2009/07/26

修験道の開祖・役行者の母伝説が伝わる捨篠池(すてしのいけ)

蓮取り舟「奥田丸」で蓮を切り取る奥田の蓮取り行事
蓮取り舟「奥田丸」で蓮を切り取る奥田の蓮取り行事(**)

役小角(えんのおづぬ)の略歴とその修験者の母・刀良売(とらめ)

役行者座像
役行者座像
■ 修験道の開祖とされる呪術者・役小角(えんのおづぬ。えんのおづの、えんのおつの、とも読む)は、飛鳥時代を生きた実在の人物である。だが、伝えられる人物像は後の伝説によるところが大きく、その実像はなかなか見えてこない。

■ 『日本霊異記』によれば、役小角は舒明天皇6年(634)に現在の奈良県御所市茅原に生まれ、17歳の時に飛鳥寺に入って孔雀明王の呪法を学んだという。その後、葛城山で山岳修行を行い、熊野や大峰の山々で修行を重ねた末、ついに吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いたとされている。

■ 『続日本紀』によれば、文武天皇3年(699)5月、弟子の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)が、小角は人々を言葉で惑わしていると讒言したため、伊豆の大島へ遠流になった。別の説では、小角が鬼神に命じて大和国の金剛山と葛城山の間に橋をかけようとしたところ、葛城山の神である一言主(ひとことぬし)が人に乗り移って文武天皇に彼の謀反を讒言したため、捕らえられて伊豆島に流された。しかし、彼は昼だけ伊豆におり、夜には富士山に行って修行したという。

■ 大宝元年(701)正月、小角は赦されて大和に帰り、仙人になった。その年の6月、68歳で箕面の天井ヶ岳にて入寂したと言われる。平安時代に山岳信仰の隆盛になると、役小角は「役行者」と通称されるようになった。


刀良売(とらめ)の墓
刀良売(とらめ)の墓
■ 大和高田市在住のハンドル名”葛城川”さんは、筆者の「橿原日記」に良くアクセスしていただくビジターの一人である。その葛城川さんから面白い話を聞いた。お住まいの近くの奥田地区に、役小角の母の刀良売(とらめ)の墓「一つ目蛙」の民話が伝えられている捨篠池(すてしのいけ)があるという。

■ 役小角の出生については、次のような逸話が伝えられている。小角の父・役角麻呂(えんのつのまろ)は刀良売を娶ったが、40歳になっても子供に恵まれないのを嘆き、味鋤高彦根(アヂスキタカヒコネ)神の荒魂(あらたま)を祭神として祀る蓮池に夫婦で参拝する日々を繰り返した。その甲斐あってか、ある日のこと刀良売は天から金色の独鈷(どっこ)が雲に乗り、口の中に入る夢を見て妊娠した。しかし、角麻呂が病死したので、刀良売は寡婦となって父の家に帰った。

■ 翌年の舒明天皇6年(634)正月元旦、刀良売がその蓮池に詣でて安産を祈ると、不思議なことに池の中から法螺の音が聞こえ、陣痛を感じたので、かたわらの井戸水を汲んで口を漱ぎ、もう一度神を拝んで家に帰った。すると、たちまち一子が生まれた。刀良売は夫の角麻呂の一字を取って小角(おづぬ)と名付けた。そのとき口を漱いだ井戸が、善教寺(ぜんきょうじ)の境内にあった古井戸だと言われている。

「一つ目蛙」の民話の舞台・捨篠池
「一つ目蛙」の民話の舞台・捨篠池
■ 「一つ目蛙」の民話とは、次のよな言い伝えをいう。小角が生まれた年の6月、刀良売が蓮池に参詣すると、周囲に五色の露が光り、一本の茎に二つの白い花をつけた蓮が池の中に咲いており、その葉の上に金色に光る蛙がいた。刀良売は1本の篠萱(しのかや)を引き抜いてなにげなく蛙に投げると、蛙の目を貫いた。池の中に逃げた蛙は、もとの土色の蛙となって浮いてきて、五色の露も消えて無くなり、一茎二花の蓮ももとの蓮になってしまった。

■ こうしたことがあったため、蓮池はいつしか捨篠池(すてしのいけ)と呼ばれるようになった。また、蛙の目が篠(しの)で損なわれたため、この池には今も片目の蛙が住んでいるという。その蛙の祟りがあったのか、刀良売はまもなく重病になり、幼い小角を残して死んでしまった。母をなくした役小角は、発心して修験道をひらき、吉野山に分け入り蔵王権現をあがめ、蛙を祭って追善供養したという。

