2009/11/15

卑弥呼の宮殿? 纒向遺跡(まきむくいせき)で大型建物跡見つかる

aaaa
現地説明会の様子 (2009/11/15 撮影)

纒向遺跡の中枢部で続けられた発掘調査の成果

は8ケ月前にさかのぼる。今年の3月20日、桜井市教育委員会は第162次調査として纒向遺跡の中枢部の再調査を行い、3世紀前半の建物跡を検出したとマスコミに発表した。調査地一帯は大規模に整地され、柵で複雑に区画されていた上に、建物の柱筋は東西方向にそろい、四棟の建物が計画的に配置されていたという。その発表を受けて、新聞各紙はセンセーショナルな見出しで、発掘の成果を報じた。まるで邪馬台国の卑弥呼の神殿が発見された・・・とでも言いたげな報道で、それに刺激されて2日後の現地説明会には大勢の考古学ファンが参加した(平成21年3月22日付け橿原日記参照)。

aaaaa
纒向遺跡の建物跡配置図(産経新聞インターネット版より)
井市教育委員会は、今年度も前回の調査地の東に390平米の調査区を設定して9月から第166次発掘調査を実施してきた。その結果、あらたに別の建物跡が見つかり、今月の10日その成果をマスコミに公表した。それによると、今回検出された建物跡は2棟ある。そのうちの一棟は、前回の調査で3本の柱列が見つかっていたもので、建物の規模は3間x2間(南北約8m、東西約3.5m)だったことが判明した。外から梁(はり)を支える「棟持ち柱」を持ち、宝庫のような施設だったとみられている。

aaaaa
発掘現場
aaaaa
橋本輝彦氏の基調講演のタイトル
う一棟は、その東側に位置する巨大な高床式建物跡である。柱穴などから推定すると南北4間(19.2m)x東西4間(12.4m)と、今までに発見された当時の建物跡としては最大のものであるという。実をいうと、今回の発表で別の建物跡の検出があらたに報告されることは、筆者にはあらかじめ予想できていた。というのは、先月の31日(土)に千代田区大手町の日経ホールで行われた「卑弥呼の国を探るV」という「桜井市歴史観光フォーラム」で、発掘の話を聞いていたためである。

のフォーラムの基調講演で、纒向遺跡の調査を担当しておられる桜井市教育委員会主査の橋本輝彦氏は、これまでの発掘調査の歴史を概括された。その中で、橋本氏は今回の発掘で何が検出されたのかは明言を避けられたが、記者発表と現地見学会の日にちを予告された。発掘調査の公表を前もって予告することは珍しい。ほとんどの参加者は新たな建物跡の出現を推測できたはずである。

の推測は的中したようだ。新聞報道の内容を要約すると、発見された大型建物跡は次のような特徴を有していた。

● 柱材はすべて抜き取られ他に転用されていたが、その柱跡から推定して直径約30cm前後の柱が南北方向に4.8m間隔で、また東西方向に3.1m間隔で建てられていた。
● 屋根を支える主柱の間隔が非常に広いため、南北方向の柱の間には床を支える細い束柱(つかばしら)の穴があった。そのため、ここに存在したのは高さ10m前後の掘立柱式高床建物だったと推定された。
● 実際に発掘された建物跡は南北幅が19・2m、東西幅が6・2mだが、後世に柱穴が削られた西側も含め、東西幅は倍の12.4mだったと推定された。この場合、床面積は約238平米となる。
● この大型の建物は、今までに確認されている3棟の建物や柵列と共に、東西方向の同一直線上で南北対称となるよう計画的に配置されていた。しかし、方位はいずれも真北に対して西に5度ほどふれている。
●大型建物跡の東端が方形周溝墓のものと思われるL字形の溝で壊されており、その溝から3世紀中ごろの庄内3式土器(240〜270年ころ)が出土した。土器の年代から大型建物は3世紀前半に建てられ、3世紀中頃まで存続したと思われる。

