南北朝のはじめ南朝方支援のために築かれた山城の三峯城
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| 三峯城跡から谷平野を一望 (撮影 2009/08/10) |
■ 建武4年と言えば、後醍醐天皇の建武新政に背いた足利尊氏(あしかがたかうじ)が、、九州から京に攻め上ってきた翌年にあたる。大覚寺統の後醍醐天皇に対して、尊氏は持明院統の光明天皇を立てて北朝を開いた。そのため、後醍醐天皇は京都を脱出すると吉野に逃れて南朝を開いた。こうして朝廷が南北に分裂し、それが統一されるまで60年を要することになる。
■ 室町時代初期のこうした混乱の時期に、この地に山城が築かれた背景には次のような事情があった。尊氏に対抗して南朝方に味方した新田義貞(にったよしさだ,1301 - 1338)は建武3年(1336)5月、湊川(みなとがわ)の戦いに敗れ比叡山に逃れた。その後。義貞は後醍醐天皇から恒良親王と尊良親王を託され、二親王を伴って比叡山から下山すると北陸道を進み、越前の金ヶ崎城(福井県敦賀市)に入った。北朝方は斯波高経(しばたかつね,1305 - 1367))らを派遣して義貞を追った。そのため、越前を舞台に激しい戦いが繰り広げられるようになった。
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| 巨大寺院勢力を誇った頃の平泉寺推定復元イメージ |
■ 平泉寺は、奈良時代の養老年間に泰澄(たいちょう)大師が開いた白山神社の別当寺として創建された寺だった。中世以降比叡山延暦寺の勢力下に入り、白山信仰の越前側の禅定道の拠点として栄えた。室町時代には、9万石の寺領と48社・36堂・6千坊を数え、政治的・兵力的に黄金時代を迎える巨大寺院勢力である。
■ 三峯城が完成すると、大将が必要ということで平泉寺は新田義貞のもとに使者を出した。そこで義貞は弟の脇屋義助(わきやよしすけ)を三峯城に派遣してきた。脇屋義助は500余騎を率いて城に入った。同様に伊自良次郎左右衛門(いじらじろうざえもん)も300余騎を従えて入城し、また川島の土豪・河島惟頼(かわしまこれより)も入城して、以後、三峯城は南朝方の攻勢の拠点として機能した。
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| 三峯城跡に建てられた脇屋義助顕彰碑 |
■ 新田義貞が戦死しても、義貞の弟の脇屋義助は三峯城から新田軍を指揮して残兵を収容し、体制を立て直すと府中(武生)移り、三峯城は河島惟頼に守備させた。だが、暦応3年(1340)9月、北朝方の三山重行の軍勢によって東の尾根から攻め込まれて落城した。したがって、三峯城は築城からわずか4年で落城した短命の山城だった。その後、戦国大名の朝倉氏が応仁の乱に乗じて越前を平定し一乗谷に居城を築くと、三峯城は成願寺城、槇山城、東大味城とともに一乗谷城を囲む出城として活用した。
■ 天正元年(1573)、朝倉氏の五代目当主・朝倉義景(よしかげ)のとき、一乗谷は織田信長の軍勢に攻められて落城する。このときをもって、一乗谷城を囲んでいた諸城もその機能を終えたようだ。それ以後、三峯に関する史料には軍事拠点としての記録は出てこないとのことである。
■ 筆者は高校時代までを郷里で過ごしたが、すぐ近くの山頂に山城が存在したことなど迂闊にも知らなかった。しかも、中学時代の恩師らの熱心な活動によって、平成3年4月3日付けで市の史跡第30号に指定されたことなど露知らなかった。昨年の10月に帰省した折、そのことを福井市内在住の高校時代の友人Rに話すと、それでは次回こちらに来たとき案内してやろうと約束してくれた。
■ 今月の初め、同窓会に出席するため帰省するとRに連絡を入れると、彼は昨年の約束を覚えていて、さっそく三峯城跡探訪のアッシー役を引き受けてくれた。そして、帰省の折には定宿にしているJR鯖江駅前のビジネスホテルに、同窓会の翌日10時に迎えに来るという。
