2009/11/18

斎王(さいおう)斎宮(さいくう)の歴史を語る斎宮歴史博物館(さいくうれきしはくぶつかん)

史跡斎宮跡の一角にある斎宮歴史博物
国史跡斎宮跡の一角にある斎宮歴史博物館 (撮影 2009/11/18))

斎王として悲しき運命を生きた未婚の皇女たち

年の2月、大阪在住のAに誘われて三重県の津に出かけた。戦国武将・藤堂高虎ゆかりの地を訪ねる旅だった(2月1日付け橿原日記参照)。その彼から、また三重に行こうと誘われた。ただし、今回は伊勢市に近い多気郡明和町だ。
「明和町には何がある?」と、私が問うと、「斎宮(さいくう)の跡だ」と、Aは電話口で即答した。
「サイクウ?」 耳慣れない言葉に私が聞き直すと、Aが説明してくれた。

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昭和54年(1979)に国史跡に指定された斎宮跡

世紀後半から南北朝にかけておよそ660年間、天皇の代替わりごとに、天皇の名代として未婚の皇女が伊勢神宮に派遣され、伊勢大神に仕えて祭祀を執り行う制度があった。そうした女性たちを斎王(さいおう、または、いつきのひめみこ)という。歴代の斎王が住んだ宮殿が斎宮(さいくう、または、いつきのみや)で、彼女たちに仕えた官人の役所が斎宮寮だ。そうした建物跡が明和町で発見され、東西2000m、南北700mの大規模遺跡が昭和54年3月に国史跡の指定を受けた。現在も遺跡は発掘調査中だが、展示と映像で斎宮の生活を紹介する三重県立の斎宮歴史博物館が、史跡の一角に建っている。Aはその歴史博物館を訪れてみたいという。

滋賀県甲賀市土山町にある「垂水斎王頓宮跡」
甲賀市土山町にある「垂水斎王頓宮跡」
なぜ斎宮などに興味をもった?」
Aが斎宮歴史博物館行きを突然思い立った理由を聞くと、彼はこう答えた。
「実は、内田康夫の『斎王の葬列』というミステリー小説を最近読んだ。例によってルポライターの浅見光彦が、難解な連続殺人事件の謎解きをする推理小説だが、その舞台となっているのが、現在の滋賀県甲賀市土山町にある「垂水斎王頓宮跡」だった。平安時代、平安京から斎宮へ下向する際、斎王は数百人のお供に守られて大集団で5泊6日の長旅をした。これを斎王群行という。垂水頓宮は群行が鈴鹿峠にさしかかる前に宿泊する仮宮だった場所だ。現在は小さな森の中に広場があり、神宮遙拝のための祠があるにすぎない」

垂水頓宮がどの様な場所か気になってインターネットで調べてみたら、土山町は鄙びた町なのに、「あいの土山斎王群行」という雅な行事が行われている。その群行の様子を紹介しているホームページ斎王群行には、3年前の3月26日に挙行された群行の写真がアップされていた。その中で、垂水頓宮跡のあたりのお茶畑の中を行く群行は王朝絵巻を見るようで実におもむきがあった」

斎宮歴史博物館に展示されている葱華輦
斎宮歴史博物館に展示されている葱華輦
群行のとき斎王が乗る輿は、屋上にネギ坊主(葱華)の形をした飾りが付いていたので葱華輦(そうかれん)と呼ばれた。当時は、天皇と皇后、そして斎王しか乗れない特別な輿だったそうだ。しかし、華やかな行列の中央で輿に揺られながら、鈴鹿の山並みに迫り来る夕闇を眺めて頓宮に向かう斎王の心境は、いかばかりだっただろうか。年頃の皇女だったら、想いを寄せていた公達もいたであろう。群行が進む一歩一歩はそのまま愛しい人から遠ざかる別離の距離であり、彼女を待ち受けているのは、神に仕える巫女のような生活である。そう思うと、斎王たちに同情が湧き、もっと斎王のことを知りたくなった」

のために、Aは斎宮歴史博物館行きを思い立ったのだそうだ。特に予定もなかったので、彼の誘いを受けることにした。前回同様、彼は近鉄大阪線の出発駅である「大阪上本町」から8時50分発の賢島行きの特急に乗るという。そこで、「大和八木」駅で同じ電車に乗り込むことにした。昨日の雨が朝方には上がり青空が覗いていたが、師走を思わせる風の強い日だった。天気予報では三重県に強風注意報が出ていた。

