毎年7月7日に行われる奥田の「蓮取り行事」
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| 大和高田市奥田付近の地図 |
■ 葛城川さんは、小柄ながら血色のよい老人パワーの代表のような人物だ。筆者より5つ年配ながら、特殊な医療器具の工作機械を設計・製造する会社を経営して、現在も第一線で活躍しておられる。生まれは大阪市内だが、戦争中に母方の実家がある大和高田市に疎開し、そのままこちらに居着かれたとのことだ。市内を南北に貫通する県道116号線沿いに自宅と工場を構えておられ、「蓮取り行事」が行われる奥田地区は道路を挟んで西側に位置している。
■ 毎年7月7日に吉野山金峰山寺で行われる「蓮華会」に献じられる蓮は、昔も今も奥田地区の蓮池から摘み取ったものである。おそらく金峰山寺の開祖・役小角がこの地で生まれたという伝承がベースになって慣例化されたのだろう。奥田の蓮取りの歴史は、室町時代の記録『当山年中行事条々』にも記されていて、15世紀半ば以前まで遡ることができるという。
■ その奥田地区で年中行事の一つとして行われる「蓮取り行事」の舞台は、いずれも葛城川さんの家から近い。幸い葛城川さんは先日行われた行事の模様を写真で記録しておられた。そこで、まず行事の舞台となった場所を徒歩で案内してもらい、事務所に戻ってパソコンの画面上で当時の様子を話していただくことにした。
7月7日の朝10時から蓮取りが行われる蓮池
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| 「蓮華会」に献じられる蓮が採取される蓮池 |
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| 蓮取りに使われる蓮取り舟「奥田丸」 |
■ まず案内して頂いたのは「奥田はす池公園」である。刀良売が何気なく投げた篠萱(しのかや)が蓮の葉の上にいた蛙の目に当たって一つ目蛙になったという伝承から、以前は捨篠池(すてしのいけ)と呼ばれてきた。その池の周辺が現在は”はす池公園”として整備されている。
■ 蓮池は弁天神社の裏にあるため、弁天池とも呼ばれている。現在はイネ科の植物で萱(かや)の一種である篠萱ではなくて、池の半分に蓮が植えられている。
■ 旧暦の頃は毎年6月9日にこの池の蓮の花を摘んで、蔵王権現と吉野山山内の諸神に献花する蓮華会(れんげえ)という法要が行われてきた。ところが、その蓮が終戦前後の混乱期に全滅してしまった。葛城川さんの子供の頃は、この池で泳ぎ、フナやコイと取ったそうだ。
■ この池に蓮を植え付け、文字通り蓮池として蘇らせたのは比較的新しい。平成7年(1995)から、奥田地区の住人と大和高田市が協力して、この池に蓮を植え付け丹精に育ててきた。平成9年(1997)には、市制五十周年を契機に、明治初期以来途絶えていた蓮取り舟を新調して蓮取り行事を復活させた。蓮取り舟は「奥田丸」と命名されたが、その建造には葛城川さんも協力したとのことだ。蓮取りに使われた舟は、現在ビニールシートに覆われて池の岸に置かれていた。
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| 今年の蓮取り風景(*) |
■ 例年通り今年も7月7日の朝10時から蓮取りの行事が行われたとのことだ。あいにくの空模様で、小雨がぱらつく天候だった。それでも奥田への直行無料バスが運行されたこともあって、県の無形民俗文化財に指定されたこの行事を見学しようと多くの人が訪れた。地域の人々と蓮取りに参加する修験者は「奥田丸」で蓮池に乗り入れ、吉野山金峯山寺の「蓮華会(れんげえ)」に供える清浄な108本の蓮の花を摘み取った。
蓮取り行事の最後に大護摩供が行われる弁天神社
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| 蓮池の手前に鎮座する弁天神社 |
弁天神社の本殿(*) |
■ はす池公園の隣に、大弁財天を祭神として祀る弁天神社が鎮座している。弁財天は仏教の守護神である天部の1つで、もとはヒンズー教の女神だったが、仏教や神道に取り込まれた。弁財天を祀る神社としては、奈良県吉野郡天川村の天河大弁財天社が有名だ。
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| ご神体の大弁財天 |
