橿原日記 平成21年12月10日

八木荘司の歴史小説『青雲の大和』の虚構

人工衛星から見た現在の中国西安地方
人工衛星から見た現在の中国西安地方(googleより転記)

八木荘司作『青雲の大和』に描かれた人間群像

木荘司氏の『青雲の大和』を久しぶりにまた読み返してみた。この小説は前作の『遙かなる大和』に続いて2007年5月8日から翌年の5月17日にわたって産経新聞の連載されたものである。単行本は角川書店から上下二巻本として2008年9月30日に出版された。発売当時、図書館から借りて一度読んだことがある。

aaaaa
八木荘司作『青雲の大和』
43年11月、蘇我入鹿(そがのいるか)は巨勢徳太(こせのとくだ)らに斑鳩宮(いかるがのみや)を襲撃させ、山背大兄王(やましろのおおえのみこ)らを自殺に追いやった。『青雲の大和』の書き出しは「大化改新」の伏線とも言えるこの襲撃事件から始まっている。そして、上巻は、中臣鎌足(なかとみのかまたり)を主人公にして乙巳の変(いっしのへん)に至るまでの蘇我入鹿との確執を描き、下巻は主人公を国博士の高向玄理(たかむこのげんり)*に替えて、当時の新羅や唐とのヤマト王権の外交交渉を描いている。

* 高向玄理の本名は高向黒麻呂(たかむこのくろまろ)。遣隋留学生として隋に派遣されたとき、名前を中国風に変えて高玄理(こうげんり)と称したようだ。以後、帰国しても高向玄理と呼ばれた。出身は河内国錦部郡高向村(現・河内長野市)に住んだ渡来系氏族の出とされている。

の小説でも、明治維新にも匹敵する変革の時代を生きた若き群像が見事に活写されていて、ストーリーテーラーとしての八木氏の才能がいかんなく発揮されている作品である。前作同様、読み出したら止められない第一級のエンターテインメント作品に仕上がっている。

に、下巻最後の部分で、唐の高句麗出兵を阻止しようと画策する高向玄理たち遣唐使の活躍は圧巻である。今や司空であり国家の大将軍の地位にある旧友・李勣(りせき)と玄理との友情を縦糸に、王朝内の武昭儀(後の武即天女帝)派と皇后派との激烈な権力闘争を横糸に絡ませた人間模様は、まさにクライマックスにふさわしく見事に活写されている。

「多武峰縁起絵巻」に描かれた入鹿誅殺の場面
「多武峰縁起絵巻」に描かれた入鹿誅殺の場面
木荘司氏がこの大作で描きたかったのは、当時の東アジア情勢だった。だが、もう一つの別のテーマがあったように思われる。それは「友情」という絆ではなかったか。

臣鎌足と蘇我入鹿は、いずれも帰国留学僧・旻(みん)の私塾に通う秀逸で、しかも互いに親友として相手の力量を認め合っている。しかし、それぞれが描く国家の理想像が違った。そのため、一方はクーデターの首謀者として、他方はそのターゲットとして、悲劇的な友情の結末を迎える。

方、高向玄理は608年に小野妹子を太子とする遣隋使の船で当時の隋に派遣された留学生である。640年に帰国するまでの33年間、彼は中国本土に留まり、隋王朝が滅び唐王朝が興る激動の時代に身をおいた。そして、律令体制を整えて繁栄する唐太宗の貞観の治を目の当たりにした。前作の『遙かなる大和』では、その玄理がある事件がきっかけで、瓦崗寨(がこうさい)*を根城とする群盗だった17歳の徐世勣(じょせいせき)と知り合い、互いに青雲の志を語り合う仲になる。

* 瓦崗寨(がこうさい:隋末の有力反乱軍の根拠地だったところ。位置は今の河南省北東部の河南安陽市滑縣あたり。

太宗李世民
太宗李世民
世勣はその後、隋末に唐の李淵(りえん)・李世民(りせいみん)の軍門に下って唐の宿将となり、数々の軍功をたてた。そのため国姓の「李」姓を与えられる。李世民が二代目皇帝太宗として登極すると、その諱(いみな)の”世”の字を避けて李勣(りせき)と名乗った。『青雲の大和』では、唐王朝の中にあって高句麗征討の全権を握る李勣と、高句麗征討を思い留まらせるため派遣されてきた玄理が、まったく逆の立場で再会する設定になっている。

