纒向古墳群の中の小古墳を経て箸中支群へ
後で整備員に聞いたところでは、今回の参加者は230人を超えたそうだ。この種の史跡巡りとしては、異常な数の多さだ。案内者は今年4月に博物館に配属されたばかりの青年である。簡単な自己紹介の後、彼を先頭に長蛇の列が集落の中の路地や田園のあぜ道を渡り歩くことになる。 @ 一辺40mの方墳と推定される狐塚古墳
JR桜井線の線路は、三輪駅の北で大~神社の参道を横切っている。10時25分、線路をまたいですぐに左折すると、集落の中の道を北に向かう。この付近は、桜井市の茅原(ちはら)地区である。集落のはずれを歩きながら、東を見れば、三輪山が身近に見える。西を見れば、はるか彼方に二上山が曇り空の下にかすんでいる。春分の日や秋分の日、古代、この付近に住んだ人たちは三輪山の山頂から上る朝日を見、夕方には二上山の彼方に沈む夕日を見て季節の節目を知ったはずだ。 最初に訪れたのは、茅原の字・狐塚に築かれた狐塚古墳。三輪駅から徒歩5分ほどの、JR桜井線の線路脇に位置する古墳で、周囲の地形から一辺が40mの方墳と推定されている。遠目には、大きく削られた丘の上の柿の木が見えるだけで、これが古墳だとはちょっと気づかない。アクセスするには田の畦道しかない。一列縦隊の見学者の列が、水田を渡る風に吹かれながら畦を踏んで古墳へむかった。
この古墳は、1956年に発掘調査が行われ、その結果、玄室の奥壁に並行して凝灰岩の組合せ式石棺が1基、中央と入り口に2基分の破片が見つかっている。さらに、羨道部分からも25cmほどの鉄釘が6本出土したので、木棺が置かれていたと考えられている。横穴式石室は追葬を前提とした墓だが、4基も埋葬されていたのは珍しい。盗掘の被害を受けており、副葬品として残っていたのは須恵器と鉄刀だけだった。
用明天皇元年(586)5月、穴穂部皇子は炊屋(かしきや)姫(敏達天皇の皇后、後の推古天皇)を犯さんと欲して、敏達天皇の殯宮(もがりのみや)に押し入ろうとした。三輪逆は兵を集め宮門を閉じて穴穂部皇子の侵入を拒んだため、皇子の逆鱗に触れた。皇子は物部守屋とともに兵を率いて逆を襲い射殺したという話が『日本書紀』に記されている。ひょっとして、狐塚古墳の最初の埋葬者は三輪逆ではなかったかと想像すると、歴史の一コマが急に現実味を帯びて感じられるから不思議だ。 A 封土を剥がれた石室の上に巨大なケヤキが根を張る弁天社古墳
狐塚古墳から畦道を引き返すと、集落の中へ入っていく道の角に檜原(ひばら)神社方面の標識が立っている。その標識に従って茅原の集落の中の道を北に進むと、やがて左手に巨大なケヤキの老木が枝葉を茂らす一画がある。そこが、大~神社末社の富士神社・厳島神社の境内で、社殿の裏側に回ると奇妙な光景を目にすることになる。 そこには、封土が失われ石室が露呈している弁天社古墳が位置している。しかも、その石室の巨岩を抱きかかえるように根を張ったケヤキの老木がそびえている。封土が完全に削られており、また発掘調査もおこなわれていないため、この古墳がどのような墳形だったかは不明とのことだ。
桜井市教育委員会が設置した説明板によれば、この古墳には南に羨道を持つ両袖式の横穴式石室が築かれていた。その規模は玄室の長さが約2.3m、幅が約1.7m、羨道は幅が約2mだそうだ。玄室内にはすでに破壊された石棺の破片があり、羨道には家形石棺が置かれている。凝灰岩をくりぬいて造られた立派な石棺だが、裏側に盗掘の際の穴が開けられているという。 この古墳の築造時期は古墳時代後期と推定されている。三輪山麓の古墳の中でも石棺が残る珍しい例の一つだそうだ。 B 箸中古墳群の中で箸墓古墳に次ぐ規模を持つ茅原大墓古墳