■ この神社の創祀は明らかでないが、奥田一円の氏神として市杵島姫命を祀っていたとおもわれる。だが、それ以前は、蓮池をご神体として祀っていたのではなかったか。後述の善教寺(ぜんきょうじ)に伝わる『善教寺略縁起』によれば、役小角の母・刀良売が子宝を授かろうと参詣したのは、味鋤高彦根(アヂスキタカヒコネ)神の荒魂(あらたま)を祭神として祀る捨篠池だったとされている。
■ 現在、神社の本殿に安置されているのは、舟形の後背をもつ極彩色の木造の弁財天である。箱形の台座の裏に「弁財天女 延宝第八天カノエサル 九月下旬作す 阿弥陀之末 大仏師吉田民部親□(保?)」と墨書名があり、延宝8年(1680)9月下旬に奉祭されたことが分かる。奉安したのは当時この地を治めていた中□(?)氏とする資料が残っている。
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| 奉納されて古くなった額 |
■ 拝殿右側には天井から下ろされた大絵馬が無造作に置かれていた。長年の風雪に晒されて図柄も消えかかっているが、舟を浮かべて蓮を切り金峰山寺に供する絵が描かれている。いつ頃奉納されたものか気になって、葛城川さんが調べてみたが、分からないという(以前は、明治12年の奉納と識別できたようだ)。蓮取り行事が無形民俗文化財に指定されたのであれば、こうしたものも復元してしっかり保存すべきであろう。
■ 実は、蓮取り行事のハイライトはこの弁天神社の境内で執り行われるに大護摩供(である。当日の朝は、蓮池で切り取られた蓮の花を迎えるため大勢の修験者たちが吉野からやってくる。彼らは11時に善教寺に集合すると、切り取られた蓮の花を入れた桶を先頭に、そこから行列を作って福田寺(ふくでんじ、行者堂ともいう)と刀良売の墓に参拝して蓮を捧げ、最後に蓮池を周りを回って弁天神社にやってくる。そして、この神社にも蓮を献じ、12時から古式にのっとって採燈大護摩供を行なう。13時ごろには、蔵王道の「蓮華会蛙飛び」に参加して蓮を献じるため、修験者と村人たちは108本の蓮の花を持って吉野山に向かう。以上が、蓮取り行事のシナリオである。
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| 弁天神社の境内で行われる大護摩供(*) |
大護摩供で雄壮な法螺の音を響かせる行者たち(*) |
■ 古くは、この地で蓮取りのときに「延年」が行われたという。延年とは僧侶や稚児によって演じられた舞楽や散楽、猿楽、白拍子、小歌などの日本芸能のいう。おそらく、今以上に賑やかな行事だったのだろう。
役小角が創建した捨篠院の旧跡に建つ善教寺(
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| 興井山善教寺の山門 |
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| 本堂の前に集合した修験者たち(*) |
■ 奥田の集落の中にある善教寺は、興井山という山号の浄土真宗本願寺派の寺である。この寺に伝わる『善教寺略縁起』によれば、白鳳3年(674)に役小角が創建した捨篠院の旧跡に建つ寺であり、本堂前の右側には小角の産湯に浸かった井戸の跡もあったとのことである。
■ 現在の本堂は文化15年(1806)2月に再建されたものだが、屋根が古くなったため平成7年(1995)に葺き替えが行われた。そのせいか、梅雨空の雲間からこぼれる日差しを浴びて屋根瓦が美しい。7月7日の午前11時、吉野山からやってきた修験者たちはその本堂の前で整列すると、蓮の桶を担っての行列を開始する。
■ 善教寺に向かう道すがら、葛城川さんから奥田という集落の名前を由来を教えて頂いた。『日本書紀』には景行天皇の57年、諸国に命じて田部と屯倉を作らせたとあるが、『善教寺略縁起』によると、そのとき当地に初めて興田部(こうだべ)の屯倉が置かれ、村名を興田里(こうだのさと)と言った。その興田が訛って奥田(おくだ)になったとのことだ。別の説もある。興田を”おきだ”と読んで、それが奥田”おくだ”に訛ったというものである。
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| 善教寺を出発する修験者の列(*) |
役小角の誕生地、刀良売の住地と伝えられる福田寺行者堂(
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| 福田寺行者堂の門 |
法螺を吹き蓮を献じる修験者(*) |
