橿原日記 平成21年10月29日

桜井茶臼山古墳は初期ヤマト政権の大王墓か?

桜井茶臼山古墳の現地見学会始まる

見学会に参集してきた人たち
見学会に参集してきた人たち
日から、桜井市外山(とび)にある桜井茶臼山古墳の三日間にわたる現地見学会が始まった。現在、橿原考古学研究所(以下、橿考研)がこの古墳の竪穴式石室を再調査している。その橿考研は今月の22日、赤色顔料の「水銀朱」が石室の全面に塗られており、その使用量は国内の古墳で最大となる約200キロと推定される、とマスコミに発表した。

6日には、現地見学会の案内が橿考研から筆者宛にもEメールで届いた。筆者は現在埼玉の自宅に戻っており、事情があって見学会には参集できない。その悔しい思いを察してか、見学会に参加した友人が現場の様子をデジカメで撮影して送ってくれた。やはり持つべきは気心の知れた友である。

HKの夕方のニュースでも、朝から大勢の考古学ファンが詰めかけ見学会初日の本日だけで2000人に達したと伝えていた。これだけ多くの考古学ファンを引きつけたのは、今回の「水銀朱」発見だけでなく、今年の6月に見つかった「丸太垣」の存在も大きく影響しているものと思われる。

【友人(T.Y氏)提供の見学写真】
●現場を覗き込む見学者 ●墓壙

●石室の側壁 ●取り外した天井石


を言うと、桜井茶臼山古墳は1949年(昭和24年)から1950年(昭和25年)にかけて、すでに学術調査が行われている。そのとき、後円部上面から約0.8m下に埋め込まれた竪穴式石室が見つかった。石室の規模は南北6.75m、東西1.27m、高さ約1.71mと長大なものだった。この石室を構成しているのは、大型の石(最大1・5トン)を12枚を載せた天井と垂直な側壁、そして板石が敷き詰められた床面であり、床面には大きな木棺が納められていた。

60年ぶりの調査で再び姿を現した石室天井石
60年ぶりの調査で再び姿を現した石室の天井石
(6/12配信毎日新聞インターネット版より)
念なことに、すでに盗掘の被害を受けていたために、副葬品の多くは失われていた。それでも遺物として、鹿の角をかたどった玉杖、玉葉、銅鏃・鉄鏃・鉄剣・鉄刀の武器類、石製腕飾類、さらに内行花紋鏡・方格規矩鏡・三角縁神獣鏡・画紋帯神獣鏡・斜縁二神二獣鏡など約20面相当分の銅鏡の破片があった。これらの出土品は橿考研の研究所附属博物館で公開されている。

れから60年を経た今年になって、橿考研は竪穴式石室の構造の解明を目指して再び調査を実施することになった。まず1月から3月にかけて石室上部の周辺を掘り下げたところ、とんでもないものが出土した。後円部中央の、竪穴式石室を覆っていた方形壇(縦11.7m、横9.2m、高さ1m)のすその10カ所で、直径約30センチの丸太を約1.3メートル埋め込んだ痕跡が見つかったのである。その結果、現在は残っていないが高さ2.6mと推定される約150本の柱が、垣根のように方形壇を囲っていたと推定され、橿考研はこれを「丸太垣」と名付けた。

茶臼山古墳の「丸太垣」のイメージ
茶臼山古墳の「丸太垣」のイメージ
丸太垣」の目的はなんだったのだろうか。「被葬者の魂を守る施設」、「たたりを恐れて権力者の霊を封じ込めた垣根」、あるいは「玉垣ではなく、建物跡」など様々な説が専門家から出されているが、まだ確定はしていない。

949年の調査では、被葬者を埋葬した長さ5.2m、幅70cm分の木棺の底板も見つかっている。当時は「トガの巨木」と鑑定されたが、この鑑定結果を疑問視する説が多かった。巨大前方後円墳の埋葬設備としては、全国的にコウヤマキ製の木棺が多く出土していたためだ。しかし当時は調査終了後すぐに石室が埋め戻されたため、木棺を再鑑定することができなかった。今年の春、その木棺を再調査したところコウヤマキであることが判明した。

丸太垣」の出土は、マスコミでも大きく取り上げられ話題を呼んだ。だが、発掘現場は8月以降に再調査を進めるため埋め戻され、説明会や見学会は行われなかった。

水銀朱が塗られれている石室内部
水銀朱が塗られれている石室内部
月から再開された調査で、竪穴式石室の壁面として積み上げられた石や天井石の全面に、「辰砂(しんしゃ)」と呼ばれる水銀朱が塗られ、一部残っていた木棺にも塗られていることが判明した。しかも、その使用量を推定すると約200キロになり、国内の古墳で使用された量としては最大であるという。赤色の原料とされる辰砂が、何故かくも大量に使用されたのだろうか。

