一塔三金堂という特異な伽藍配置を採用した蘇我馬子
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| 春の飛鳥寺 |
飛鳥寺は好きな寺である。明日香村を訪れたときは必ず立ち寄ることにしている。といって、毎回拝観料を払って飛鳥大仏と対面しているわけではない。大抵は、塔心礎の位置を示す標識近くのベンチに腰を下ろして、しばし時間を過ごすだけである。でも、そのとき筆者の脳裏には我が国最初の本格的仏教寺院の在りし日の姿がありありと描かれている。
そして、毎回抱く疑問は、我が国最初の寺院がなぜ一塔三金堂の伽藍だったのかということだ。本堂の壁には、飛鳥寺の伽藍復元図が掲げられている。そのベースになったのは発掘調査から得られた平面プランである。この図も大抵の関連図書に掲載されている。塔を中心にしてその東・西・北に三金堂を配し、周囲を回廊で囲んだ伽藍配置はまことに特異である。
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| 飛鳥寺の平面プランと本堂に掲げられた復元イメージ |
飛鳥寺建立の施主は蘇我本宗家の当主・蘇我馬子(そがのうまこ)だった。用明天皇2年(587)に政敵・物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼすと、馬子はいよいよ本格的な仏教寺院の建立に踏み切った。『日本書紀』によれば、その翌年の588年、馬子の要請を受けて百済の威徳王は寺院建築に関係する各分野の専門技術者を派遣してきた。通説では、これら技術集団の指導を得て、飛鳥寺は創建されたとされている。
飛鳥寺建立に先立って、いくつかの伽藍配置の平面プランが検討されたはずである。そうした平面プランを提出したのは、おそらく寺工として百済から派遣されて来た太良未太(だらみだ)と文賈古子(もんけこし)だっただろう。彼らは一塔三金堂式の伽藍配置を馬子に推薦したであろうか。筆者の推定では、そうは思えない。
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| 飛鳥寺遠望 |
当寺、百済の王都があった泗沘(しひ)城やその前の王都・熊津城で盛んに建立されていた寺院は、南門・中門・塔・金堂・講堂が南北一直線上に位置している一塔一金堂式伽藍配置だった。百済には、一塔三金堂式伽藍配置の寺は存在しなかった。では、誰が一塔三金堂式の伽藍配置を馬子に提案したか。
そのころ朝鮮半島で一塔三金堂式の伽藍配置を採用して建立された仏教寺院として、清岩里廃寺(金剛寺跡)や上五里廃寺、定陵寺などの名が知られている。これらの古代寺院は百済ではなく、高句麗の王都・平壌に存在した。したがって、一塔三金堂式の伽藍配置を馬子に提案できる者がいたとすれば、それは高句麗から派遣されてきた技術者だったと考えざる得ない。
本格的な仏教寺院を建てるために、蘇我馬子は百済だけではなく高句麗にも技術支援を求めていたと、筆者は推測している。当寺の東アジアの国際情勢を勘案すれば、むしろ高句麗の平原王から倭国の第一人者にのし上がった馬子にさまざまな支援の提案があったと考えた方が、理解しやすい。
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| 飛鳥寺の本堂 |
当寺の朝鮮半島では、高句麗は新羅の勢力拡大の影響を受けていた。それに加えて、大陸では隋が581年に華北を統一し、589年には南の陳を滅ぼして、晋から数えて実に280年ぶりに天下の統一を成し遂げた。しかし、隋帝国の成立は東アジア世界に安定ではなく混乱を招くことになる。特に、隋と直接国境を接する高句麗は、そのことをいち早く予知していたに違いない。隋と対峙しながら、百済や新羅から背面を襲われたら適わない。高句麗の平原王はその危惧を払拭すべく遠交近攻の戦略の一環として我が国との一層緊密な関係を模索してきたと思われる。その具体策の一つが、飛鳥寺造営の支援ではなかったか。
高句麗が我が国の仏教の発展に果たした役割は大きい。たとえば、583年に我が国初の比丘尼を得度した僧・恵便(えべん)は高句麗からの渡来還俗僧である。595年に来朝し、飛鳥寺に住んで聖徳太子の師となった慧慈(えじ)は高句麗の高僧である。602年には僧隆と雲聡が高句麗から来朝し、610年には曇徴(どんちょう)と法定も来朝している。曇徴は五経に詳しく、また彩色・紙墨の製法や碾臼 (ひきうす) を伝えた僧侶として知られている。彼らは本人の意志で来朝したのではない。背後に高句麗のしたたかな外交戦略があった。
