2009/07/02

邪馬台国女王・卑弥呼の死と前方後円墳の成立

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古墳時代の開始を象徴するとされている箸墓古墳

今年は、考古学ファンの熱い視線が注がれる桜井市

■ ヤマト王権発祥の地とされる奈良県桜井市では、考古学ファンが熱い視線を注ぐ考古学のニュースが、今年は相次いで報道されている。

纒向遺跡:邪馬台国の女王・卑弥呼の宮殿の一角を検出か?

現地説明会に参加した多くの考古学ファン
現地説明会に参加した多くの考古学ファン
■ まず今年の3月20日、桜井市教育委員会は、現在発掘調査中の纒向遺跡で3世紀前半の建物跡(柱穴)や凸字形の柵(さく)が見つかったことを公表し、22日には現地説明会を催している。発掘場所はすでに昭和53年(1978)に県立橿原考古学研究所(橿考研)が調査を実施したところだった。そのとき検出された建物跡や塀跡を確認するため、発掘区域を拡大して再調査が行われた。

■ その結果、発掘現場が柵で囲まれた特殊な空間であり、祭祀か何かが行われた場所と推察された。マスコミはまるで卑弥呼の宮殿の一角が発見されたような報道の仕方をした(平成21年3月22日付け橿原日記参照)。

邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とされる箸墓古墳の築造時期は240〜260年頃か?

箸墓古墳
上空から見た箸墓古墳
■ 5月31日、早稲田大学で開かれた日本考古学協会総会で、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館の研究チームが、衝撃的な研究成果を発表した。彼らは箸墓古墳の前方部近くの周濠から発掘された「布留(ふる)0(ゼロ)式」土器の表面に付着した炭化物を、放射性炭素年代測定法で測定した。その結果、食べ物の煮炊きの際に土器に付着したとみられる炭化物は西暦240〜260年ころのものであることが分かったというのだ。

■ 放射性炭素年代測定法とは、植物などに含まれる炭素の一種「C14」が5730年で半減する特性を生かし、残存する炭素量を調べることで出土遺物の年代を測定する方法である。測定結果が正しければ、炭化物が付着したこれらの土器は、箸墓古墳の完成間もない時期に廃棄されたとの想定が可能になる。逆に言えば、箸墓古墳の築造時期は240〜260年頃と特定でき、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓である可能性が高まったことになる。

桜井茶臼山古墳の被葬者埋葬した方形壇を囲った丸太垣の目的は?

上空から見た桜井茶臼山古墳
上空から見た桜井茶臼山古墳
茶臼山古墳の「丸太垣」のイメージ
茶臼山古墳の「丸太垣」のイメージ
■ 6月12日、桜井市外山(とび)に所在する茶臼山古墳を60年ぶりに調査した橿考研は、後円部にある方形壇の周囲に丸太を密に立て並べた類例のない施設が確認されたことを発表し、これを「丸太垣」と名付け、神聖な空間として区画した施設であると推定した。

■ 方形壇の周囲(東西約9.2m、南北11.7m)には、幅0.97〜1.52m、深さ0.86〜1.46mの溝が刻まれており、その溝の中で柱痕跡10本分を確認した。直径30mの丸太の柱が互いに接するように立てられていて、計算すると、約150本の柱が方形壇を取り囲んでいたことになる。柱の埋め込みの深さから、柱の高さは約2.6mと推定でき、こうした丸太垣は方形壇を完全に外部から遮断する目的で築かれたものと推察される。

■ この桜井茶臼山古墳は、3世紀末から4世紀前半頃に築造されたと推定されている全長208mの堂々たる前方後円墳である。これだけの規模の大古墳であれば、被葬者は初期ヤマト王権の大王に比定されてしかるべきだが、記紀に記されたいずれの天皇の墓にも充当されていない。

上空から見たメスリ山古墳
上空から見たメスリ山古墳
メスリ山古墳の埋葬設備イメージ
メスリ山古墳の埋葬設備イメージ
■ 似たような古墳がこの茶臼山古墳の近くにある。茶臼山古墳から南南西1.6kmのところに築かれたメスリ山古墳である。この古墳も墳丘長さが224mの堂々たる前方後円墳で、築造時期は4世紀前半と推定されているが、大王陵には比定されていない。メスリ山古墳を特徴ずけているのは、後円部の頂上の中央に位置する長方形の区画の周りに2重に巡らしてあった円筒埴輪の列であろう。

