2009/10/12

考古学者が飛鳥瓦に命名した呼称 - 花組・星組・雪組

衛星写真から見た我が家

Googleから見た我が家
Googleから見た我が家

が家は、バブル期のはるか以前に買った一戸建ての分譲住宅で、築40年はとっくに過ぎている。当時は周囲に田園が広がり、おまけに東南の角に位置していたので朝から夕方まで日当たりがよかった。それが唯一の取り柄のような家だったが、手狭になったので思い切って増築を決意した。今から27年前の1982年の夏である。

築に伴って屋根も造り替えなければならず、大工から今ばやりの新しい瓦に葺き替えたらとの相談を受けた。当時の建て売り住宅は判で押したように灰色の安い瓦が葺かれていた。今ばやりの瓦とはどんなの?と聞くと、彼はカラー見本を見せて、これなどは良いと思うと、緑色の瓦を勧めた。釉薬を塗った光沢のある瓦だった。

工が勧めた瓦をそのまま注文したので、当時は屋根瓦ばかりが目立つ家になった。知人が訪ねてくるときも、道が分からなければ緑の屋根の家が目印だと教えたものだ。現在ではかなり煤けて光沢も失われたが、Google Earthの衛星写真で見ると、緑の屋根の我が家は簡単に識別できる。

寺院の屋根の本葺き
寺院の屋根の本葺き
日本家屋の桟瓦
日本家屋の桟瓦
代の日本式家屋の屋根には、実にさまざまな種類の瓦が用いられている。瓦は粘土を成形し高温で焼き上げて製造されるが、その焼成方法の違いで、釉薬瓦(ゆうやくがわら、あるいは陶器瓦)といぶし瓦に大別される。釉薬瓦はその名の通り瓦の表面に釉薬をかけて多彩なカラーを生み出している。いぶし瓦は焼成の最終段階で瓦をいぶし、炭素を主成分とする皮膜を生成させている。

は、その形からもさまざまな種類に分類される。たとえば現在でも寺院建築などに用いられている「本葺き(ほんぶき)」は、受けとなる平瓦と上にかぶせる丸瓦のセットである。一般の家屋に用いられているのは、平瓦と丸瓦を一枚の瓦に結合した「桟瓦(さんがわら)」で、J形、F形、S形などの種類がある。これらは屋根の平面に使われるため「地瓦」とも呼ばれているが、その他に棟や袖に使われる「役瓦」がある。棟の両端を飾る鬼瓦は役瓦の一種である。


我が国に瓦の製作技術を伝えた技術者たち

類が瓦というものをいつ頃考え出したかは、よく分かっていない。東アジアでは、王宮の屋根を葺くための焼き物の瓦が中国で発明された。今までに発見された最も古い瓦は、およそ3500年前の西周(BC1100 - BC770)時代初期の頃、宮殿の屋根に葺いていた平瓦だそうだ。

軒丸瓦の半円形の瓦当
軒丸瓦の半円形の瓦当
西周の中頃になると、丸瓦と平瓦を組み合わせて使うようになり、西周の末には軒丸瓦の先端に文様を付けた半円形の瓦当(がとう)が取り付けられるようになる。前漢(BC206 - AD08)の時代になると、軒丸瓦の半円形の瓦当が、現在見られるような円形の瓦当に変わったとされている。

方、中国の文化の影響下にあった朝鮮半島ではどうだろうか。前漢は紀元前108年に現在の平壌地域に楽浪郡を設置した。楽浪郡の役所の建物などには、都・長安の宮殿と同じ瓦が当然用いられた。高句麗は西暦313年に楽浪郡を滅ぼすが、楽浪の文化をそのまま受け継いだため、その王宮には漢と同じような瓦が用いられた。後になると、中国北朝の影響を受けて蓮弁やパルメットを加えた瓦当や、蓮弁と蓮弁の間に珠文を入れた瓦当が軒丸瓦に用いられるようになる。

百済の瓦
百済の瓦
方、百済は中国南朝の仏教の影響を強く受けたため、蓮華文が軒丸瓦の瓦当に用いられた。新羅では、高句麗と百済の両方の影響を受けた文様の瓦当が作られた。注目すべきは、軒丸瓦と対をなす文様を彫りこんだ軒平瓦は、三国時代のいずれの国にもまだ出現していなかった。平瓦の先端部は二枚重ねにして葺かれたようだ。