理は、かっての盟友としての友誼を唯一の頼りに、病魔に冒され瀕死の状態にありながらも、李勣に高句麗出兵を思い止まらせようとする。だが、唐軍を統べる立場にある李勣は、高句麗征討を中止する訳には行かず、営州の都督(司令官)程名振(ていめいしん)に対し地方軍を率いて出動するよう命令をくだした。しかし、李勣は、程名振に対し軍を国境に留めさせ、次の指令が届くまでは戦いは始めてはならぬと命じた。

唐長安城
唐長安城
の彼が、病床の玄理を見舞い、こう言った。
「玄理が生き続けているかぎり、おれは開戦命令を下さない。玄理が一年生きるなら、開戦は一年延びる。二年生きるなら、二年延びる。もし永遠に生きるなら、永遠に戦いは延びるのだ、玄理。だから、生きてくれ」

理との友誼を大切にし、消えゆく盟友の命をつなぎとめようと必死に励ます李勣の言葉は、まことに泣かせるセリフである。だが、李勣の励ましの甲斐もなく、それからしばらくして玄理は二度と目覚めることのない深い眠りに落ちていった。彼の死から旬日(十日)の後、左衛中郎将の蘇定方(そていほう)が首都の大部隊をひきいて長安を出て行った。長安城の正門にあたる明徳門で、副使の薬師恵日(くすしのえにち)と判官の田辺鳥が、大勢の群衆に混じって出征していく兵士を見送るところで『青雲の大和』は終わっている。



初期の頃の遣唐使は北路をとり山東半島の登州を目指した

木荘司氏の作品は、史実を下敷きにした歴史小説あるいはノンフィクションの体裁をとっているが、その実体は史実とフィクションを合わせた伝奇小説であり、読み物としては面白い。だが、彼の作品には無視できない欠陥がある。時代考証の甘さや歴史地理認識の間違いが、ところどころで顔を出す。前回の作品である『遙かなる大和』の中で気づいた誤謬のいくつかは、以前に指摘したことがある(平成19年5月21日付け橿原日記参照)。

遣唐使船のイメージ
遣唐使船のイメージ
えば『遙かなる大和』の冒頭部分(p.11)に、渤海湾を行く遣隋使船の船室で小野妹子と留学生が対話している箇所がある。その対話の中で、「この船は大陸の奥にある東都、洛陽(らくよう)から、さらにはるか西方の首都、大興城(たいこうじょう)へこのまま乗り入れることができる」と、作者は小野妹子に語らせている。すなわち、渤海湾から黄河をさかのぼり、運河に入って洛陽に船べりをつけることができ、さらに運河の広通渠(こうつうきょ、大興城と黄河を結ぶ運河))を通って都の大興城に乗り入れられるというのだ。

回の『青雲の大和』でも相変わらず同じような過ちを繰り返している。高向玄理を遣唐押使とする遣唐使船が渤海湾の黄河河口あたりにさしかかったとき、李勣(りせき)の配下の華州司馬が率いる軍船に行く手を阻まれた。遣唐使船に乗り込んできた華州司馬は、玄理と李勣が盟友であることを知って非礼を詫びたが、そのとき副使の恵日(えにち)は「長安へはこの船で行けるだろうか?」と聞いている。これに対して、作者は華州司馬に「もちろん河水(黄河)をさかのぼり運河にはいれば難なく行ける」と答えさせている(下巻291頁)。

鄭州付近の黄河の日の出
鄭州付近の黄河の日の出
が、黄海から外洋船で黄河を遡って長安に行けるなどとは、とんでもない地理認識の欠如である。遠く青海省の中部高原に源を発し、5,464キロを奔流してきた黄河が、最後は渤海にとうとうと注ぎ込むと考えるのは間違いだ。黄河は他の大河とは違う。途中で黄土地帯を流れ、膨大な土砂を削り取って中国大陸を東に向かう。河口が広くなり水流が穏やかになるにつれ、運んできた黄土は川底に堆積し、河口に近づくにつれて水深が浅くなり、ついには泥濘が果てしなく広がる干潟を河口に形勢する。この干潟が黄河と渤海湾を分かっていて、黄河は渤海湾に注いこむ一歩手前で、自らが運んできた土砂の中に消えてしまうのだ。

んなことは、中国の地理に関する知識があれば常識である。以前にNHKが日中共同取材で作成した「大黄河」というテレビ番組があった。その第10集「大河・渤海湾に到る」は河口の干潟の様子を見事に映し出している。