さらに、606年には飛鳥寺の丈六の仏像を造るに当たって、高句麗の嬰陽王は金320両を助成し、隋使・裴世清(はいせいせい)が来朝したときこれを送ってきた。我が国の仏教黎明期が、百済一辺倒の影響化にあったと考えるのは間違いである。
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| 飛鳥寺の本尊・飛鳥大仏 |
おそらく588年の時点で、百済と高句麗の寺工から飛鳥寺伽藍配置の平面プランが時を同じくして蘇我馬子に提出されたものと思われる。どちらの案を選ぶかは、施主である馬子の権限である。双方の技術者を自邸に招き何日も何日も議論を繰り返しながら、馬子は最終的に一塔三金堂の伽藍配置を選択したにちがいない。
このプランを選択した理由は、意外と単純な理由だったのではあるまいか。崇仏派の馬子は、廃仏派の物部守屋を前の年に武力で倒した。今や誰はばかることなく、仏教を普及させることができる。そのための本格的仏教寺院の建立である。だが、彼にはもう一つの目的があった。仏教寺院による蘇我本宗家の権勢の誇示である。一塔一金堂式伽藍と一塔三金堂式伽藍とでは、後者がはるかに華やかに見える。馬子が後者を選択するのに何の躊躇もなかったであろう。
かくして、我が国の最初の仏教寺院は一塔三金堂式の伽藍を備えた特異な寺院として誕生した。この伽藍方式はなぜか後続の寺院建立に踏襲されなかった。しかし、飛鳥寺の伽藍配置がベースになってさまざまなバリエーションが考案されていく。難波の四天王寺は一塔三金堂から東西の両金堂を省いた四天王寺式を採用した。法隆寺は東に塔、西に金堂を配置する伽藍を採用し、法起寺は逆に東に金堂、西に塔を配置する伽藍を採用した。
そのため、飛鳥寺の塔を中心に周りに三つの金堂を配する伽藍様式は、飛鳥寺独自のものであり他に類例は全くない・・・と筆者は思いこんでいた。ところが、この伽藍様式を採用した古代寺院が他にも存在したことを最近になって知った。場所は現在の栃木県下野市、古代寺院の名前は下野薬師寺(しもつけやくしじ)である。2005年3月15日に発表された新聞報道によれば、この寺跡で実施されてきた発掘調査の結果、一塔三金堂の伽藍配置であったことが判明したとのことだ。
飛鳥寺の建立からおよそ1世紀遅れて、しかも飛鳥から遠く離れた関東の下毛野国(しもつけぬのくに)に建てられた寺とは、どんな寺院だったのか。いずれ機会があったら訪ねてみたいと思っていた。
国指定史跡・下野薬師寺跡を訪れる
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| JR東北本線の「自治医大」駅 |
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| 「下野薬師寺跡」への案内 |
大正10年(1921)に国の史跡に指定された「下野薬師寺跡」は、現在の栃木県下野市薬師寺にある。アクセス方法を調べてみると、最寄りの駅はJR東北本線の「自治医大」駅で、そこから徒歩で2.5キロとのことだ。筆者の自宅から「自治医大」駅までは、JRの普通列車を乗りついでも1時間半ほどで行ける。
朝からすっきりした青空が広がる絶好の行楽日和に恵まれた本日、思い切って下野薬師寺跡を訪ねて見ることにした。JR東北本線は関東平野を真っ二つに切り裂くように北に向かって延びている。最近の車輌の窓は大きな一枚ガラスを用いているため、外の景色が良く見える。左右の車窓を流れる景色は何処までも広く、近くに山影などはない。列車が「古河」駅を過ぎると、栃木県に入る。稲刈りの終わった平野に、雲一つない空から秋の日差しが燦々と降り注いでいた。
10時35分に下野市の「自治医大」駅に着いた。改札を出て東口の階段を下りると、駅前広場に史跡までの案内図が掲げられていた。自治医大は正式には「自治医科大学」という。1972年に設立された私立大学で、下野市に本部を置く。珍しく地名を用いないJRの駅は、自治医大の付属病院への通院、見舞い客の足として1983年に開業した駅である。
駅の東口一帯は、かっての住宅・都市整備公団が開発したニュータウンが広がり、瀟洒な町並みが続く。案内図に示された道順で進むと、自治医大付属病院の前に出た。秋の日差しを受けた白亜の建物群が眼にもまぶしかった。付属病院前の県道310号を東に進むと、やがて周囲は関東ローム層の黒っぽい土に覆われた田園地帯に変わる。ところどころに小さな森が点在し、いかにも関東平野の奥に来たという印象を受ける。
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| 自治医大付属病院の正面 |