茅原大墓古墳は1996年と2008年に発掘調査が実施された。埋葬施設は未調査だが、墳丘には葺石とともに円筒埴輪、朝顔形埴輪、家型埴輪などが樹立していたらしく、埴輪の破片が散乱していた。後円部の西側では、周濠の痕跡も確認された。 地元では、倭佐保姫の御陵として伝えられてきた。そのため、比較的原形をよく留めているという。後円部の北側の裾は墳丘が破壊され現在は畑に変わっているが、長さ約15m、高さ約1mの前方部が存在した。こうした墳丘の古墳は、円形の墳丘に短い突出部が取り付いた帆立貝式前方後円墳と呼ばれている。 出土した埴輪類などから、古墳の築造時期は古墳時代中期、すなわち5世紀とされている。墳頂に登れるというので、隊列の後に続いて登ってみた。笹の生い茂る藪の中を抜けると、後円部の頂は平坦で、特に見るべきものは何もなかった。ただ、西側の梢の間からため池の水面が見えた。おそらく、かっては古墳を取り巻いていた周濠の一部だろう。 |
纒向古墳群の中の箸中支群を探訪するC 纒向古墳群の盟主として堂々たる墳丘を大池に映す箸墓古墳
桜井市箸中にある箸墓古墳は、纒向古墳群の中の盟主的存在である。その規模は、全長282m、後円部径157m、高さ22m、前方部幅125m、高さ13mを測る。日本の大規模古墳上位10基にもランクされそうな、まことに堂々とした巨大前方後円墳と言ってよいだろう。茸石を伴う渡り堤や、周濠、外堤状の高まりも存在したことが確認されている。小規模の古墳が点在するにすぎなかった三輪山西麓に、紀元3世紀の後半になってこの大規模古墳が突然出現した。しかも、我が国の古墳時代は、この箸墓古墳の出現をもって始まるという。
箸墓古墳の被葬者は邪馬台国の女王・卑弥呼であるとする説は、すでに戦前から語られていた。大正時代の末から戦中にかけて、後に徳島中学の教諭だった笠井新也(かさいしんや)は、論文を発表して、「卑弥呼は実は崇神天皇の叔母にあたるヤマトトトヒモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)であり、その墓が箸墓古墳である」と主張した。 西晋の陳寿が著した『三国志』魏書東夷伝倭人条の記述から、卑弥呼は西暦247年かその翌年頃に死亡したとされている。そうであれば、箸墓古墳の築造時期は3世紀中頃となる。
ところが、最近になって国立歴史民俗博物館の研究チームが、これらの布留0式器の表面に付着した炭化物を放射性炭素年代測定法で測定して、炭化物の年代を西暦240〜260年ころとはじき出した。この年代幅は、橿考研が推定した土器の実年代を40年もさかのぼり、卑弥呼の死亡時期に重なる。そのため、卑弥呼の死後すぐに箸墓古墳が造られ、やけ焦がれた炭化物が付着した土器がたまたまた周濠に捨てられたとの想定が可能になった。 放射性炭素年代測定法に対する信頼性には、専門家の間でも異論がある。そのため、考古学学会ではまだこの研究成果を正式には受け入れていないようだ。仮に箸墓古墳=卑弥呼の墓となれば、邪馬台国畿内説は決定的に有利になる。 今回の古墳巡りでは、箸墓古墳の正面を巡り北側の箸中大池に出た。池の縁に立って満々と水をたたえた水面に影を落とす墳丘を眺めるのは、筆者の好きな観光スポットの一つだ。例によって長々と横たわる墳丘をどのようにデジカメに収めようかとLCDをのぞき込んでいて、ふと妙な着想が浮かんだ。ひょっとして、墓には誰も葬られていないのでは・・・という突拍子もない空想である。 原因は、5月31日(日)に近つ飛鳥博物館で聞いた白石太一郎氏の「卑弥呼の死と前方後円墳の誕生」という講演の影響だと思う。白石氏は、卑弥呼の死を契機として、干戈(かんか)交えた邪馬台国連合とその東にあった狗奴国連合が新しい首長連合を形成し、ここに「初期ヤマト政権」とでも呼ぶべき統合国家が成立したと主張された。そして、その統合の象徴として机上プランで独自の墓制を考案して造営されたのが”定型化された前方後円墳”であり、箸墓古墳はさしずめその一号であるといわれた。
