橿原日記 平成21年12月12日

古墳時代の建物や墓の造営に用いられた尺度は?

発掘調査の現地説明会で感じていた疑問

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纒向遺跡の現地説明会の様子 建物Dを南→北方向に見る(撮影 2009/11/15)

者が橿原のアパートにいるときは、近辺で行われている発掘調査の現地説明会や現地見学会に極力参加するようにしている。 先月の14日と15日には纒向遺跡の現地説明会がおこなわれた。筆者はたまたま埼玉の自宅に帰っていたが、興味ある遺跡だったのでわざわざ前日に橿原に戻って見学に出かけてきた(11月15日付け橿原日記参照)。

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纒向遺跡の建物跡配置図(産経新聞インターネット版より)
回の発掘調査では、2つの建物跡が見つかった。調査を行っている桜井教育委員会はそれぞれを建物Cと建物Dと仮称で呼んでいるが、そのうち大きい方の建物Dは、復元すると4間四方すなわち桁行4間、梁行4間の建物で、南北方向19.2m、東西方向12.4m、床面積238.08平米の大規模な建物であることが判明した。しかも、建物が無くなった後に築かれたと思われる近くの溝から、3世紀中ごろの庄内3式土器(240〜270年ころ)が出土した。そのため、この大型建物は3世紀前半に建てられ、3世紀中頃まで存続したと推測された。

あ大変である。大型建物が存続した時期は、邪馬台国の女王・卑弥呼が生存した時期に重なる。なにかとセンセーショナルに報道したがる我が国のマスコミは、卑弥呼の王宮が見つかった、邪馬台国論争は畿内大和説で決まり、といった報道の仕方をした。そのため、2日間にまたがった現地説明会には1万3千人の見学者が訪れたとのことだ。

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 建物Dを北→南方向に見る(撮影 2009/11/15)
時の建物は掘立柱式建物であり、ほとんどの発掘現場では柱を抜き取った跡を石灰で囲って表示したり、柱穴にプラスチックの円筒を立てて柱の位置が素人にも分かるように配慮している。纒向遺跡でもそうだった。掘立柱跡が太い黄色のポールで示され、その間に高床を支えたと思われる柱跡が細い黄色のポールで示されていた。その整然と並んだ姿が美しかった。

の建物の南北方向19.2mは実測値であるが、東西方向12.4mは推測値である。と言うのは、実際に発掘で確認した東西方向は2間分の6.2mだけで、それと同じ幅の建物跡が、発掘はしていないが残っているとの想定だ。それにしても、19.2x12.4mの建物は巨大であり、今までに発掘されている3世紀中頃までの建物跡としては最大規模であるという。

ころで、現地説明会の資料でもこの大型建物Dの規模が19.2x12.4mとメートル法(*)で表示されている。1951年(昭和26年)の計量法の施行で我が国でもメートル法の使用が義務づけられたため致し方ないことだが、筆者の年代では、建物の規模を尺貫法で表示してくれた方が大きさのイメージを掴みやすい。
(*)ちなみに、世界で現在メートル法を使っていない国は、3つだけ(アメリカ、リベリア、ミャンマー)だけとのことだ。

歴代中国で用いられた尺度の長さ
前漢尺23.2cm
後漢尺23.3cm
魏尺24.0cm
晋尺24.3cm
隋・唐尺29.8cm
貫法の長さの単位である””という字は、その字形から想像がつくように人の親指と人差指を広げた形をかたどったものだが、もともとは手を広げたときの親指の先から中指の先までのおよそ18cmの長さを、1尺としていた。だが、手の大きさは人によって異なり、したがって親指と中指の間隔も人によって異なる。そこで、後の時代に一定の長さを1尺とする公定尺を定めるようになった。時代が下るにつれて長くなり、紀元前1000年ごろの中国の周の時代には、1尺が24cm程度に延びてきた。隋・唐の時代にはさらに延び、1尺の基準長は29.8cmになった。現在の中国では、1尺=1/3m(約33.3cm)としているが、我が国では明治時代に1尺=10/33m=約30.3cmと定められた。