■ 復元イラストが示すように、内側の埴輪列は、南・北面に各12本、東面に23本、西面に22本、合計69本が並んで埋められ、東西6.7m、南北13.3mの区画を構成していたという。そのうち石室の主軸線上にあった2本が特殊大型円筒埴輪である。 一方、外側の埴輪列は、北面に23本、南面に20本、東・西両面にともに32本、合計106本が建てられていた。また内側と外側の埴輪列の間には、大型円筒埴輪と高坏形埴輪が配されていた。これらの二重の埴輪列で囲まれた区画の内部は石垣で囲まれ、その下に竪穴式石室の埋葬施設が埋まっていた。

オオヤマト古墳群の分布
オオヤマト古墳群の分布
■ 桜井茶臼山古墳で見つかった丸太垣は、後円部墳頂に築かれた聖域を遮断して隠す結界の意味があったと想像されている。専門家の中には、墳丘上に建造物があったと想定する学者もいる(石野博信・二上山博物館長)が、この建造物がメスリ山古墳の巨大埴輪列に引き継がれていったことは容易に想像できる。現在発掘現場は埋め戻されているが、今回の調査では新たに銅鏡片が153点、石製品の破片が21点見つかったそうだ。橿考研は8月から竪穴式石室の内部を調査し、その後に現地説明会を行う。新たな研究の進展が今から期待される。

■ 奈良盆地東南部には古墳時代前期(3世紀中ごろ〜4世紀前半)の大型前方後円墳が6基集中している。いずれも初期ヤマト王権の大王クラスの人物が埋葬されたと推定されている。築造の古い順に並べれば、箸墓古墳→西殿塚古墳(衾田陵)→桜井臼山古墳→メスリ山古墳→渋谷向山古墳(景行陵)→行燈山古墳(崇神陵)となる。このうち、桜井臼山古墳とメスリ山古墳を除く他の4基はオオヤマト古墳群の中の陵墓に指定されていて、学術調査はできない。

卑弥呼死す、大いに冢(ちょう)を作る

近つ飛鳥博物館開館15周年記念特別展のチラシ
近つ飛鳥博物館開館15周年記念特別展のチラシ
■ 『三国志』魏書・東夷伝・倭人の条、いわゆる「魏志倭人伝」には、次のような有名な一節がある。
卑弥呼以て死す。大いに冢(ちょう)を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。

■ この文章の文頭をそのままタイトルにした特別展が、今年の4月25日から6月28日までの2ヶ月間、大坂府立近つ飛鳥博物館で開催されてきた。開館15周年を記念しての春季特別展だった。この特別展の意図は、前方後円墳の成立の背景を提示することにあった。もっと端的に言えば、卑弥呼の死と箸墓古墳の出現を関連させ、箸墓古墳の出現をもって我が国の古墳時代の開始とする最近の学説の紹介にあったようだ。

15周年記念特別展の図録
15周年記念特別展の図録表紙
■ ところで、魏志倭人伝の記述と春季特別展のタイトルでは違っている箇所がある。魏志倭人伝の原文は「卑弥呼以死」となっているが、特別展のタイトルでは「以」が抜けている。この「「卑弥呼以死」」を従来は”卑弥呼、以て死す”とか”卑弥呼、すでに死す”と読んで、卑弥呼の最後は老衰か病気による自然死のように解釈されてきた。

■ だが、30年ほど前、在野の研究者から、卑弥呼の死は自然死ではなくて「非業の死」であるとする説が出された。前後関係から判断すると、”帯方郡から派遣されてきた郡使の張政(ちょうせい)は、檄(げき)を作って倭国の指導者・難升米(なしめ)を告諭した。その結果、卑弥呼は死んだ”、つまり”因果を含めて卑弥呼を殺した”と読めるというのだ。

