一堂に展示された火焔式土器が発する圧倒的なパワーに驚かされる
弥生文化博物館は、小さな政府を目指す橋本知事が大阪府の施設の廃止・売却の検討対象とした府立博物館の一つだ。その後のいきさつの詳細は知らないが、最近は余り話題にならないところをみると、落ち着くところへ落ち着いたのだろうか。
この博物館では、音声ガイドを無料で貸与してくれた。女子職員に装置を首からかけて貰い、操作方法を教わって、特別展示室に向かった。正面中央のお誂え向きの場所で見学者を迎えてくれるのは、単独でガラスケースに安置されたいわゆる「火焔土器」だ。近藤篤三郎氏がまだ29歳の青年だった年の瀬に見つけたこの土器は、穴の中から逆さになって出土したという。鶏頭冠突起(けいとうかんとっき)が大きく上に伸びて、頸部が細く引き締まった見事なプロポーションの土器である。 火焔型土器の形状は、直線的に緩く外方に向かって広がる胴部と、胴部から口縁部に至るくびれ部の頸部、それに弧状に膨らみを持つ口縁部から構成されている。こうした形状は火焔型土器でも王冠型土器でも同じである。
筆者なら、流体文のうねりや口縁部のギザギザから、荒れ狂う冬の日本海の波濤をイメージし、頸部や胴部の渦巻状やS字状の髏文から、以前見学した鳴門の渦潮のような激しい潮の流れを想像する。これが天才画家と凡人との感性の差というべきか。おそらく岡本画伯の心眼は、胴部から底部に描かれた逆U字文状の髏文の、その先を見ていたのであろう。髏文の行き着く先は、深く静かな深海の底だったにちがいない。
大阪市の瓜破町から出土したこの土器は、緻密な廉状文(れんじょうもん)で飾られており、弥生時代を代表する土器とされている。火焔土器群に混じって、弥生時代の蓋台付椀形土器を陳列したのは、博物館側の粋な計らいのようだ。ダイナミックな縄文土器と緻密な弥生土器が醸し出す造形美の違いを、見学者は己の目で見て比較してみてください、という意図が感じられる。 特別展示室に一歩足を踏み入れた途端に、多くの見学者は思わず息をのんで立ち止まったのではなかろうか。見学者が目にするのは、四方の壁面や部屋の中央に陳列された多数の火焔型土器と王冠型土器である。正確に数えたわけではないが、100近くの土器が並べられている。その各々が強烈なエネルギーを発散させているように見えて、つい身構えたくなる。
ここに展示されているのは、撚糸(よりいと)を土器表面に回転させてつけた縄目文様が特徴的な一般の深鉢型の縄文土器ではない。それぞれの土器の表面は、粘土紐を貼り付けて描いた豊かな髏文で飾られている。それにもまして、口縁部から上に取り付けられた4つの突起はグロテスクと思えるほど奇怪な造形である。だが、そこから、これらの土器作りに携わった縄文人たちの情熱と熱意が、文字通り炎(ほむら)が立ち上がるように伝わってくる。
たった一個の火焔型土器を観察するだけでも、そうした古代人のエネルギーが感じ取ることができるのに、100個近い土器が並べられると、そのエネルギーに圧倒されて、ついタジタジとなってしまう。それでも音声ガイダンスを聞きながら一つ一つの土器を丹念に見ていると、一人の青年が声をかけてきた。
「頂きに付いているギザギザの文様が鶏のトサカに似ていることから、鶏頭冠(けいとうかん)と呼ばれているんじゃないのですか?」 「ええ、でも私には犬の姿に見えて仕方がないんです」 「でも、縄文人は犬を飼っていたんですかね。弥生時代には、長崎県の原の辻遺跡などで解体された痕のあるイヌの骨が発見されていて、犬が食用にも饗されたようですが・・・」 「縄文時代の遺跡からも埋葬された犬が見つかっています。縄文人も犬を飼って狩猟の助けにしていたのでしょう」
彼の話によると、火焔型土器の文様や突起の形状は一見したところ複雑怪奇に見えるが、土器本体を形成した後に、表面に粘土紐を貼り付けて独特の文様を仕上げていく工程は、面倒だがそれほど複雑ではないようだ。ただ、粘土紐を表面に貼り付ける際に、折り曲げてC字状の紐にし、それを組合せて渦巻状やS字状の髏文を描くらしい。また逆U字状の文様は、貼り付けた粘土紐を竹ヘラなどで切り裂いて線刻するのだそうだ。鶏頭冠や鋸歯状口縁も、基本的には折り曲げたC字状の粘土紐で容易に組み立てられるようだ。
考えてみれば、火焔型・王冠型土器とは不思議な土器である。縄文時代を代表する土器のように扱われながら、発掘される地域が限定されている。東日本の200を超える遺跡でその出土例が確認されているが、典型的な土器は新潟県内にほぼ分布が限られ、特にその最盛期のものは信濃川の上・中流域に集中しているという。 さらに、これらの土器が製造された時期も限定されている。縄文時代中期中葉に出現しそして消滅した実に短命な土器である。まるでサクラか花火のように、圧倒的な存在感を示しながら束の間の最盛期を迎え、そして消滅していった土器ということができる。典型的な火焔型・王冠型土器の大部分は、今からおよそ5300年から4800年前までの約500年の間に制作されたとのことだ。
火焔土器誕生前夜の縄文時代中期前葉には、信濃川上・中流域で作られる土器は富山・石川方面と共通する新保・新崎様式や、東北地方南部の中期大木(だいき)様式、関東の阿玉台様式・勝坂様式の影響を受けているという。こうした周辺各地の様式の一部を借用したり変形して取り入れることで、縄文時代中期中葉のはじめに、突如として火焔土器を誕生させた。 興味深いのは、縄文時代中期後葉を迎えると同時に、火焔土器はその伝統を次世代に引き継ぐことなく忽然と姿を消す。その理由はまだ解明されていない。 どのように華麗な装飾が施されようと、深鉢形土器の機能はモノの煮沸にあり、火焔型・王冠型土器も例外ではない。すべての土器に煮沸痕が観察できることは、煮沸用の鉢として用いられたことを証明している。だが、日常的な煮炊き用の鉢ではなく、祭りのための特別な供物の煮炊きに用いられたものと推察されている。
これらの土器は、それぞれの縄文集落で需要に応じて他の土器と同様に作られたのであろうか。そうではあるまい。信濃川流域のいずれかの縄文集落に火焔土器作りを専業とするプロの制作集団がいて、彼らの制作した土器が信濃川の行き来する舟で上流や下流に運ばれて交易されたにちがいない。 そうであれば、土器制作のプロ集団は土器のそれぞれの文様や形状に込められた祈りや願いを理解していたはずだ。残念ながら、5000年の歳月を経た現在となっては、土器の各部に彼らが込めた祈りや願いが、我々には理解できなくなっている。 彼らは決して芸術作品を意図してこれらの土器を製造し続けたわけではないであろう。ましてや、後の世の我々を意識して、何かのメッセージを土器の形状に込めたとも思えない。そうした土器から何らかのメッセージを聞き取ろうとするのは、我々の驕りかもしれない。我々はその躍動感あふれる造形から、縄文人の野生の息吹を感じ取れればそれでよいのではないか。 |