2009/09/13

菟田野(うたの)に中将姫ゆかりの日張山 青蓮寺(ひばりやませいれんじ)を訪ねる

開山堂(本堂) 阿弥陀堂
開山堂(本堂) 阿弥陀堂

■ ようやく日差しも秋めいてきて、行楽にはよい季節になった。昨日の日曜日、いつもアッシー役を引き受けてくれるA君に誘われて、中将姫伝説で知られる日張山青蓮寺(ひばりやませいれんじ、所在:奈良県宇陀市菟田野区宇賀志1439番地)に参拝してきた。宇陀市大宇陀の中心地から東南東へおよそ7.5キロ、標高595mの日張山の中腹に抱かれた尼寺は、澄み切った青空の下でひっそりと静まりかえっていた。


国道166線脇の「青蓮寺」方面への標識
国道166線脇の「青蓮寺」方面への標識
■ 大宇陀の「道の駅」前の三叉路を左折して国道166号線を東に向かって進んでいたAが道路脇で「青蓮寺」方面への標識を見つけて、ハンドルを左に切った。奈良交通の「宇賀志」バス亭の近くである。標識には青蓮寺まで3kmとある。Aが誘ってくれなかったら、ここまでバスで来て、ここから大汗をかきながらトボトボと田舎道を歩かなければならなかった。




宇賀神社
宇賀神社
■ 所々に点在する集落を抜けて1.5キロほど宇賀志川沿いに山奥に入っていくと、やがて右手に神社が見えた。宇賀神社である。現在は天照大神を祭神として祀っているが、もともとは地元の豪族だった兄宇迦斯(えうかし)・弟宇迦斯(おとうかし)を祀っていた。この二人の名は『古事記』に神武東征説話に中にも出てくる。兄弟はこの地で仕掛けを作って神武を殺そうとしたが、弟の裏切りで逆に兄が大伴の連らの祖先の道臣命(みちのおみのみこと)と久米の直らの祖先の大久米命(おおくめのみこと)の二人に斬り殺されてしまう。そのため、神社の裏を流れている小川付近は血原という名がついたという。


宇賀神社の「子もうけ石
宇賀神社の「子もうけ石」
■ 宇賀神社の境内にある手洗い石は、陰陽の形をしていて「子もうけ石」と呼ばれているそうだ。台が陽石、上に乗る鉢石が陰石である。夫婦でこの石を撫でると子宝を授かると伝えられている。実際は、大昔はこのあたりが海であり、噴火により海底の地層が吹き出したもので、貝が化石となって小石のように沢山ついているので、子もうけ石と言われるようになった。




植林された杉の木からの木漏れ日
植林された杉の木からの木漏れ日
■ 宇賀神社の脇から道は二股に分かれ、左側が青蓮寺方面の道である。神社からはまだ1.5kmの道が続く。青蓮寺の手洗い場から先の参道はつづら折りの坂道だが、手洗い場の傍までは車で行けると聞いていた。ところが、集落のはずれから植林された杉林の入口にかかるあたりで、Aはブレーキを踏んだ。急に道幅が狭くなり、おまけに塗装がはげて路面が悪い。万が一下山してくる対向車があったらすれ違うのは難しい。そう判断したAは少し戻って、大型バスの駐車場に車を入れた。そこからは残り0.8キロである。散策するには丁度よい距離だ、とAは先に立って歩き出した。


■ 道の両側に植林された梢から漏れてくる太陽の光が縞模様を描いている。「木漏れ日がきれいだ」と筆者がつぶやくと、Aは「それにしても、山が荒れている。これはひどい」と嘆いた。この付近がいつ造林されたのか知らないが、彼に指摘されるまでもなく、間伐がまともに行われず、十分に育たずに立ち枯れした木々があちこちで目立っている。こうした状況はここだけではない。日本の杉や檜は植林はされたものの、外国の安い輸入建材に押されてその後の手入れはほとんどなされていない。これでは山が荒れて当然だ。最近は、大雨毎に土砂災害がマスコミを賑わす。その原因の一端は、目先だけの利益に目を奪われて山を守らなくなった日本のビジョンの無さにある、というのはAの持論だ。