黄河の河道の変遷
黄河の河道の変遷
【附記】
らに付け加えるならば、中国三千年の歴史の中で、黄河の河道が現在の中国地図に表記されていたものと同じだったと考えるのは大きな間違いである。中国では「黄河を制するものは天下を制する」とよく言われるが、黄河は暴れ河であり、史上何回も大きく流れを変えている。遣唐使を派遣していた頃の黄河は、現在の天津付近を流れ、北京の東で渤海湾に河口を開いていた。

中戦争初期の1938年6月、日本軍の進撃を止めるために中国国民党軍は黄河の堤防を破壊し洪水を起こさせたことは有名である。堤防の外に流出した黄河の水は河南省・安徽省・江蘇省の11都市と4000の村を水没させ、農地を破壊し、水死者100万人を出した。


aaaaa
遣唐使の航路
唐使が日本から中国に渡るための航路は北路、南路、南島路の三つがあったことが分かっている。このうち、北路が一番安全なコースであり、遣隋使節はこのコースを利用している。遣唐使たちも630年の第一回遣使以来、初期の頃はこの北路を利用した。南路や南島路が利用されるようになるのは、日本と敵対関係にあった新羅が半島を統一し,日本との外交関係が緊張するようになって以後のことである。北路とは、難波〜筑紫〜壱岐〜対馬〜朝鮮半島西岸北上〜渤海湾横断〜山東半島上陸の経路をいう。

東半島には栄成、文登、煙台、蓬莱など海岸沿いの町があり、春秋戦国時代には斉の国の領内だった。紀元前221年、始皇帝が中国を統一すると、この地を中央政府管轄下の斉郡とした。斉郡は漢の時代に東莱郡と改められたが、唐の武徳4年(621)に1ランク上の州に昇格し登州となった。登州の州都ははじめ文登県城に置かれた。しかし、対外交流における登州の役割が重要になってきたため、唐の神竜2年(707)には登州府が文登から海辺の蓬莱県城(現在の蓬莱市)に遷された。

向玄理を遣唐押使とする第3回遣唐使の一行は、朝鮮半島西岸の多島海を北上し、遼東半島の先端の現在の旅順市がある付近から渤海海峡を横断したはずである。渤海海峡には遼東半島から対岸の山東半島最北端の蓬莱県城まで、廟島(びょうとう),長山島,大欽島,隍城島など大小32の島から構成される廟島群島がある。これらの島伝いに航海すれば、長島の向こうには蓬莱県城が見えた。『青雲の大和』では遣唐使船が渤海湾を大陸の海岸沿いに南下したように記述されているが、実際はそうではなかったはずだ。

遣唐使たちが目指したかっての長安城
鐘楼を中心に広がる30年前の西安市街
(遣唐使たちが目指したかっての長安城)
莱県城に上陸しても、遣唐使の一行は直ちに長安城に向うことはできなかった。一行の到着は、当時文登にあった登州府に報告され、使節の来朝を告げる使者が王都へ早馬で知らされた。そして、正式な入国許可が持った官吏の到着を待って、使節の中の上京を許された者だけが、国賓待遇で王都の長安城まで官吏の先導で案内されたはずである。彼らは駅制の発達した官路で、莱州〜青州〜■州〜曹州〜ベン州(開封)〜洛陽を経由して王都・長安城に導かれた。黄河や広通渠などの水運を利用した形跡はない。



高向玄理と李勣とは盟友だったか?

者が今一度『青雲の大和』を読み返す気になったのは、この小説の最後で展開する高向玄理と李勣との友誼の見事な描写が、単なるフィクションなのかどうか確かめてみたかったためである。白雉5年(654)2月に高向玄理を遣唐押使として派遣された第3回遣唐使については、その派遣目的に以前から疑問を持っていた。というのは、その前年の白雉4年(653)5月に、吉士長丹(きしのながに)と高田根麻呂(たかだのねまろ)の二人を遣唐大使とする大使節団が派遣されたばかりだったからである。1年も経ないうちに、次の遣唐使が派遣されるのは尋常ではない。

