ワカロマ(Huacaloma)遺跡


カハマルカの所在地
カハマルカの所在地
970年の泉靖一氏の死を受けてアンデス研究の後継者となった寺田和夫氏は、1975年に日本核アメリカ(中米・アンデス)学術調査団という新たな調査団を組織すると、ラ・パンパ(La Pampa)遺跡の本格的な発掘調査を実施した。その後、1979年からは調査地をエクアドルと国境を接する北高地のカハマルカ(Cajamarca)に移した。カハマルカはインカ帝国に統合されるまで、長い間カハマルカ文化が栄えたところであり、また最後のインカ皇帝がスペイン人の捕らえられ殺された場所でもある。

532年、スペイン人のフランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)はカハマルカでアタワルパ(Atahualpa)と会見し、その場で生け捕りにした。アタワルパは身代金として莫大な金銀の提供を申し出た。ピサロはそれを受け取ったにも関わらず翌年7月にアタワルパを処刑してしまった。その後も、インカ帝国の分裂を巧みに利用しながら進撃し、1533年11月にはインカ帝国の首都クスコに無血入城し、新王マンコ・インカが支配する帝国を実質的にスペインの手中におさめた。

ワカロマ遺跡の発掘風景(***)
ワカロマ遺跡の発掘風景(*)
ハマルカ盆地の形成期の様相はほとんど分かっていなかった。調査地として選んだのは、カハマルカ市の南東約1kmに位置するワカロマ(Huacaloma)遺跡である。ここでは約300平米のマウンドにさまざまな時期の建物遺構が重なっており、また遺跡の土層の堆積が厚く、調査は1シーズンでは終了することができず、1982、1985,1989年に渡って継続調査が行われることになった。

調査団は、カハマルカ盆地の編年体系を作るためワカロマと平行してライソン(Laysón)、コルギティン(Kolguitín)、ワカリス(Huacariz)、アモシュルカ(Amoshulca)などの遺跡も発掘も手がけた。その結果、カハマルカ盆地の形成期(Formativo)の初めからインカ帝国時代までの、およそ3000年間の編年体系を確立することができた。形成期の時代区分としては次のものがある。

・前期ワカロマ(Huacaloma Temprano)期 (BC1500 - BC1000)
・後期ワカロマ(Huancalo Tardío)期 (BC1000 - BC500)
・EL(Layzón Temprano)期 (BC500 - BC25)
・ライソン(Layzó)期 (BC250 - BC100)

期ワカロマ期と名付けられた最下層からは、土器を伴う神殿遺構が見つかった。この神殿遺構の発掘で、紀元前1500年頃、カハマルカ地方に土器を作って集落を構える農耕民が進出してきたことが分かった。

ワカロマ遺跡の神殿の壁(***)
ワカロマ遺跡の神殿の壁(*)
カロマ後期の祭祀建造物は、前期ワカロマ期の建物を厚さ5mの黄色土で覆い、その上に新しく建てられていた。この時期には大がかりな神殿更新が3回行われたようだ。最後の更新で建てられた神殿は、120x108m、高さ12mの基壇に載っていた。神殿本体の建築はライソン期のはじめに徹底的に破壊されたため、発掘では捨てられた壁画の断片くらいしか見つからなかった。

画の破片から判断すると、神殿の壁には幾何学的デザインや模様、猫科の動物の顔などが黒、白、赤、緑、黄、茶、ピンクなどで描かれていたようだ。この時期の土器は、焼成した後に顔料を充填した装飾が描かれた無頸壺や鉢などが多く、カハマルカ北方のパコパンパ(Pacopampa)遺跡から出土した土器に似ていた。


【出典】(*)「ペルーにおける日本人の考古学的貢献の半世紀」(在日ペルー大使館のHP)
【参考文献】「ペルーにおける日本人の考古学的貢献の半世紀」(在日ペルー大使館のHP)、「アンデス調査の歴史」大貫良夫(東京大学総合研究博物館HP)

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