方、””(けん)という単位は、中国において一般的な建物の柱と柱の間隔を指す長さの単位として生まれ、建物や家屋、敷地の長さを示すのに用いられた。我が国でも建物の桁行や梁行を表すのに”間”を用い、建物の面積を表すのに””(=1間x1間)を用いてきた。1間=6尺と定義されており、そのため現在の1間は181.8cm(30.3x6cm)に相当する。

ころで、建物Dを復元すると4間四方の建物になるというが、この場合の"間”は柱と柱の間の数であり、柱と柱の間の距離ではない。つまり、東西方向と南北方向にそれぞれ5本の掘立柱が建てられていたことを表しているにすぎない。建物の大きさを現代の家屋に換算すると、南北方向に桁行き約10.56間 (19.2/1.818)、東西方向に梁行約6.82間(12.4/1.818)の建物だったことが分かる。

うした端数が出ることは、その時代に用いられていた尺度が明治時代に定められた尺度とは異なっていることを示している。いつの時代にも建物や物を作るための物差しがあったはずだ。『古事記』や『日本書紀』によると、我が国の古い時代には(つか)、(あた)、(ひろ)などを用いて長さを表していた。例えば、日本神話には十握剣(とつかのつるぎ)、八咫鏡(やたのかがみ)といった表現が登場する。

大化改新」以後は、唐の制度が導入されて「唐尺」が尺度として採用された。701年に制定された大宝令の雑令には、「尺」には「大尺」と「小尺」の2種類があり、「大尺」の1尺は「小尺」の1.2尺とされた。そして、「唐尺」といえば「大尺」の方を指した。メートル法に直せば、実際の長さはかなりばらつきがあるが、「小尺」=約0.247m、「大尺」=約0.297mに相当するとのことだ。

代中国の尺貫法には、周の時代に制定された長さの単位に””(ぶ)があった。右足を踏み出し、次に左足を踏み出した時の、起点から踏み出した左足までの長さを「1歩」とするもので(日本語では2歩にあたる)、後に尺と関連づけられて1歩=6尺の長さとされるようになった。唐尺で換算すれば、1歩は0.297mx6=1.782mとなる。発掘調査の現地説明会や現地見学会で配られる資料には、かならず建物跡や古墳の大きさがメートル法で示されている。その数値は決まって端数を伴っている。その数値を1.782で割ってみても、すっきりした歩の完数にはならない。そのため、当時はどのような物差しで建物や墓が築かれたのかと、いつも気になっていた。



高麗尺は存在した? 存在しなかった?

俳優の狩谷俊介さん
説明員の腕章をつけて見学者の質問に答える狩谷氏
回の纒向遺跡の現地説明会は、今年の3月22日に行われた。そのとき、発掘現場で意外な人物にであった。石原軍団の元メンバーの狩谷俊介氏である。邪馬台国の魅力に惹かれ、十数年前から纒向遺跡の調査には毎年のように参加しておられ、1999年には『まほろばの歌がきこえる──現れた邪馬台国の都』という本も上梓しておられる。狩谷氏は、説明員の腕章をつけて、データを几帳面に書き込んだ手帳を開きながら見学者の質問に親切に応対しておられた。

向遺跡について、狩谷氏は独特の視点をお持ちのようで、建物の柱跡の間隔から割り出して当時使用されていたのは後漢尺だと推理しておられる。大陸では王莽に滅ぼされた漢王朝を劉秀(光武帝)が西暦25年に再興する。その漢王朝を日本では「後漢」と呼んでいるが、その後漢も184年の黄巾党の乱以後、全国的に乱れて220年には亡びてしまう。 苅谷氏は後漢末の戦乱を避けて、東海の島国へ亡命し卑弥呼に仕えた技術集団がおり、彼らは高度な測量技術を有し、また当時の後漢尺をもたらしたと推理しておられる。