フルルガーデンで見かけた花@
フルルガーデンで見かけた花@
えられる要因としては、第二次遣唐使船の海難事故である。前年の5月に派遣された遣唐使は2隻の船で出航していった。しかし、そのうちの120人を載せた1隻が薩摩半島の南方で遭難し、大使の高田根麻呂をはじめ多くの留学生や留学僧が皆水死し、生存者はわずかに5名だったとのことだ。そのために、遣唐留学生や留学僧を追加派遣することになり、急遽第3次遣唐使を送り出すことにしたのなら遣唐使の目的も納得できる。

が、第三次遣唐使派遣記事には、遣唐使船に便乗して唐に渡るはずの留学生や留学僧の名前がない。しかも、この遣唐使派遣のために、大使の上に押使(すべつかい)という耳慣れない役職まで設け、在唐歴33年という経験を持ち、大化の改新政府内にあって国博士の要職にあった高向玄理を任命している。そうした背景を考えると、時の改新政府にとってよほど緊急の事態が発生し、その解決のために急遽遣唐使の派遣することになったに違いない。

の東西を問わず、外交使節の派遣は、その背景に当事国同士や関係諸国の間の国際関係に何らかの重要な課題が生じたためと理解して間違いない。その端的な例は国際紛争である。聖徳太子が小野妹子を大使とする遣隋使の派遣に思い立ったのは、中国大陸に登場した隋帝国がやがて東アジアに巨大な嵐をもたらすことを予見したからであろう。先進文化の単なる導入を目的とした派遣だったと見るのは、皮相的な見解である。

フルルガーデンで見かけた花A
フルルガーデンで見かけた花A
たがって、第3回の遣唐使派遣の目的を、朝鮮半島三国の安寧、わけても唐による高句麗征討の回避という外交問題に結びつけたのは、八木氏の炯眼である。だが、史実として高向玄理と李勣との間に接点があったかどうかとなると、史書からは確認のしようがない。おそらく伝奇作者・八木氏の旺盛な想像力の産物であろう。そもそも二人の最初の接触は前作の『遙かなる大和』の中で述べてあり、しかもそれは奇想天外な旅の途中の出来事だった。『青雲の大和』の最終章を盛り上げるためのプロットとして、すでに前作で二人の出会いを構想されていたのであれば、八木氏はやはり並々ならぬストーリーテーラーという他はない。

勣は、隋から唐への変革期に、国内の群雄や突厥の討伐、高句麗征服などで数々の軍功を重ね、国姓の「李」を授けられたほどすぐれた初唐の名将だった。李勣の軍功を唐書から拾い出してみると、いかに卓越した軍人であったかが分かる(別紙の李勣の武人としての輝かしい生涯参照)。八木氏は、このような天下の大将軍と東海の島国からの留学生にすぎなかった高向玄理を、長年の盟友として描いておられる。しかし、それは氏のフィクションであり、史実ではない。八木氏は歴史学者ではなく歴史小説家であるから、いくつかの史実をつなぎ合わせて創作されるのは自由であるが、あまりに史実を逸脱すると、読者に謝った知識を植え付けることになる。

作の『遙かなる大和』の中で、高向玄理と李勣との邂逅を設定するために、八木氏は実に奇妙な話を作り上げられている。 608年に小野妹子を大使とする遣隋使節が裴世清らの隋使を伴って帰国する際、百済で隋の国書を何者かに盗まれてしまうという事件が起きた。そのことは『日本書紀』に明記されており、帰朝後に小野妹子の責任が問われたが、隋使が来朝中のことでもあり、推古女帝の配慮で妹子の断罪は見送られた。

フルルガーデンで見かけた花
フルルガーデンで見かけた花B
般には、百済を飛び越えて倭国と隋との友誼関係の成立を危惧した百済が国書の内容を知りたくて盗んだ事件とされている。だが、こうした推測はおかしい。当時の百済は隋の冊封を受けた臣下の国であり、隋の外交を阻害するような挙に出れば、国運が危うくなる。むしろ、国書の内容が倭国王をあまりに見下した内容だったので、それが朝廷の公式の場で公表するのがはばかられ、小野妹子が事前に聖徳太子相談した結果、百済で何物かに盗まれたことにしたというのが実情だったのではなかろうか。

が、八木氏はこのときの国書盗難は、倭国と隋との接近を危惧する新羅の間諜の仕業であると想定する。そして、608年の遣隋使が隋の首都・大興城について二ヶ月が過ぎた頃、通事(通訳)の鞍作福利(くらつくりのふくり)が「失われた国書」を取り戻しに行くといって出奔したことになっている。鞍作福利はどうやら新羅と通じていて、新羅から煬帝の国書を譲り受けそれを煬帝に直接つき返すことで、せっかく樹立した倭と隋との国交をご破算にしようと目論んでいるというのだ。

