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2009/07/25
石神遺跡には迎賓館以前に仏教寺院があった?
第21次発掘調査の現地説明会以後に明らかになった事実
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| 未知の古代寺遺構の出土を伝える産経新聞 |
去る7月23日の産経新聞は"奇妙な”考古学ニュースを社会面に掲載した。明日香村の石神(いしがみ)遺跡は、女帝の斉明天皇の時代(在位655 - 661)、外国使節をもてなす迎賓館として造営された施設跡として知られている。その石神遺跡で、7世紀前半の創建に関わる"未知の古代寺”の遺構が出土していたことが、奈良文化財研究所(=奈文研)の調査で判明したというのだ。
他のメディアではこの報道はなかった。産経新聞独自の取材によるものだろうが、この記事に接した多くの考古学ファンは戸惑いを感じたはずだ。奈文研は長い間この遺跡の発掘を継続して実施してきており、昨年度でその回数は21次にも達した。この第21次発掘調査では、遺跡の東限を区画する東門跡が検出され、今年の2月14日に現地説明会が開かれたことは、記憶に新しい。
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| 石神遺跡の第21次発掘調査区 |
その日は明日香村の二箇所で現地説明会が開催され、多くの考古学ファンば説明会に参加した。県立橿原考古学研究所(=橿考研)は、飛鳥京跡で飛鳥浄御原宮の北限を確認する第161次発掘調査を昨年秋から実施してきて、この日の午前中から現地説明会を開いていた。奈文研は、午後の1時半から今にも水滴が落ちてきそうな怪しげな空模様の下で、第21次調査の現地説明会を開催した(詳細は2月14日付け橿原日記参照)。
奈文研は、瓦葺きの東門と思われる建物跡基壇を発見した、と説明会の2日前に記者発表した。その基壇の周囲には、斉明朝のものと見られる長さ16m、幅1〜1.5m、深さ20cmの溝が巡らされ、そこから多数の瓦片が出土したためだ。しかし、奇妙なことに、建物の軒先に飾る瓦は見つかっていない。そこで、東門は棟の周囲だけ瓦葺きにし、後は檜皮(ひわだ)葺きにしていたと、奈文研は推定したようだ。
飛鳥時代の初期の建物で、瓦葺き建物は仏教寺院しかなく、天皇の王宮すらその例外ではなかった。皇極天皇の宮は、屋根が板葺きだったため”飛鳥板蓋宮”と呼ばれたことはよく知られている。彼女が重祚(ちょうそ)して斉明天皇として即位した655年、小墾田に瓦葺きの宮を建てようとして頓挫している。宮殿に瓦が使われるのは694年の藤原宮が最初とされている。そのため、寺院以外で瓦葺き建物跡が見つかったことは貴重であると、奈文研は今回の発見を位置づけた。
新聞報道でそのことを知ったとき、後世の数寄屋風の建物ならいざ知らず、棟の周囲だけ瓦葺きで、その他は檜皮葺きの奇妙な屋根をもつ建物が古代に存在したのだろうか、と素朴な疑問を感じた。それは多くの考古学ファンも同じだっただろう。荒れ模様の天気予報が出ていたにもかかわらず、多くの見学者が現地を訪れた。
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| 溝に散乱する瓦の破片 |
確かに、東門跡と推定された遺構の周辺に築かれた南北16mの排水溝には、無数の瓦片が散乱していた。出土遺物を展示したテントでも、この溝から取り出した瓦片がいくつか並べられていた。これらの遺物を見る限り、付近にあった建物の屋根に瓦が葺かれていたと見なして当然である。
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| 展示されていた瓦片 |
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| 最初の整地が行われた7世紀前半(A1期)の遺構 |
だが、奈文研は現地説明会を開いた時点では、これらの瓦片を精査していなかった。説明会の後に瓦片を一つ一つ取り上げて、その様式を調査したところ、意外なことがわかった。今回出土した瓦には軒丸瓦の丸瓦部分と、丸瓦、平瓦が含まれており、それらの制作技法の特徴から奥山廃寺で見つかり「奥山廃寺式軒丸瓦」と呼ばれている瓦に合致することが判明したというのだ。
奥山廃寺とは、明日香村奥山にある奥山久米寺の境内に残る古代寺院遺跡であり、一般には「奥山久米寺跡」の名で知られている。しかし、現在の奥山久米寺という名は江戸時代初期までしか遡ることができず、考古学上では寺院跡を「奥山廃寺」の仮称で呼んでいる。実はこの奥山廃寺は謎の寺である。古代の文献上にはこの寺院に関する記述は一切なく、誰がいつ頃建立されたまったく不明だった。