内の古墳で使われた水銀朱は、これまで奈良県天理市の大和天神山古墳で確認された42キロが最多とされてきた。それを大きく上回る量である。和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授によれば、中国で流行した神仙思想の解説書「抱朴子(ほうぼくし)」(317年成立)に「仙薬(仙人になるための薬)のうち、最上のものは丹砂(=水銀朱)、次は黄金」と書かれているという。また、抱朴子には「飲めば不老不死の仙人になれる」とも記されているという。そのため、森浩一・同志社大名誉教授は、「不老不死を強く願った被葬者の姿がうかがえる」としておられる。

は、不老不死の仙人の世界に生まれ変わることを強く願って、金よりも高価な水銀朱をふんだんに石室内に塗らせた被葬者は、いったい何者だったのだろうか?



初期ヤマト政権の大王墓の可能性が高い桜井茶臼山古墳

桜井茶臼山古墳の所在地
桜井茶臼山古墳の所在地
上空から見た桜井茶臼山古墳
上空から見た桜井茶臼山古墳
井茶臼山古墳は、奈良県桜井市の市街地を二分するように、東西に走る国道165号線沿いに築かれている柄鏡(えかがみ)式の前方後円墳である。165号線をそのまま東へ進めば榛原に向かうが、途中に三叉路の交差点「外山(とび)」がある。この交差点から東南に延びる国道166号線は、忍坂(おっさか)を経て菟田(うだ)方面へ向かう。いわゆる昔の忍坂街道である。

墳は、交差点「外山」で国道が分岐する手前に位置し、桜井市の南東部に広がる鳥見山(とみやま、245m)から北へのびる一つの尾根を利用して、前方部を南に向けて築かれている。ちょうど三輪山の南の初瀬谷への入口に面した場所にあり、奈良盆地東南部から東へ抜ける昔の初瀬・伊勢街道を見下ろしている。

瀬谷から流れ出る初瀬川の流域に栄えた古代の海柘榴市(つばいち)は、この古墳の北方の桜井市金屋にあった。その場所から300mほど初瀬川をさかのぼれば仏教伝来で有名な第29代欽明(きんめい)天皇の磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)が、現在の桜井市水道局付近にあったと推定されている。つまりは、付近の地図や航空写真で見れば、この茶臼山古墳は交通の要衝や2世紀後には王都となる場所を見下ろす丘陵の尾根の先端に築かれていたことになる。

箸墓古墳
卑弥呼の墓と推定されている箸墓古墳
井茶臼山古墳の規模は、全長207m、後円部径110m、高さ21.2m、前方部幅61m、高さ11mで、前方部が柄鏡(えかがみ)形をしている古墳である。出土品から築造時期は3世紀末から4世紀初め頃と推定されている。実をいうと、雑木林で覆われたこの丘陵が古墳であるとあることが、昭和20年の中頃までまったく知られていなかった。地元でも、南に位置する鳥見山から派生した丘陵としか見られていなかったようだ。

られずにきた理由は簡単である。我が国の古代を記述した『古事記』や『日本書紀』は天皇陵の所在を記しているが、そうした記述にはこの古墳に言及したものはなかったためだ。天皇伝承がないことは、埋葬者が大王ではなかったことを意味するとも考えられる。塚口義信・堺女子短大名誉学長も、天皇伝承がない桜井茶臼山古墳は大王に近い有力者の墓と考えるべきだとして、その候補として崇神天皇が全国に派遣した「四道将軍」のうち北陸を担当した大彦命(おおびこのみこと)を挙げておられる。

メスリ山古墳
桜井茶臼山古墳の近くにあるメスリ山古墳
かし、奈良盆地東南部には古墳時代前期(3世紀中ごろ〜4世紀前半)に築造された200メートルを超す大型前方後円墳が6基も集中している。そのため、いずれの古墳も初期ヤマト王権の大王クラスの人物を埋葬したとする説がある。6基の古墳を築造の古い順に並べれば、箸墓古墳 → 西殿塚古墳(衾田陵) → 桜井臼山古墳 → メスリ山古墳 → 渋谷向山古墳(景行陵) → 行燈山古墳(崇神陵)になるという。このうち、桜井臼山古墳とメスリ山古墳を除く他の4基はオオヤマト古墳群の中の陵墓に指定されていて、学術調査はできない。

近は、箸墓古墳を260年頃築造された邪馬台国の女王・卑弥呼の墓に比定する説が有力になりつつある。桜井茶臼山古墳の築造時期が、推定されているように3世紀末から4世紀初めなら、約40年のタイムスパンの間に西殿塚古墳(衾田陵)が一つ入るだけで、時系列的には桜井茶臼山古墳を大王陵と見なしてもおかしくない。万世一系の皇統譜が作り上げられる以前に、卑弥呼から二世代新しい大王の存在を仮定することはできないのだろうか?



(*)橿考研付属博物館作成の特別展図録第64冊から転記
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