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2009/06/15
キリシタン大名高山右近が洗礼を受けた沢城の跡
沢山の山上に築かれた中世の城郭・沢城
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| 城山山頂に築かれた沢城の趾(説明板より) |
■ 伊那佐山から南東に延びる標高525Mの沢山(城山ともいう)の山頂に、かって山城が築かれていた。芳野氏、秋山氏とともに宇陀(うだ)三将の一人とされた沢氏が正平年間 (1346〜1370)に本城として築いた城で、「沢城」と呼ばれていた。天正8年(1580)に織田信長が大和郡山城主・筒井順慶に命じた大和城郭破却令によって廃城となったが、沢城はそれまで200年以上にわたって存続したことになる。永禄3年(1560)から10年(1567)の8年間、高山右近の父・高山友照(たかやまともてる)は、松永久秀の配下としてこの沢城を居城としていた。
■ 現在、沢山の山上には本丸、二の丸、三の丸、出の丸などの址が残っていて、「沢城趾」と呼ばれている。ポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』にも沢城のことが記されており、またその城跡は、中世城郭の遺構を今に残す貴重な資料であるとされている。麓の沢の集落には、下城(しもんじょ)と呼ばれる館跡(下城・馬場遺跡)もあるという。(以上、旧榛原町教育委員会が作成した「沢城跡」の説明板をアレンジ)。
■ 沢城趾を有名にしているのは、城郭建設資料として貴重な遺構であるばかりではない。実は、キリシタン大名として有名な高山右近のゆかりの城でもある。永禄6年(1563)にキリスト教に改宗した高山友照は翌永禄7年(1564)、パーデレ(神父)のロレンソ了斎を沢城に招いて一族、家臣らにキリスト教の教えを聞かせ妻子、家臣など150名程を受洗させた。その中に、数え年13歳の高山右近がいた。
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| 沢地区の集落の入口に建つ『右近の碑』 |
■ 高山右近はそれから4年間この城で過ごし、永禄11年(1568)に摂津の高槻城に移っている。そして、元亀4年(1573)4月、和田惟政(わだこれまさ)の家老だった父がクーデターで高槻城を奪取する。その時の戦闘で右近は全治数ヶ月の重傷を負う。生死の境を彷徨った右近は、この機を境にキリスト教へいっそう傾倒するようになったという。完治後、右近は隠居した父の後を継ぎ、高槻城主となり、織田信長に仕えた。
■ 沢山山麓の沢地区の集落の入口に、『右近の碑』と沢城の案内板がある。その近くから城跡へ登る遊歩道が二つある。東の大貝(おおがい)地区からの搦手(からめて)道と、南の沢地区からの大手道である。搦手道のルートはやや遠回りのコースだが、宇陀市では、町おこしの一貫として、このルートを『ダリヨ&ジュストの道』として整備し、道の角々に道案内標識を設置している。ちなみに、ダリヨは高山友照の洗礼名、ジュストは高山右近の洗礼名である。いずれ、この道案内にしたがって沢城趾を訪れる予定でいた。
文祢麻呂墓から沢城趾へアクセス
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| 文祢麻呂墓へのアクセスマップ |
■ 「沢城趾」は、奈良県宇陀市榛原区沢にあって沢集落の北側に聳える山の頂に位置している。伊那佐山から南東側に延びる枝尾根を堀切で分断して築城された城の跡だが、手元の地図には山中にあるこの沢城趾の表示はない。城趾にアクセスするには上記のように2つのルートがあるようだが、ひょんなことから第三のルートが存在することを知った。他でもない、先月29日に文祢麻呂(ふみのねまろ)の墓を探訪した時のことである(平成21年5月29日付け橿原日記)参照。
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| 文祢麻呂の墓の脇を通って沢城跡に続く道 |
■ 国の史跡に指定されている文祢麻呂の墓の裾を巡るように林道が奥へ続いている。その道の脇に「沢城趾」方面への道筋を示す小さな標識がたっていた。標識が指し示す先は、うっそうと茂った檜の植林である。ただ、檜の植林のメンテのために車が奥まで入るのだろう、車輪の跡がはっきりした平坦な林道が林の奥へと延びている。