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| 見えてきた下野薬師寺歴史館 |
駅から歩くことおよそ30分で、緩やかな丘陵の上にポツンとそびえる下野薬師寺歴史館が見えてきた。発掘調査で出土した遺品や、復元模型、古文書・絵図などを室内に展示して下野薬師寺の歴史を解説した施設である。薬師寺跡を史跡公園として整備した際に、隣接して建てられた建物で入場は無料だ。寺跡を見学する前に、史跡の概略を知ろうとまず歴史館を見学することにした。
下野薬師寺の歴史を整理すると・・・・
下野薬師寺の創建時期を記した文献資料は残っていない。通説では、この地方を治めていた豪族の下毛野朝臣古麻呂(しもつけぬのあそん・こまろ)によって、当初は氏寺として7世紀の末頃創建されたと考えられている。
古麻呂は天武・持統朝のころ朝廷に出仕し、中央官僚として出世した人物である。藤原不比等からの信任も厚く、大宝元年(701)に制定された大宝律令の編纂に係わったメンバーの一人として記録されている。『続日本紀』によれば、古麻呂は和銅2年(709)、すなわち平城遷都の前の年に式部卿・大将軍・正四位下という地位で亡くなった。現在で言えば、国務大臣クラスの地位にいたことになる。
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| 歴史館に展示されている創建時の瓦 |
下野薬師寺跡は、昭和41年(1966)に発掘調査が開始され、平成18年度(2006)までに37次におよぶ調査が行われてきた。調査で出土した最も古い瓦は、明日香村の川原寺と同系の蓮華文鐙瓦(あぶみかわら、軒丸瓦)や重弧文宇瓦(のきがわら)であることから、7世紀末の創建とする推定は妥当とされている。
平城遷都以後、国を仏教の力で治める「鎮護国家」の確立が推し進められ、中央はもちろん地方でも寺院の整備が行われた。創建者が中央との結びつきが強かった古麻呂だったことから、下野薬師寺は和銅3年(710)頃から国によって大改修が実施されている。天平5年(733)には造寺司が置かれ、改修工事は天平13年(741)頃まで続けられた。この改修工事によって、それまでの氏寺の伽藍が整備され、東国における仏教施策の一翼を担う重要な寺院として位置づけられるようになった。
『続日本紀』は、天平勝宝元年(749)7月13日に全国諸寺の墾田地が制限されたことを伝えている。その中に、法隆寺や四天王寺、新薬師寺、筑紫の観世音寺と並んで、下野薬師寺の名がある。これらの寺院の墾田保有の限度は500町に制限されたとのことだ。すでにその頃には我が国を代表する仏教寺院だったことが伺える。
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| 発掘調査に基づく伽藍配置 |
下野薬師寺が一躍有名になったのは、天平宝字5年(761)に”受戒”の儀式が行える戒壇(かいだん)が置かれて以後のことだろう。奈良時代に仏教が盛んになると、僧としての戒律を守らなかったり、生活苦から税を免れるために勝手に出家し僧になる者が増えてきた。対策に手をやいた朝廷は、正式に僧侶としての資格を与える”受戒”が行える僧を唐から招くことにした。そして、僧侶として認められるためには”受戒”しなければならないとする制度を採用した。
こうして招かれたのが、井上靖の小説「天平の甍」でも知られる鑑真和上である。留学僧の栄叡と普照からの強い来朝要請を受けた鑑真は、五回も渡海に失敗し、六度目の挑戦で天平勝宝5年(753)の暮れにようやく薩摩に漂着した。翌年の1月に平城京に到着した鑑真は、聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任された。その年の4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。これが日本の登壇授戒の嚆矢とされている。
その後、常設の東大寺戒壇院が建立され、天平宝字5年(761)には日本の東西で登壇授戒が可能となるように大宰府観世音寺と下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。これらの三カ所は「三戒壇」と呼ばれ、下野薬師寺は東海道の足柄峠、東山道の碓氷峠より東で僧に戒を授けることができる唯一の寺となった。
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| 歴史館に展示されている復元模型 |