■ 作家の故松本清張氏は、この説を発展させ古代社会の”王殺し”の風習を下敷きにして、卑弥呼のシャーマンとしての霊力が衰えたため、倭国の部族長たちが謀って卑弥呼を殺害した”、と主張した。京都学園大学教授の岡本健一氏は、『三国志』全体やその他の中国史書に記された「以死」の用例をあたり、そのほとんどは尋常な死ではない場合に用いられていること突き止められた。そして、卑弥呼の死も、(a)不慮の事故死か、(b)覚悟の自害・過労死か、(c)非業の戦死・殺害のいずれかだったと推定された(*1)。

■ 筆者も、卑弥呼の死が非業の死だったと考える一人である。倭人伝には、卑弥呼が死んだ時期について明確な記載はない。一般には、卑弥呼は狗奴国(くなこく)との戦争の最中に死んだとされている。というのは、正始8年、すなわち西暦247年に卑弥呼は帯方郡に使者を派遣して、新しく着任した帯方郡太守・王(斤+頁)(おうき)に狗奴国との紛争を伝え、あわせて軍事支援を要請した。これに対して、王(斤+頁)は塞曹掾史(そうえんし・国境警備の属官)の張政(ちょうせい)を団長とする軍事顧問団を倭国に派遣しててきた。その時期は正始8年中か、遅くともその翌年中であろう。

■ 奇妙なのは、それに続く魏志倭人伝の記述である。張政は携えてきた魏の皇帝からの詔書と黄幢を、何故か卑弥呼ではなく難升米(なしめ)に仮授し、檄文を作って難升米を告諭したとしている。難升米とは、10年前の景初2年(238年)6月、卑弥呼が派遣した遣魏使節団の大使役を務めた邪馬台国の大夫であり、魏の皇帝は旅の労をねぎらって率善中郎将の官位と銀印青綬を授けられている。率善中郎将は、禄高が最高で2000石にもなる近衛隊の高官の官位であるが、外向的な名誉官位だったのだろう。

■ 魏の皇帝からの詔書や黄幢が邪馬台国の女王に直接与えられず、No.2と思われる難升米に仮授されたことは、その時点で直接卑弥呼に渡すことができない事情が生じていたと推察される。もっとも可能性があるのは、卑弥呼の死である。彼女を女王に共立した各国の王が、シャーマンとしての霊力が衰え、狗奴国との戦争に勝てないことを理由に、彼女を殺害してしまったのでは・・・と推測している。

箸墓古墳が邪馬台国女王の卑弥呼の墓である可能性

近つ飛鳥博物館
近つ飛鳥博物館
スクリーンコーナまではみ出した聴講者たち
スクリーンコーナまではみ出した聴講者たち

■ 去る5月31日(日)の近つ飛鳥博物館の午後は異様な雰囲気に包まれていた。午後2時から1時間半にわたって館長の白石太一郎氏が「卑弥呼の死と前方後円墳の誕生」というタイトルで講演されることになっていた。その聴講に大勢の考古学ファンが参集してきた。

■ 講演は地階のホールで行われるが、午後1時の時点では200席以上ある席の予約受付が終了していた。ホールに入りきらない聴講者のために、ホール横のハイビジョンコーナーでスクリーンで講演の様子を映し出すとのことだった。

■ 博物館の地階には、鹿谷寺(ろくたんじ)の十三重石塔の復元模型が展示してある。吹き抜けの空間に聳える高さ約8mの石塔は、まことに存在感がある。はみ出した聴講者のために、その塔の近くまで200近い椅子がならべられた。

■ 館長の白石氏は邪馬台国畿内説の有力な論者であり、箸墓古墳をもって古墳時代の幕開けとする主張には説得力があって人気が高い。当然のようにその講演には多くのファンが参集した。

近つ飛鳥博物館の白石太一郎館長の講演風景
近つ飛鳥博物館長・白石太一郎氏の講演を映し出すハイビジョン

■ 魏志倭人伝が記す卑弥呼の邪馬台国がどこにあったのか・・・については、専門家の間でも長い論争が繰り返されており、いまだに決着を見ていない。理由は簡単だ。依拠すべき資料が、西晋の陳寿が3世紀末(280年-290年間)に著した『三国志』魏書東夷伝倭人条しかないためだ。しかも、そこに記された邪馬台国に至る行程や方向が我が国の実情に合わない。そのために、いろんな読み方がされており、最近では、文献史学だけではその所在地が特定できず、考古学的知見からさまざまな候補地があげられている。