■ 正直迷った。沢城趾まで足を延ばす予定はなかったので、文祢麻呂の墓から城趾までのルートに関しては、何の予備知識も仕入れてなかった。どんな道筋なのか、どれくらい時間を要するのかも分からなかった。それに加えて、上空には分厚い雨雲が張り出してきており、何時雨になってもおかしくない。折りたたみの傘を用意してきたとはいえ、人っ子一人見かけない山林を傘をさして歩くトボトボと歩くのは、あまり褒められた格好ではない。
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| 植林作業車が入る広い山道 |
丸木橋の先は一転して獣道のような山道 |
■ しかし、標識があり車が通れるほどの広い林道があるからには、それほど険しい山道ではあるまい。そう楽観的に考えて、林道を先に進むことにした。時計を見て正午を少し過ぎた時間を確認して、檜林に分け入った。それが誤算の始まりだった。実際は獣道まがいの山道を行くことになるのだが、この時点では知るよしもなかった。いくぶんルンルン気分で林道を歩いていると、どこからかホトトギスの鳴き声が聞こえてきた。この時期になると、鳴き方も上達して、いつまでも長くさえずっていた。
■ 残念ながら、道幅の広い林道はすぐに行き止まりだった。駐車スペースほどの空き地があり、その先に小さな丸太橋が架かっていた。橋を渡ったところに標識が立っているが、驚いたことに、そこからは獣道を見間違うほど細い道が山の斜面を縫って続いている。さらに、檜の枯葉が散乱していて、道は完全に立ち消えになっていた。おまけに切り倒された間伐材がそのまま放置されていて、このままでは山中で道に迷うのではないかとの、恐怖心がふと頭をもたげた。
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| 植林の中の道なき道 |
沢の集落からの大手道との合流点 |
■ かなりの時間、檜林の中を彷徨ったようだが、方向は間違っていなかったようだ。山道は少し下り坂にかかり、坂道の途中に標識が立っている場所に出た。そのまま直進すれば「沢」の集落への下り道のようだ。沢城趾はその標識から右折して登り道を行くことになる。やっと、この場所が「沢」の集落から登ってくる大手道との合流点であることに気づいた。
■ そうであれば、これからは大手筋をたどって山頂の城跡に到達することになる。それなりに道も整備されているのだろうと期待した。しかし、道は一面に笹が生い茂り、整備された登山道とはとても言えない。それでも、山の尾根に近づいたのか、梢の間から雲に覆われた空を仰ぎ見ることができる。
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| 笹の葉が生い茂る道無き道 |
途中の標識 |
■ 山の尾根に出て、下り坂を少し進むと、山間の谷のような所に、また標識が立っていた。そこから左へ進めば沢城趾、右に曲がれば大貝集落へ下ることになる。ということは、この場所で、今まで歩いてきた大手道と大貝集落から登ってくる搦手道との合流地点ということになる。合流地点からは少し上り坂にかかるが、その先は平坦な山道になっている。
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| 搦手道と大手道の合流点 |
出の丸跡へ続く平坦な道 |
■ 突然、目の前が開けて山道の右手に「沢城出の丸跡」の標識が立っていた。その先にベンチが置かれ、旧榛原町教育委員会が立てた説明板があった。ようやく目的地に到着した。文祢麻呂の墓から40分近くかかったようだ。説明板を読み、城跡のイメージをたたみ込んで、まず出の丸跡の標識の背後にある土嚢を積んだたけの階段を登った。
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| 沢城出の丸跡に登る階段 |
出の丸跡の前に掲げられた説明板 |
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| 沢城の出の丸跡 |