三峯城跡探訪記■ 朝早くホテルの部屋で目覚めると、天気予報が気になってベッドの横のテレビのスイッチを入れた。ニュースの番組は、台風9号が南の海上を北上しており、今夕から明朝にかけて本州の中部に接近するとの予報をしきりに流している。台風から次々と流れ込む雨雲で、本日は日本全国が雨模様のようだ。東海各地では朝から各地で大雨洪水警報や雷注意報が出されいる。北陸各地も朝の降水確率は60%と高い。どうやら山歩きにはもっとも不向きな一日になりそうだった。
「本日は降られてもよいように、山歩きのスタイルで来た」 と、愉快そうに笑った。台風が近づいていて山歩きは危険ではないのかと、暗に探訪の中止を匂わすと、彼は余計な心配はするなとでも言うように言い放った。 「なあに、本日は業務用の前輪駆動車を持ってきた。ぬかるんだ坂道だって少しの心配はない」 ■ Rの話では、三峯城跡へアクセスする登り道は、県道25号線(福井今立線)が上戸口(かみとのくち)の集落のはずれから隣町の福井市に抜ける戸口トンネルの手前にある。そこから山城跡までは、比高差300mの山道が約4.5キロ続くが、途中の3.7キロ地点にある大イチョウ広場までは車で行くことができる。したがって実際に山道を歩くのは、遊歩道になっている残りの0.8キロだけだという。ただ、車で行ける道も途中から地道に変わるため、雨でぬかるんだ坂道は一般車では無理のようだ。そう判断して、業務用のVANで迎えに来たという。
■ 代わりに応対に出られたのは公民館館長の木戸氏だった。同郷の数年先輩であり、子供の頃はいろいろお世話になった。最初、こちらは気づかなかったが、木戸氏のほうから筆者に気づいていろいろ話しかけてこられた。これから三峯城跡の探訪に出かけることを告げると、保存会作成のパンフ以外に、鯖江市教育委員会が2000年に作成した「三峯墓地跡 平成10年度市内遺跡発掘調査報告書」を譲ってくださった。 ■ 北中山小学校の前を通り過ぎ戸口(とのくち)町に入ると、Rはハンドルを左に切って県道25号線を北に向かった。中戸口町、上戸口町の集落を過ぎて谷の奥深く入っていくと、緩やかなカーブの先に「戸口トンネル」の入口が見えた。その手前でRは車を止めた。道路脇に「三峯城跡登り口」の標識が立ち、右側に県道から逸れて山林に分け入る林道があった。
■ 10時50分、Rは三峯城跡へ続く林道へ車を乗り入れた。杉の植林の中を、簡易舗装された林道が左右に大きなカーブを描きながら高度を上げていく。アスファルトが剥がれた路面に水たまりができ、濡れて散乱する杉の枯葉が轍(わだち)の跡を隠している。途中に、「南越森林組合」と書かれた標識が壊れて道路脇に倒れていた。 ■ この付近は、せっかく植林された杉林も人手が入らず山は荒れている。Rの話では、以前は山林の持ち主は南越森林組合に植林の管理を委託していたが、年間100万近い出費がかさむため、最近では山の手入れは止めてしまっているらしい。山が荒れて当然だ。
■ 林道を10分ほど走ると、舗装道路が地道に変わった。地道の轍に車体を大きく揺らして少し進んだあたりで、Rはアクセルを緩め絶句した。 昭和12年(1937)に廃村となった三峯村跡
■ 山道を登りはじめておよそ15分、道路脇に車が何台も駐車できそうな広場に着いた。前方を見ると、霧の中に大きな案内板が立っていて、その横に「大いちょう広場・三峯城跡遊歩道」の標識があった。どうやら、車が登れるのはここまでらしい。
■ 案内板に近寄ってみると、「幻の三峯村落図」というタイトルで、かってこの地に存在した三峯村の略図が示されていた。それは明治9年に作成された「越前国今立郡三峯村字限地籍絵図部分」を写したものだった。案内板の説明を読んでいたRは、突然大きな声を上げた。
「どのあたりに民家があったのだろうか?」 筆者が聞くと、Rは駐車場の外れあたりまで行き、下側をのぞきながら言った。 「おそらくこの下あたりだろうな。今は植林された杉の木やはびこる雑草でよく分からないが、棚田のような小さな平地がいくつも重なっているようだ」 「ということは、三峯寺があった頃は、それぞれの場所には僧坊も置かれていたのだろうな」 「多分ね。この近くに三峯墓地跡があり、平成10年に発掘調査されている。調査報告によれば、鎌倉時代から戦国時代の末にかけて蔵骨器や150基あまりの五輪塔・宝篋印塔・宝塔の石塔が見つかっていて、真言系山中寺院・三峯寺に関わる中世墓地だったと推測されている。どうやら三峯寺は13世紀末ころに造営が始まり、16世紀後半まで盛んに造墓・造塔が行われたようだ」