奥山廃寺のベールが剥がされたのは、昭和48年(1973)以降になってからである。奈文研は平成8年(1996)まで数次にわたる発掘調査を行った。その結果、奥山廃寺は塔、金堂、講堂が南北一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置を採用した寺院だったことが判明した。
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| 奥山廃寺の塔跡に建つ十三重塔 |
また、堂宇に葺かれた軒丸瓦が、飛鳥寺の「星組」と呼ばれる形式に似ており、飛鳥寺や豊浦寺の瓦に次いで古く、620年から630年ころに焼かれた瓦であることも明らかになった。そのため、この幻の寺の創建は、7世紀の前半と推定されるようになった。現在、奥山廃寺の塔の跡には、塔の礎石に囲まれて鎌倉時代後期の十三重石塔がそびえている。
その奥山廃寺の軒丸瓦と同じものが、石神遺跡の第21次調査地からも出土した。ということは、瓦が葺かれていた建物も620〜630年頃に建てられたことになり、当然のことながら斉明朝の迎賓館の東門跡と見なすことはできなくなる。そのため、奈文研は斉明天皇の時代の迎賓館の東門跡と発表した遺構を、”仏教関連施設と推定される瓦葺き建物”と変更した。聞きようによっては、まことに奥歯に物がはさまった苦しい表現である。
実は奥山廃寺式軒丸瓦は以前から石神遺跡で出土していた
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| 男女が抱き合う「石人像」 |
須弥山をかたどった「須弥山石」 |
斉明朝の迎賓館の庭には、男女が抱き合う姿の「石人像」や、仏教で世界の中心にそびえているという山をかたどった「須弥山石」などの噴水施設が置かれていたという。これらの遺物は明治35年(1902)と翌年に田んぼの中から掘り出された。そのレプリカが現在、飛鳥資料館の庭に展示されている。昭和11年(1936)になって、石田茂作博士が出土地点を調査し、石組み溝や石敷き遺構を発見した。それが石神遺跡発掘の端緒であり、博士はその付近に『日本書紀』の斉明紀にみえる饗宴施設があったのではないかと推定された。
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| 石神遺跡の迎賓館施設復元イメージ |
石神遺跡の本格的な発掘調査は昭和56年(1981)まで待たなければならない。その年、奈文研は第1次の調査を開始し、それ以来昨年度の第21次調査まで発掘調査を毎年のように実施してきた。第21次調査をもってこの遺跡の学術調査は一旦終了したそうだが、その最後の調査で寺院跡と思われる瓦葺きの建物が見つかったことになる。
考えてみれば、これは不自然なことだ。斉明朝の迎賓館に先立って、この地に仏教寺院と思われる建物が存在したのなら、過去の調査でも寺院の遺構や遺物が発見されていてしかるべきではないのか? それとも、今回の瓦葺き遺構の出土地点が、寺院施設の西の端にあたり、他の施設はまだ調査されていない石神遺跡の東側で発掘されるのを待っているのだろうか?
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| 橿考研 2008年度発掘調査速報展の図録 |
現在、橿考研は恒例となった速報展「大和を掘る」を附属博物館で開催している。昨年度に奈良県の各地で行われた発掘調査から選りすぐった遺跡の調査内容を解説し、あわせて出土品を展示する催しである。この催しに連動して、発掘担当者による遺跡発掘調査の報告会が土曜講座として研究所の講堂で毎週開かれる。
本日の土曜日は、三箇所の遺跡の発掘調査の報告会が予定されており、その中の一つが奈文研の青木敬氏の石神遺跡調査報告だった。何か新しい話が聞けるかと期待しながら報告会に参加した。
青木氏の報告によると、第21次調査地は7世紀前半の620〜630年頃最初の整地が行われ、瓦葺き建物が造営されたようだ。しかし、7世紀前半から中頃に饗宴施設として整備するために、瓦葺き建物を取り壊し、調査区の西側を通る南北塀が築かれ、その塀に取り付く建物群が営まれた。そして、7世紀後半になると、調査区一帯が再度整地され、溝で区切られた区画の中に数棟の掘立柱建物が建てられたとのことだ。