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卑弥呼を埋葬したとされる箸墓古墳(*2)
■ 大別すれば、畿内大和説北部九州説に別れるが、最近では考古学者の大半は畿内説に傾倒しているようだ。卑弥呼の墓が古墳であることを認め、さらに最初の古墳は箸墓古墳かどうかという段階まで争点が移行してきている。

■ 以前は、箸墓古墳の造営時期は3世紀末から4世紀初め頃と推定されていた。その根拠は平成7年(1995)に箸墓古墳の北側に隣接する箸中大池西側の堤改修工事に先立って大量に見つかった土器の形式である。橿考研が調査したところ、これらの土器は布留0式のもので、この形式の実年代は280〜300年(±10〜20年)とされた。このため、卑弥呼が死んだ247年前後とは時期的にずれ、卑弥呼の墓である可能性は少ないとされてきた。

■ しかし、最近では古墳の形態の研究が進み、さらに年輪年代法や炭素年代測定法による古墳出土品の年代測定で古墳時代の開始時期がどんどん早まってきた。その一例は、国立歴史民俗博物館の研究チームの研究結果である。かれらは上記の布留0式器の表面に付着した炭化物を放射性炭素年代測定法で測定し、炭化物の年代を西暦240〜260年ころとはじき出した。

■ 放射性炭素年代測定法という新しい技術がはじき出した年代は、卑弥呼の死亡時期とも重なる。そこで、考古学者は箸墓古墳が卑弥呼の墓である可能性が高まってきたことを前提に、3世紀の中頃から後半には前方後円墳の出現し、古墳時代が開始されたと考えるようになってきている。

卑弥呼の時代における列島の勢力分野
卑弥呼の時代における列島の勢力分野(*2)
■ 白石氏ら邪馬台国畿内説の論者の説によれば、畿内大和に存在した邪馬台国は、卑弥呼の時代までには、畿内、瀬戸内・北九州を含む広域の政治連合を完成させていたという。それが邪馬台国連合であり、中国の史書に記された倭国である。そして、卑弥呼の死を契機として、干戈(かんか)交えた邪馬台国連合とその東にあった狗奴国連合が新しい首長連合を形成し、ここに「初期ヤマト政権」とでも呼ぶべき統合国家が成立した。

■ 白石氏によれば、新しく成立した初期ヤマト政権が、その統合の象徴として造営したのが箸墓古墳ということになる。それ以前の各地の地域性を有する墓制ではなく、机上プランで独自の墓制を考案して、広域の連合政権に加わる各地の首長に対して、新しい墓制すなわち”定型化された前方後円墳”の採用を促したという。箸墓古墳は、さじずめ定型化された第一号であり、箸墓古墳の造営をもって、我が国の古墳時代が開始されたことになる。

■ 初期ヤマト政権はさらに、前方後円墳ー前方後方墳ー円墳ー方墳という順序で初期ヤマト政権における各首長の序列を表す前方後年墳体制を作り上げた。その結果、我が国には、3世紀後半から6世紀末まで続く古墳時代が出現した。その350年間、倭人たちは世界史でも類例を見ないほど全国規模で墓作りに狂奔した。一説には、その間に造営された古墳の数は、15万とも30万とも推定されている。

■ 岡山大学の近藤義郎教授は、その著書『前方後円墳の誕生』の中で古墳時代の出現を次のように定義しておられる。
・定型化した前方後円墳の出現
・墳丘規模の劇的な飛躍
・長大な竪穴式石室と竹割形木棺の採用
・三角縁神獣鏡の多数副葬
・埴輪の出現

纒向石塚古墳 ホケノ山古墳
纒向石塚古墳 ホケノ山古墳

■ 三輪山の西では、箸墓古墳に先行すると考えられる纒向石塚古墳ホケノ山古墳が見つかっている。これらの古墳は、大きな円丘に短い突出部を持つため、「纒向型前方後円墳」と呼ばれ、箸墓古墳などの定型化された前方後円墳の祖形と考えられている。だが、弥生時代終末期の墓であるため、正確には古墳ではなく「墳丘墓」とされている。箸墓古墳が古墳時代の出現を画する前方後円墳であるならば、上記の諸条件を満たしているはずだ。残念ながら、箸墓古墳は現在、ヤマトトトモモソヒメの大市墓として宮内庁が管理していて、その実体は解明されていない。

