橿原日記 平成21年7月30日

火焔土器の国から届いた5000年前のメッセージ

大阪府立弥生文化会館で開催されている夏季特別展

大阪府立弥生文化会館特別展示室
平成21年度夏季特別展が開催されている大阪府立弥生文化会館特別展示室


夏季特別展のチラシ
夏季特別展のチラシ
になるポスターがあった。一ヶ月前から大阪府立弥生文化会館で開催されている夏季特別展のポスターである。バックに並ぶ火焔土器の前面に「火焔土器の国 5000年前のメッセージ」というタイトルの文字が浮き出ている。

者は興味の対象を古代に置いてきたせいか、縄文時代の知識は50年前に受けた中・高校生の歴史教育以上のものではない。火焔土器はその特異な形と文様で、我が国の縄文時代を代表する土器であることは知っていた。だが、火焔土器は、縄文土器共通の特徴である縄文をもたない。あるのは、口縁部や頸部に付けられた奇妙な突起と、器面全体を覆い尽くす渦巻きやS字状、逆U字状の隆線文である。

者は迂闊にも、こうした火焔土器は今から5000年前の縄文時代中期に流行した土器様式であり、その頃の縄文遺跡ならどこからでも出土しているものと思っていた。ところが、実際は新潟県の信濃川中・上流域の限定された場所でしか出土していないのを最近知った。夏季特別展の「火焔土器の国」とは”縄文時代の我が国”という意味ではなく、現在の行政区画で言えば新潟県のことだったのだ。

かも、「火焔土器」とは、昭和11年(1936)12月31の大晦日の日、新潟県長岡市に住む地元の考古学研究家の近藤篤三郎馬高遺跡(うまたかいせき)から掘り出しだ土器に付けられた愛称であるという。つまり、固有名詞であり、その後に発掘された多くの類似の土器は正式には「火焔型土器」と呼ばれている。さらに、火焔型土器には、口縁部の突起の形状によって二種類に区別されている。口縁部に火焔または動物をデフォルメしたと思われる鶏頭冠と呼ばれる突起が付いた「火焔型土器」と、口縁部からスムーズにせり上がる短冊形の突起をもつ「王冠型土器」である。

近藤篤三郎が発掘した「火焔土器」
近藤篤三郎が発掘した「火焔土器」
焔土器を一躍有名にしたのは、岡本太郎画伯であろう。岡本太郎は、東京国立博物館の一室で考古学の遺物として展示されていた火焔土器に偶然出くわして、こう叫んだという。
「なんだ、これは!」
そのプリミティブで生命力あふれた力強い造形美に魂を揺さぶられ、日本文化の源流を看取した岡本太郎は、昭和27年(1952)美術雑誌『みずゑ』に「四次元との対話 − 縄文土器論」を発表して、火焔土器を我が国の原始美術の原点ととらえて絶賛した。その影響は大きかった。建築やデザイン業界に大きな衝撃を与え、今に続く縄文ブームのきっかけとなった。

文土器に日本を発見し熱い眼差しを注ぎ続けた岡本太郎は、縄文人の発するどのようなメッセージを火焔土器を通して感じとっていたのであろうか。そのことがずーっと気になっていた。大阪府立弥生文化博物館が、夏季特別展として関西ではじめて火焔土器をまとめて展示していると知って、本日訪れることにした。場所は和泉市池上町の「池上曽根遺跡」の隣である。以前「池上曽根遺跡」を見学したとき立ち寄ったことがあり、アクセスの仕方は分かっていた。



一堂に展示された火焔式土器が発する圧倒的なパワーに驚かされる

大阪府立弥生文化会館
大阪府立弥生文化会館


生文化博物館は、小さな政府を目指す橋本知事が大阪府の施設の廃止・売却の検討対象とした府立博物館の一つだ。その後のいきさつの詳細は知らないが、最近は余り話題にならないところをみると、落ち着くところへ落ち着いたのだろうか。

火焔型土器を展示した特別展示室
火焔型土器を展示した特別展示室
近藤篤三郎(1907-1945)と火焔土器
近藤篤三郎(1907-1945)と彼が発掘しした火焔土器
成3年(1991)2月、つまりバブル景気の絶頂期の頃、全国で初めて弥生文化に関する総合博物館として開館しただけあって、贅沢な設計がなされている。一階の広々とした休憩室などは、一流ホテルのロビーと見間違えるほど立派な椅子が置かれている。展示室は2階にあり、エレベータを降りると、右手の常設展示室の前から渡り廊下が特別展示室に導いてくれる。

の博物館では、音声ガイドを無料で貸与してくれた。女子職員に装置を首からかけて貰い、操作方法を教わって、特別展示室に向かった。正面中央のお誂え向きの場所で見学者を迎えてくれるのは、単独でガラスケースに安置されたいわゆる「火焔土器」だ。近藤篤三郎氏がまだ29歳の青年だった年の瀬に見つけたこの土器は、穴の中から逆さになって出土したという。鶏頭冠突起(けいとうかんとっき)が大きく上に伸びて、頸部が細く引き締まった見事なプロポーションの土器である。

