1300年の風雪に耐えてきた天平の仏教寺院・興福寺
■ 奈良文化財研究所(以下、奈文研)は、今年7月中旬から興福寺の南大門跡に約830平米の調査区を設定して、発掘調査を実施してきた。調査は未だ完了したわけではないが、出土した基壇や礎石の抜き取り穴の配置などから、南大門の規模がほぼ明らかになったとして、本日の午前10時半から現地見学会を開いた。頼まれ仕事も一段落したので、午後からブラリと出土遺構の見学に出かけてきた。
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| 興福寺の東金堂と五重塔の前で行われた簡単な説明会 |
■ 言うまでもなく、奈良市登大路(のぼりおおじ)町にある法相宗の大本山・興福寺は、創建時、南都七大寺を代表する寺院の一つだった。奈良・平安時代に栄耀栄華を誇った藤原一門の氏寺であり、鎌倉・室町幕府も大和に守護がおけないほど権勢をほこった寺院である。
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| 現地見学会の現場ー1 |
■ しかし、明治元年(1968)の神仏分離令による廃仏毀釈の嵐は、春日大社と一体で信仰されてきた興福寺を直撃し、全国の諸寺の中でももっとも大きな被害を受けた。子院はすべて廃され、僧侶は春日大社の神職となり、境内の塀は取り壊され、五重塔や三重塔さえ売りに出される始末で、一時は廃寺同然となった。
■ 明治14年(1881)に、行き過ぎた廃仏毀釈の反省から興福寺の再興が許可され、徐々に寺観が整備されて現在に至っている。だが、寺域を区切る塀や南大門を欠き奈良公園の一部となっている姿は、現在でも「信仰の動線」が欠落しているとされている。残念ながら、天平時代の壮大な仏教伽藍を想像することはできない。
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| 現地見学会の現場ー2 |
■ そのため、平成3年(1991)に「興福寺境内整備委員会」が設置され、平成10年(1998)から平成35年(2023)までの26年間を第1期整備計画として中金堂、およびその周囲の整備することになり多くの発掘調査を実施してきた。そして、創建1300年にあたる平成22年(2110)10月には、中金堂の立柱式を行い、平成27年(2015)の完成をめざして計画が進められている。
謎の多い創建興福寺
■ 興福寺の起源は、藤原氏の祖・中臣鎌足(なかとみのかまたり、614 - 669)の夫人だった鏡大王(かがみのおおきみ)が、669年に夫の病気平癒を願って山階(京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)にあるとされている。壬申の乱で勝利した天武天皇が672年に都を近江から飛鳥に戻すと、鎌足の次男・藤原不比等(ふじわらのふひと)は山階寺を藤原京の厩坂に移し、厩坂寺(うまやさかでら)と称した。
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| 厩坂寺跡の伝承地とされる土壇 |
■ 和銅3年(710)、藤原京から平城京への遷都が行われると、不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移し、興福寺と名付けた。そのため、710年が実質的な興福寺の創建年とされている。
■ ところで、厩坂寺を”移して”興福寺と名付けた、とはどういう意味なのだろうか。移転と聞くと、今まであった建物を解体して新都で元の状態に立て直したという印象を受ける。だが、実体は違うようだ。
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| 双塔が並び立つ薬師寺 |
■ 厩坂寺と同様に、飛鳥にあった薬師寺や飛鳥寺、大官大寺(のちの大安寺)などもに平城京に移したとされるが、飛鳥の薬師寺や飛鳥寺の法灯が途絶えたとの話は聞かない。おそらく元の寺と同じ伽藍配置の新しい寺を平城京でも建立して、元の寺と同じ山号を用いたことを”移す”と表現したのだろう。
■ そうであれば、厩坂寺とはどのような伽藍の寺だったのだろうか。厩坂(うまさか)という地名は、現在の橿原市大軽町付近の古い地名である。現在、橿原神宮駅前の「丈六」交差点を渡って東へ50mほど行った付近に、厩坂寺跡の伝承地とされる土壇が残っている。だが、その跡からは古代寺院の伽藍配置を示す遺構などは発見されていない。