■ 白石氏の講演で、特に筆者の興味を引いたのは、”定型化された前方後円墳”は初期ヤマト政権に加わる各地の首長が”共に造った”墓制である可能性が高いと指摘された点だ。たとえば、前期古墳の竪穴式石室には、四国の吉野川水系の板石が用いられているが、それは石室の構築を四国の人たちが担当した結果であるという。

黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡
黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡(*2)
■ 古墳時代の前期後半になると、割竹形木棺や舟形木棺、組み合わせ木棺などを模した石棺が出現する。これらの石棺には初期の頃は讃岐の鷲の山石や火山岩が、後には播磨の竜山石肥後の阿蘇石が用いられている。そのため、これらの石材を産する地域の首長が各地の首長墓に石棺を供給したと判断される。

■ 古墳時代の前期後半から中期初頭に副葬品として埋葬された鍬形石、石釧路、車輪石といった緑色凝灰岩製の腕輪形石製品は、北陸の首長たちが初期ヤマト政権の指示で制作を担当したと思われる。そして、古墳の埋葬儀礼に欠かすことができない三角縁神獣鏡などは、ヤマトの王権自身がその確保と提供を担当したと見られる。

箸墓古墳の築造時期は何時か?

■ 卑弥呼の死を契機に、西日本の邪馬台国連合と東日本の狗奴国連合が合体して初期ヤマト政権が成立し、そのモニュメントとして箸墓古墳が造営したとする白石氏の話は、弥生時代から古墳時代への転換期をマクロ的に概括し、聞いていても実に壮大で耳に心地よい。

■ 残念だったのは、邪馬台国畿内説の根拠となる論点が今回の講演ではあまり触れられなかったことだ。弥生時代、北九州地方比べると奈良盆地はどちらかといえば後進地帯だった。奈良県の代表的な弥生遺跡としては、田原本町の唐古・鍵遺跡や橿原市と桜井市にまたがる坪井・大福遺跡が挙げられる程度だ。

復元イメージ
大環濠集落の復元イメージ
■ 近畿の「弥生の首都」とされる唐古・鍵遺跡は、紀元前3〜4世紀から紀元後3世紀の終わりまで約600年存続したとされている。この遺跡が環濠を巡らせた大集落に成長したのは、弥生時代中期である。しかし、中期後半には洪水で周濠がいったん埋没し、集落の規模は徐々に縮小したと思われ、遺構量は減少していく。

■ 坪井・大福遺跡は、弥生時代中期頃が最盛期だったことが判明しているが、弥生時代後期になると面白い現象が見られるという。後期の段階でも環濠帯は存続しているが、遺構量は減少していくというのだ。専門家はこの減少を、分村によって住民が周辺に進出していった結果だと見ている。

纒向遺跡
纒向遺跡の範囲
(桜井市教委作成の現地案内板より)
■ 纒向遺跡は、古墳時代の始まりを告げる遺跡であり、今日、邪馬台国畿内説を立証する遺跡として注目を浴びている。しかし、この遺跡からは、弥生時代の集落は見つかって居らず、3世紀前半の遺構も少ない。纒向遺跡が最盛期を迎えるのは3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてであるという。すなわち、卑弥呼の死後のことである。

■ 奈良盆地におけるこうした弥生時代後期の発掘成果は、後の初期ヤマト政権の核となる政治勢力が纒向の地で生まれ成長したと断定するには、いささか抵抗を感じさせる。北九州で成長した勢力が東遷して奈良盆地を新しい拠点とした可能性に、どうしても魅力を感じてしまう。考古学者は、記紀に記された神武東征の伝承を、奈良時代初めの記紀編纂者の創作であると一顧だにしない傾向があるようだ。はたして机上の創作と言い切れるのだろうか。何らかの過去の事実を反映している可能性はないのだろうか。

纒向遺跡
記紀伝承でも倭迹迹日百襲姫の
墓とされている箸墓古墳
■ 箸墓古墳=卑弥呼の墓とする説は、すでに戦前から語られていた。大正時代の末から戦中にかけて、後に徳島中学の教諭だった笠井新也(かさいしんや)は、論文を発表して、「卑弥呼は実は崇神天皇の叔母にあたるヤマトトトヒモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)であり、その墓が箸墓古墳である」と主張している。