一方で、この寺は別の面も持っている。天平勝宝6年(754)、法隆寺東院の復興に尽力した薬師寺の僧・行信(ぎょうしん)が、人を呪い殺す厭魅(えんみ)の罪で当寺に流されている。神護景雲4(770)には、中央政界で権力をふるった道鏡(どうきょう)が、宇佐八幡神託事件で左遷され、当寺の造寺別当(造寺司の長官)として下向してきた。2年後、道鏡はこの地で没し、庶人の待遇で葬られた。市内の龍興寺の境内に道鏡の墓と伝えられる塚がある。
平安時代に入ると、嘉祥元年(848)年ころ、大火災に見舞われ、伽藍の中心部が焼失した。『続日本後紀』に”体製巍々として、あたかも七大寺のごとし”と記された伽藍の偉容は崩れた。貞観16年(874)ごろ塔は再建されたが、元の場所ではなく、回廊の外の東に移された。一方、平安時代には天台宗などの新興宗教が興り、比叡山などに戒壇をおいて独自に戒を授けるようになり、三戒壇としての下野薬師寺の役目も失われていった。
平安時代末期の寛治6年(1092)には、伽藍が”破壊転倒甚だし」と記されるほど荒廃しており、僧の慶順は寺の復興を東大寺に要請したという。実際にこの寺の復興に寄与したのは、慈猛(じみょう)上人である。戒律復興の運動が大和の西大寺や唐招提寺で高まってきた鎌倉時代の建長4年(1252)ころ、彼は当寺の長老となり戒壇を再興している。南北朝時代の暦応2年(1339)、足利尊氏が戦死者を弔うために全国に安国寺の建立を発願したとき、下野薬師寺は安国寺と改称されたといわれている。
しかし、戦国時代の元亀2年(1571)、小田原の北条氏と結城の田賀谷氏との戦いで、北条氏の兵によって下野薬師寺(安国寺)は焼き払われた。現在はその跡地に安国寺が建っているが、最盛時には三戒壇の一つとされた壮大な伽藍配置の寺が再建されることはなかった。当時の隆盛を語る礎石と古瓦がわずかに残っているだけで、これらが往事を再現する手がかりとなっている。
下野薬師寺歴史館で見た一塔三金堂伽藍配置の復元イメージ
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| 下野薬師寺歴史館の正面 |
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| 下野薬師寺歴史館の内部 |
下野薬師寺歴史館は、下野薬師寺の歴史を紹介する展示施設として平成13年(2001)4月28日に開館した。この種の施設としては、それほど大きい建物ではない。玄関を入ると左手に受付があり、来訪者リストに記帳をすませたら、女子職員が紙コップに入った冷たいお茶をサービスしてくれた。
室内を見渡すと、玄関の正面に寺の復元模型が置かれ、部屋の中央には、出土した土器の陳列棚と回廊の原寸大の模型があった。壁際のガラスケースには出土した瓦その他が展示され、壁にはパネルで寺の歴史などが紹介されている。
下野薬師寺跡を訪れた最大の目的は、一塔三金堂式として紹介されているこの寺の伽藍配置を確認するためだ。したがって、玄関正面に置かれた伽藍の復元模型の前に先ず立った。だが、図書などに紹介されているこの寺の平面イメージと、模型として示された復元イメージでは、ずいぶん様相が異なっている。まず、回廊に囲まれた境内の中央に塔がない。塔の有るべき所に置かれているのは重層の金堂のような建物の模型であり、塔は回廊からかなり離れた東側に建っている。これには驚いた。
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| 伽藍の復元模型(西→東方向に見る) |
たまたま中年男性の館員がいたので、彼に室内を案内して貰いながら説明を受けた。開口一番、「この寺は一塔三金堂式の伽藍だったと聞いてきたけど、ずいぶんイメージが違いますね」と、復元模型の解説を求めると、「そうなんですよね」と、彼もこちらの疑問に頷きながら、次のように説明してくれた。
遺跡の発掘は昭和41年から開始され、すでに平成18年までに37次の調査が実施されている。その結果、すでに板塀で囲われた外部施設の規模は東西約250m、南北約350m、瓦葺きの回廊で囲われた部分の規模は東西約110m、南北約102mだったことが判明している。
最初の頃の調査で、回廊の中心部に位置する建物の基壇が見つかったため、あまり詳しい調査を行わずに金堂跡であると推定されてしまった。しかし、その後の調査で、その遺構は金堂跡ではなく、創建当初の塔跡であると判明したが、復元模型は遺構が金堂と見なされていた頃に作られた当時のものである。そのため、塔跡に重層の金堂が復元されたままになっているという。
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出土した風鐸 (左:東側建物跡より、右:再建塔跡より) |
