高向玄理と李勣とは盟友だったか?
筆者が今一度『青雲の大和』を読み返す気になったのは、この小説の最後で展開する高向玄理と李勣との友誼の見事な描写が、単なるフィクションなのかどうか確かめてみたかったためである。白雉5年(654)2月に高向玄理を遣唐押使として派遣された第3回遣唐使については、その派遣目的に以前から疑問を持っていた。というのは、その前年の白雉4年(653)5月に、吉士長丹(きしのながに)と高田根麻呂(たかだのねまろ)の二人を遣唐大使とする大使節団が派遣されたばかりだったからである。1年も経ないうちに、次の遣唐使が派遣されるのは尋常ではない。
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考えられる要因としては、第二次遣唐使船の海難事故である。前年の5月に派遣された遣唐使は2隻の船で出航していった。しかし、そのうちの120人を載せた1隻が薩摩半島の南方で遭難し、大使の高田根麻呂をはじめ多くの留学生や留学僧が皆水死し、生存者はわずかに5名だったとのことだ。そのために、遣唐留学生や留学僧を追加派遣することになり、急遽第3次遣唐使を送り出すことにしたのなら遣唐使の目的も納得できる。
だが、第三次遣唐使派遣記事には、遣唐使船に便乗して唐に渡るはずの留学生や留学僧の名前がない。しかも、この遣唐使派遣のために、大使の上に押使(すべつかい)という耳慣れない役職まで設け、在唐歴33年という経験を持ち、大化の改新政府内にあって国博士の要職にあった高向玄理を任命している。そうした背景を考えると、時の改新政府にとってよほど緊急の事態が発生し、その解決のために急遽遣唐使の派遣することになったに違いない。
洋の東西を問わず、外交使節の派遣は、その背景に当事国同士や関係諸国の間の国際関係に何らかの重要な課題が生じたためと理解して間違いない。その端的な例は国際紛争である。聖徳太子が小野妹子を大使とする遣隋使の派遣に思い立ったのは、中国大陸に登場した隋帝国がやがて東アジアに巨大な嵐をもたらすことを予見したからであろう。先進文化の単なる導入を目的とした派遣だったと見るのは、皮相的な見解である。
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したがって、第3回の遣唐使派遣の目的を、朝鮮半島三国の安寧、わけても唐による高句麗征討の回避という外交問題に結びつけたのは、八木氏の炯眼である。だが、史実として高向玄理と李勣との間に接点があったかどうかとなると、史書からは確認のしようがない。おそらく伝奇作者・八木氏の旺盛な想像力の産物であろう。そもそも二人の最初の接触は前作の『遙かなる大和』の中で述べてあり、しかもそれは奇想天外な旅の途中の出来事だった。『青雲の大和』の最終章を盛り上げるためのプロットとして、すでに前作で二人の出会いを構想されていたのであれば、八木氏はやはり並々ならぬストーリーテーラーという他はない。
李勣は、隋から唐への変革期に、国内の群雄や突厥の討伐、高句麗征服などで数々の軍功を重ね、国姓の「李」を授けられたほどすぐれた初唐の名将だった。李勣の軍功を唐書から拾い出してみると、いかに卓越した軍人であったかが分かる(別紙の李勣の武人としての輝かしい生涯参照)。八木氏は、このような天下の大将軍と東海の島国からの留学生にすぎなかった高向玄理を、長年の盟友として描いておられる。しかし、それは氏のフィクションであり、史実ではない。八木氏は歴史学者ではなく歴史小説家であるから、いくつかの史実をつなぎ合わせて創作されるのは自由であるが、あまりに史実を逸脱すると、読者に謝った知識を植え付けることになる。
前作の『遙かなる大和』の中で、高向玄理と李勣との邂逅を設定するために、八木氏は実に奇妙な話を作り上げられている。