漢尺の1尺の長さは23.3cmとされている。したがって1歩(6尺)は23.3x6=139.8cm、すなわち約1.4mとなる。この数値を建物Dの南北方向(19.2m)と南北方向(12.4m)に適用しても、残念ながら歩の値は整数にはならない。そこで、大宝令の施行でに唐制に基づく新しい度量衡が頒布される以前はどのような尺度が用いられていたのか気になって、すこし調べてみた。

ると、大宝令施行以前の古墳や寺院、宮殿には「高麗尺」(こまじゃく)という尺度が使われていたとする説が、歴史家や考古学者の間ではほぼ定説になっているのを知った。法隆寺の建物測量結果や飛鳥寺の発掘調査結果、あるいは平城京の地割復元などから、当時は「唐尺」の1.2倍の「高麗尺」が存在したとさている。古墳の造営にあたっても、考古学者の森浩一氏はその著作『古墳の発掘』の中で6世紀中頃以降は約35cmの高麗尺、それ以前は約24cmの晋尺によったと推定しておられる。

こで、高麗(こま)とは10世紀から14世紀に朝鮮半島に存在した高麗(こうらい)王朝ではなく、紀元前37年頃建国し668年に滅びた高句麗(こうくり)のことである。その高句麗から伝えられた尺度が高麗尺と呼ばれ、大宝令で定められた大尺の元となった唐大尺の1.2倍、すなわち0.297mx1.2=0.3564mの長さだったという。

は、いつ頃、誰によって高句麗の尺度が我が国に伝えられたのか? 残念ながら、そのことを実証する文献資料は存在しない。それどころか、「高麗尺」という名称を記述した文献資料すら存在しないのだ。ただ、高麗尺の存在を暗示するような記録が残されている文献はあるという。その一つは、『令集解』(りょうのしゅうげ)という880年頃書かれた「養老令」の解説書で、田の測量法として「高麗法」という言葉があり、「今の大尺は高麗の5尺になる」と記載されているという。似たような記述は、平安時代の政務運営に関する事例を掲げた『政事要略』にも出ているそうだ。

かし、 計量史研究者の小泉袈裟勝氏が1977年に出版した『ものと人間の文化史22 ものさし』によれば、「厳密に言えば、高麗尺で作られたと証明できる建物も物も見つかっていない」そうだ。また、『まぼろしの古代尺 高麗尺はなかった』の著者である新井宏氏は、律令の税制・土地制度として記された「高麗法」は6尺1歩の制度であり、「高麗尺」を意味する尺度ではないと否定される。そして、中国の尺度の歴史の中でみても約35cmという長尺は、きわめて不自然であるとして、高麗尺はまぼろしの古代尺であり、実際は存在しなかったと結論されている。

者も素人考えながら、新井氏の説に賛成である。高麗尺=35、64cmという長さは、魏・晋時代の1尺=約24cmや隋・唐時代の1尺=29.8cmに比べて突出して長大である。中国の東北地方に出現した高句麗は、朝鮮三国時代には朝鮮半島の北半分をも領土とした東アジア世界の雄国ではあったが、文化的には漢文化の影響を受けていた。西晋が滅んで中国大陸で混乱が続いた南北朝時代に、高句麗が独自の度量衡を採用したとしても、その尺度は晋尺と唐尺の間にあったと見なした方が分かりやすい。



新井宏氏の主張する古韓尺

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新井宏著『まぼろしの古代尺』
井宏氏は、日本金属工業の元常務で、金属考古学、計量史を専門とする特異な学者である。数年前までは、韓国の国立慶尚大学の招聘教授を務められておられた。以前、「東アジアの古代文化を考える会」で新井氏の講義を拝聴したことがある。2004年5月15日、京都市の泉屋博古館(せんおくはくこかん)は、所蔵する三角縁神獣鏡を世界最大級の放射光分析施設(愛称SPring8)で分析し、三角縁神獣鏡=中国製説に有利な分析結果を新聞各紙に発表した。

時韓国におられた新井氏はその新聞発表に気づかれなかったが、帰国後に関連報告書を入手されて、解析方法に基本的な誤りがあり、とても容認しがたい分析結果だと反論された。翌年の8月、「東アジアの古代文化を考える会」は新井氏を講師として招き、「鉛同位体分析比から三角縁神獣鏡の製作地を探る」というタイトルで講演会を開いた。氏の講演は非常に論理的で、金属工学など門外漢の筆者にも十分に納得のいく内容だったのを記憶している(平成17年8月28日付け橿原日記参照)。