東西約2km、南北0.7kmの広大な斎宮跡の全体復元模型

近鉄山田線の「斎宮」駅
近鉄山田線の斎宮(さいくう)駅
付近の案内図
駅前広場の端に掲げられた付近の案内図
鉄山田線の斎宮駅は、国史跡斎宮跡の見学者のために設けられた駅のようなものだ。だが、特急電車はこの駅で停車しない。やむを得ず10時20分に松坂駅に着き、11分後に出る普通列車に乗り換えた。「斎宮」駅は松坂から4つ目の駅で、10分ほどで到着した。電車を降りたのは我々二人だけだった。なぜだか駅の改札は史跡とは反対側に作られており、広大な遺跡は線路の反対側に広がっている。

前広場は人影もなく、実に閑散としていた。博物館は駅から徒歩15分ほどのところにあると聞いていたが、駅の南側に広がる広大な斎宮跡にはそれらしい建物は見あたらない。付近の観光マップが描いた案内板が、広場の端に立っていた。その地図で確認すると、現在地から線路沿いの道を少し松坂方面に戻り、踏切を渡って南に進み、途中で右に折れて奈良時代の古道散策道をたどれば博物館に行き着くようだ。

切を渡ったところに博物館方面への標識が立っていた。標識通りに進めば良かったのだが、はるか西の方に発掘現場のように見える場所があった。気になったので、原っぱの中に足を踏み入れた。原っぱには、説明文を打ち付けた石があちこちに置かれ、塚山古墳群などの遺跡の所在を示している。我々が入り込んだのは歴史ロマン広場だった。発掘現場と勘違いしたのは、実は史跡全体を1/10に縮小した復元模型だった。

復元模型遠望
復元模型遠望
近寄ってみた復元模型
近寄ってみた復元模型

宮跡の発掘調査では、わずか数十cmの土の下に、夥しい数の掘立柱の穴が見つかり、檜皮葺や茅葺き、板葺きなどの建物が100棟以上の建っていたことが確認されている。これらの建物跡は斎王が生活した内院、役所の斎宮寮の庁舎があった中院、官人の住居や官舎があった下院からなる。

0分の1の模型は、平安時代の方格地割りと建物を中心に、斎宮跡全体をイメージできるように復元したもので、全国で初めての試みだそうだ。模型と言っても、博物館の中に置かれているミニチュア版ではなく、かなりの規模である。模型の南に「いつきのみや歴史体験館」があった。ここでは、古代の食や香り、機織りなどを体験でき、また平安時代の装束を試着できるが、平日のせいか人影はなかった。

の道に戻り、奈良時代の古道に沿って築かれた散策道を斎宮歴史博物館に向かった。空は青く澄み、遮るものが何もない史跡の原っぱを北風が容赦なく吹き付けた。向かい風に向かって歩くのはかなりエネルギーが必要で、風に吹かれている割には背中が幾分汗ばんでくるのを感じた。やっとふるさと広場に到着し、その中を進むと方墳の塚山2号墳があり、その墳丘に隠れるように博物館の建物があった。

斎宮歴史博物館の正面
斎宮歴史博物館の正面

2つの常設展示室、映像展示室、特別展示室からなる斎宮歴史博物館

宮歴史博物館のエントランスホールでは、正面の壁際で艶やかな衣装をまとった女官の人形が来館者を迎えてくれる。ホールの左側に受付あり、その奥にこの博物館の主要な展示室が配置されている。

示室Tは「文字から分かる斎宮」というテーマで、歴史資料や王朝文学を活用して斎宮と斎王の暮らしを紹介している。展示室Uは、「ものからわかる斎宮」をテーマに考古資料から斎宮跡の発掘調査を紹介している。

斎宮歴史博物館の主要部分
斎宮歴史博物館の主要部分
方、映像展示室は、「斎王群行」、「斎宮を歩く」「今よみがえる幻の宮」という3本のハイビジョン映像を交互に上映する部屋である。さらに、受付横の特別展示室では11月23日までの会期で「伊勢物語 狩りの使いと斎宮」という特別展示が開催されていた。『伊勢物語』の第69段と第70段に”狩の使い”の物語がある。斎王が、伊勢へ狩りの使いに来た在原業平との別れを惜しみ、歌を詠み交わしたという故事にちなんだ各種の文学資料や絵画資料を一堂に集められている。