608年に小野妹子を大使とする遣隋使節が裴世清らの隋使を伴って帰国する際、百済で隋の国書を何者かに盗まれてしまうという事件が起きた。そのことは『日本書紀』に明記されており、帰朝後に小野妹子の責任が問われたが、隋使が来朝中のことでもあり、推古女帝の配慮で妹子の断罪は見送られた。
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一般には、百済を飛び越えて倭国と隋との友誼関係の成立を危惧した百済が国書の内容を知りたくて盗んだ事件とされている。だが、こうした推測はおかしい。当時の百済は隋の冊封を受けた臣下の国であり、隋の外交を阻害するような挙に出れば、国運が危うくなる。むしろ、国書の内容が倭国王をあまりに見下した内容だったので、それが朝廷の公式の場で公表するのがはばかられ、小野妹子が事前に聖徳太子相談した結果、百済で何物かに盗まれたことにしたというのが実情だったのではなかろうか。
だが、八木氏はこのときの国書盗難は、倭国と隋との接近を危惧する新羅の間諜の仕業であると想定する。そして、608年の遣隋使が隋の首都・大興城について二ヶ月が過ぎた頃、通事(通訳)の鞍作福利(くらつくりのふくり)が「失われた国書」を取り戻しに行くといって出奔したことになっている。鞍作福利はどうやら新羅と通じていて、新羅から煬帝の国書を譲り受けそれを煬帝に直接つき返すことで、せっかく樹立した倭と隋との国交をご破算にしようと目論んでいるというのだ。
福利の出奔の目的を知った小野妹子は、勉学中の高向玄理と南淵請安を呼び寄せ、密かに鞍作福利の後を追わせ、福利が国書を煬帝に献上する前に取り返すことを命じる。そこで、二人は船で黄河を下り福利を追うが、その途中で、福利が瓦崗寨(がこうさい)に赴いたことを聞き、反乱軍の巣窟に乗り込む。そして、瓦崗寨で当時は徐世勣と名乗っていた副頭目格の李勣と知り合い、ともに黄河を行き来する船舶を襲って盗賊まがいのことを重ねながら、義兄弟を誓ったことになっている。
だが、フィクションとしてはこうした設定も可能であろうが、史実からは大きく逸脱している。まず、当時の中国社会は外国人留学生にすぎない若者たちが国内を自由に動き回れるような社会ではなかった。後の時代の円仁の例でも見られるように、外国人が国内を旅行する場合、州や県から支給される公験(旅行証明書のたぐいの公認書)の入手が必須だった。高向玄理や南淵請安に対して、知人探索の名目で公験が発行されたとは到底思えない。二人が隋の大興城を離れられなかったのであれば、瓦崗寨での徐世勣との邂逅はフィクションであり、史実を逸脱した設定と言わざるをえない。したがって、『遙かなる大和』の劇的なラストシーンも、残念ながら紙上の絵空事となる。
唐の高句麗征討軍の派遣に関しても、『青雲の大和』の内容は史実と異なっているようだ。『三国史記』の高句麗本紀によれば、宝蔵王14年(655)正月、高句麗・靺鞨・百済の連合軍が新羅の北部辺境を侵略し33城を奪ったため、新羅の武烈王は使者を唐に送って救援を求めた。この救援要請に応えて、高宗はその年の二月、営州都督の程名振(ていめいしん)、右衛中太将の蘇定方(そていほう)らを派遣した、とある。すなわち、程名振と蘇定方に対する出動命令は2月中に同時に発令されたような書き方をしている。
しかし、『青雲の大和』では異なる。瀕死の状態にある高向玄理がまだ生きている間に、李勣は営州都督の程名振に出動を命じたが、征討軍を高句麗との国境に留めている。そして、病床の玄理を見舞い、玄理が生き続けるかぎり、開戦命令は出さないと誓っている。その玄理が息を引き取って10日後に、左衛中郎将の蘇定方が首都の大部隊をひきいて長安を出て行った。玄理が亡くなったのは何月何日かは不明であるが、物語の最後に最大のクライマックスを演出するために、こうした構成にしたのは見事である。だが、玄理と李勣の間に盟友関係がなければ、こうした設定は史実ではあるまい。
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