「その修行の場が寺の始まりだったようだな。三峯城が築かれる頃、この地にあった三峯寺は平泉寺(へいせんじ)の末寺だったのでは、と一部では推測されているそうだ。そのため、平泉寺の僧兵たちがここから南およそ800mの山頂に山城を築いたとも考えられる」
■ 「ところで、1570年の中頃に三峯寺が廃寺になった後、その跡地に住んで三峯村を作ったのは、山城に勤めた武士や僧兵の生き残りなのだろうか、それとも他の土地からの移住者なのだろうか」
■ このような山中の村では、稲作やまともな畑作もままならなかったことだろう。生業は、山林での仕事の他に、焼き畑、藤持籠(ふじもっこ)作り、油桐(アブラギリ)の果実の採集、炭焼き、木挽きなどだったようだ。「越前国絵図」には三峯村の石高は「3石8斗5升」とあって、きわめて小さい石高だったことが分かる。したがって、戸数も知れている。天明元年(1781)には15家、明治7年(1874)には11戸・58人、明治22年(1889)には9戸・56人だったことが分かっている。しかし、明治36年(1903)頃から村を離れる家が出始め、大正9年(1920)には8戸・41人となり、昭和12年(1937)11月には最後の1戸も村を離れ、ついに廃村となってしまった。
■ その家の構えは、本屋が梁間4間半、こもずり3間半、土蔵は総けやき作りの間口3間、奥行6間の堂々たるもので、明治の頃までは住み込みの奉公人が男7人、女3人いたという。福井藩の記録では、文化13年(1815)8月6日に松平藩主が総勢237人を引き連れて藩内を巡覧したとき、山崎家で小休止し昼の接待を受けたという。当時の三峯村や庄屋山崎家の経済基盤が推し量られるというものだ。そのとき拝領した膳と椀が、山崎家の家宝として伝わっているそうだ。 三峯の大イチョウと子安観音堂跡
■ 駐車場に車を置いて、三峯城跡へ続く遊歩道の方向に歩いていくと、右手に一段低くなった広場がもやの中から浮かび上がった。見下ろすと、広場の端に巨木が枝を張り、根本が円形に列柱で囲われている。それが三峯の大イチョウだった。
■ イチョウの木の根本に「三峯と大銀杏」と題する黒御影の碑が立てられている。それを読んでいたRが声をかけてきた。
■ 福井県も豪雪地帯である。子供の頃は、道路脇の電柱の頭近くまで積雪があり、家の二階から出入りした記憶がある。しかし、その後は暖冬のせいかそれほど豪雪に見舞われることはなかった。それでも昭和38年(1963)と昭和56年(1981)は、今でも語りぐさにされるほど大雪に見舞われた。そうか、ここに聳えていた旧の大イチョウも、母と同じようにあの時の豪雪の犠牲になったのか。そう思うと、急に親近感を感じた。 ■ 昭和55年の暮れから降り出した豪雪は、降り方も激しかったが雪質も重かったようだ。暮れの29日の午後、母は下の屋根の雪降ろしをしているとき、大屋根から崩れ落ちてきた雪の壁に押し流され、そのまま落下して雪に埋もれたまま不帰の人となった。翌日、崩れ落ちた雪塊の中から長靴を履いた母の足が出ているのが発見され、死亡が確認された。連絡を受けて大晦日の朝帰省したが、裏山の杉林を見て驚いた。雪の重みで枝が折れたといった生やさしい光景ではなかった。樹齢20〜30年の若木が生木を裂くの喩えのごとく、ことごとく縦に引き裂かれていた。降り積もった雪が水分を含んで重く、吹き付ける強風に耐えられなかった証拠である。その年の豪雪では、母以外にも近隣で何人かの雪の犠牲者が出た。
■ 大イチョウ広場の一画に子安観音堂の跡を示す碑が立っていた。ここには、現在鯖江市の文化財に指定されている聖観音菩薩立像を安置した観音堂があった。菩薩像は平安時代後期の作で、像高は102.8cm、桂の木の一木造りである。腹部が丸く前に突き出ていることから、安産を守る子安観音として戦国時代から有名だったそうだ。碑が立っている場所は、この子安観音立像を展示する館を建設する予定地である。 800mの遊歩道を経て三峯城跡へ
■ 大イチョウ広場の横から、三峯城跡へ続く全長800mの遊歩道が築かれている。その登り口に立つとかなりの急坂が続いているように見える。しかし、70mほど登るとすぐに峠に達し、傍らに追分地蔵が置かれていた。追分けとは分かれ道、すなわち分岐点のことであり、その分岐点に祀られている地蔵は追分地蔵と呼ばれている。