鳥時代以降の宮殿や寺院の建設には、中国の方位思想の影響が見られる。建物跡の発掘調査から、南北方向を主軸として建てられていたことが判明している。しかし、纒向遺跡の4棟の建物跡はいずれも中軸線を東西の同一直線上におき、同じ方向を向いて建てられている。

aaaaa
発掘された4棟の建物の復元模型
(製作は黒田龍二・神戸大大学院准教授)
まり、これらの建物はまだ中国の方位思想の影響を受けていない。このことが最大の特徴になっているようだ。そこに特別な意味があると指摘されるのは、歴史地理学の千田稔氏だ。東西方向は日が出て沈む太陽軸であり、その方向性が重視されているのは日本独特の古い考え方に基づいているようだ。

一直線上に複数の建物を配置した例は、3世紀代の纒向遺跡より古い遺跡では見つかっていない。それどころか、7世紀の飛鳥時代に建てられた王宮まで例を見ない。そのため、市教委の橋本輝彦主査も「(纒向遺跡の建物跡は)精密で類例のない構造であり、(この地域は)纒向遺跡の中心人物がいた居館域と考えて間違いない」とコメントしておられる。だが、橋本氏はあくまで慎重である。卑弥呼の宮殿の可能性については言及されていない。

調査地付近の地形
調査地付近の地形(説明会の資料より)
掘調査が行われている一帯は、東側から派生する扇状の台地であり、太田北微高地と呼ばれている。3世紀の頃は微高地の南北に谷が流れていたことが判明している。この微高地周辺は纒向遺跡内でも比較的古い段階の遺構が密集しており、過去の調査でも庄内式土器が多く出土している。

向遺跡が所在する一帯がヤマト王権の発祥の地であることは認めてよい。そうであれば、太田北微高地付近が、誕生したばかりのヤマト王権の中枢の一画であった可能性は高い。だからと言って、卑弥呼が君臨した邪馬台国がこの地にあったするのは、あまりに短絡的な発想である。

井市は邪馬台国畿内説を”町おこし”の主要な柱として位置づけている。観光客誘致を目的とした政治判断として、邪馬台国がこの地にあったと宣伝するのはやむを得ない行為かもしれない。しかし、冷静な判断が求められるマスコミ各紙が、今回の発見を邪馬台国大和説を補強するものとしてセンセーショナルに報じているのは、いかがなものか。この程度の建物跡の発掘では、大した証拠にはならない。邪馬台国ここにありきと断定するためには、「親魏倭王」の金印のような女王の権威を示す遺品の出土を待つ必要がある。

巨大建造物だけでは王権の所在を確定する証拠にはならない。

さが10m以上の建物跡を大型住居跡と呼ぶそうだが、今回の大型建物跡が発見される以前にも、列島内のあちこちで巨大建造物の跡が発見されている。

aaaaa
三内丸山遺跡の大型竪穴住居
えば、青森県の三内丸山遺跡では最大のもので長さ約32m、幅約10mの大型竪穴住居跡が見つかり復元されている。三内丸山遺跡は、縄文時代前期中頃から中期末葉(BC3500〜BC2000)にかけて存在した集落遺跡で、集落の中央付近に位置した大型建物は、その用途について集会所、共同作業所、共同住宅などさまざまな説がある。三内丸山遺跡の一般公開が始まった翌年の1996年3月、筆者は家族との東北旅行でここを訪れたが、大型竪穴住居(ロングハウス)の内部を見て、その広さに驚かされた。

阪府和泉市池上町の史跡池上曽根遺跡は弥生時代中期の環濠集落遺跡である。その中心にある「いずみの高殿」は、神殿と思われる高床式建物跡を復元したもので、南北19.2m、東西6.9m、高さ11m、床までの高さ4m、床面積135平米(80畳)の規模を誇る。壁のない建物で、屋根裏が二階になった屋根倉式建物として復元されている。

aaaaa
池上曽根遺跡の「いずみの高殿」
土した土器から、この建物が建てられたのは1世紀前半(弥生中期後半)と推定されていた。しかし、出土したヒノキ柱17本の1本の根元が、年代測定に必要な外皮に近い部分まで残っていたため、奈文研が調べた結果、紀元前52年の伐採と分かり、建設時期が約100年さかのぼることなった。