そもそも魏志倭人伝では、卑弥呼を埋葬した冢(ちょう)は径百余歩とある。卑弥呼の死の前後には、張政(ちょうせい)を団長とする軍事顧問団が帯方郡から倭国に派遣されてきていた。彼らは邪馬台国で造営された卑弥呼の墓を実見し、帰朝報告の中でその実体を記述していたはずである。魏志倭人伝の著者・陳寿がなんらかの形でその報告に接する機会があったとしたら、虚偽の記述は行わなかっただろう。 陳寿の記述に真を置くならば、卑弥呼の墓は円墳だったはずであり、その規模も150m前後であったはずだ(一歩は六尺。魏普代の一尺は24,12cm、したがって一歩は約1,45mとなり、百余歩は150m前後となる)。百歩譲って、張政たちは後円部に短く未発達な前方部がくっついたいわゆる纒向型前方後円墳を、円墳と勘違いしたとしても、その形状や規模は、箸墓古墳からはほど遠い。 さらに、魏志倭人伝は、”殉葬する者、奴婢百余人”と記している。だが、現在までのところ、箸墓古墳古墳の周辺で殉葬があった物証は発見されていない。箸墓古墳=卑弥呼の墓とするには、こうした魏志倭人伝の記述との違いを万人の納得する論拠で説明することが求められる。実情に合わないからと、倭人伝の記述を無視してしまうのは、学問の王道ではあるまい。 E 帆立貝型の前方後円墳として知られるすホケノ山古墳
JR桜井線の線路を挟んで箸墓古墳の東側200mのところに、ホケノ山古墳と呼ばれる前方後円墳が築かれている。前方部を南西に向けたこの古墳の墳丘は全長が約80m、後円部径55m、後円部高さ約8.5m、前方部長さ約25m、前方部高さ約3.5mを測るが、前方部が非常に短いことを特徴としている。そのため、帆立貝式の前方後円墳とも、定型化された前方後円墳に先行する纒向型前方後円墳とも呼ばれている。
この古墳が世間の注目を集めるようになったのは、1995年11月以降に行われた史跡整備のための発掘調査による。一連の調査によって上記の墳丘の形態の他にも、後円部が3段に築成され、幅約10.5〜17.5mの周濠を持ち、墳丘には葺石を施してあったことが判明した。 さらに、後円部中央から我が国で初めて「石囲い木槨」が見つかった。これは棺を納める施設、すなわち木槨の周囲に河原石を積み上げたもので、古墳時代初期の竪穴式石室に先行するものである。木槨の大きさは、内法で長さ約7m、幅約2.7m、高さ1.1mだった。木槨の中にはコウヤマキ製のくりぬき式木棺(長さ5m、幅1m)が収められていた。
平成9年(1997)5月には、木棺と壺2個を埋めた埋葬施設が前方部東斜面で見つかっている。埋葬施設は古墳の完成後に、葺石を壊して長さ4・2m×幅1・2mの穴を掘り、長さ2・2m×幅45cmの木棺を納めたもので、その外側に2個の壺が供えられていた。前期古墳でこのような位置に埋葬設備が確認された例はなく、弥生時代の墓制を引くものと注目された。埋葬設備の中から出土した土器から、この古墳の築造時期が当初3世紀末〜4世紀初頭と推察された。 大和(おおやまと)古墳群学術調査委員会は平成12年(2000)、この木棺の破片のサンプルを米国の専門機関に送り、放射性炭素(C14)年代測定法での分析を依頼した。そして、欧米と日本との環境の違いから、得られたデータを補正して、コウヤマキの伐採年を2世紀末〜3世紀前半と推定し、ホケノ山古墳の築造時期は3世紀前半と判断した。
ホケノ山古墳は、2006年1月26日、国の史跡に指定された。現在は、復元整備されて一般に公開されている。前方部東斜面には木棺と壺2個を埋めた埋葬施設が復元され、前方部は葺石が敷かれている。その埋葬施設の脇を通って後円部の頂きに登ると、墳丘の上は風の通り道だった。幾分湿気を含んだ風だったが、絶えず丘の上を吹き抜けている。西に視線を投げれば、こんもりと樹木に覆われた箸墓古墳が目の前にあった。その絶好のスポットで皆は昼食の弁当を広げた。
D ホケノ山古墳より築造時期が早い(?)堂ノ後古墳
安原氏の説明によると、天理大学歴史研究会が実施した測量調査やレータ-探査で、全長60m以上の前方後円墳に復元できる可能性が出てきたという。さらに興味深いのは、堂ノ後古墳の周濠を切ってホケノ山古墳の周濠が築かれているとのことだ。つまり、ホケノ山古墳よりも古い古墳ということになる。 F 境内に石棺仏がある慶運寺裏古墳