瓦葺き建物の性格については、産経新聞の記事以上のことは言及されなかった。そこで、報告会の後、第21調査区以外の場所で今まで瓦が出土した事例はないのか青木氏に直接聞いてみた。石神遺跡の最下層に仏教寺院あるいはそれに類する施設があったのなら、他の場所で瓦片の出土があってもおかしくない。青木氏の口からは、予想した返事が返ってきた。実は、他の箇所での瓦の出土例は実際にあったが、石神遺跡の建物はすべて掘立柱建物で瓦葺きのはずはないから、何の瓦か不明であり公表して来なかったとのことだ。
気になって、その出土地点を調べてみた。すると意外な事実が判明した。石神遺跡から瓦が出土することは、これまでの調査からも知られていた。特に1983年に実施した第3次調査区と翌年実施した第4次調査区では、総数64点がまとまって出土しており、その大半は「奥山廃寺式」の軒丸瓦だった。
その後も、少しずつではあるがこの型式の軒丸瓦は出土しており、種別不明のものも含めれば出土点数は78点に達するとのことだ(出典:奈良文化財研究所紀要No.2004所収の飛鳥藤原宮跡発掘調査部花谷浩著「石神遺跡の瓦」)。
こうした事実は公表されてこなかったため、一般にはあまり知られていない。第3次調査区はその東側で飛鳥寺寺域に近く、南で水落遺跡に接する場所だが、ここでは、水落施設との境界施設の南側や溝からた奥山廃寺式軒丸瓦が見つかっている。第4次調査区は第3次調査区の北に位置するが、ここでは、7世紀後半の総柱建物の基壇を覆う黄色粘土層から奥山廃寺式軒丸瓦が出土している。公表されなかったこうした事実は何を物語るのだろうか。
幻の古代寺院が実在した可能性
推古天皇が在位36年で崩御したのは628年だから、奥山廃寺式軒丸瓦が作られた620年代は推古天皇の時代であると言って良い。593年に豊浦宮(とゆらのみや)で即位した推古女帝が新宮として小墾田宮(おはりだのみや)を造営しここに居を移したのは603年10月とされている。それから崩御するまでの25年間、彼女は我が国最初の女帝として小墾田宮で君臨した。その宮は、以前は明日香村豊浦に「古宮」という小字名があることから、その付近に所在したと考えられてきた、
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| 第21次調査地の現在(2008/07/27撮影) 前方の小山は雷丘 |
しかし、昭和62年(1987)に明日香村雷(いかずち)近辺の「雷丘東方遺跡」で「小治田」と墨書された土器破片が見つかったことで、こちらが有力な候補地として注目されるようになっている。その「雷丘東方遺跡」は、かっての阿倍山田道を西に進み雷丘に突き当たる交差点の南側で、付近には数軒の民家が建ち並んでいる。「雷丘東方遺跡」は小墾田宮の一画ではなかったかと、筆者は考えている。そうであれば、小墾田宮は石神遺跡に隣接していたことになり、ひょっとすると石神遺跡の最下層は小治田宮の一部だったかもしれない。
我が国最初の本格的仏教寺院である飛鳥寺の建立が開始されたのは崇峻天皇3年、すなわち西暦588年とされている。それから36年後の推古天皇32年(624)9月に実施した寺および僧尼の調査によれば、寺の数は46,僧尼の数は1385人だったと『日本書紀』は伝えている。当時が仏教導入の黎明期であったことを考えれば、ものすごい普及率と言えよう。当時の仏教は氏族仏教だった。有力氏族はそれまでの巨大な族長墓に代わって、一族の権威の象徴として仏教寺院の建立に奔走したのであろう。
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| 飛鳥時代初期の「星組」軒丸瓦 |
したがって、文献資料に記録されていない寺院が幾つあっても不思議ではない。げんに奥山廃寺もその一つである。発掘調査によって、この寺の金堂の規模は山田寺を上回り、川原寺中金堂に匹敵する第一級クラスの寺院だったことが分かっている。それにもかかわらず、誰が何時建てた寺院なのか不明である。
奥山廃寺のように、石神遺跡が存在する地域にも、迎賓館の施設が築かれる以前に○○廃寺が実在したかもしれない。もっとも、後の平城京や平安京のように、仏教黎明期に飛鳥寺に隣接して別の寺院が存在したと想定するのはいささか勇気がいる。だが、推古女帝の念持仏を祀った小さな瓦葺きのお堂ぐらいはあったのでは・・・と想像するのは許されるであろう。
なにはともあれ、過去の発掘調査で付近から相当数の瓦が出土していながら、その公表を避けてきた奈文研の姿勢には、いささか疑問を感じる。飛鳥時代の掘立柱建物は瓦葺きに非ずという先入観がそうさせたのであろうか。いずれにしても、発掘成果について今頃にになって苦しい釈明を余儀なくされるようであるなら、独立行政法人国立文化財機構の信頼が揺らぐというのものだ。
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