蔵王堂の蛙飛び行事
蔵王堂の蛙飛び行事
■ ちなみに、7月7日の七夕の日には、吉野山金峰山寺の本堂である蔵王堂で蓮華会・蛙飛び行事が行われる。この蛙飛び行事は、蔵王堂で行われる修験道の行事で、正しくは蓮華会と言う。仏の力を軽んじたために蛙に変えられた人間が、蔵王権現の力で人間に戻ることができたという話に基づく行事で、「一つ目蛙」の民話とは関係ない。

■ 蔵王堂での法要の前に仏前に蓮の花が飾られる。その花は、役小角の母の出身地であり、小角も産湯を浸かったと伝えられる捨篠池で、7月7日の朝に刈り取られたものが吉野山まで運ばれる蓮の花である。この日、午前10時から地区の人たちが、蓮取り舟に乗って蓮を切り取る。その蓮の花を迎えに。吉野山から修験者の一行がやってくる。彼らは11時から善教寺(ぜんきょうじ)、福田寺行者堂(ふくでんじぎょうじゃどう)、刀良売の墓の順に詣でて蓮を捧げた後、捨篠池畔の弁天神社で大護摩を焚き、その後に吉野に向かう。

■ これら一連の行事は、「金峯山寺の蓮華会、蔵王堂の蛙飛びと奥田の蓮取り」として平成16年に県の無形文化財に指定された。そのため、かっては村の鎮守の祭り行事に過ぎなかった奥田の蓮取りが、年々賑やかになっているという。蓮取りの行事はすでに終わったが、よろしかったら捨篠池を一度案内しましょうが・・・と、葛城川さんは親切にも提案された。

■ こうした誘いに筆者は弱い。一も二もなく喜んで彼の申し出を受けることにした。本日、橿原へ私用で来られるというので、午前10時半に橿考研付属博物館の駐車場で落ち合い、彼の車で奥田に向かった。



毎年7月7日に行われる奥田の「蓮取り行事」

大和高田市奥田付近の地図
大和高田市奥田付近の地図
■ 葛城川さんは、小柄ながら血色のよい老人パワーの代表のような人物だ。筆者より5つ年配ながら、特殊な医療器具の工作機械を設計・製造する会社を経営して、現在も第一線で活躍しておられる。生まれは大阪市内だが、戦争中に母方の実家がある大和高田市に疎開し、そのままこちらに居着かれたとのことだ。市内を南北に貫通する県道116号線沿いに自宅と工場を構えておられ、「蓮取り行事」が行われる奥田地区は道路を挟んで西側に位置している。

■ 毎年7月7日に吉野山金峰山寺で行われる「蓮華会」に献じられる蓮は、昔も今も奥田地区の蓮池から摘み取ったものである。おそらく金峰山寺の開祖・役小角がこの地で生まれたという伝承がベースになって慣例化されたのだろう。奥田の蓮取りの歴史は、室町時代の記録『当山年中行事条々』にも記されていて、15世紀半ば以前まで遡ることができるという。

■ その奥田地区で年中行事の一つとして行われる「蓮取り行事」の舞台は、いずれも葛城川さんの家から近い。幸い葛城川さんは先日行われた行事の模様を写真で記録しておられた。そこで、まず行事の舞台となった場所を徒歩で案内してもらい、事務所に戻ってパソコンの画面上で当時の様子を話していただくことにした。

 7月7日の朝10時から蓮取りが行われる蓮池

「蓮華会」に献じられる蓮が採取される蓮池
「蓮華会」に献じられる蓮が採取される蓮池
蓮取りに使われる蓮取り舟「奥田丸」
蓮取りに使われる蓮取り舟「奥田丸」
■ まず案内して頂いたのは「奥田はす池公園」である。刀良売が何気なく投げた篠萱(しのかや)が蓮の葉の上にいた蛙の目に当たって一つ目蛙になったという伝承から、以前は捨篠池(すてしのいけ)と呼ばれてきた。その池の周辺が現在は”はす池公園”として整備されている。