行く手を横切った蛇
行く手を横切った蛇
■ よく見ると、左手の道路脇の土がずいぶん乱雑に掘り起こされている。人為的な掘削のようには見えない。おそらく猪のせいだよ、と掘り起こされた後を観察しながらAが言った。その彼がふいに立ち止まった。
「おい、足下に気を付けて歩けよ。散乱している杉の小枝の陰に蛇がいる」
彼に注意された方を見ると、杉の小枝の下からかなり大きな蛇がはい出してきて杉の根元に消えていった。それ以後、駐車場に戻るまでに5匹ほど大小の蛇に出くわすことになる。


■ 道の右下は宇賀志川の上流の谷すじにあたる。谷から吹いてくる風がすがすがしさとともに、さわやかなせせらぎの音も運んでくる。近くに滝があるようで、滝の音が堤を打つ音に似ていることから、「鼓ケ滝」と名付けられているそうだ。


青蓮寺の手洗い場
青蓮寺の手洗い場
■ ようやく手洗い場が見えてきた。手前の駐車場に小型車が一台駐車していた。途中で我々を追い抜いていった車である。手洗い場の脇を流れる宇賀志川の源流に無常橋(むじょうばし)がかかっている。その橋をわたると、右手につづら折りの上り坂が続いている。青蓮寺の参道である。





中将姫が詠んだとされる歌の碑
中将姫が詠んだとされる歌の碑
■ 参道の途中に、碑が立っていて、歌が刻まれていた。
“なかなかに山の奥こそすみよけれ 草木は人のさがを言わねば”
中将姫が詠んだ歌だそうだ。少女の頃、継母に虐待されて心を病んだ女性が、尼となってこの山中に草庵を営んだころ、過ぎし日を思いおこして詠んだのかもしれない。




質素な構えの山門
質素な構えの山門
■ やっと青蓮寺の山門にたどり着いた。尼寺らしく、質素な山門である。山門の奥にかなり長い石段が続いていて、その両脇に山桜や紅葉の巨木が枝を伸ばしている。Aは草木に詳しい。これがシャクナゲ、これが矢筈ススキと、問わず語りに教えてくれる。どうやら青蓮寺は花の寺でもあるようだ。それぞれの時期には参拝客も多いのだろう。石段脇に「輪王蓮」の案内板だった。平成6年6月に今上天皇と皇后が当時を訪れた際に土産としてもたらしたものだそうだ。残念ながら水槽の中の蓮はすでに消えてなくなっていた。


謡曲史跡保存会が掲げた案内板
謡曲史跡保存会が掲げた案内板
■ 山門の手前に、”謡曲「雲雀山(ひばりやま)」と青蓮寺”と題する案内板が立っている。謡曲史跡保存会が掲げたもので、世阿弥の謡曲「雲雀山」は中将姫伝説などを根拠に脚色したもののようだ。説明文によれば、中将姫の父・藤原豊成(727〜796)は藤原南家を創設した藤原武智麻呂の子で、藤原一族繁栄の礎を築いた不比等(ふひと)の孫にあたり、横佩(よこはぎ)の右大臣と呼ばれた。その豊成と品沢親王の息女・紫の前との間に生まれたのが中将姫と呼ばれる女性である。誕生は聖武天皇の天平19年(747年)8月18日とされている。

■ 中将姫は本名ではない。本当の名前は伝わっていない。彼女が中将姫と呼ばれるようになった経緯には幾つかの説がある。その一つは、彼女が8歳のとき、孝謙女帝の御前で節句の祝賀が催され、中将姫は見事に琴を弾いて、女帝から褒められ三位中将の位を賜ったためというものである。

■ 彼女は5歳のとき、生みの母の紫の前をなくしており、これが転機となって、彼女の不幸な人生が始まる。 8歳のとき、継母の照夜の前に豊寿丸という男児が生まれた。豊寿丸を溺愛するあまり、継母は中将姫を邪魔者扱いするようになったという。たまたま、その年の春の節句の祝賀では、照夜の前も箏を奏でたが不覚をとってしまった。このため、中将姫に嫉妬し、ますます彼女を憎むようになったと伝えられている。