焔型土器の形状は、直線的に緩く外方に向かって広がる胴部と、胴部から口縁部に至るくびれ部の頸部、それに弧状に膨らみを持つ口縁部から構成されている。こうした形状は火焔型土器でも王冠型土器でも同じである。

火焔型土器(左)王冠型土器(右)
火焔型土器(左)王冠型土器(右)
者の違いは口縁部に取り付く突起の形状にある。火焔型の鶏頭冠(けいとうかん)と呼ばれる突起は、火焔という名称の基になった炎または動物をデフォルメした形をしていて、口縁部に4個向き合って大きく立ち上がるように付けられている。一方、王冠型では、先端の左側に小さな抉(えぐ)り込みが付けられた短冊型突起が4つ、口縁部からスムーズにせり上がっている。そして、いずれの型の土器も、髑ムや髟カの曲線で器面全体を覆い尽くすように飾られていている。縄文土器のくせに、撚糸(よりいと)を土器表面に回転させてつけた縄目文様は施されていない。

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岡本画伯が1956年に
撮影した縄文土器
本太郎画伯が初めて「火焔土器」に接したとき、根源的な美を見て絶句したことは上に述べた。しかし、画伯はその異様な形と文様に燃え立つ炎(ほむら)をイメージしたのではなかった。画伯の秘書であり養女でもあった岡本敏子さんが生前に語ったところでは、岡本画伯は深海をイメージしたそうだ。激しい躍動感を感じさせる突起を持つ土器から、何故画伯は波一つ立たない深海をイメージされたのか。

者なら、流体文のうねりや口縁部のギザギザから、荒れ狂う冬の日本海の波濤をイメージし、頸部や胴部の渦巻状やS字状の髏文から、以前見学した鳴門の渦潮のような激しい潮の流れを想像する。これが天才画家と凡人との感性の差というべきか。おそらく岡本画伯の心眼は、胴部から底部に描かれた逆U字文状の髏文の、その先を見ていたのであろう。髏文の行き着く先は、深く静かな深海の底だったにちがいない。

瓜破町から出土した蓋台付椀形土器
瓜破町から出土した
蓋台付椀形土器
焔型土器は、縄文時代中期に新潟県を中心とする地域で制作された土器で、その最盛期は今から約5000年前である。その造形や文様は縄文人の創造のエネルギーを力強く感じられる。実は、「火焔土器」の隣に、場違いな土器が陳列されていた。火焔土器から3000年後の弥生時代中期に作られた蓋台付椀形(ふただいつきわんがた)土器である。

阪市の瓜破町から出土したこの土器は、緻密な廉状文(れんじょうもん)で飾られており、弥生時代を代表する土器とされている。火焔土器群に混じって、弥生時代の蓋台付椀形土器を陳列したのは、博物館側の粋な計らいのようだ。ダイナミックな縄文土器と緻密な弥生土器が醸し出す造形美の違いを、見学者は己の目で見て比較してみてください、という意図が感じられる。


別展示室に一歩足を踏み入れた途端に、多くの見学者は思わず息をのんで立ち止まったのではなかろうか。見学者が目にするのは、四方の壁面や部屋の中央に陳列された多数の火焔型土器と王冠型土器である。正確に数えたわけではないが、100近くの土器が並べられている。その各々が強烈なエネルギーを発散させているように見えて、つい身構えたくなる。

壁に沿って並べられた土器の数々
壁に沿って並べられた土器の数々

こに展示されているのは、撚糸(よりいと)を土器表面に回転させてつけた縄目文様が特徴的な一般の深鉢型の縄文土器ではない。それぞれの土器の表面は、粘土紐を貼り付けて描いた豊かな髏文で飾られている。それにもまして、口縁部から上に取り付けられた4つの突起はグロテスクと思えるほど奇怪な造形である。だが、そこから、これらの土器作りに携わった縄文人たちの情熱と熱意が、文字通り炎(ほむら)が立ち上がるように伝わってくる。

ガラスケースの中にも多くの土器が・・・
ガラスケースの中にも多くの土器が・・・

った一個の火焔型土器を観察するだけでも、そうした古代人のエネルギーが感じ取ることができるのに、100個近い土器が並べられると、そのエネルギーに圧倒されて、ついタジタジとなってしまう。それでも音声ガイダンスを聞きながら一つ一つの土器を丹念に見ていると、一人の青年が声をかけてきた。

火焔型土器の突起部の展開写真
火焔型土器の突起部の展開写真
これらの火焔型土器の突起は何にみえますか?」
「頂きに付いているギザギザの文様が鶏のトサカに似ていることから、鶏頭冠(けいとうかん)と呼ばれているんじゃないのですか?」
「ええ、でも私には犬の姿に見えて仕方がないんです」
「でも、縄文人は犬を飼っていたんですかね。弥生時代には、長崎県の原の辻遺跡などで解体された痕のあるイヌの骨が発見されていて、犬が食用にも饗されたようですが・・・」
「縄文時代の遺跡からも埋葬された犬が見つかっています。縄文人も犬を飼って狩猟の助けにしていたのでしょう」