■ 蓮池は弁天神社の裏にあるため、弁天池とも呼ばれている。現在はイネ科の植物で萱(かや)の一種である篠萱ではなくて、池の半分に蓮が植えられている。

■ 旧暦の頃は毎年6月9日にこの池の蓮の花を摘んで、蔵王権現と吉野山山内の諸神に献花する蓮華会(れんげえ)という法要が行われてきた。ところが、その蓮が終戦前後の混乱期に全滅してしまった。葛城川さんの子供の頃は、この池で泳ぎ、フナやコイと取ったそうだ。

■ この池に蓮を植え付け、文字通り蓮池として蘇らせたのは比較的新しい。平成7年(1995)から、奥田地区の住人と大和高田市が協力して、この池に蓮を植え付け丹精に育ててきた。平成9年(1997)には、市制五十周年を契機に、明治初期以来途絶えていた蓮取り舟を新調して蓮取り行事を復活させた。蓮取り舟は「奥田丸」と命名されたが、その建造には葛城川さんも協力したとのことだ。蓮取りに使われた舟は、現在ビニールシートに覆われて池の岸に置かれていた。

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今年の蓮取り風景(*)

■ 例年通り今年も7月7日の朝10時から蓮取りの行事が行われたとのことだ。あいにくの空模様で、小雨がぱらつく天候だった。それでも奥田への直行無料バスが運行されたこともあって、県の無形民俗文化財に指定されたこの行事を見学しようと多くの人が訪れた。地域の人々と蓮取りに参加する修験者は「奥田丸」で蓮池に乗り入れ、吉野山金峯山寺の「蓮華会(れんげえ)」に供える清浄な108本の蓮の花を摘み取った。

 蓮取り行事の最後に大護摩供(おおごまく)が行われる弁天神社

蓮池の手前に鎮座する弁天神社 弁天神社の本殿(*)
蓮池の手前に鎮座する弁天神社 弁天神社の本殿(*)

■ はす池公園の隣に、大弁財天を祭神として祀る弁天神社が鎮座している。弁財天は仏教の守護神である天部の1つで、もとはヒンズー教の女神だったが、仏教や神道に取り込まれた。弁財天を祀る神社としては、奈良県吉野郡天川村の天河大弁財天社が有名だ。

ご神体の大弁財天
ご神体の大弁財天
■ この神社の創祀は明らかでないが、奥田一円の氏神として市杵島姫命を祀っていたとおもわれる。だが、それ以前は、蓮池をご神体として祀っていたのではなかったか。後述の善教寺(ぜんきょうじ)に伝わる『善教寺略縁起』によれば、役小角の母・刀良売が子宝を授かろうと参詣したのは、味鋤高彦根(アヂスキタカヒコネ)神の荒魂(あらたま)を祭神として祀る捨篠池だったとされている。

■ 現在、神社の本殿に安置されているのは、舟形の後背をもつ極彩色の木造の弁財天である。箱形の台座の裏に「弁財天女 延宝第八天カノエサル 九月下旬作す 阿弥陀之末 大仏師吉田民部親□(保?)」と墨書名があり、延宝8年(1680)9月下旬に奉祭されたことが分かる。奉安したのは当時この地を治めていた中□(?)氏とする資料が残っている。

奉納されて古くなった額
奉納されて古くなった額
■ 拝殿右側には天井から下ろされた大絵馬が無造作に置かれていた。長年の風雪に晒されて図柄も消えかかっているが、舟を浮かべて蓮を切り金峰山寺に供する絵が描かれている。いつ頃奉納されたものか気になって、葛城川さんが調べてみたが、分からないという(以前は、明治12年の奉納と識別できたようだ)。蓮取り行事が無形民俗文化財に指定されたのであれば、こうしたものも復元してしっかり保存すべきであろう。

■ 実は、蓮取り行事のハイライトはこの弁天神社の境内で執り行われるに大護摩供(おおごまく)である。当日の朝は、蓮池で切り取られた蓮の花を迎えるため大勢の修験者たちが吉野からやってくる。彼らは11時に善教寺に集合すると、切り取られた蓮の花を入れた桶を先頭に、そこから行列を作って福田寺(ふくでんじ、行者堂ともいう)と刀良売の墓に参拝して蓮を捧げ、最後に蓮池を周りを回って弁天神社にやってくる。そして、この神社にも蓮を献じ、12時から古式にのっとって採燈大護摩供を行なう。13時ごろには、蔵王道の「蓮華会蛙飛び」に参加して蓮を献じるため、修験者と村人たちは108本の蓮の花を持って吉野山に向かう。以上が、蓮取り行事のシナリオである。