利の出奔の目的を知った小野妹子は、勉学中の高向玄理と南淵請安を呼び寄せ、密かに鞍作福利の後を追わせ、福利が国書を煬帝に献上する前に取り返すことを命じる。そこで、二人は船で黄河を下り福利を追うが、その途中で、福利が瓦崗寨(がこうさい)に赴いたことを聞き、反乱軍の巣窟に乗り込む。そして、瓦崗寨で当時は徐世勣と名乗っていた副頭目格の李勣と知り合い、ともに黄河を行き来する船舶を襲って盗賊まがいのことを重ねながら、義兄弟を誓ったことになっている。

が、フィクションとしてはこうした設定も可能であろうが、史実からは大きく逸脱している。まず、当時の中国社会は外国人留学生にすぎない若者たちが国内を自由に動き回れるような社会ではなかった。後の時代の円仁の例でも見られるように、外国人が国内を旅行する場合、州や県から支給される公験(旅行証明書のたぐいの公認書)の入手が必須だった。高向玄理や南淵請安に対して、知人探索の名目で公験が発行されたとは到底思えない。二人が隋の大興城を離れられなかったのであれば、瓦崗寨での徐世勣との邂逅はフィクションであり、史実を逸脱した設定と言わざるをえない。したがって、『遙かなる大和』の劇的なラストシーンも、残念ながら紙上の絵空事となる。

の高句麗征討軍の派遣に関しても、『青雲の大和』の内容は史実と異なっているようだ。『三国史記』の高句麗本紀によれば、宝蔵王14年(655)正月、高句麗・靺鞨・百済の連合軍が新羅の北部辺境を侵略し33城を奪ったため、新羅の武烈王は使者を唐に送って救援を求めた。この救援要請に応えて、高宗はその年の二月、営州都督の程名振(ていめいしん)、右衛中太将の蘇定方(そていほう)らを派遣した、とある。すなわち、程名振と蘇定方に対する出動命令は2月中に同時に発令されたような書き方をしている。

かし、『青雲の大和』では異なる。瀕死の状態にある高向玄理がまだ生きている間に、李勣は営州都督の程名振に出動を命じたが、征討軍を高句麗との国境に留めている。そして、病床の玄理を見舞い、玄理が生き続けるかぎり、開戦命令は出さないと誓っている。その玄理が息を引き取って10日後に、左衛中郎将の蘇定方が首都の大部隊をひきいて長安を出て行った。玄理が亡くなったのは何月何日かは不明であるが、物語の最後に最大のクライマックスを演出するために、こうした構成にしたのは見事である。だが、玄理と李勣の間に盟友関係がなければ、こうした設定は史実ではあるまい。



高向玄理は貧しい渡来氏族の出だったのか?

青雲の大和』では、高向玄理は遣唐使船に乗り込む前に、生まれ故郷に兄の漢麻呂(あやまろ)を10年ぶりで訪ねている。貧しい生計をやりくりして、玄理を勉学に打ちこませてくれたのは、親代わりの兄であり、飛鳥で学才をみとめられ、隋への留学をはたせたのも、すべては自分を犠牲にして一家を支えた長兄のおかげである、と玄理に語らせている。

河内長野市高向付近
河内長野市高向付近
理は、十六歳まで高向(たかむこ)で育ったと、同行してきた田辺鳥(たなべのとり)に語っている。その高向は、河内国錦部郡高向村(現在の大阪府河内長野市高向)である。渡来系氏族の高向氏は、その地を本拠としていたとされている。玄理が生まれ育った環境がどのような所か知りたくて、今年の7月半ば、真夏の太陽が降り注ぐ中を高向を訪れた。

向には大阪府立花の文化園、愛称フルルガーデンという観光スポットがある。南海高野線と近鉄長野線が合流する「河内長野」駅からバスの便を利用してアクセスできる。最寄りのバス停は「上高向」である。

の文化園は石川の上流が形勢した河岸段丘の対岸にあり、高向神社の脇を下り石川に架かる橋を渡って行かなければならない。徒歩だとかなりの距離があり、15分ほど歩くことになる。車の利用が可能であれば、河内長野市を南北に縦断する国道170号線を南に下り、「文化園口交差点」で左折すればよい。

