年後の総章2年(669)12月、李勣は没した。享年76歳。李勣の遺骸は太宗の墓である昭陵に培葬され、8年後の儀鳳2年(677)に、高宗が彼のために自ら文を撰し、自ら行書で書した「大唐故司空上柱国贈太尉英貞武公碑」がその陪冢の前に建てられた。
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