鮮三国に比べると、我が国の人々が瓦葺きの建造物を初めて眼にするのはずいぶん遅い。6世紀も末になってからである。西暦596年、飛鳥の真神原に我が国最初の壮大な仏教寺院が姿を現した。百済から伝えられた仏教を公式に受容するかどうかで長年争ってきた蘇我馬子(そがの・うまこ)が廃仏派の物部守屋を滅ぼし、一族の権威の象徴としてようやく建立した氏寺である。

飛鳥寺本堂に掲げられた伽藍復元図
飛鳥寺本堂に掲げられた伽藍復元図
子は仏法興隆の願いを込めて、中の二文字を取り「法興寺」と命名したが、人々は単に飛鳥の寺、飛鳥寺と呼んだ。天空に向かってそびえ立つ五重の塔の高さは人々を驚かせた。その塔を囲むように築かれた3つの金堂は朱塗りの柱や白壁が眼にも鮮やかだった。これらの堂宇を囲む回廊には緑の連子窓がはめ込まれ、さらに寺院の正面に建つ中門は重層の巨大な門だった。そして、これらの建物の屋根を覆っていたのは、陽光をはね返していぶし銀のように輝く本葺きの瓦だった。

力で物部本宗家を滅ぼした翌年(588年)、蘇我馬子は百済に対して寺院建立のための技術支援を要請している。この要請に応えて、百済の威徳王は造寺技術集団を派遣してきた。『日本書紀』はその技術集団の構成メンバーの名を伝えている。すなわち、寺工の太良未太(だらみだ)、文賈古子(もんけこし)、鑪盤博士の将徳・白昧淳(はくまいじゅん)、瓦博士の麻奈文奴(まなもんぬ)、陽貴文(ようくいもん)、凌貴文(りょうくいもん)、昔麻帯彌(しゃくまたいふ)、画工の白加(びゃくか)たちである。

たがって、通説では西暦588年に上記の4人の瓦博士によって造瓦技術が我が国に伝えられたとされている。これらの百済人は技術指導者として来朝したのであって、彼ら自身が瓦を製作したのではない。瓦は粘土を成形し窯で焼成して作る。似たような技術を応用して、窖窯(あながま)を用い1100度以上の高温で還元焔焼成して須恵器を生産する技術集団が、すでに我が国には大阪府の陶邑(すえむら)をはじめ列島各地に存在した。蘇我氏配下の氏族の中にも、須恵器製造工人を抱えた氏族が当然いたであろう。おそらく蘇我馬子の鶴の一声で、そうした工人たちが飛鳥に集められ、瓦博士の指導のもとに造瓦技術を習得したにちがいない。

飛鳥寺の屋根を飾った二系統の瓦

近、飛鳥時代の古代寺院跡から出土した瓦について講義を受ける機会が二回ほど続き、興味深い話を聞くことができた。藤原宮が築かれる以前、我が国の瓦葺きの建造物は寺院の伽藍しかなかった。したがって、古代の瓦の研究は飛鳥寺跡から出土した瓦の分析から始まっている。飛鳥寺の瓦を原点として、瓦の様式の変遷を明らかにすることで、文献資料に現れない古代寺院についても、考古学的にその創建時期を推定できるようになる。

丸瓦(左)と平瓦(右)の成形
丸瓦(左)と平瓦(右)の成形
の研究成果を見ると、もっぱら出土した軒丸瓦の分析に中心をおいているようだ。古代の屋根を葺いていた地瓦は平瓦丸瓦であるが、その製造方法はよく似ている。丸瓦の場合の手順は、@円筒形の木型に布の袋をかぶせる、Aその上に板状の粘土を巻き付ける、B叩き板で叩いて粘土を締める、C粘土板を木型から外して半分に分割する、D天日で乾かす、E窯で焼成する、といったステップを踏む。平瓦の場合も同様だが、木型の代わりに大きめの模骨と呼ばれる桶が用い、模骨から外した粘土板を4等分する。いずれの瓦も形状は単純で、それから歴史の変遷をたどるのは難しい。