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| 四天王寺の境内に並ぶ塔-金堂-講堂 |
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| 左に塔、右に金堂を配置した法隆寺 |
■ 当時の寺院の伽藍配置は、南北方向に南大門、中門、塔、金堂、講堂が一直線上に並ぶ四天王寺式か、法隆寺や法起寺のように塔と金堂を左右に並べる配置が主に採用されていた。したがって、創建興福寺の伽藍配置もいずれかの様式であったと想定されるが、実は興福寺がしっかりした伽藍配置を意識して建立されたかどうかは疑わしい。
■ 興福寺の寺伝によると、中金堂は藤原不比等が和銅3年(710)に着手し同7年(714)に完成したとされる。当時は東金堂も西金堂もなかったから、これが創建興福寺の金堂だったのだろう。復元された興福寺の伽藍配置図から類推すると、創建時は四天王寺式の伽藍配置だったようだ。
■ だが、不思議なことに金堂と中門の間に塔が建てられた形跡がない。そればかりか、後に造営される東金堂や西金堂と同じく塔は中門と中金堂を結ぶ回廊の中ではなく、外に築かれている。当時の仏教界では、仏舎利を納めた仏塔がもっとも重要な建物だったはずなのにである。
■ こうしてみると、創建興福寺は伽藍配置のマスタープランは、どうもあやふやなものだったようだ。そのため、当初は藤原氏の氏寺として建立された私寺だったが、不比等が没した後は国家の手で造営が進められるようなり、空いている土地に次々と伽藍が追加されていく。文献からその順序を拾うと、次のようになる。
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| 全盛期の興福寺の伽藍配置イメージ(*) |
○上記のように、中金堂は、藤原不比等が和銅3年(710)に着手し、同7年(714)に完成
○東金堂は、神亀3年(726)に聖武天皇が叔母元正(げんしょう)太上天皇の病気全快を願って建立
○五重塔は、天平2年(730)に光明皇后が建立
○西金堂は、天平6年(734)の光明皇后が母・橘三千代の1周忌の供養を行なうために建立
○北円堂は、養老5年(721)に元明天皇と元正太上天皇が、藤原不比等の1周忌に建立
○南円堂は、弘仁4年(813)に藤原冬嗣が内麻呂の冥福を願って建立
■ こうして、なんとも不可解な伽藍配置の興福寺ができあがっていった。
過去7回も火事で焼失しながら、元の伽藍を再建し続けてきた興福寺の伝統
■ 仏教寺院にとって南大門は、言うならば”寺の顔”というべき存在だ。東大寺の南大門を思い浮かべて見るがいい。平安時代の応和2年(962)8月に台風で倒壊後、鎌倉時代の正治元年(1199)に復興されたという大仏様と称せられる重層の門は、まことに豪快であり、門内左右に配置された阿形と吽形の金剛力士(仁王)像は、奈良仏師・慶派一門の傑作である。
■ 興福寺の南大門も、室町時代の『春日社寺曼荼羅』には、通路の東西に大きな金剛力士像を安置した豪快な重層の門として描かれている。当然のことがなら、創建時に建てられた寺の顔のはずであり、そのことを確かめたいと見学会に参加した。
■ というのは、奈良時代の創建された興福寺の主要伽藍は、1300年の間に7度も火事で燃えている。平安時代に4回(1046年、1060年、1096年、1180年)、鎌倉時代に2回(1277年、1327年)そして江戸時代に1回(1717年)である。1180年、すなわち治承4年の火事は、平清盛の命を受けた平重衡ら平氏軍が、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした事件である。
■ いずれの時も、南大門も焼け落ちたと考えられており、その都度再建されたようだが、享保2年(1717)で焼失した以後は、再び再建されることはなかった。したがって、今回発掘された遺構は江戸時代のものと思われた。そのことを確認したかった。しかし、予想に反して、再建を繰り返しながらも、創建時のその場所に、創建時の規模で建てられていたという。これは驚きだった。