青蓮寺の庫裡
青蓮寺の庫裡
■ 石段を登り切ると、質素な山門から受ける印象とは裏腹に、眼前に広大な境内が広がっていた。人影のない境内に、秋の日差しが容赦なく降り注いで目にまぶしい。向かって右側に山寺にしては不釣り合いな大きな庫裡があった。庫裡の雨戸が開いており、また玄関先に犬小屋があるところを見ると、どうやら無住の寺ではないらしい。呼び鈴を押すと、しばらくたって庫裡の奥から相当年配の女性が顔をだした。寺の略縁起を所望すると、本堂の中に置いてあるから勝手に上がって持って行きなさい、と無愛想な返事が返ってきた。


当麻寺の蓮池に建つ中将姫の像
当麻寺の蓮池に建つ中将姫の像
■ 中将姫が11歳になったとき、父の豊成は、諸国巡視の旅に出た。一説には、一族の藤原仲麻呂と橘奈良麻呂との乱を、天皇に速やかに報告しなかったとされ、筑紫へ左遷されたと言われている。これを好機として、継母は中将姫に汚名を被せ、家臣の松井嘉藤太夫婦に、菟田野の日張(ひばり)山で姫を殺すように命じた。しかし、日頃から念仏に勤しみ亡き母の供養を怠らない姫の心優しさを知っていた嘉藤太は、中将姫を殺すことができなかった。彼は、照夜の前を欺いて、姫を菟田野の日張山へ連れて行き、そこに隠れ住まわせた。

■ 都に戻った豊成は、照夜の前から中将姫の死を知らされて嘆き悲しんだ。しかし、翌年、たまたま宇陀に狩猟に来て山入りした際に、洞窟で一心に読経するやつれた女性に出合った。初めはお互いに父娘とわからなかったが、そのうち姫が気づき、涙を浮かべ父のふところに飛び込んだと伝えられている。豊成は中将姫を都に連れ戻した。13歳のとき、中将の内侍となり、それから中将姫と呼ばれるようになったとも伝えられている。16歳の時、后妃の勅を賜わった。だが、世上の栄華を望まない姫は、二上山山麓の当麻寺に入って仏の道に仕えることを決心した。

■ 17歳の時、実雅法師によって髪をおろして出家して法如尼と名乗った。出家した姫は、称讃浄土経一千巻を書写して、当麻寺の経蔵に納めた。彼女は、生身の弥陀を拝みたいと日頃から念じていたところ、ある日霊感を得て、「われは長谷観音の化身である。生身の仏を拝みたいならば、百駄の蓮華の茎から繊維をとって曼陀羅を織るがよい」という仏の言葉を聞いた。そこで、近江・大和・河内から蓮の茎を集めて糸をとり、現在の石光寺の庭にあたる辺りに井戸を掘って、あふれ出る水に糸を浸したところ、ただちに五色に染まった。中将姫は3束の藁と2升の油で灯りをつけ、9尺四方の糸繰堂で、一節の竹を軸にして1丈5尺の当麻曼茶羅を織りあげたという。それが、天平宝字7年(763)に中将姫が蓮糸で作ったとされる「蓮糸曼荼羅(古曼荼羅、国宝)」である。


青蓮寺の本堂・開山堂
青蓮寺の本堂・開山堂
■ 中将姫は当麻寺を出て、再びこの地を訪れ、小さな草堂を建てて尼寺とした。それは19歳のときだったとも27歳のときだったとも言われている。29歳の時、生身の阿弥陀如来と二十五菩薩が現れて、仏道に精進を続けた中将法如を生きながら西方浄土へ迎えた。宝亀6年(775)年3月14日のこととされている(戒名 中将法女大比丘尼)。毎年5月14日に当麻寺で行われる「練供養(ねりくよう)会式」では、その様子を再現している。

■ 青蓮寺の本堂は、開山の中将姫を祀る開山堂である。障子の引き戸を開けて中に入ると、さほど広くない内陣の中央に置かれた金色の厨子の中に、黒っぽい座像が置かれている。その厨子の両脇にも開扉されていない小さな厨子が置かれている。寺伝では、中将姫みずからが手彫りで己の影像と嘉藤太夫婦の形像を刻み安置したと伝えている。あるいは嘉藤太夫婦の像が置かれているのかもしれない。