かし、軒先に葺かれる軒丸瓦は、(はん)という木型に粘土を押しつけて瓦当(がとう)を成形し、それに丸瓦の先端に組み合わせて作る。笵には蓮華文など文様が彫られている。したがって、それぞれの寺院跡から出土する軒丸瓦の瓦当を調べれば、その文様から同じ笵で作られた瓦かどうかが分かる。また、同じ笵で作られたにしても、木型は使用されるに従ってすり減ってくるから、文様に変化が現れ、そこから製作時期が推測できる。ちなみに、軒丸瓦はその形状が鐙(あぶみ)に似ていることから、鐙瓦(あぶみがわら)とも呼ばれている。

軒丸瓦の模式図
軒丸瓦の模式図(出典:奈文研『基準資料1』)
然のことながら、瓦当の文様はさまざまな要因で時代とともに変化していく。そうした変化を時系列的に克明に追求してきたのが、現在までの飛鳥時代の瓦の研究である。その研究の緻密さにはほとほと感心させられたが、特に筆者の関心を引いたのは、次の2点である。


ず、創建時の飛鳥寺の屋根に使用された軒丸瓦の蓮華文の文様は、素弁と呼ばれるシンプルな形をしているが、その蓮弁の形が大きく2種類に分けることができるというのだ。すなわち、蓮弁の先端に桜の花びらのような切り込みをいれて反転させているタイプと、そうではなくて、蓮弁の先端に切り込みを入れる代わりに半円球の珠点(しゅてん)をおいて反転させているタイプである。

蓮弁の先端に切り込みがある花組
蓮弁の先端に切り込みがある花組
蓮弁の先端に珠点がある星組
蓮弁の先端に珠点がある星組
門的には、飛鳥寺跡から出土した軒丸瓦の瓦当文様を識別するために「飛鳥寺x型式」とxにローマ数字を当てて、例えば飛鳥寺V型式などと呼んでいる。しかし、このような型式名称は素人にはわかりにくい。そのためかどうか分からないが、桜の花びらのように先端に切り込みがある蓮弁の文様瓦を「花組」、先端に小さな星のような珠点を持つものを「星組」という親しみやすい呼称を与えた考古学者がいる。

の人の名は、2003年に亡くなられた元明日香村埋蔵文化財室長の納屋守幸氏である。納屋氏が宝塚歌劇団の組の名前を意識されたかどうかは知らない。しかし、納屋氏が命名した飛鳥時代の瓦当文様の呼び方は言い得て妙である。

屋氏の研究によれば、花組と星組の違いは、蓮弁の先端の形状だけではない。花組の軒丸瓦に用いられている瓦当は厚さ1cm程度と薄く、瓦当中央の中房(ちゅうぼう)と呼ばれる円の部分は、中央部より周辺部の膨らみがわずかに大きく、瓦当の前面は凹面をしている。瓦当の裏面はなで調整を行っている。また、瓦当に接合する丸瓦には、屋根に葺くときの丸瓦同士のジョイント部分に造作のない行基式丸瓦と呼ばれるタイプが用いられいる。、瓦当と丸瓦の接合は、接合前に丸瓦の凸面、凹面の一方か両面を斜めに削り、その後に瓦当の裏面の上端に押し当て、接合部に薄く補強の粘土を貼り付けて固定している。

方、星組の瓦当は花組に比べて厚い。中房は扁平でわずかに突出しているが、周辺端部の膨らみが中央部より大きい。瓦当裏面の中央部は周辺部より盛り上がり、調整に回転を用いたらしく同心円状のなで痕跡を残している。接合する丸瓦には、丸瓦同士のジョイント部分に段差がある玉縁式(たまぶちしき)のものが用いられ、その先端と凹面を片ホゾ状に二回削り、瓦当裏面の上部に押し当てて接合し、補強粘土を貼り付けている。

うした製作手法の異なる二種類の瓦が存在したことは、すでに飛鳥寺の発掘を担当した坪井清足氏によて指摘されているが、納屋守幸も軒丸瓦の制作手法が異なることから、2つの造瓦集団(瓦の製作に携わった人々)が存在したと想定しておられる。花組の軒丸瓦は、創建飛鳥寺の塔・金堂を中心に伽藍全域から出土していることから、星組よりわずかに先行して製作されたと推定されている。そうであれば、最初の4人の瓦博士に続いて、それほど時期を置かずに別の瓦博士が送り込まれてきた可能性もある。