■ Rは分岐点にたって鹿俣方面を指し示してくれた。しかしその方面に下る山道は雑草に被われてよく分からなかった。追分地蔵の少し先に「左 朝倉城趾 右 三峯城跡」と彫られた道標が建っていた。その傍に、三峯城跡まで730mとの標識があった。 ■ 遊歩道は山の尾根に築かれていて、予想していたより遙かに平坦な道である。三峯城が築かれた当初からこの道は城の大手門に続く道だった。その尾伝いの道をRと語らいながら進んだ。彼も来年は70歳になるので、謡曲の世界から足を洗うそうだ。その最後の締めくくりとして、来年の発表会では、水道橋の能楽堂で「勧進帳」をやるつもりだと、その抱負を語った。
■ やがて、尾根を行く道がSの字状に婉曲している場所にきた。傍らに掲げられた説明板によると、三峯城へ至る第一の関門で「土橋」(どばし)だそうだ。大勢の敵が攻めてきても、道幅が狭いため一度に通れず、しかもS字状になっているため、進入してくる敵に横から矢を射かけられるように築かれたとのことだ。
■ 土橋付近は遊歩道のほぼ中間地点である。土橋を過ぎてさらに南に進むと雑木に隠れるように「大手」と書かれた石碑が見えた。この付近に城の表玄関にあたる大手門が築かれていたようだ。その先で道は急に右に曲がり坂道に変わった。坂道の脇に「虎口」(こぐち)と書かれた碑があった。虎口とは城の出入り口である。しかし、ここの虎口は大手からは見えず「無の虎口」と呼ばれたという。虎口から城跡までは残り100mである。
■ また、郭の下方には腰郭(こしくるわ)と呼ばれる平坦地を築き、その外周に柵を設けて敵の侵入を困難にしている。城の周囲には土塁(どるい)を積み、尾根の傾斜面には堅堀(たてほり)まで設けられた。堅堀とは尾根の斜面に掘られた溝で、敵の横移動を防ぐ防御施設である。 ■ このほかに櫓台<ろうだい>や上述の土橋<どばし>、虎口<こぐち>など遺構が非常によく残っている。そのため、南北朝時代の山城の特徴をよくとどめた貴重な遺跡として市の文化財に指定されてる。
■ 三峯城が完成して大将の派遣を要請された時、新田義貞は弟の脇屋義助(わきやよしすけ)に500余騎の兵士を割いて送り込んだと伝えられている。郭T以外の他の郭の広さを勘案したとしても、500人以上の兵士が常駐できる空間とはとても思えない。それを言うと、Rはしばらく思案するように首を傾けていたが、次のように答えた。
■ おそらく彼の推測は当たっているだろう。ほとんどの兵士は、先ほど見た三峯寺あたりに屯(たむろ)し、敵襲を受けた場合にはこの城に立て篭もって応戦したのであろう。建武5年(1338)閏7月2日、新田義貞が率いる南朝軍と北朝方越前守護・斯波高経(しばたかつね)の軍は、足羽七城の戦い(藤島の戦い)で死闘を展開したが、その時、義貞の弟・脇屋義助は三峯城を拠点として戦っている。
■ 郭Tの中心に、脇屋義助の働きを顕彰するため巨大な碑が建っている。「三峯城跡 脇屋義助御守戦之地」と書かれた高さ約3.5m、幅約1m、重量約2.5トンの巨碑である。題字は福井県出身の海軍大将・加藤寛治の墨書、裏面には郷土史家・上田秋甫(しゅうほ)が文が彫られている。どうやってこの場所まで運んだのか悩んでしまうような顕彰碑だが、パンフによれば、完成したのは昭和15年(1940)9月21日、工事に要した諸経費は当時の金で2500円、動員した人数は延べ980人とのことだ。 ■ 建碑の目的は、自ずから知れている。昭和15年といえば、皇紀2600年、しかも世界大戦に突入する直前にあたる。国民を総動員し、国家に忠誠を尽くす精神教育が求められた時代といってよい。南朝方の兄・新田義貞を支え続けた脇屋義助は、そうした精神教育にまさにうってつけの人材だったのだろう。当時は、地元の北中山青年団はもちろん、小学校の職員や児童もこの建碑作業に参加したという。 ■ 皇紀2600年と言えば、Rや筆者が生まれた年でもある。この顕彰碑も自分たちと同じく70年近い風雪に耐えてきたことになる。碑面の風化した文字を指でなぞりながら、二人は互いに顔を見合わせた。黙して語らぬ石碑に、何とはなしに慕情のような情感を感じ取ったと言いたげだった。