塔跡から見て、その北東と北西に規模が異なる二つの建物が復元されている。また、塔跡の北側正面には”講堂”と書かれた建物が位置している。しかし、講堂とされる遺構のさらに北側で、ほぼ同じ建物跡が見つかっていて、こちらが講堂または食堂跡ではなかったかと推測されている。そうであれば、講堂とされている建物は金堂である可能性が強くなる。
一方、復元模型では、塔の北東と北西に位置する建物を東側建物、西側建物と呼んでいて、金堂とは断定していない。しかし、東側建物跡から風鐸(ふうたく)が出土している。風鐸は古代寺院の塔と金堂の軒先を飾った飾りである。したがって、この建物が金堂である可能性が強いという。
こうしたことから、一部の専門家は当初の伽藍が一塔三金堂式という異例の配置だったと見ているようだ。だが、考古学的にこれらの伽藍の造営時期が判明している訳ではない。館員の話では、下毛野朝臣古麻呂(しもつけぬのあそん・こまろ)が創建した氏寺は、塔とその正面に金堂があるだけの簡単な伽藍で、周囲の回廊なども無かったのでは、とのことだ。それが、奈良時代の初めに東国における仏教施策の一翼を担う重要な寺院として国家の手で整備されるに従って、伽藍として整備されていった可能性が高い。
仮にこの寺の伽藍配置が一塔三金堂式だったとしても、飛鳥寺とはずいぶんイメージが違う。飛鳥寺の場合は、塔を中心にしてそれを囲むように東と西、および北に金堂が配され、いずれの金堂も正面は塔に向いていた。だが、下野薬師寺の場合は、4つの建物は菱形の頂点にそれぞれ配されているようで、金堂と想定される建物はいずれも南に面している。それに、塔の北東と北西に位置する建物の規模が異なる点が気にかかる。そもそも、当初から一塔三金堂式の伽藍配置で平面プランが構想されたのであれば、建物の規模が異なること自体が不自然である。
いずれにしても、復元模型を前にして館員の説明を受けた後では、下野薬師寺は創建時に一塔三金堂式の伽藍配置を採用していたとは思えなくなった。やはり、一塔三金堂式というは、飛鳥寺だけの特異な伽藍配置ではなかったのだろうか。それよりも、薬師寺を山号としたのであれば、元薬師寺のように二塔一金堂といった伽藍配置をなぜ採用しなかったのか、そちらの方が興味が湧いた。
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| 時代を追って陳列された軒丸瓦と軒平瓦 |
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| 川原式と同じ系譜の創建時の瓦 |
この歴史館の圧巻は、出土した軒丸瓦や軒平瓦、鬼瓦の展示である。上述のように、下野薬師寺は7世紀の末に創建され、幾多の消長を繰り返しながら戦国時代の元亀2年(1571)まで、約9世紀に渡って存続した。その間には何回も伽藍の修復や改築が行われたはずで、時代を映すさまざまな瓦が出土して当然である。
発掘された最も古い型の瓦は、川原寺と同系の蓮華文鐙瓦(あぶみかわら、軒丸瓦)や重弧文宇瓦(のきがわら)である。したがって、川原寺の瓦を製作した工人たちが、大和から下野に派遣されてきて、この地で瓦を焼いたものと推測されている。しかし瓦窯は近くで見つかっていない。おそらく宇都宮市の水道山瓦窯、小山市の乙女不動原瓦窯、あるいは佐野市の三毳山(みかみやま)古窯跡群で製作したものと推測されている。
史跡公園として整備されている国指定史跡・下野薬師寺跡
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| 史跡公園として整備された下野薬師寺跡の入口 |
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| 歴史館の横から見た史跡公園 |
下野薬師寺跡が国の史跡に指定されたのはずいぶん古く、大正10年(1921)3月3日である。現在は、ふるさと歴史の広場として整備が行われていて、誰でも自由に見学できる。歴史館の女子職員にアクセス方法を聞くと、歴史館の横から東に延びる遊歩道を前方の竹藪を目印に進めばすぐです、と教えてくれた。
教えられた通りの道を進むと、すぐに史跡公園の入口についた。入口を入ると、寺の伽藍配置を陶板で表示した史跡総合説明板が左手にあった。その説明板で確認すると、説明板の先に一直線に礎石が置かれているのは西の回廊部分で、その先に見える建物は回廊の一部を復元したもののようだ。そこで、時計の針と同じ方向に史跡を一回りしてみることにした。
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| 寺の西側の回廊跡 |