ホケノ山古墳の頂きから東を見下ろすと、すぐ近くに三輪山慶雲寺という浄土宗の寺の本堂が見える。その本堂の裏側に、直径約13mの円墳と思われる古墳が築かれている。昼食の後、出発までの休憩時間を利用してブラッと立ち寄った。 無縁仏の墓石がうず高く詰めれた奥に、寺の山門前があった。山門を入ると左手の墓地の手前に、健治型と呼ばれる弥勒菩薩の像が置かれていた。刳り抜き式石棺の身の部分を利用して彫られた石棺仏である。横に立てられた説明板によると、慶雲寺の周辺にはかって後期古墳が6基ほど存在したらしく、この石棺仏はその中の一つの古墳から出土した石棺を利用して彫られたようだ。しかし、どの古墳の石棺だったかははっきりしていない。
本堂の裏手にまわると、南面に開口する石室があった。後世の開発によって墳丘は改変されているため、元の形は不明だが、どうやら円墳だったらしい。石室は、乱石積みで築かれた両袖式の横穴式石室である。規模は長さ約3m、幅1.8m、高さ約2mで、羨道の一部は削り取られているとのことだ。 H 方墳だったとも円墳だったとも推定されている小川塚西古墳
ところが、天理大学歴史研究会が実施した測量調査やレーザー探査によって、一辺が約41mの方墳に復元できる可能性が出てきた。周囲には幅約9〜14mの周濠も巡らされていたようだ。 小川塚西古墳の奥に小川塚東古墳がある。もともとは2つの古墳を合わせて小川塚古墳と呼ばれていた。小川塚東古墳も墳丘が削平されていて、現状では古墳と認識できないほど表面が平坦になっている。しかし、レーザー探査によって、復元すれば直径約35m程度の円墳であることが判明したとのことだ。須恵器が出ているので古墳時代後期の古墳と推定されている。 I 箸中支群の最北端に位置する巻野内石塚古墳
桜井市巻野内(まきのうち)地区に位置する石塚古墳は、長い間直径約40m程度の古墳時代後期の円墳であると考えられてきた。しかし、墳丘の北側の果樹畑の部分が不自然に張り出していたため、2002年に桜井市教育委員会が測量調査を実施した。その結果、前方部が北側に取り付く全長約60mの纒向型前方後円墳であることが判明した。
この古墳の周りには、本来は葺石として墳丘上に葺かれていた石材が石垣として使用されている。ホケノ山古墳も同じ纒向型前方後円墳で葺石をもっていた。両古墳は距離的にもそれほど離れていないことから、巻野内石塚古墳の築造時期も従来考えられていた古墳時代後期から、一挙にホケノ山古墳と相前後する時期に引き上げられた。 J 穴師山から西に派生する珠城山丘陵上に展開する珠城山古墳群
穴師山から西に派生する珠城山丘陵上に、1,2,3号墳と呼ばれる3つの前方後円墳がかって存在した。3号墳は削平され現在は宅地になっているが、これらの古墳は珠城山古墳群と総称されている。厳密な区分では、珠城山古墳群は桜井市穴師(あなし)の西の端に位置し、箸中支群には含まれない。 巻野内地区内の道を北上すると、国道169号線の「相撲神社口」交差点から東に登ってくる道にぶつかる。その道を東にたどれば、すぐの所に丘陵が道の左手にそびえている。その丘陵の頂きに3つの古墳が列をなして築かれている。
1号墳は全長50mの前方後円墳で、片袖式の横穴古墳が南に開口している。石室を見学するには、墳丘に築かれたジグザグの道を登らなければない。その登り口に小さな赤い鳥居が立っている。1号墳の墳頂に小さな稲荷神社の祠が建っており、登り道はその参道でもある。石室に到達するまでには、ずいぶんと坂道で待たされた。 石室の規模は、玄室の幅が1.65m、長さが3.4m、羨道は幅が1m、長さが1.3mである。この石室に凝灰岩の組合せ式石棺が破戒されながら残っていた。環頭太刀や挂甲、馬具、金銅製勾玉、須恵器、土師器などが副葬品として出土している。これらの副葬品から、築造時期は6世紀の後半と考えられている。 1号墳の西隣にある2号墳は全長75mで、3基の古墳の中で一番大きい。主体部は検出されていないようだ。3号墳は全長47.5mの前方後円墳で前方部と後円部にそれぞれ横穴式石室が設けられていたという。2号墳と3号墳の前方部を確定するために行われた調査で、円筒埴輪が2号墳の東側だけに巡らされていた。このことから、2号墳は3号墳に先行して築造されたと考えられている。