山理科大学の亀田修一教授は、飛鳥寺の星組の瓦工人は、百済の旧衙里寺跡に係わる瓦工人グループの人たちであった可能性を指摘しておられる。旧衙里寺跡は百済の王都・泗沘城の近くにあり、王権との関わりが深かったと思われ、威徳王が日本へ派遣する瓦工人の内の一部を旧衙里寺跡の工人の中から選んだ可能性を考えておいてよいかもしれないとしておられる(亀田修一著「日韓古代瓦の研究」p.106)。

らに興味深いのは、花組と星組では原料として使われた胎土も、成形した瓦の焼成方法の異なっているとのことだ。と言うことは、粘土を採取して成形した場所も、成形した瓦を焼成した瓦窯(がよう)も違う2つの造瓦集団で飛鳥寺の瓦が製造されたということだ。花組の瓦は赤っぽく、星組の瓦は灰色であると言われている。これは、瓦を焼くとき窯に送り込む空気の量の違いによるものだそうだ。

飛鳥寺瓦窯跡
飛鳥寺瓦窯跡
酸化炎焼成」という手法では、窯に空気を十分に供給し粘土内の鉄を充分酸化させている。そのため、瓦は酸化第二鉄を含み赤みを帯びる。一方、「還元炎焼成」という焼き方では、焼成の最終段階で燃料補給口を塞いでしまい空気の供給を遮断する。そのため窯内が酸欠状態になり鉄の酸化が充分に進まないから、焼き上がった瓦は酸化第一鉄を含み灰色を呈する。

在の飛鳥寺の南東に「飛鳥寺瓦窯跡」がある。この場所で斜面にトンネル状の穴を掘った登り窯の跡が2基発見されている。花組の瓦はこの瓦窯で作られたと言われている。星組の瓦窯が何処にあったのかは、まだ分かっていない。葛城山の東南麓に位置する御所市の上増遺跡近辺であろう推定されているが、確証はない。

雪組と命名された軒丸瓦の瓦当
雪組と命名された軒丸瓦の瓦当
浦寺やそこから南200mに位置する平吉遺跡の発掘調査で、花組や星組とは別系統の軒丸瓦が数種類出土している。瓦当の中房が大きく突出し、蓮弁の中央に凸線や稜を持ち、さらに珠点やくさび形の間弁を配置するなど、凹凸の激しい文様の軒丸瓦である。また、成形のとき、瓦当を笵から外した後、瓦当の外縁や外縁の内側を削りやなで調整している形跡が見られる。

句麗の軒丸瓦に似ていることから高句麗系軒丸瓦と称されているが、高句麗から直接伝わったものではなく、百済経由で伝わったとする説が有力なようだ。ソウルの清潭遺跡出土の瓦がその源流ではないかと考えられいる。この瓦は宇治市菟道東で見つかった隼上り(はやあがり)瓦窯跡で生産されたことが判明している。納屋守幸氏はこの型式の瓦当に「雪組」という名称を与えた。


者の関心を引いたもう一点は、瓦当の文様が百済の瓦の模倣そのものではなく、我が国で独自性が加味されているという点だ。『日本書紀』の瓦博士来朝の記述がなくても、飛鳥寺跡から出土した瓦の文様が百済の素弁蓮華文に似ていることや、片ホゾ二回削りという特殊な方法で丸瓦が瓦当に接合されている点からも、百済の技術支援のもとに製作されたことは簡単に推定できる。

百済の古代寺院跡からの出土瓦
百済の古代寺院跡からの出土瓦
ころが、百済の古代寺院跡から出土する軒丸瓦の蓮華文の蓮弁の数は、一般に八葉であるのに対して、飛鳥寺のそれは十葉だったり十一葉である。明らかに百済の系譜を引いていると思えるものは、花組の素弁八葉のものだけで、その出土数は圧倒的にすくない。花組の瓦当はほとんどが、素弁十葉の蓮弁を持つ。また、星組には割り付けが難しいと思われる素弁九葉や十一葉のものもあり、これらの文様は百済では発見されていない。