の新井氏は、上記の『まぼろしの古代尺 高麗尺はなかった』を平成4年(1992)に吉川弘文館から出版され、「古韓尺」論を展開されていた。この書籍のタイトルだけは知っていたが、今回、図書館から借り出して通読してみて驚いた。本書は、4世紀から8世紀における朝鮮半島や日本の古墳、宮殿、寺院などの計測値を収集して、その膨大な資料をコンピューターを駆使して分析し、最もよく合う尺度として、0.268mという今までに知られていない基準長を導き出している。そして、この長さは朝鮮および日本のほとんどの古代遺跡や建造物に共通して適用されていることから、「古韓尺」と仮に命名された。

高句麗の将軍塚
高句麗の石積古墳 将軍塚
韓尺の基準長は、中国の尺度発展の経過からみて、4ー5世紀に鮮卑族の間で現れ、それが朝鮮と日本でも使われるようになったと、著者は推測しておられる。この尺度の初見は4世紀の高句麗石積古墳群に見られるが、その始まりはもっと遡る可能性があるという。ツングース系騎馬民族の高句麗は、3世紀末には南朝鮮にまで影響力を及ぼしている。我が国の古代の古墳や宮殿、寺院は、朝鮮半島南部から渡来した技術職人たちによって造営されており、彼らがもたらした古韓尺がベースになっているのは当然であるという。しかし、その後我が国は唐尺を取り入れたので、この古韓尺は失われたとされている。

月の「東アジアの古代文化を考える会」は、新井宏氏を講師に招いて「炭素14年と鉛同位体比から見た古墳年代」というテーマで講演会を開催するというので、久しぶりに池袋の豊島区生活産業プラザに出かけた。今年の5月、国立歴史民俗博物館(歴博)は、箸墓古墳の周辺から出土した土器の表面に付着した炭化物を放射性炭素年代測定法で測定し、測定の結果が240〜260年の範囲にあると発表した。このため、箸墓古墳の築造時期が卑弥呼の時代まで遡ることになり、マスコミの話題をさらった。だが、新井氏は「歴博の炭素14年による年代遡上論は問題があり、御破算にすべきだ」と強く要求されているという。どんな話が拝聴できるか楽しみだった。

新井氏の講演スライドの冒頭
新井氏の講演スライドの冒頭

ころが、実際の講演では、新井氏は「纒向遺跡の大型建物からみた古墳年代」に話題の中心を変え、纒向遺跡の建物や纒向古墳群の造営に古韓尺が用いられている可能性に力点がおかれた。これは筆者の勝手な推測だが、最近のホットな情報として、纒向遺跡の発掘調査で建物跡の規模が新たに公表され、古韓尺の実在を追加検証することが可能になったためかと思われる。新井氏は現地説明会の資料を入手してから一週間ほど興奮状態が続いたと、冒頭で正直な感想を漏らされた。

向遺跡では、今までの発掘調査で四棟の建物の跡や柵の跡が見つかっている。建物跡については、その柱穴から4棟の建物は柱筋を東西方向に揃えて計画的に配置されていたことが判明しており、調査を担当している桜井教育委員会は、これらの建物を西から順にA、B,C、Dと仮称で呼んでいる。新井氏は、それぞれの建物の長さについて、まず後漢尺(23.3cm)と魏尺(24.0cm)に適合するかどうかチェックされた(次の表参照)。
   
後漢尺(23.3cm)と魏尺(24.0)の適合度(*)
纒向遺跡の構成長さ後漢尺(23.3cm)適合 魏尺(24.0cm)適合
(m)総尺(m)(m) 総尺(m)(m)
建物A東西4.8204.70.1 204.80
建物B南北5.2225.10.1 225.30.1
東西4.8204.70.1 204.80
建物C東西8.0337.70.3× 338.00
南北5.3225.10.2 225.30
建物D桁行19.28019.60.4× 8019.20
梁行12.45212.20.2× 5212.40
建物Bと建物Cの間隔5.2225.10.1× 225.30.1×
建物Cと建物Dの間隔6.4276.30.1× 276.50.1
建物Bと両側の柵間8.0337.70.3× 338.00
建物C部の柵間26.811025.61.2× 11026.40.4×