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| 「クラカケバ(鞍掛け場)」跡? |
■ 階段の上には、雑草が生い茂った狭い空間があり、樹木が何本か根本から切り倒されていた。出の丸とは独立した曲輪(くるわ)らしいが、空き地を見る限りそれほど広い空間を占めていたようにも思えない。その奥の林の先にまた細長い空間が見えたので近寄ってみた。その周囲に土塁が築かれていたのか一段高くなっている。中心部分は発掘調査のため樹木が切り払われたためなのか明るい。そこも出丸の一部のようだが、あるいはクラカケバ(鞍掛け場)だったのかもしれない。
■ 説明板に示されている城跡の配置を見ると、説明板の右側に土塁に囲まれた本丸や二の丸跡が描かれている。どのような場所だったのか見てみたいと近寄ってみたが、背丈ほどの高い笹が繁茂していて、とてもではないが近寄ることができない。
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| 本丸があった方面は生い茂る笹に阻まれてアクセスできず |
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| 旧榛原町教育委員会が掲げた説明板 |
■ 説明板の前に置かれたベンチに腰かけて、あらためて周囲を見回してみた。出の丸跡の一画を除いて城趾はうっそうとした木々に被われ、城跡を思わせるような遺物は何も目に入らない。今年の3月、橿考研の友史会が主催する遺跡見学会で宇陀の松山城趾に登ったが、松山城は南北朝の時代付近で活躍した宇陀三将の一人・秋山氏の居城だった山城を江戸初期に福島孝治が大改修した城である。地表を覆っていた樹木がすべて取り払われ当事の石垣や階段が発掘されていた。(平成21年3月14日付け橿原日記)参照)。その時の印象に比べて、史跡保存のあまりの格差に唖然とさせられた。
■ 後で宇陀市役所に確認したところによると、付近は民有地であり、地主が許可がなかなか得られないため、発掘調査は2001年から2007にかけて断続的に行われたに過ぎず、また範囲も出の丸を中心とした一画だけだそうだ。説明板に示されていた本丸や二の丸跡などは、まだ未調査とのことである。
■ ベンチに座ってコンビニで買ってきた握り飯をほおばりながら、ルイス・フロイス(Luis Frois, 1532 - 1597)が著した『日本史』(Historia de Japão)』の中の記述をおぼろげながら思い出してみた。フロイスが肥前国横瀬浦に来たのは、永禄6年(1563)7月である。彼は2年後の永禄8年(1565)に京に上っている。フロイスは大和沢城を訪れたことはないが、彼を京に送り届けたポルトガルの医師ルイス・デ・アルメイダ(Luis de Almeida, 1525 - 1583)は、堺へ向かう途中奈良を見学し、沢城を訪れている。フロイスはその時の沢城の様子をアルメイダから聞いて記録している。
■ アルメイダはその年の5月、中空に聳える沢城に案内され、その場所が周囲半レグア(約2.3キロ)を見渡せる快適な山上にあり、周囲を杉、松その他の鮮やかな緑したたるばかりの美しい樹木に取り囲まれていた、と語っている。さらに、城内には長さ九プラサ(19.8m)、幅三プラサ半(7.7)の小さな教会があり、そこには礼拝堂、香部屋、神父や修道士を泊める部屋、その人達の供のための別の間などが杉材で大変よく作られていたという。
■ アルメイダはその日、城内にある教会の並びに泊まっいる。そうした城内の教会設備は、おそらく杉の香もまだかぐわしい建物だったはずである。というのは、2年前の永禄6年(1563)の5月、キリシタン反対派の急先鋒だった高山友照(たかやまともてる)は、結城山城守忠正、公卿清原枝賢(しげかた)と共に、奈良で琵琶法師だったイエズス会員ロレンソ了斎(1526 - 1592)に論争をしかけた。しかし、数日におよぶ議論の末、ついにキリシタンに好意を持つに至り、三人とも洗礼を受けた。
■ 翌年の永禄7年(1564)6月、高山友照は、ロレンソ了斎を沢城に招いて、一族、家臣らに説教を聞かせ妻子、家臣など150名程を受洗させている。このとき、ロレンソは6日ほど沢城に滞在している。実はキリシタン大名として後に高名をはせる友照の嫡男・高山右近が洗礼を受けたのも、この時である。洗礼をジェスト(Justo, 義人の意)という。まだ数え年で13歳の少年だった。従って、ロレンソを招いて一族郎党に洗礼を受けさせるために、友照がその年に城内に教会を築かせたことは容易に想像できる。アルメイダが沢城を訪れたのは、その翌年のことである。