■ 善教寺を出発した修験者たちが先ず向かうのは、役小角の誕生地とも刀良売の住まいがあった所とも伝えられる福田寺行者堂である。善教寺とは目と鼻の距離にある。一見しただけでは、普通の民家だと思って通りすぎてしまうほど、周りの雰囲気に溶け込んでいる寺だ。
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| 境内の蓮池に祀られている竜神 |
■ 山門を入ると、右手に民家風の堂があり、その奥に小さな蓮池があった。その中央に竜神を祀る小さな祠が、蓮の葉に埋もれるように置かれていた。
■ 本堂の扉は閉まっていたが、ここには役小角の母の涅槃像が安置されていると聞いていたので、無理を言って拝観させて貰うことにした。堂内に入ると正面に前鬼と後鬼を従えた役小角の像が祀られており、向かってその右側に刀良売の涅槃像があった。
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| 前鬼と後鬼を従えた役小角の像 |
小角の母・刀良売の涅槃像 |
■ すぐ近くで、刀良売の寝像を拝観させて貰った。二上山をバックに、右手で肘をついて寝像の形をしているが、目はパッチリ開き、唇は赤く染め、口は開いて、まるで参拝者をジロジロ眺め回しているようでもある。釈迦の涅槃像に比べると、いかにも人間味が感じられる像だった。
民家の路地の奥に立つ刀良売の墓
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| 風に揺れる早苗を見ながら刀良売の墓に向かう修験者の列(*) |
■ 福田寺行者堂を出た後、集落の中の細い道を北に向かった。7日の七夕の日に修験者の一行が刀良売の墓に向かった道である。道の両側には、古く落ち着いた旧家が並んで閑静な集落を思わせた。葛城川さんに言わせれば、この辺りも過疎化が進んでいるらしい。その主な理由は狭い生活道路にあるようだ。車社会に適応した若者は、車もすれ違うことができない集落での生活を敬遠するようだ。
■ 刀良売の墓は行者堂から少し離れたところにある。集落の外れまでくると、かなり株の太さを増した早苗を揺らしながら風が水田を渡っていた。修験者たちも同じ光景を目にしながら刀良売の墓に向かったにちがいない。
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| 民家の奥にある刀良売の墓 |
刀良売の墓に蓮を献花 |
■ 刀良売の墓は、以前は周囲を水田に囲まれた見通しの良い場所にあった。五輪塔の墓の前にたてば、水田の彼方に二上山の秀麗な姿を見ることができた。現在でも、その状態は変わらないが、周辺に工場や民家が立って、墓は路地の奥まったところに位置していた。
■ 7日の当日は、狭い路地を修験者の一行で埋め尽くされたであろう。彼らの吹く法螺の雄壮な音色は風に乗って遠くまで流れていったにちがいない。
蓮池の縁を巡って弁天神社へ
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| 神社の反対側から見た蓮池 |
■ 刀良売の墓からの戻りも、葛城川さんは修験者たちの一行が通った道順通りに、蓮池の周りを回って弁天神社まで戻った。神社の反対側から見る蓮池はきれいに区画されていたが、蓮取りで蓮の花が
切り取られてしまったのか、それともすでに蓮の時期を過ぎたのか、あまり多くの花は見かけなかった。
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| 蓮を入れた桶を先頭に蓮池の縁を巡る(*) |
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| 大護摩供の準備が整えられた弁天神社の境内(*) |
■ 7日の日には、神社の境内にしめ縄が張られ、その中央に杉の枝が山積みされていた。その前で修験者の一行は、古式の乗っ取って大護摩を焚いたとのことだ。
■ このような伝統的な行事が行われるのを前もって知っていれば、もう少し早く橿原に戻ってくるのだった。それを言うと、来年がありますよと、葛城川さんは答えた。大和高田市は来年の平城遷都1300年を記念して、さまざまなイベントを考えているようで、その中には、奥田の蓮取り行事を見学し、蓮華と一緒に吉野山を訪れるバスツアーもあるそうだ。
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