平成10年度に発掘調査された三峯村墓地跡■ 三峯城跡から駐車場に戻ると、Rは少し山道を下り、「三峯墓地跡」の標識のところで車を止めた。標識の先に赤茶けた土壌が剥きだしになっている箇所がある。そこが、発掘調査された墓地跡である。墓地跡は三峯村宅地跡の北側20mほどのところに位置し、一乗谷を背後に控えた標高300mを越える丘陵尾根の南西斜面を造成して、三日月状の平坦面を2段に作り出し、そこに墓地が築かれていた。
■ 鯖江市教育委員会の文化課は、平成10年の8月26日から11月30日にかけて、この墓地跡を発掘調査し、すでに平成12年に詳細な報告書を作成している。報告書によれば、この場所は文字通り「旧三峯村の墓地跡」として三峯村出身者や地元住民の間で認識され、また石塔などが地表面に露出していたため、市内の研究者の間では「中世墓地」として注目されていたとのことだ。
■ 墓地の造営については、大きく3つの画期があったことが判明している。すなわち、T期(13世紀末〜15世紀前半代)、U期(15世紀後半〜16世紀代)、V期(17世紀代以降)で、それぞれの時期に墓地の造成が行われ、現在の景観になったとのことだ。 U期が墓坑・造塔の最盛期であり、一乗谷朝倉氏の動向に関連しているものと考えられている。また、出土遺物からこの墓地の造営主体は寺院と考えられ、文献にみえる「三峯寺」の造営にかかるものと推察されている。すなわち、一乗谷に朝倉氏が戦国大名として君臨していた時期には、三峯寺に住僧がいたようだ。 ■ しかし、ここに埋葬されていたのは僧侶だけではなく、俗人、しかも女子も含まれていた。そのため、僧侶以外の被葬者としては、下級武士や在地領主層、土豪層、有力農民層なども推定される。しかし、近世の墓碑は少なく、三峯村の住民が村を捨てて下山するとき、各家が移設したようだ。 現在、組み合わせ式の五輪塔などの一部が各部を組み合わせて並べられている。だが、墓域の端には、発掘されてそのまま一カ所に集められたままの状態で放置されている石塔もかなりめについた。
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探訪の終わりに
「ついでだから」 と、Rは途中でハンドルを左に切って上戸口の集落の中に押し入った。県道25号線沿いの「戸口滝入口]からおよそ1.3km入ったところに戸口滝がある。聞くところによると、大正14年(1925)に上戸口青年団が企画・造成して開瀑した滝だそうだ。 ■ その後、Rは西袋町にある「うるしの里会館」に車を回した。なにしろ、この地区で製造している越前漆器は、継体天皇の時代から1500年の歴史と伝統をもつ工芸品である。この地区で生まれ育ったRは、こと漆器に関しては専門のバックグランドがある。漆器のできあがる間での複雑な工程を説明して貰いながら、あらためて伝統工芸の奥の深さを思い知らされた。
■ 越前漆器の主な材料は、トチ、ケヤキ、ミズメサクラなどで、丸物木地の工程は、荒木取り、荒挽き、仕上挽きに別れるそうだ。現場を訪れたとき、清水さんは巨体を折り曲げるように手元をのぞき込みながら、木製指輪の面取りをしておられた。見ていても、かなり神経の集中が求められる作業だ。手元にさまざまな形の鉋(かんな)が置かれていた。聞いてみると、用途に応じて清水さん自身が作られるそうだ。 ■ 久方ぶりの再会だったのか、Rと清水さんとの間に世間話の花が咲いた。傍で拝聴しながら、下火になっていく漆器産業になんとか生き残る道はないのかと思案した。 ■ 午後4時、Rは駅前のビジネスホテルまでわざわざ車で送ってくれた。近くの喫茶店で一服して、一日アッシー役をかってくれたRに礼を言い、手みやげを渡す予定でいた。しかし、帰りの列車の時間が迫っていたことを理由に、Rは車を降りずそのまま立ち去った。そのため、せっかく持ってきた手みやげを渡すのを忘れてしまった。Rには悪いことをしたと思っている。 |
(*) 三峯城跡保存会作成「三峯の歴史 伝説・浪漫」からコピー
[参考・引用文献]三峯城跡保存会作成「三峯の歴史 伝説・浪漫」、鯖江市教育委員会作成「三峯墓地跡 平成10年度市内遺跡発掘調査報告書」
2009/08/19作成 by pancho_de_ohsei