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大分市の遊歩公園に置かれた西洋医術発祥記念像 中央がルイス・デ・アルメイダ |
■ ちなみに、ロレンソ了斎は肥前国出身の日本人で、片目は全く見えず、もう一方はほんのわずかしか見えない半盲の琵琶法師であった。彼は1551年に山口の街角でたどたどしい日本語でキリスト教の教えを説くイエズス会のフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)に出会って洗礼を受けた。1549年に鹿児島に来日したザビエルは、2年後の1551年11月には日本を離れるが、ロレンソ了斎はその後もイエズス会の宣教師を助けて、キリスト教布教に生涯を捧げている。
■ 一方、上記のアルメイダは、1552年に貿易目的で来日、日本とマカオを行き来して多くの富を手にした。その彼はイエズス会の宣教師との出会いを重ねるうちに思うところがあって、豊後府内(大分県大分市)の領主・大友宗麟に願い出て土地をもらい受けた。そして、1557年に外科、内科、ハンセン氏病科を備えた日本最初の様式病院を建てた。アルメイダは外科を受け持ち、日本で初めて西洋医術による手術を行った。彼はイエズス会の会員であるとともに、国内にいる時ポルトガル王から与えられる医師免許を取得していたのである。アルメイダは布教においても活躍し多くの人々を改宗に導いたが、医師としても貧しい人々を助けた。
■ 今、沢城趾を訪れても、山上の木立に囲まれた狭い空間があるだけである。説明板の簡単な略図がなければ、どこにどの様な設備があったかも想像できない。だが、今から445年の昔、礼拝の日には麓の館から150人近い人人々がこの山城に来て、教会に飾られた竹製のロザリオに祈りを捧げていたはずだ。彼らのほとんどはキリスト教とはどのような教えかも理解せず、ただ城主の命令で洗礼を受けただけの信徒だったかもしれない。それでも彼らの歌う賛美歌は風に乗って麓の村々でもかすかに聞き取れたことである。今、ベンチに座っていても、聞こえてくるのは、時折梢の先端を揺らして吹き抜ける風の音ばかりである。
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| 大手筋の下り道 |
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| 梢の間から見かけた山麓の集落 |
■ 戻りは、また文祢麻呂の墓方面に引き返すのではなく、沢の集落へ下ることにした。文祢麻呂の墓方面の道と沢方面の道の合流点まで引き返すと、道を右に取り集落に向かって下っていった。枯葉が散乱して、遊歩道としてほとんど整理されているとも思えない山道が、植林の中をどこまでも下っていく。時折、梢の切れ目からのぞき見る空には、今にも泣き出しそうな重い雨雲が広がってきた。
■ こんな山道を若き日の高山右近は行き来したのだろうかと思う。山麓から2キロ足らずの山道とはいえ、それなりに斜面に築かれた急坂だ。もっとも当事の登城の道は、今では植林の中に埋もれてしまって、現在の遊歩道は仮の道かもしれない。また、当事は現在のように山一面に植林されていることもなかったであろう。現在の景観から当事を想像するのは禁物だ。
■ それにしても、数え年13歳で受洗した高山右近が、当初から筋金入りにキリシタンだったとは思えない。キリスト教を深く信ずるようになったのには、それなりの動機があったはずである。一般には、そのきっかけは次のように言われている。
■ 永禄11年(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、高山友照親子は高槻城主・和田惟政(わだ これまさ)の組下につけられ、沢城から高槻城に移った。したがって,永禄7年(1564)6月にロレンソ了斎から洗礼を受けた右近は、4年後には沢城を出て高槻城に移ったことになる。
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| 高槻城跡の城跡公園に立つ高山右近の像 |