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「斎宮を歩く」の一場面
またま映像展示室で「斎宮を歩く」という短編が上映されるというので、そちらから見てまわることにした。双子の女優・タレントの三倉茉奈(まな) と三倉佳奈(かな)が斎宮跡を案内してくれる子供向けの映像である。CGを使って二人を復元模型の間を歩かせたり、「いつきのみや歴史体験館」で平安時代の装束の試着する場面など、それなりに楽しかった。

5分ほどの映写が終わると、Aはゆっくりと立ち上がると、
「さあ、これからじっくりと斎王について勉強させてもらおうか」
と言いながら映像展示室を後にして、展示室Tに向かった。
「こと斎王に関しては、小生のメモリはまったくの白紙状態だから、なにぶんにもヨロシク」
と、冗談を言いながら、私は彼の後について展示室Tに入っていった。

展示室Tの内部の様
展示室Tの内部の様子

示室に入ると、まず人目を引くのは入口に置かれた葱華輦(そうかれん)と呼ばれる輿(こし)である。平安時代の輿の形状にならって復元したものだそうだ。その輿の手前に「斎王群行絵巻」の下絵が描かれていた。末尾に”長観晝く”とあるから、日本画家の河村長観の筆によるものだろうか。展示室の隅に、人形で斎王群行の様子を再現した模型が置かれている。あるいはその模型製作のための下絵として作成されたものだろうか。

葱華輦(そうかれん)に乗って伊勢に向かう斎王
葱華輦に乗って伊勢に向かう斎王 (「斎王群行絵巻」の下絵より)

御所を出発する斎王群行
御所を出発する斎王群行の模型
絵に描かれている葱華輦と復元された葱華輦をしげしげと見比べていたAは、首をかしげながら言った。
「この下絵の輿とそこに復元されている輿の実物とは、構造がちょっと違っているよ」
 彼に言われて見比べてみたが、よく分からない。
「ほら、輿を担ぐ輿棒の数だよ。この下絵では3本になっているが、実物の模型では2本しかない。下絵では、烏帽子をかぶった輿舁(こしかけ)と呼ばれる担ぎ手が前後6人ずつ合計12人で輿を担いでいる。だが実物では輿棒は2本だから、担ぎ手の人数は8人になる」

笠縫邑で天照大神を祀っていた桧原神社
笠縫邑で天照大神を祀っていた桧原神社
そもそも斎王の制度はいつ頃から始まったのだろうか?」
 私の単純な問いかけに、Aは近くに置かれた解説シートを見つけて説明してくれた。
「『日本書紀』によれば、天皇家は崇神天皇の代まで同床共殿、すなわち皇居の中に天照大神を祀ってきた。 しかし、崇神天皇はそれを畏れ多いこととして、天照大神を豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託し、大和の笠縫邑(かさぬいむら)に祀った。次の垂仁天皇の時代になると、天照大神の祭祀は倭姫命(やまとひめのみこと)に託された。倭姫命は、伊賀、近江、美濃、尾張を巡り、伊勢の国まで天照大神の鎮座地を探す旅を続けた。伊勢の国に来てはじめて、大神がこの国に居たいといったので、大神の言葉のままに現在地に奉斎したという。 したがって、豊鍬入姫命や倭姫命が伝承時代の最初の斎王と考えられている。しかし、その実体はよく分かっていないようだ」

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展示室Tに飾られた童女人形
実在した斎王としてその存在が確認されているのは、天武天皇の娘の大来皇女(おおくのひめみこ、大伯皇女)である。悲劇の皇子、大津皇子の実の姉にあたる女性だ。彼女は天武天皇2年(673)に斎王に選ばれ、泊瀬(はつせ)の斎宮で1年間精進潔斎したあと、翌年10月に伊勢に赴いている。彼女は13年間斎王として伊勢大神に奉仕したが、朱鳥元年(686年)父の天武天皇が薨去し、弟の大津皇子が謀反人として死を賜った後、退下して飛鳥に帰京した」

大津皇子の事件は、我が子の草壁皇子を天皇にと願う皇后の■野讚良(うののさらら)が仕組んだ罠だったようだね」と、私が彼の話に口を挟んだ。
「しかし、皇子はひそかに伊勢神宮の大来皇女に会いに行っている。あるいは、謀反を決意して、今生の別れに姉を訪れたのかもしれない。弟の行く末を案じながら、大和に帰るのを見送った時の大来皇女の次の歌が『万葉集』の巻2に載っている」

●わが背子を 大和に遣ると さ夜深けて 暁(あかとき)露に わが立ち濡れし (巻2-105)
●二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ (巻2-106)