これまでの発掘調査によって、下野薬師寺の境内の周りには瓦葺きの回廊が巡らされていたことが判明している。回廊は金堂など寺院の中心施設を囲む聖なる空間を構成するもので、その規模は東西約110m、南北約102mにもおよんだ。
現在、寺の西側と北側に位置する回廊の一部が、礎石を並べて復元されている。回廊は瓦の屋根が葺かれていて、僧たちの通路として機能したが、儀式が催されるときは僧たちの座としても使われたという。
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| 安国寺の六角堂 |
下野薬師寺の戒壇跡に建つ安国寺の六角堂は、江戸時代の文化2年(1805)ごろ再建されたと伝えられている。戒壇とは、戒律を受けるための結界が常に整った場所をいう。ここで授戒を受けることで、出家者が正式な僧尼として認められることになる。
「三戒壇」の一つとされた下野薬師寺は、東海道の足柄峠、東山道の碓氷峠より東で僧に戒を授けることができる唯一の寺とされた。
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| 北西の隅で回廊を復元した建物 |
回廊の北西の隅に、当時の技術を忠実に再現して建物が復元されている。礎石の上に建つ朱塗りの柱、白壁にはめ込まれた緑の連子窓、そして屋根に葺かれた灰色の瓦・・・、これらはすべて天平の昔を再現しているようでもある。
回廊の中を歩いて見ると、まるで己自身が経典を手にして、読経しながら必死に経文を暗唱しようと精神を集中させている姿が彷彿と脳裏に浮かんだ。天平の昔も、関東の各地から数多くの受戒希望者が集まってきて、同じように回廊を徘徊したことであろう。
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| 発掘調査後埋め戻された講堂跡 |
北側回廊の先が途中で途絶え、発掘跡が埋め戻されていた。回廊が接続されていた講堂(金堂)が建っていた場所である。いずれ、整備されて、礎石などが置かれることになるのだろう。
さらに、その先にも発掘調査の後に埋め戻された場所がある。伽藍配置のイメージから推察すると、東側建物があった場所であろう。そうだとすると、歴史館に展示されていた風鐸の一つはこの場所から出土したことになる。
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| 再建の塔跡 |
遺跡の東側を走る道路を挟んで畑地の奥に白い砂が置かれた場所がある。再建された塔の跡である。平安時代の嘉祥元年(848)年ごろ、大火災に見舞われ、伽藍の中心にあった創建時の塔が焼失した。それから26年後の貞観16年(874)ごろ再建されたが、なぜか元の場所ではなく回廊の外の東に移されている。
道路と塔跡との中間の畑の中に、幢竿支柱(どうかんしちゅう)跡の説明板が置かれていた。近寄ってみたが、それらしい形跡は分からなかった。
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| 薬師寺八幡宮 |
再建の塔跡の東に鎮守の森があり、そこに誉田別命(ほんだわけのみこと)を主祭神として祀る薬師寺八幡宮が鎮座している。貞観17年(875)に京都の石清水八幡宮の祭神を勧請したとも、下野薬師寺の寺内社として直接宇佐八幡宮から分社されたとも伝えられている。
天喜4年(1056)、源頼義が奥州追討の途中でここに立ち寄って戦勝を祈願したが、その際、後続軍と奥州軍との戦いで社殿が焼失してしまった。現存する本殿と拝殿は、秋田藩三代藩主の佐竹右京大夫の援助で寛文2年(1662)に再建されたものであるという。
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| 現在の安国寺 |
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| 安国寺の境内に置かれた礎石 |
南北朝時代の暦応2年(1339)、足利尊氏が戦死者を弔うために全国に安国寺の建立を発願した。そのとき、下野薬師寺は名を安国寺に改めたという。以後、安国寺として今に至っている。
安国寺の境内に、下野薬師寺伽藍の礎石が置かれている。民家の住人が東塔跡付近から掘り出したものらしいが、いずれの堂塔の礎石かは明らかでない。礎石の中心に円形状のほぞ穴が掘られており、ここに柱根をはめ込んだと推定されている。こうした形式の礎石は白鳳時代に盛行したと言われている。
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