■ しかし、いくら寺の創建者であるとはいえ、生存中に自らの影像を刻んで、本尊として祀ったなどという話は聞いたことがない。おそらく後世に信者の一人が中将姫を偲んで彫刻した木像が本尊として祀られるようになったというのが実情だろう。ちなみに、本尊は中将姫十九歳像であるという。

■ 略縁起によれば、創建依頼1200年以上の星霜を経てきた寺は、幾多の変遷をまぬがれなかったとのことだ。天明4年(1784)に火災にあっている。文化12年(1815)には水害にもあっている。現在の堂宇は弘化4年に(1847)に再建されたものである。それにしては、屋根の葺き替えなども行われており、それほど古さを感じさせない。


青蓮寺の阿弥陀堂
青蓮寺の阿弥陀堂
■ 現在の青蓮寺は浄土宗総本山知恩院に属する寺で、正式な寺名は日張山成就院青蓮寺という。そのため、開山堂の横に小ぶりな阿弥陀堂が立っている。開山堂の正面には、「無常の鐘」と呼ばれている鐘楼がある。

■ 開山堂の階段に腰をおろして山寺の境内を眺めていると、その静けさが心の中までしみ通ってくるようで、まことに豊饒な時間の流れを感じさせてくれる。時折、谷から吹き上げてくる涼風で、梢の先端がゆれる。それはあたかも中将姫にまつわる哀れにもゆかしい物語りを静かに語りかけてくれているようにも見える。

■ 人影のなかった境内に、突然のように物陰から老人が姿を現した。開山堂からは見えないが、阿弥陀堂の奥に、中将姫の命を守った松井嘉藤太春時とその妻・静野の墓がある。老人はその墓の方から現れて、我々を見かけると近寄ってきて、開山堂の階段に腰を降ろした。奈良市内の住人で、定年を機に菟田野区の奥に少しばかり土地を借り別荘を建て家庭菜園をやっていると、問いもしないのに話しかけてきた。畑作りに国道166号線を始終往復しているが、青蓮寺までは今まで足を踏み入れたことがなかったので、本日初めて来てみたという。作物の出来はどうかと聞いてみたが、今年は猪や熊に荒らされてひどい目にあったようだ。


松井嘉藤太夫婦の墓
松井嘉藤太夫婦の墓
■ 彼の話では、漢方薬品メーカー「ツムラ」が発売しているロングセラーの婦人保険薬「中将湯」は、中将姫に関係があるようだ。ツムラの創始者である津村重舎(つむら じゅうしゃ)は、大和国宇陀郡出身である。1893年に中将湯本舗津村順天堂(株式会社ツムラの前身)を創業した。中将姫は当麻寺で修行していた頃、薬草の知識を学び庶民に施していた。津村重舎の母方の実家・藤村家はその昔、逃亡中の中将姫をかくまったことがあり、その御礼に中将姫から薬草の製法を教えられた。その製法が代々伝えられ、家伝の薬「中将湯」になったという。ただし、藤村家と松井嘉藤太とどうかかわるかは不明だ。


無常の鐘
無常の鐘
■ 菟田野地域は古代の狩り場だったところであり、世阿弥の謡曲「雲雀山」によって青蓮寺付近は豊成と中将姫の思わぬ再会がかなった場所とされてきた。そのため、青蓮寺は会いたい人と再会できる寺としても人気があるという。

■ 境内の鐘楼に吊された釣り鐘は「無常の鐘」という。百円の浄財を払えば誰でも一回打つことができるというので、Aが試しに打ってみた。

■ 釣り鐘そのものは鐘楼の大きさに比べてバランスが悪いくらい小さい。それでも、その響きは低く重く、何時までも周囲の空気を振るわせて余韻が留まることをしらない。西洋の教会の鐘とは違って、我が国の仏教寺院の梵鐘はいずれも心の奥深くまで余韻を残し、諸行無常を実感させてくれる。


中将姫お手植えの紅梅
中将姫お手植えの紅梅
■ 帰り際に、境内の隅に梅の古木が枝を茂られているのが目に入った。近づいてみると、中将姫お手植えの紅梅と書かれている。樹齢1200年を超えるとはとても思えないが、古木であることには変わりはない。どのような花をつけるのか見てみたい気もしたが、再びこの地を訪れることができるかどうかは保証の限りではない。








2009/09/14作成 by pancho_de_ohsei
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