年の日の玄理は、石川の河岸段丘の上に立って、北流する石川の川面を飽かず眺めたことであろう。石川の流れは現在の藤井寺市の東で大和川に合流し、西に流れて大阪湾に注ぐ。この川を下れば、瀬戸内の海から玄界灘を渡り、一族が捨ててきた朝鮮半島に行きつくことができる。さらに、その向こうで、隋という巨大な国家を作り上げつつある大陸までたどり着けるかもしれない。いつか、この水の流れを追ってみたい・・・少年の夢は、そのうち大きく羽ばたくことになる。

河内長野市立ふれあい考古館
河内長野市立ふれあい考古館
かし、高向を訪れたのは花の文化園の見学が目的ではない。花の文化園の近くに河内長野市立ふれあい考古館があり、そこで特別展「高向玄理って知っている?」が開催されていると知ったからだ。特別展は子供向けの催しで、高向玄理にスポットをあてながら、河内長野の飛鳥・奈良時代の遺跡を紹介していた。その中に、高向遺跡の出土品も展示されていた。

「高向玄理って知っている」展示
特別展「高向玄理って知っている」
内長野市の中央部の外環状線から府立花の文化園に通じる道路を建設することになり、1994年に道路予定地付近を発掘調査したところ、多くの建物跡や土器が出土し、高向遺跡と命名された。遺跡は石川沿いの段丘上にあり、国道170号線の上原交差点付近から高向小学校周辺にかけて広がる遺跡で、旧石器時代から中世までの人々の暮らしの跡が見つかっている。特に、飛鳥・奈良時代には多くの掘立柱建物が発見されており、建物の規模や、今もこの辺りに残る「高向」の地名から、この付近に大化の改新時に活躍した「高向玄理」を出した古代氏族高向氏のムラがあったと推定されている。

飛鳥・奈良時代の高向ムラの様子
飛鳥・奈良時代の高向ムラの様子(スケール1/500)

れあい考古館には、飛鳥・奈良時代の高向ムラの一部が模型として復元されている。模型を見る限り、それほど大きな集落とも思えず、高向氏の本拠地としてはいささか貧弱に見える。高向氏は高向玄理が出たことで有名になったが、もともと渡来系氏族の中でも名族であったと思われる。その例証はいくらでもある。例えば、高向玄理が隋に留学生として派遣されていた推古女帝の時代、高向宇摩(たかむこのうま)という人物が大夫(まえつきみ)として中央政界で活躍している。

高向遺跡発掘の様子
高向遺跡発掘の様子
28年に推古女帝が在位36年で崩御したが、彼女は継嗣を定めていなかった。群臣たちは皇位後継者として田村皇子山背大兄王(やましろのおおえのきみ)を推す二派にわかれたが、大臣(おおおみ)の蘇我蝦夷(そがのえみし)は、629年に田村皇子を立てて天皇にした。これが舒明天皇である。その際、田村皇子を推した大夫の一人に高向宇摩の名がある。

向宇摩の子に高向国押(たかむこのくにおし)がいる。皇極天皇2年(643)11月、蘇我入鹿(そがのいるか)が山背大兄王を討とうとした際、国押に命じて胆駒山(いこまやま)に隠れていた山背大兄王を捕らえようとしたが、国押は皇極天皇の命を守り、敢えて外には出ないとこれを拒否した。皇極天皇4年(645)6月に入鹿が殺された乙巳の変(いっしのへん)では、国押は中大兄皇子(のちの天智天皇)に反する側に立ったが、説得されて軍陣を解いたという。その高向国押の子供が高向麻呂(たかむこのまろ)であり、奈良時代前期に参議・中納言を歴任している。

古女帝の摂政だった聖徳太子は、新しい居所となる斑鳩宮(いかるがのみや)の造営を601年に開始し、4年後の605年に完成して居を遷している。その斑鳩宮の造営と平行して、あるいは相前後して、聖徳太子は宮の近くに斑鳩寺を造営している。太子はこの寺を学問の寺として、天下の秀才を集め我が国の未来をになう人物を育てようとしたと思われる。さしずめ現代の松下幸之助の松下政経塾のようなものだったであろう。高向宇摩と高向玄理との関係は不明であるが、同族の中に神童と呼ばれた若者がいたなら、高向宇摩は間違いなく太子に推薦したはずである。その神童が玄理ではなかったかと、筆者は密かに想像している。



2009/12/11作成 by pancho_de_ohsei
return