星組の素弁十一葉軒丸瓦
星組の素弁十一葉軒丸瓦
うしたことから、創建飛鳥寺の段階から我が国の瓦製作には、単なる模倣以外に独自の創意工夫が行われていたと言われている。その背景は解明されていない。あるいは、瓦製作のために招集された須恵器工人の中に独創的な人間がいたのかもしれない。それとも華やかさを好む施主・蘇我馬子の発案だったのかもしれない。

鳥寺建立のために造寺技術者が百済から来朝してから36年後の推古天皇32年(624)9月、朝廷は寺および僧尼の調査を実施した。『日本書紀』が伝えるところによれば、その時点で寺の数は46,僧尼の数は1385人だった。7世紀前半に各地で寺院の造営が本格化すると、飛鳥寺で経験を積んだ造瓦集団が笵と共に各地に移動していったことは十分に想像できる。

史跡高麗寺址
史跡高麗寺址
当の研究から、花組の軒丸瓦を作った造瓦集団は、飛鳥寺に続いて和田廃寺に瓦を供給したことが分かっている。さらに、飛鳥寺の主要伽藍の造営が終わった段階で山背に移動し、高麗寺(こまでら)の軒丸瓦を供給したことも分かっている。高麗寺で出土する瓦は、飛鳥寺に用いられた花組の笵がかなり摩耗した状態で作られている。

方、星組の軒丸瓦を作った集団は、飛鳥寺から豊浦寺若草伽藍木之本廃寺(吉備池廃寺)四天王寺へと移動していったと推測できるという。和田廃寺や山田寺から出土した軒丸瓦にも、星組の系列に属するものがある。

世紀末の飛鳥寺造営のために製作された軒丸瓦は、7世紀中葉の山田寺造営の頃まで、その笵に技術的な改良が加えられて使い続けられた。このことは、世代を超えて技術が受け継がれたことを示している。ところが、640年代に製作された山田寺の軒丸瓦から大きな変化が認められるようになる。すなわち、蓮弁に子葉が重ねられ、中坊の半円球が直立して突出し、外縁が飾られるようになる。また山田寺から初めて重弧文の軒平瓦が出現する。そのため、納谷守幸氏は生前に残された論文「軒丸瓦製作手法の変遷」の中で、”6世紀末の飛鳥寺造営以降を第1期とすれば、640年代の山田寺の造営時に第2の画期が認められる”と記述しておられる。

古代幻想:剣池に咲いた蓮の花

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石川精舎跡に建つ「法明寺」
鳥寺が創建された当時、蘇我馬子は槻曲(つきくま)と石川の両方に邸宅を構えていた。槻曲の家の所在は不明で諸説があるが、石川の家は、現在の石川池のほとりから畝傍東小学校のある丘陵の西にかけての一帯にあったと推定されている。

のあたりは、昔から石川精舎跡といわれていて、現在は畝傍東小学校前の畑の中に「法明寺」と呼ばれる寺がある。橿原市街と見下ろす小高い丘陵の西斜面に位置し、寺の正面の柱には小さな説明板が打ち付けてあって、そこには次のように書かれている。
"石川精舎。今本明寺と称す。敏達天皇十三年、蘇我の馬子、百済より貢するところの仏像を請い受け、己が石川の宅に於いてこれを安置す。仏法の初まりは茲より作れりという。"

西暦588年のある日、蘇我馬子は百済からの朝貢使節3名と、彼らが伴ってきた造寺技術者たちを石川の邸宅に招いて歓迎の宴を催した。朝貢使節とは、恩率(三品官)の首信(すしん)、徳率(四品官)の蓋文(こうもん)、および那率(六品官)の福味身(ふくみしん)の3人である。恩率の首信は前の年も朝貢使節として倭国を訪れている。廃仏派の物部守屋を滅ぼした直後だったので、彼の帰国の際に、馬子は仏教寺院建立のための技術支援を百済の威徳王に要請した。今回の造寺技術者たちの来朝はその要請に応えるものだった。