賀県の吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里遺跡は、紀元前3世紀から紀元3世紀に至る弥生時代を通じて発達したクニの遺跡である。邪馬台国九州説の候補地の一つとしても知られる遺跡だが、その中心は北内郭と南内郭からなる。

aaaaa
吉野ヶ里遺跡の北内郭
内郭は主に神への祈りの空間であったようで、内部だけでも40万平米の規模を誇る。弥生後期の1世紀から3世紀の最盛期につくられた二重の環壕に囲まれており、その中に斎場棟、主祭殿、物見櫓と思われる建物跡があった。主祭殿は吉野ヶ里最大の建築物で、その規模は12.3mx12.7m、木造三層二階建ての建物として復元されている。

者は、8年前の2001年4月に吉野ヶ里遺跡を訪れたことがある。外敵から守るV字形の二重の環濠の縁に木の柵が巡らされた北内郭には、高さ12mの物見櫓、床高2mの高床式倉庫、主祭殿などが復元されていた。主祭殿は16本の柱によって支えられた約12.5m四方の建物だった。二階に登ると、人形を使って吉野ヶ里の重要な祀りの様子が再現されていた。

aaaaa
発掘された4棟の建物の復元模型
戸大学大学院の建築史が専門の黒田龍二准教授は、今回発掘された大型建物を含めて4棟の建物のイメージを模型で復元されている。新聞紙上でその写真を見て、建物の規模は吉野ヶ里の主祭殿より約1.5倍大きいが、北内郭の印象が強く脳裏に残っていたせいか、卑弥呼の宮殿と見なすにはいささか貧弱に思えた。

馬台国や女王卑弥呼に関する記述は、我が国の『古事記』や『日本書紀』にはいっさい登場しない。西晋の歴史家・陳寿(ちんじゅ)が3世紀末(280年-290年間)に執筆した『三国志』の中の魏書東夷伝倭人条(通称、「魏志倭人伝」)に記されているのみである。そこには、卑弥呼の宮室は”楼観・城柵を設け、常に人有り、武器を持して守衛す”と描かれている。つまりは、吉野ヶ里遺跡の北内郭のようなイメージこそ、卑弥呼の宮殿にふさわしい。大型の建物1棟と倉庫のような小さな建物3棟だけでは、倭国に君臨する女王の館としては物足りない。

纒向遺跡の範囲
纒向遺跡の範囲
向遺跡は、全長280mの箸墓古墳を含む東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ全国屈指の大規模遺跡である。ところが、現在までに発掘調査されたのは、そのうちの5%程度にすぎない。邪馬台国九州説を唱える高島忠平・佐賀女子短大学長(考古学)もコメントしておられるように、「数棟の建物跡と柵が見つかっただけで、邪馬台国を議論するのは時期尚早。全体構造が明らかになっていない段階では、九州と比較もできない」。

の点は橋本輝彦氏も承知しておられ、「(調査地の)南側や東側にはさらなる建物、遺構があるだろう。今後の調査で明らかにしたい」と話しておられる。

本日の現地説明会に参加

橋本輝彦氏
発掘調査の現場で遺構の様子を説明する橋本輝彦氏

日間にわたる現地説明会に先立って、13日には地元住民向けの説明会が開かれ、約700人が詰めかけたそうだ。14日の現地説明会では、午前10時のスタート前に考古学ファンらが殺到し、開会と同時に遺構が見える会場への入場を制限されるほどだった。午前中だけで約2千人が訪れたと産経新聞は報じている。桜井市市教育委員会は14日と15日と両日で1万人以上の人出を見込んでいるという。

うした情報をインターネットで知ったので、本日の説明会は少し早めに現地に到着するように橿原のアパートを出た。JR桜井線の「畝傍駅」を8時58分のワンマン電車に乗れば「巻向」駅に9時10分に着く。駅で友人のT.Y君と待ち合わせて、二両編成の電車に乗ったが、すでに2両とも満員の状態だった。新聞やテレビの報道で現地説明会のことを知り参集してきた人たちだ。マスコミの影響力のすごさに、あらためて驚かされた。

現地説明会の受付
現地説明会の受付
見学者た
二回目の説明を聞くために並んでいる見学者たち
回の巻向遺跡第166次調査で発見された大型建物跡を、桜井市教育委員会の発掘担当者は誰も卑弥呼の宮殿跡とは言っていない。現時点の考古学的状況からは、建物の性格については判然としないと、きわめて冷静なコメントを出している。それをマスコミ各社は、卑弥呼の宮殿跡が見つかった、邪馬台国畿内大和説に決着などと、勝手に一般読者の古代に対するロマンを刺激しているにすぎない。言論の公器との使命を帯びている我が国の新聞や放送が言ってみれば”嘘の情報”を日本中に拡散させているにすぎない。