弁天神社の境内で行われる大護摩供(*) 大護摩供で雄壮な法螺の音を響かせる行者たち(*)
弁天神社の境内で行われる大護摩供(*) 大護摩供で雄壮な法螺の音を響かせる行者たち(*)

■ 古くは、この地で蓮取りのときに「延年」が行われたという。延年とは僧侶や稚児によって演じられた舞楽や散楽、猿楽、白拍子、小歌などの日本芸能のいう。おそらく、今以上に賑やかな行事だったのだろう。

 役小角が創建した捨篠院の旧跡に建つ善教寺(ぜんきょうじ)

興井山善教寺の山門
興井山善教寺の山門
本堂の前に集合した修験者たち
本堂の前に集合した修験者たち(*)
■ 奥田の集落の中にある善教寺は、興井山という山号の浄土真宗本願寺派の寺である。この寺に伝わる『善教寺略縁起』によれば、白鳳3年(674)に役小角が創建した捨篠院の旧跡に建つ寺であり、本堂前の右側には小角の産湯に浸かった井戸の跡もあったとのことである。

■ 現在の本堂は文化15年(1806)2月に再建されたものだが、屋根が古くなったため平成7年(1995)に葺き替えが行われた。そのせいか、梅雨空の雲間からこぼれる日差しを浴びて屋根瓦が美しい。7月7日の午前11時、吉野山からやってきた修験者たちはその本堂の前で整列すると、蓮の桶を担っての行列を開始する。

■ 善教寺に向かう道すがら、葛城川さんから奥田という集落の名前を由来を教えて頂いた。『日本書紀』には景行天皇の57年、諸国に命じて田部と屯倉を作らせたとあるが、『善教寺略縁起』によると、そのとき当地に初めて興田部(こうだべ)の屯倉が置かれ、村名を興田里(こうだのさと)と言った。その興田が訛って奥田(おくだ)になったとのことだ。別の説もある。興田を”おきだ”と読んで、それが奥田”おくだ”に訛ったというものである。

善教寺を出発する修験者の列(*)
善教寺を出発する修験者の列(*)

 役小角の誕生地、刀良売の住地と伝えられる福田寺行者堂(ふくでんじぎょうじゃどう)

福田寺行者堂の門 法螺を吹き蓮を献じる修験者
福田寺行者堂の門 法螺を吹き蓮を献じる修験者(*)

■ 善教寺を出発した修験者たちが先ず向かうのは、役小角の誕生地とも刀良売の住まいがあった所とも伝えられる福田寺行者堂である。善教寺とは目と鼻の距離にある。一見しただけでは、普通の民家だと思って通りすぎてしまうほど、周りの雰囲気に溶け込んでいる寺だ。

境内の蓮池に祀られている竜神
境内の蓮池に祀られている竜神
■ 山門を入ると、右手に民家風の堂があり、その奥に小さな蓮池があった。その中央に竜神を祀る小さな祠が、蓮の葉に埋もれるように置かれていた。

■ 本堂の扉は閉まっていたが、ここには役小角の母の涅槃像が安置されていると聞いていたので、無理を言って拝観させて貰うことにした。堂内に入ると正面に前鬼と後鬼を従えた役小角の像が祀られており、向かってその右側に刀良売の涅槃像があった。

前鬼と後鬼を従えた役行者像 小角の母・刀良売の涅槃像
前鬼と後鬼を従えた役小角の像 小角の母・刀良売の涅槃像

■ すぐ近くで、刀良売の寝像を拝観させて貰った。二上山をバックに、右手で肘をついて寝像の形をしているが、目はパッチリ開き、唇は赤く染め、口は開いて、まるで参拝者をジロジロ眺め回しているようでもある。釈迦の涅槃像に比べると、いかにも人間味が感じられる像だった。

 民家の路地の奥に立つ刀良売の墓

風に揺れる早苗を見ながら刀良売の墓に向かう修験者の列
風に揺れる早苗を見ながら刀良売の墓に向かう修験者の列(*)

■ 福田寺行者堂を出た後、集落の中の細い道を北に向かった。7日の七夕の日に修験者の一行が刀良売の墓に向かった道である。道の両側には、古く落ち着いた旧家が並んで閑静な集落を思わせた。葛城川さんに言わせれば、この辺りも過疎化が進んでいるらしい。その主な理由は狭い生活道路にあるようだ。車社会に適応した若者は、車もすれ違うことができない集落での生活を敬遠するようだ。