大来皇女から斎王制度が確立されたとして、南北朝時代のいつ頃まで続いたのだろうか?」
 斎王の制度は、大来皇女の時から660年続いたとされている。そうだとすれば、673+660=1333で、計算上は鎌倉幕府が滅亡した1333年までとなる。果たして、鎌倉時代以後の南北朝時代まで続けられたのだろうか。それに南北朝時代は南朝と北朝にそれぞれ天皇がいたわけだから、両方から斎王を派遣することなどあったのだろうか。

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展示室Tに飾られた童男人形
説シートの「斎王一覧」を見ていたAは、首を振った。
「よく分からないね。後醍醐天皇の名代として、1333年に娘の祥子(さちこ)皇女が斎王に選ばれているが、その在任期間の最後は?マークが付いていて、よく分からないようだ。あるいは南北両朝並続という異常事態の発生で、この制度も立ち消えになったのかも知れないね」
「大来皇女から祥子皇女まで何人の斎王がいたことになっているんだい?」
「この斎王一覧には、67人の名前がある。しかし、斎王の正式な人数や代数については、明確にはわかっていない、と但し書きがついてある」
「斎王に選ばれるのは、時の天皇の未婚の皇女であることが条件とされたようだが、すべてが天皇の娘とは限らなかったのだろ? 平安時代には、藤原家の思惑でずいぶん若い天皇を即位させていたようだから・・・」
「このリストにある67人の斎王のうち、天皇の娘だったのは22人だけのようだ。ほぼ1/3だね。その他は、天皇の同母姉妹だったり異母姉妹、あるいは天皇の叔母や姪、従姉妹といった皇族の女性になっている」
「それで在任期間はどうなの?」
「斎王が任を解かれて都に帰るのは、天皇が譲位したり、崩御したり、あるいは斎王の肉親に不幸があった時に限られていたようだ。斎王の在任期間は比較的短く、ほとんどは10年未満だ。20年以上斎王をつとめた皇女は6人しかいない。最長は平安時代の醍醐天皇の同母姉妹だった柔子(やすこ)皇女の33年だ」

『延喜式』の中に記された「斎宮式」
『延喜式』の中に記された「斎宮式」
が解説シートから得た情報によると、10世紀前半に律令の施行細則を集めた『延喜式』の中に、斎宮に関する「斎宮式」があり、そこに斎王が選ばれて伊勢に旅立つまでの手順が規定されている。それによると、
@天皇が即位すると、卜定(ぼくじょう)と呼ばれる占によって天皇の娘や姉妹などの身内から未婚の皇女が選ばれる。選ばれた斎王はまず自室で世間から切り離された生活を送る。
A次に、斎王は日を選んで平安宮の中に用意された初斎院(しょさいいん)という一室に移る。
B翌年の秋、京の西の嵯峨野に営まれた野宮(ののみや)という仮設の宮殿に移り、一年を過ごす。このお籠もりが斎王の清浄性を高めるものとされた。
Cそして、翌年の秋、伊勢神宮で9月15日から17日に行われる神嘗祭(かんなめのまつり)に合わせて、京を旅立つ。旅立ちに先立って、斎王は葛野川で禊ぎを行って大極殿に赴き、天皇と対面する。天皇は「都の方におもむきたもうな」と声をかけ、斎王の額髪に櫛をさす。これを別れの櫛という。
D斎王の一行は、平安京を離れ、近江の国の勢多(せた)・甲賀(こうが)・垂水(たるみ)、および伊勢の鈴鹿(すずか)・一志(いちし)の五カ所の頓宮(とんぐう)で泊まりを重ね、五泊六日をかけて伊勢に赴く。一行の人数は数百人に及び群行(ぐんこう)と呼ばれた。

斎王群行と帰京のルート
斎王群行と帰京のルート
興味深いのは、斎王が任を解かれて都に戻るとき、ケースバイケースで2つのルートがあったようだね」
と言いながら、Aは一枚の解説シートに示されたルート図を見せた。
「つまり、天皇が譲位して斎王の任が解かれたときは、往路と同じ道をたどって帰京する。しかし、天皇が崩御したり、斎王の肉親に不幸があって任を解かれた場合は、一志から川口、伊賀の阿保(あほ)、大和の都介(つげ)、山城の相楽(さがら)を経て、木津川から淀川に入る。そして、難波津(なにわづ)で禊ぎを行った後、山城の河陽(かや)に戻り、それから京にはいったようだ」
「なんのために難波津まで出向いて禊ぎをおこなったのだろうか?」
「詳しいことは分からないが、どうやら斎王が普通の内親王に戻る重要な儀式だったようだ。天皇譲位による帰京のときも、難波津での禊ぎは行われたようだ」