でも記したが、派遣技術者の顔ぶれは次の通りだった。
寺工: 太良未太(だらみだ)、文賈古子(もんけこし)
鑪盤博士: 将徳(七品官)の白昧淳(はくまいじゅん)
瓦博士: 麻奈文奴(まなもんぬ)、陽貴文(ようくいもん)、凌貴文(りょうくいもん)、昔麻帯彌(しゃくまたいふ)
画工: 白加(びゃくか)
威徳王はさらに、仏塔に納める仏舎利を献上し、合わせて6人の僧侶も同時に派遣してきた。

現在は石川と呼ばれているかっての剣池
現在は石川池と呼ばれているかっての剣池

子と首信は大広間の上手(かみて)に並んで座り、互いに酒を酌み交わしていた。他の招待者たちは二人の前で車座になりながら、次から次へと出される馳走と酒に舌鼓を打っていた。宴が最高潮に達したころ、西日がようやく葛城山にかかりはじめ、広い庭にかがり火が入った。昨年、政敵を武力で葬り去り、新しい大王を擁立してキングメーカーとなった馬子はまだ38歳だが、今や政界の頂点に立ったという自負が全身にみなぎってた。決して大柄ではなかったが、その鋭い眼光は人を圧するものがある。酒が入って幾分血走った目を使節団長の首信に向けて、馬子は造寺技術者たちを伴ってきた首信の労に何回目かの礼を述べた。

の後、首信の杯にあらためて濁り酒をつぎながら、話題を変えるように聞いた。
「時に、首信殿、昨年は造寺技術者派遣の要請とは別に、もう一つお願いの儀がござった。覚えておられるかのう」
「ははは、大臣(おおおみ)殿、尼僧派遣の件でござろうが。ご心配には及びませぬ。すでに我が国王の承諾も得ており、逗留先も決めてあります。帰国の際は、つつがなくお三方を泗沘城にお連れいたします故、どうぞご安心くだされ」
「それをお聞きして、安堵致した。尼僧たちも一日千秋の思いで、留学を待ち望んでおるようであった」

人の尼僧たちとは、4年前に鹿深臣と佐伯連が百済から招来した仏像に奉仕するために、得度させた渡来氏族の娘の善信尼、禪藏尼、恵善尼のことである。彼女たちは高句麗の還俗僧・恵便について得度したが、正式な得度の手順を踏んでいないとして、百済に渡って正式な得度を受け、合わせて仏教を学びたいと馬子に願い出ていた。彼女たちの懇願を昨年来朝した首信に伝えたが、そのときは国王の許可を得て回答しようとのことだった。その許可が得られたというのだ。

子は、首信からの返杯を受けながら、さらに聞いた。
「お国は梁との通好が盛んで、仏教文化を大いに受け入れられて、方々に壮大な寺院を建立しておられると聞いている。その伽藍の屋根は茅葺きや檜皮葺ではなく、瓦というものを葺いているそうな。瓦とはどの様なものか早く見てみたいものだ」
「それなら、御念にはおよびません。幸い、寺工たちがその見本を本日持参しております」
そう言って、首信は瓦博士の麻奈文奴を手招きで呼んだ。

かれて傍に歩み寄った麻奈文奴の耳元に、首信は何事か呟いた。麻奈文奴はいったん部屋の隅にさがると、そこに置かれた包みを抱いて戻り、馬子の眼前で開いた。中から出てきたのは軒丸瓦である。彼は、それを馬子に手渡しながら説明した。
「これは寺の軒先を飾る軒丸瓦という瓦です」
「ほう、ずいぶん重いものだな。それにしても面白い形をしている。乗馬の際に足をかける鐙のようじゃ」
「ご明察。百済では鐙瓦(あぶみかわら)とも呼んでおります」
「で、作り方は?」
「瓦は円形の形をした瓦当とよばれる部分と、丸瓦と呼ばれる半円形の部分からできており、いずれも粘土を木型で成形した後つなぎ合わせております。成形後は天日で乾かし、窯で焼きます」
「なに? 粘土を固めて、窯で焼くとな。それでは、ここに並べてある須恵器の器の作り方と似ておるな」
「はい、その通りです」
「そうであれば、わが配下の氏族の中にも須恵器作りを専門としている工人たちが大勢いる。彼らに作り方を伝授願えれば、技術の習得は早いかもしれないな」