2号墳の前方部の端に立つと、巻野内の集落のはるか彼方に、二上山から葛城山・金剛山へと続く葛城・金剛山系を望むことができた。これから訪れる纒向古墳群の東田支群は、巻野内地区の先にある。 |
纒向古墳群の中の東田支群纒向古墳群の東田支群は、桜井市大字東田の纒向小学校の周囲に展開する4基の古墳から構成されている。纒向小学校の周辺は当時の墓域だったようで、定型化された箸墓古墳に先行する纒向式前方後円墳が集中している。 東田支群の古墳を巡るには、JR桜井線の「纒向」駅を起点とするのが良い。筆者は今までに何度かこの地を訪れている。最初に訪れたのは2002年の7月だった(纒向古墳群参照)。最近では、昨年の1月、友人のT.Y君を案内してこれらの古墳を訪ねている(平成20年1月10日付け橿原日記参照)。 以前は、この地域の4つの古墳は前方部が後円部の半分程度の、いわゆる纒向型前方後円墳または帆立貝式前方後円墳と呼ばれる3世紀代の最古級の前方後円墳とされてきた。しかし、最近の発掘調査の結果、こうした見方に変化が生じてきているようだ。矢塚古墳は従来通り纒向型とされているが、東田大塚古墳は前方部が長く非纒向型と認定され、さらに勝山古墳も非纒向型と見直されてきている。 K 前方部が試掘調査され非纒向型となった東田大塚古墳
JR纒向駅の脇にある踏切から一直線に西に延びる道をたどり、県道50号線の交差点を横切ると、左手前方の水田の中にこんもりとした丘が見えてくる。そこが東田大塚古墳である。以前は前方部の規模が不明だったが、全長約96m、後円部径64mの纒向型前方後円墳と見なされてきた(ただし、葺石や埴輪はみつかってない)。
墳丘周辺の調査で、この古墳は幅約12m、深さ約1.3mの周濠を巡らせていたことも確認された。周濠部からは布留0式新相期の土器が出土し、墳丘の盛り土の中からも布留0式古相期の土器がまとまって出土している。これらの出土遺物から、築造時期は古墳時代前期と推定されている。 L 最近の発掘調査で前方部の規模が確認された纒向矢塚古墳
この古墳も幅17〜23m、深さ約60cmの周濠の存在が確認されている。周濠からは庄内3式と呼ばれる土器群がまとまって出土しており、古墳時代前期初頭の築造と推定さえれている。主体部は調査されていないが、墳丘上に板石が露出しているため、縦穴式石室または箱式石棺が埋まっているものと思われる。 M 柄鏡のような墳丘を持つ纒向勝山古墳
纒向小学校に北に位置する勝山古墳は、全長が約115m、後円部の径が約70m、前方部の長さが約45mで、前方部がやや細長く柄鏡の形をした前方後円墳である。東田支群の中では最も大きい古墳とされてきたが、現在はその首位の座を東田大塚古墳に譲っている。 墳丘の周囲には、幅約20m、深さ約1mの周濠が巡らされていたことが確認されている。周濠からは土器をはじめ、団扇や舟形などの祭祀関連の木製品が出土した。埋葬設備は調査されておらず、実体は不明である。 この勝山古墳の周囲には濠の名残のような逆台形の池が築かれて、豊かな水量を蓄えている。その水の中をダイダイ色の帯のようなものが幾つかうごめいていた。よく見ると、緋鯉か金魚の稚魚の群れのようだった。 N 戦時中、高射砲の陣地を築くため墳頂が削平された纒向石塚古墳
最後に訪れた纒向石塚古墳は、小学校の東側に位置している。空濠に囲まれた台地の中央に巨木が2本ほどそびえている。第二次世界大戦中、この場所に高射砲の陣地が築かれることになり、墳丘の上部は埋葬施設とともに大きく削り取られてしまった。そのため、現在は高さ4mほど後円部の墳丘が平らな台地として残っている。 この古墳の推定規模は、全長が約96m、後円部の径が64m、前方部の長さが32mで、典型的な纒向式前方後円墳である。墳丘はすべて盛り土であり、その盛り土や周囲の幅18〜24mの周濠跡から土器が出土している。これらの土器は庄内式1式から3式として分類されるもので、弥生時代後期最終末期から古墳時代初頭に使用された遺物である。そのため、古墳の築造時期は古墳時代前期初頭だったと推定されている。 |
(*) 平成21年7月1日付け友史会報より転載