火焔型土器と共通する文様の深鉢
火焔型土器と共通する文様の深鉢
じめは、その青年が博物館の説明員だと思った。しかし、二人で土器を見ながら雑談を交わしているうちに、実はフリーターで何もすることがなく、暇潰しに博物館巡りをしているのだと話してくれた。気の弱そうな、人の良さそうな青年だった。博物館の催しに参加して、土器作りや鏡作りに挑戦したこともあるそうだ。

の話によると、火焔型土器の文様や突起の形状は一見したところ複雑怪奇に見えるが、土器本体を形成した後に、表面に粘土紐を貼り付けて独特の文様を仕上げていく工程は、面倒だがそれほど複雑ではないようだ。ただ、粘土紐を表面に貼り付ける際に、折り曲げてC字状の紐にし、それを組合せて渦巻状やS字状の髏文を描くらしい。また逆U字状の文様は、貼り付けた粘土紐を竹ヘラなどで切り裂いて線刻するのだそうだ。鶏頭冠や鋸歯状口縁も、基本的には折り曲げたC字状の粘土紐で容易に組み立てられるようだ。


古期古段階の火焔土器
古期古段階の火焔土器

えてみれば、火焔型・王冠型土器とは不思議な土器である。縄文時代を代表する土器のように扱われながら、発掘される地域が限定されている。東日本の200を超える遺跡でその出土例が確認されているが、典型的な土器は新潟県内にほぼ分布が限られ、特にその最盛期のものは信濃川の上・中流域に集中しているという。

らに、これらの土器が製造された時期も限定されている。縄文時代中期中葉に出現しそして消滅した実に短命な土器である。まるでサクラか花火のように、圧倒的な存在感を示しながら束の間の最盛期を迎え、そして消滅していった土器ということができる。典型的な火焔型・王冠型土器の大部分は、今からおよそ5300年から4800年前までの約500年の間に制作されたとのことだ。

火焔雪炎
国宝・火焔雪炎(ゆきほむら)
焔型・王冠型土器は、決してメジャーな土器ではない。信濃川上・中流域の遺跡から出土する土器の数でいえば、せいぜい全体の10%にすぎないとのことだ。これらの地域でも、出土する土器のほとんどは縄目文様の縄文土器である。火焔型・王冠型土器は基本的には深鉢形土器で、その文様と特異な形状の突起を特徴とするが、単独で発達した形式ではない。

焔土器誕生前夜の縄文時代中期前葉には、信濃川上・中流域で作られる土器は富山・石川方面と共通する新保・新崎様式や、東北地方南部の中期大木(だいき)様式、関東の阿玉台様式・勝坂様式の影響を受けているという。こうした周辺各地の様式の一部を借用したり変形して取り入れることで、縄文時代中期中葉のはじめに、突如として火焔土器を誕生させた。

味深いのは、縄文時代中期後葉を迎えると同時に、火焔土器はその伝統を次世代に引き継ぐことなく忽然と姿を消す。その理由はまだ解明されていない。

のように華麗な装飾が施されようと、深鉢形土器の機能はモノの煮沸にあり、火焔型・王冠型土器も例外ではない。すべての土器に煮沸痕が観察できることは、煮沸用の鉢として用いられたことを証明している。だが、日常的な煮炊き用の鉢ではなく、祭りのための特別な供物の煮炊きに用いられたものと推察されている。

最大と最小の火焔型土器
最大と最小の火焔型土器
焔型・王冠型土器は用途に合わせて作り分けされていたことが分かっている。土器の容量は大まかに4種類程度に分類でき、最小の容量は420ml、最大は24,700ml、平均値では約5,070mlであるという。展示室には、土器の規模を示す土器が展示してあった。一番奥は最大の高さ61cmを測る火焔型土器、その手前にあるのが最大の高さ58cmを測る王冠型土器、そして一番手前にあるのが高さ15.5cmの最小の火焔型土器である。

れらの土器は、それぞれの縄文集落で需要に応じて他の土器と同様に作られたのであろうか。そうではあるまい。信濃川流域のいずれかの縄文集落に火焔土器作りを専業とするプロの制作集団がいて、彼らの制作した土器が信濃川の行き来する舟で上流や下流に運ばれて交易されたにちがいない。

うであれば、土器制作のプロ集団は土器のそれぞれの文様や形状に込められた祈りや願いを理解していたはずだ。残念ながら、5000年の歳月を経た現在となっては、土器の各部に彼らが込めた祈りや願いが、我々には理解できなくなっている。

らは決して芸術作品を意図してこれらの土器を製造し続けたわけではないであろう。ましてや、後の世の我々を意識して、何かのメッセージを土器の形状に込めたとも思えない。そうした土器から何らかのメッセージを聞き取ろうとするのは、我々の驕りかもしれない。我々はその躍動感あふれる造形から、縄文人の野生の息吹を感じ取れればそれでよいのではないか。



2009/07/31作成 by pancho_de_ohsei
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