れはともかく、「巻向」駅からは、受付が設営されている空き地まで長蛇の列が続き、受付で資料を受け取ってもすぐに現場には行けない。空き地の端で長蛇の列の最後尾に並ばされた。現場では10時開始の現地説明がすでに前倒しで開始されていたが、20分近く待たされた。

掘現場は3月20日に行われた第162発掘調査の現場の東側である。第162発掘調査のときとはかなり広い場所が掘削されていて、そこに柱跡を示す黄色いポールが整然と東西方向と南北方向に並べれていた。ポールの太さには2種類あった。太いポールは本柱の位置を示し、細いポールは束柱を示すとのことだった。

aaaaa
建物Cの柱跡
aaaaa
古墳時代後期埋没後の石貼り溝
当者の説明の内容は、ほぼ新聞紙上で紹介されている情報と同じで、特に目新しい内容はなかった。第162次調査で出土した3本の柱穴に対応する東側の柱穴が今回見つかり、説明資料では建物Cとして紹介されている。その柱列に沿って南北方向に石貼りの溝が10mほど築かれていた。10日の記者発表を報じたマスコミ報道では触れられていなかった遺構である。幅約4m、深さ約50cmの溝は、出土土器から5世紀末から6世紀前半にかけて機能していたと思われ、市教育委員会は周辺に点在する同時期の埋没古墳に関連した豪族の居館に伴う溝と推定している。

回の調査地で見つかった大型建物を、市教育委員会は建物Dの仮称で呼んでいる。この建物の復元規模は4間四方の南北19.2mx東西12.4cm、床面積238.08平米で、3世紀中頃までの建物遺構としては国内で最大規模を誇るとのことだ、

大型建物Dの柱跡 大型建物Dの柱跡
大型建物Dの柱跡(南→北) 大型建物Dの柱跡(北→南)

の大型建物跡の東端が方形周溝墓のものと思われるL字形の溝で壊されいた。溝から3世紀中ごろの庄内3式土器(240〜270年ころ)が出土した。大型建物は3世紀前半に建てられ、3世紀中頃まで存続したと推測されている。

大型建物の東端を破壊しているL字形の溝 L字形の溝から出土した土器片
大型建物の東端を破壊しているL字形の溝 L字形の溝から出土した土器片

取環境大環境情報学部の浅川滋男教授(建築史)の研究室は、弥生時代から古墳時代への移行期の大型建築物の構造を研究目標に据えて、大型建物DをCG(コンピューターグラフィックス)で再現した。柱穴の列と平行して床を支える「床束(ゆかづか)」の穴が並んでいたことから高床建物だったと推定し、間口が4間だったことから前面と背面の両脇に1間幅の階段があると想定したという。さらに、中核部分として急こう配の大屋根をもつ2間四方の「身舎(もや)」があり、その四方を幅2間の回廊とひさしが囲んでいるとした。身舎はかやぶき、ひさしは板ぶきとした。 その写真が11月11日付けの毎日新聞一面中央に載っていた。なにか伊勢神宮の本殿のようで、いささか違和感を感じる建物イメージだった。

浅川教授が復元された大型建物の模型の写真
浅川教授が復元された大型建物の模型の写真
れとは別に、神戸大学大学院の黒田龍二准教授も巻向遺跡で今までに見つかった4棟の建物を模型で復元された。やはり毎日新聞の28面に大型建物の復元模型の写真が掲載されていたが、鳥取環境大製作のCGイメージとはずいぶん印象が異なる。今回の現地説明会では、その模型が土器破片などを展示しているテントで見られるものと期待していた。しかし、展示されていたのは模型の写真だけだった。模型の現物は?と説明員に聞くと、教授が引き上げられたとの返事が返ってきた。模型とはいえ、現物を見ることで当時の建物のイメージが膨らむものを・・・と残念な気がした。




2009/11/15作成 by pancho_de_ohsei
目次に戻る