■ ヤマトトトヒモモソヒメは、三輪山の神に仕える巫女(ふじょ)だったようだ。『日本書紀』の崇神天皇10年の条には、「ヒメが死んだので大市(おおいち)に葬り、この墓を箸墓(はしのみはか)と呼んだ。この墓は昼は人間が築き、夜は神が造った。しかもこの墓を築造するのに多くの人が大坂山から箸墓まで相並んで手送り式にして石を運んだ」と記されている。大坂山とは、現在二上山麓の香芝市逢坂(旧下田村)と考えられている。

魏志倭人伝の一節
魏志倭人伝の一節
■ 魏志倭人は、卑弥呼の死亡時期を具体的に記述していないが、正始8年か9年頃、すなわち西暦247年か248年中に、狗奴国(くなこく)との戦争の最中に死亡、または殺害されたと思われる。しかし、死後ただちに巨大な古墳が造営され、埋葬されたとは考えにくい。

■ 白石氏は箸墓古墳の築造時期を西暦260年頃に求めておられる。その理由として、卑弥呼が死んだとき、邪馬台国は狗奴国と交戦中であり、とても女王を埋葬する墓を築くゆとりなどなかったと推察される。その後、魏の軍事顧問団の仲裁で倭国と狗奴国との和議が成立したようだが、倭人伝は次のように記している。  ・・・。更に男王を立てしも、國中服せず。更更相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。
すなわち、卑弥呼の後に男性の王を立てたが、国中は不服として、そのため殺し合いになった。当時千人余りを殺した。人たちはまた、卑弥呼の一族の娘で十三歳の台与(とよ)を王に立てた。国中はようやく、定まったという。

■ この倭国内乱がどれだけ続いたかは不明である。数年は続いたかもしれないが、その争乱中、魏の軍事顧問団は邪馬台国に滞在している。おそらく張政たちの進言で再び女王を擁立し、やっと国内の政治秩序が安定したのだろう。そのことを見極めて、軍事顧問団は帯方郡に引き上げている。台与は、倭の大夫で率善中郎将の掖邪狗(ややこ)ら二十人を派遣し、張政らの帰国を送らせている。その時期についての記載は魏志倭人伝にはない(*)。

■ 箸墓古墳の造営が開始されたとしても、軍事顧問団の帰国後であろう。しかも初めて構築する前方後円墳である。白石氏は国家を挙げての巨大な建造物の造営には最低10年は要したと見ておられる。そのため、260年頃と推測されておられるが、妥当な線であろう。

近つ飛鳥博物館に展示されている大仙古墳の模型
近つ飛鳥博物館に展示されている大仙古墳の模型
■ 百舌鳥古墳群の中の大仙古墳(墳長およそ486mの仁徳陵)は、我が国最大の前方後円墳である。1985年に大林組のプロジェクトチームはこの古墳建設に関する興味深い試算を行った。現在、古代の工法を用いて仙古墳を築くとすれば、1日あたりピーク時2000人、延べ680万7000人を動員して、15年8ヶ月かかることになるとのことだ。その費用は796億円だが、これらの工数や費用は二重目の周濠までで、埴輪作りなどの工費は含まれていないという。

■ ちなみに、箸墓古墳は全長282m、後円部径157m、高さ22m、前方部幅125m、高さ13mを測る前方後円墳であり、茸石を伴う渡り堤や、周濠、外堤状の高まりなどが確認されている。大仙古墳に比べればほぼ2/3の規模でああろう。工事期間10年というのは、それほど無茶な数字ではない。

(*) 『日本書紀』の「神功紀」に引用される『晋書』起居註に、泰始2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したとの記述がある。魏志の魏書三少帝紀によれば、同じ年に東夷が朝貢して禅譲革命の準備がなされたという記事があるので、この女王は壹與で、魏に代って成立した晋の皇帝(武帝)に朝貢したと考えられている。


参考・引用文献
(*1)岡本健一著「卑弥呼の冢と鏡」(新泉社刊『三角縁神獣鏡・邪馬台国・倭国』所収)
(*2)展示会図録よりコピー



2009/07/03作成 by pancho_de_ohsei
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