■ 興味深い話が寺に伝わっている。鎌倉時代、境内に排水用の溝を掘る計画があった。しかし、その計画は却下された。創建者の藤原不比等が造成した土地にはいっさい触れてはいけないという掟が寺に伝わっていたからである。何回も火事で建物が焼失しながら、元の場所に元の形で再建するというのは、興福寺の伝統だったようだ。その伝統が忠実に守られてきたならば、現在の南大門跡も不比等の時代のものと一致する。
見えてきた、興福寺の”寺の顔”とも言うべき南大門の実体
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| 興福寺南大門の遺構平面図(*) |
■ 今回は現地見学会だったが、発掘現場を見学する前に、参加者に対する10分ほどの簡単な説明が中門跡近くで行われた。午後1時からの説明で、ボードに張り出した遺構平面図を前にして、発掘担当者は、今回の発掘調査も境内整備計画の一環として実施されており、今までに次の点が明らかになったことを指摘した。
■ 地覆石やその抜き取り溝から、基壇の規模は東西31.0m、南北16.7m、東南隅の高さ1.4mと推定され、平安時代末から鎌倉時代初めに作られた『興福寺流記』の記述とほぼ一致することが分かった。また、基壇の外装はは少なくとも2度従来の姿を保ちながら改修されていることも判明した。最初の改修は11世紀の平安時代で、康平3年(1060)に被災した門を治暦3年(1067)に再建したとき行われ、二回目は14世紀前半の室町時代で、建治3年(1277)に被災した門を正安2年(1300)に再建したとき行われたと推定される。
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| 層がはっきり分かる基壇の版築 |
■ 基壇本体は、土を一層ずつ突き固める版築(はんちく)工法で築かれ、版築層の厚さは4〜20cmである。基壇の東側は明治時代に大きく削り取られた後、大正9年以降に再び盛土が施されたことが、出土した1銭銅貨から分かっている。
■ 基壇上では、礎石の穴15個が確認された。そのうち6基で、創建時のものらしい礎石が残っていた。礎石が抜かれた穴は瓦の破片や小石で埋め戻されていた。残っていた礎石の表面も、一般に寺院跡で見かけるような台座が彫り込まれた石ではなく、表面が無作為に壊されていた。おそらく基壇上の平面を滑らかにするため人為的に削られたものと思われ、礎石の実際の面は現在より10cmは高かったと想定される。
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| 礎石抜き取り穴 |
創建時のものらしい礎石の表面 |
■ これらの礎石やその抜き取り穴から、南大門の規模は桁行き5間x梁行2間で、東西23.1m(78尺)、南北9.0m(30尺)の規模だったことが分かった。柱間の寸法は、桁行の中央3間が4.8m(16尺)、両端の一間は4.5m(15尺)、梁行は4.5m(15尺)とのことだ。
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| 南に面した階段部分 |
■ 高台にあった南大門の基壇は、現在の三条通りより約5mも高い。その上に建つ重層の門は、当時の三条大路から見上げると圧倒的な高さで迫ったであろう。平城京の人々には、我が世の春を謳歌する藤原一門の権勢の象徴のように受け取られたにちがいない。
■ もう一つ重大な発見があった。金剛力士像の台座を載せる基礎が東西二カ所で見つかった。東側の基礎は近代の削平で半分を残すだけだったが、西側の基礎は完存していた。一辺が2.8mの四角い穴の中に、切石が据え付けられている。これらの切石は、三笠山の山中で産する地獄谷溶結凝灰岩である。据え付け穴の埋め土には炭などが混じっていて、いずれかの火災の後に設置されたものと推測されている。
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| 金剛力士像の台座がを載せる基礎部分 |
■ 興福寺は、平成27年(2015)の完成をめざして来年の10月には中金堂の立柱式を行うことになっている。現在、中金堂前の中門や中門と中金堂を結ぶ回廊の基壇は復元されているが、これらの基壇の上に建物が何時建てられるかは聞いていない。南大門が再建されるとすれば、その後になるだろう。
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