■ 刀良売の墓は行者堂から少し離れたところにある。集落の外れまでくると、かなり株の太さを増した早苗を揺らしながら風が水田を渡っていた。修験者たちも同じ光景を目にしながら刀良売の墓に向かったにちがいない。

民家の奥にある刀良売の墓 刀良売の墓に蓮を献花
民家の奥にある刀良売の墓 刀良売の墓に蓮を献花

■ 刀良売の墓は、以前は周囲を水田に囲まれた見通しの良い場所にあった。五輪塔の墓の前にたてば、水田の彼方に二上山の秀麗な姿を見ることができた。現在でも、その状態は変わらないが、周辺に工場や民家が立って、墓は路地の奥まったところに位置していた。

■ 7日の当日は、狭い路地を修験者の一行で埋め尽くされたであろう。彼らの吹く法螺の雄壮な音色は風に乗って遠くまで流れていったにちがいない。

 蓮池の縁を巡って弁天神社へ

神社の反対側から見た蓮池
神社の反対側から見た蓮池

■ 刀良売の墓からの戻りも、葛城川さんは修験者たちの一行が通った道順通りに、蓮池の周りを回って弁天神社まで戻った。神社の反対側から見る蓮池はきれいに区画されていたが、蓮取りで蓮の花が 切り取られてしまったのか、それともすでに蓮の時期を過ぎたのか、あまり多くの花は見かけなかった。

蓮のかごを先頭に蓮池の縁を巡る
蓮を入れた桶を先頭に蓮池の縁を巡る(*)
大護摩供の準備が整えられた弁天神社の境内
大護摩供の準備が整えられた弁天神社の境内(*)
■ 7日の日には、神社の境内にしめ縄が張られ、その中央に杉の枝が山積みされていた。その前で修験者の一行は、古式の乗っ取って大護摩を焚いたとのことだ。

■ このような伝統的な行事が行われるのを前もって知っていれば、もう少し早く橿原に戻ってくるのだった。それを言うと、来年がありますよと、葛城川さんは答えた。大和高田市は来年の平城遷都1300年を記念して、さまざまなイベントを考えているようで、その中には、奥田の蓮取り行事を見学し、蓮華と一緒に吉野山を訪れるバスツアーもあるそうだ。



 謝辞

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■ 奥田の蓮取り行事に関係した箇所を一通り案内して頂いて、葛城川さんの工場に戻った。その事務所で昼食をごちそうになった後、ご自分で設計された工作機械の苦労話などいろんな話を聞かせていただいた。根っからの技術屋さんなのか、非常に几帳面なお人とお見受けした。 驚いたことに、晴れた日には工場の屋上から、東の山の端に朝日が昇る瞬間と夕日が西の山の端に沈む瞬間を几帳面にデジカメで撮影しパソコンに取り込んでおられる。

■ そうした定点観測の10年近いデータの集積が葛城川さんのパソコンには記録されている。したがって、太陽が畝傍山の山頂から昇るのは何月何日で、太陽が二上山の雄岳と雌岳の間に沈むのは何月何日かなど、暦なしでも日付が分かると言われる。

■ 何のためにそんなことをされているのですか、と問うてみた。単なる趣味で、他に目的はないとのことだ。強いて言えば、この工場が建っている付近には、むかし浄土宗の大日堂という寺があった、そのせいかな、と笑っておられた。

■ 葛城川さんは、7月7日に行われた「蓮取り行事」の様子を一眼レフのデジカメを使って、静止画と動画で几帳面に記録されていた。パソコンの画面上でその一つ一つを丁寧に説明いただいたので、まるで自分自身がその現場に居合わせたような錯覚を覚えた。

■ 本日の橿原日記作成に当たって、葛城川さんからそれらの写真の掲載を快く承諾いただいた。おかげさまで、7月7日の行事には直接参加はしなかったが、当日の様子をビジターの皆さんにある程度伝えることができるような気がする。これもひとえに葛城川さんの大きな度量の賜物であり、この場を借りてお礼を述べさせていただきます。葛城川さん、どうも有り難うございました。


(*) 葛城川さん提供スナップ
(**)大和高田市歴史文化振興委員会作成パンフより


2009/07/28作成 by pancho_de_ohsei return