   
古韓尺(26.7cm)の適合度(**)
纒向遺跡の構成長さ古韓尺(26.7cm)適合
(m)総尺(m)(m)
建物A東西4.81834.80.1
建物B南北5.220-5.30.1
東西4.81834.80
建物C東西8.03058.00
南北5.320 -5.30
建物D桁行19.2721219.20
梁行12.448812.80.4
建物Bと建物Cの間隔5.220-5.30.1
建物Cと建物Dの間隔6.42446.40
建物Bと両側の柵間8.03058.00
建物C部の柵間26.8100-26.70.1
井氏の講演資料では、1尺=23.3cm(後漢尺の場合)あるいは1尺=24.0cm(魏尺の場合)の尺度の適応度が素人にも分かりやすいように、計測値を除算して得られた値を◎、○、×の3種類にわけて表示しておられる。◎はぴったりと区切りの良い尺数が得られた場合、○は整数でない尺数または計測値に対してすこし誤差がある場合、×はそれ以外の場合を示しているようだ。

井氏作成の表では、後漢尺の適合度が低いが、魏尺の場合は建物Aと建物Bの東西方向の長さ、および建物Dの桁行にぴったりとした区切りのよい尺数が得られることを示している。そのため、魏尺の適用の可能性を排除できない。しかし、次に示された古韓尺(26.7cm)の場合と比較すると、圧倒的に後者の適合度が高い。こうした分析の結果、纒向遺跡の建物や建物配置には古韓尺が適用されていたと、新井氏は力説される。ただし、1点気になることがある。上記の『まぼろしの古代尺』では古韓尺=0.268mとなっていたが、本日の講演では、なぜか古韓尺=0.267mとされており、1mm短い単位を使っておられた。

井氏は、纒向遺跡の建造物に続いて、纒向古墳群を構成する前方後円墳に関しても、古韓尺の適用の可能性を示唆するために、下記の表を提示された。この表では、魏尺による計算値は尺で示し、古韓尺による計算値は歩(26.7cmx6尺=1.60m)で示してある。これらの数値を見る限りでは、古韓尺が適用されたのは自明のように見える。しかし、上記の図書が出版されてすでに17年を経ているのに、氏が提唱する古韓尺が考古学会や歴史学会で正式に受け入れられているようにも見えない。なぜだろうか?

手な憶測が許されるならば、新井氏の古韓尺論を受け入れた場合、纒向遺跡や纒向古墳群の築造時期が従来の通説より新しくなる可能性があるのではないだろうか。新井氏の研究では、古韓尺の導入時期を明確には断定されていない。魏尺は魏の中期(AD240年)以降のものだが、纒向古墳群の前方後円墳や纒向遺跡の建物が魏尺ではなく、それ以降の古韓尺によるものならば、これらの年代をあまり遡上させるのは違和感を生むことになる。
   
古韓尺に良く一致する纒向古墳群の前方後円墳(**)
古墳の名称計測部位m古韓尺(26.7cm)魏尺(24.0cm)
計算値(m)差(m)判定計算値(m)差(m)判定
箸墓古墳墳丘長288180288012002880
後円径1601001600667×
前方長128801280533×
纒向石塚墳丘長9660960400960
後円径6440640267×
前方長3220320133×
纒向矢塚墳丘長9660960400960
後円径6440640267×
前方長3220320133×
東田大塚墳丘長9660960400960
後円径6440640267×
前方長3220320133×
ホケノ山墳丘長8050800333×
後円径5535561233×
前方長2515241100241


(*) 新井宏氏の講演資料よりアレンジ
(**)新井宏氏の講演資料より転記



2009/12/13作成 by pancho_de_ohsei
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