■ 和田惟政はキリスト教を自領内において保護したことで知られる大名だが、元亀2年(1571)に戦死した。子供の和田惟長(わだこれなが)が後を継ぐが、これが父惟政に遠く及ばぬ人物で、高山父子に家臣の信望が集まっているのを知り高山父子の暗殺を図る。そのため高山親子は元亀4年(1573)4月、機先を制して高槻城を乗っ取り、自ら城主となった。このとき惟長と切り合って右近は瀕死の重傷を負ったが、奇跡とも言える回復を遂げた。右近はこの機を境にキリスト教へ傾倒するようになったとされている。
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| 同上 |
■ 重傷で死の床についていた右近はおそらく臨死体験をしたであろう。天国に迎え入れられる一歩手前で彼の祈りがキリストに通じて、かろうじて生還することができた。彼には、それがキリストの軌跡に思えたにちがいない。信長亡き後、賤ヶ岳の合戦(天正11年、1583年)では常に最前線で戦い武将としての有能さを秀吉に見せつけた。また、この頃から千利休の高弟として茶人としても活躍し、茶を介して深くつきあうようになった他の武将達の多くを、キリシタンに改宗する手引きをした。
■ 天正15年(1587)、秀吉に従い九州攻めに従軍していたがキリシタン禁令の発令と共に棄教を迫られる。右近は棄教を拒否し、小西行長の手引きで淡路島、小豆島に隠れた。翌年、右近の才を惜しむ前田利家の斡旋で加賀に引き取られる。時に37歳だった。軍事顧問として小田原攻め、関ヶ原の役で活躍し、利家の死後は後継者利長の顧問として政治にも参加し、前田家の家老扱いを受けた。
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| マニラの高山右近 |
■ 慶長19年(1614)、徳川家康はキリシタン禁令を発令し、宣教師、信者等の海外追放を命じた。右近は追放者の筆頭として挙げられ、家族と共に前田家を辞し長崎に集められ、その年の12月、ジャンクに乗せられてマニラに追放された。
■ 慶長20年(1615)、イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近は、マニラでスペイン人のフィリピン総督フアン・デ・シルバらから「偉大なキリストの騎士」として市をあげた大歓迎を受けた。しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため、右近はすぐに病を得て、到着直後から体調を崩してその年の2月4日病没。64歳だった。全マニラ市による10日間に渡る葬儀が執り行われ、マニラのイエズス会墓地に葬られたと伝えられている。
■ 30分足らずで、沢の集落のはずれにある民家の近くまで下りてきた。山道が車道と合流する場所に標識が立っている。そこが大手道の登山口のようだ。集落の中を西に向かって芳野(ほうの)川方面に向かって下っていくと、雨が降り出した。振り返ると、道の正面に今登ってきた沢山があった。県道の内牧菟田野線にぶつかるあたりでは、雨脚が強くなった。県道の脇に『右近の碑』が立っていたが、そこからバス停「比布」までは、まだどれほどあるのか皆目見当がつかない。
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| 沢集落のはずれにある大手道の登山口 |
沢の集落から振り返ってみた沢山 |
■ どうしょうか迷っていると、たまたま大貝集落の方から軽自動車が走ってきた。車体にJAのマークが付いていた。車を止めてバス停までの距離を聞くと、1.5キロほどあるという。運転手はこの地域に赴任してきたばかりの青年だった。「この雨では大変でしょう。戻りの道筋だからバス停の所までお送りしましょう」と嬉しい言葉をかけてくれた。バス停に着くと、すぐに榛原駅行きのバスがきた。
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| 『右近の碑』近くの『ダリヨ&ジュストの道』の標識 |
2009/06/15作成 by pancho_de_ohsei
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