斎王群行の一シーン
映像「斎王群行」の中の一シーン
ところで、斎王は伊勢神宮で9月15日から17日に行われる神嘗祭(かんなめのまつり)に参加できるように京を立つとのことだが、その他にどのような勤めがあったのだろう? 資料に何か書いてあるかい?」
「ああ、斎王が参加する伊勢神宮の祭りは、9月の神嘗祭と6月・12月に行われる月次祭(つきなみのまつり)で、これらを三節祭(さんせちさい)と呼んだそうだ。これらの祭りは、内宮では16・17日、外宮では15・16日とそれぞれ2日にわたって行われ、斎王はいずれも二日目に参加した」
「それで、斎王は三節祭でどのような役割を担ったのかな?」
「斎王は太玉串(ふとたまくし)と呼ばれる榊(さかき)の枝に麻の繊維を付けたものを宮司から受け取って、神宮の瑞垣門の前の西側に立てるのが主な任務だったようだ。太玉串は神が宿る神籬(ひもろぎ)、すなわち降臨する神を迎えるための依り代で、それを特定の場所に立てるのは祭の最初に行なう重要な儀式なんだ」

女官にかしずかれる斎王
女官にかしずかれる斎王

一年のうち、たった六日間だけ伊勢神宮の祭に参加するだけなら、斎宮での生活もさぞかしのんびりしたものだったろうな」
「いや、そうでもなかったようだよ。『延喜式』によれば、斎宮では正月元旦・7日・16日や、5月5日、7月7日、9月9日と11月の新嘗祭には節会(せちえ)が行われている。斎王は当然そうした行事にも参加したはずだ。その他にも数多くの行事が斎宮で行われており、我々が考えるほどのんびりした暮らしではなかったようだよ」

斎宮(さいくう)の変遷

代中国では、宮廷の儀式に際して皇帝が斎戒(さいかい)する場所を「斎宮」といい、宮殿の中に設けられていた。我が国でも、天皇が籠もる場を斎宮(いわいのみや)と呼んだ例がある。伊勢の斎王の「いつきのみや」という意味での「斎宮」の表現は、『続日本紀』の文武天皇2年(698)の条に最初に現れる。だが、上記のように天武天皇の娘の大来皇女が674年に斎王として派遣されたという『日本書紀』の記述もある。当然、698年以前に斎宮は築かれていたものとみなしてよい。

物館の展示室Uは、発掘調査の成果に基づいて斎宮の歴史を紹介するコーナーである。この展示室の入口には大きな木製の塀が置かれている。斎王が暮らしていた内院は、奈良時代には二重の塀で囲われていたことが発掘の結果確認されている。その塀の一部を復元したものが、この木製の塀である。

発掘調査の成果を語る展示室U
発掘調査の成果を語る展示室U

の近くに斎宮跡全域の航空写真とその中に配した400分の1の模型が置かれている。この模型は、8世紀末頃の「方格地割」をもとにして、斎宮の内院を発掘調査の成果に基づいて推定復元したものである。模型の中に置かれた人形が、見学者の指示にしたがって、斎宮の中の道を東西南北いずれの方向にも進むことができる仕掛けになっていた。

司の名を記した墨書土器
司の名を記した墨書土器
宮は、斎王が生活した内院の他に、役所の斎宮寮の庁舎があった中院、官人の住居や官舎があった下院から構成されていた。『延喜式』の記述から、斎宮寮には13の司があったことが分かっている。

宮の行政をあずかる舎人司(とねりのつかさ)や蔵部司(くらのつかさ)、膳部司(かしわでのつかさ)、馬部司(うまのつかさ)、神祭を行なう主神司(かんづかさ)、斎宮や官人の生活に係わる膳部司(かしわでのつかさ)、掃部司(かにもりのつかさ)などだ。中院のあったあたりの遺跡からは、司の名を墨書した土器が多数出土している。その幾つかがガラスケースの中に展示されている。

飛鳥時代の土器
飛鳥時代の土器
宮のある明和町には、6世紀中頃から8世紀頃にかけて土師器を製作していたと考えられる窯跡が大量に見つかっている。その大量消費地として、伊勢神宮の他にすでに6世紀頃には斎宮が営まれていた可能性が指摘されている。斎宮跡では7世紀末の立派な塀の一部が確認されていて、ある程度計画的な宮殿が造られていたようだ。8世紀に入ると現在の博物館の南側一帯で奈良時代の建物跡が多数見つかっている。平安時代前半の9世紀頃、斎宮は安定期にあったようで、規模の大きな建物が頻繁に建て替えられている。