う言いながら、馬子は興味深そうに瓦当をしげしげと見やり、また麻奈文奴に聞いた。
「この円の中に彫り込んであるのは、何かの花びらのようだが、お国の花をかたどったものか?」
「いいえ、これは蓮の花を真上から見下ろした形を図案化したものです。蓮の花はこの国にありましょう」
「なぜ蓮の花なのか? 仏教と何か関係があるのか?」
「はい、釈迦が生まれた天竺では、蓮は極楽浄土を象徴する神聖な花として扱われているようです。そのため、釈尊が蓮の花すなわち蓮華の上で瞑想する絵が描かれたり、蓮華をかたどった台座に仏像を乗せたり、あるいは、厨子の扉の内側に蓮華の彫刻を施したりしています。我が国に仏教を伝えた梁の国でも、蓮華の模様を瓦当にも用いております」

子は瓦当の蓮弁を指でなぞりながら、首をかしげた。
「それにしても、この蓮の花はおかしいな。お国の蓮は花びらが八枚しかないのか?」
「は?」
麻奈文奴は馬子の質問の意味を解しかねたように首を傾けた。
「この近くに剣池(つるぎいけ)という古い池がある。そこでも毎年今頃になると蓮が花を開く。そこで見慣れた花はもう少し花弁が多いような気がしたが・・・」
馬子も自信がないのか、語尾を濁らせた。そして、従僕を呼びつけると、剣池に蓮の花が咲いているようだったら取ってくるように命じた。

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が国の一重咲きの古代蓮は花弁の数が少ない。それでも13枚から18枚の花弁をつける。従者が持ち帰った蓮の花を見て、馬子はやはりと頷いた。
「思った通りだ。この蓮でも13枚の花びらをつけている。花びらが多い方が、見た目にも華やかなようだ。どうであろう、我が氏寺の軒を飾る瓦には、せめて十枚ほどの花びらをつけた図案にすることはできないか?」
「それは・・・。できないことはありませんが・・・」と、麻奈文奴はためらうように言った。
「せっかく百済から持ってきた瓦当の木型が無駄になります」
「いや、その木型を捨てろというのではない。それはそれで使って貰って、我が寺独自の木枠も用意して貰えば、それでよいのだ」
施主の願いとあれば、断るわけにはいかない。麻奈文奴は不本意ながら馬子の依頼を受けることにした。


れから1367年後の1955年5月、飛鳥盆地に農業用水の導水路を通す計画が持ち上がり、飛鳥寺跡の発掘調査が実施された。一塔三金堂式の伽藍配置だった建物の周囲からは、素弁十葉の蓮弁をもった軒丸瓦が数多く出土した。その背景には、上記のような経緯があったのかもしれない。

談として、上記の古代幻想のヒントになった出来事を説明しておこう。『日本書紀』は皇極天皇3年(644)の6月、すなわち大化改新の発端となる乙巳の変(いっしのへん)のちょうど一年前に、剣池で一本の茎から二つの花を咲かせた珍しい蓮が見つかったことを記している。

時繁栄の絶頂期にあった蘇我本宗家の蝦夷(えみし)は、
「これは、蘇我臣が栄えるという目出度い前兆だ」
と勝手に考えて、金泥で蓮の花を描かせ、法興寺(飛鳥寺)の丈六の仏に献上したという。皮肉なもので、それから一年後、蘇我蝦夷・入鹿親子は中大兄皇子や中臣鎌足らが起こしたクーデターによって滅ぼされた。

池は、蘇我馬子の邸宅があった石川とは眼と鼻の先にある。上記の『日本書紀』の記述から推し量ると、剣池は蓮池でもあった訳だ。馬子は存命中に剣池に咲く蓮の花を見ていたにちがいない。そこで、百済の瓦博士が見本として持ってきた瓦当の文様に違和感を感じた馬子は、蘇我家の氏寺の軒を飾るのはもっと華やかな瓦当を希望したかもしれないと、勝手に想像してみた。


[参考&引用文献]
・納谷守幸氏遺構「軒丸瓦政策手法の変遷」(「飛鳥文化財論攷 納谷守幸氏追悼論文集」2005 納谷守幸論文集刊行会 所収)
・亀田修一著「日韓古代瓦の研究」(吉川弘文館)


2009/10/15作成 by pancho_de_ohsei return