長元年(824)、斎宮は一時度会(わたらいぐん)にある離宮院に移ったことがあるが、承和6年(839)には再び元の地に戻っている。10世紀以降の斎宮については、発掘調査ではまだほとんどわかっていない。10世紀後半には、斎宮は次第に衰退していったことが、文献上からも確かめられるようだ。承安2年(1172)、斎王が斎宮で急死し、その後、源平の内乱などで文治元年(1185)まで斎王が置かれず、斎宮は荒廃した。

朱彩土馬
奈良時代の斎宮跡から出土した朱彩土馬
倉時代には斎宮が復活したが、事態はそれほど好転しなかったようだ。承久3年(1221)の承久の乱で、朝廷方が鎌倉幕府に敗北してからは、天皇が即位してもすぐに斎王を卜定することが難しくなった。天皇家が持明院党と大覚寺党に分裂してからは、鎌倉幕府に依存を強める持明院党の天皇は斎王を置かなくなった。その後、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒し、建武の新政で斎王制度の復活を図るが、新政事態が崩壊し斎王制度も終わりの時期を迎える。

特別展示:「伊勢物語 狩りの使いと斎宮」

特別展示室の入口に張られたポスター
特別展示室の入口に張られたポスター
付の横にある特別展示室では、10月17日から11月23日までの会期で、斎宮歴史博物館の開館20周年および国史跡斎宮跡指定30周年を記念して、「伊勢物語 狩りの使いと斎宮」という特別展が開催されていた。展示室Uを出た後、タイミング良く映像展示室で上映がはじまった「斎王群行」を見てから、特別展示室の方へ足を向けた。

伊勢物語』は平安時代初期に成立した歌物語で、全125段からなり、ある男の元服から死にいたるまでを、歌と歌に添えた物語によって描いている。作者は不詳だが、その中の第69段と第70段に「狩の使い」の物語がある。狩の使いとは、勅命を奉じて諸国に派遣され、朝廷の用に当てるための鷹狩をする使いのことをいう。物語は、在原業平(ありはらのなりひら)と想定される男が狩りの使いとして伊勢に赴き、斎王の恬子内親王(やすこないしんのう)と密通してしまう話になっているようだ。特別展示室には、その『伊勢物語』のさまざまな写本や歌物語に因んだ屏風などが展示されていた。

『伊勢物語絵巻』の第69段
『伊勢物語絵巻』の第69段より
安2年(858)8月、文徳天皇が崩御し、清和天皇がわずか9歳で即位した。その翌年の貞観元年(859)10月、文徳天皇の娘だった恬子内親王が斎王に卜定(ぼくじょう)され伊勢に下向した。貞観18年(876)11月、清和天皇はまだ27歳の若さで9歳の陽成天皇に譲位した。それにより、恬子内親王は18年間勤めた斎宮を退下し都に戻った。その後の彼女の消息は伝わっていないが、延喜13年(913)6月に亡くなっている。在原業平は、恬子内親王が帰京して4年後の元慶4年(880)5月、56歳で亡くなった。

伊勢物語』の中では、業平が狩りの使いとして斎宮に赴いたとき、斎王はその使者のすばらしさに感動し、業平も御簾(みす)ごしにほの見える斎王の面影の麗しさに心をときめかせた。二人はなんとかして二人だけの時間を過ごしたいと思うが、なかなかその機会が訪れない。ある日の深夜、人々の寝静まった頃に何者かの影が業平の寝所の外に立った。おぼろな月明りで見ると、訪れてきたのは斎王だった。しかし、短か夜はすぐに明けてしまう。尽きせぬ名残の中、ふたりは次の歌を読み交わした。

【斎王】君やこし 我や行きけむ おもほえず 夢か現(うつつ)か 寝てかさめてか
【業平】かきくらす 心の闇に まどひにき 夢うつつとは こよひ定めよ

伊勢物語図屏風 第69段 狩りの使い
「伊勢物語図屏風 第69段 狩りの使い」より
子内親王が斎王の任を解かれて京に戻った後、再び在原業平と相まみえることがあったであろうか。ちなみに、この二人の間に禁忌を犯した契りがあり、それによって男の子が生まれたという伝承が伝わっている。


2009/11/24作成 by pancho_de_ohsei
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