2009/05/29
壬申の乱の功臣・文弥麻呂の墓を訪ねる
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| 文祢麻呂墓へのアクセスマップ |
宇陀市の榛原区八滝(やたき)に文祢麻呂の墓があると最近聞いた。文祢麻呂と書いて”ふみのねまろ”と読む。どこかで聞いたような名前だなと思ったが、すぐには思い浮かばなかった。ところが、壬申の乱(じんしんのらん)で活躍した大海人(おおあま)皇子方の舎人(とねり)と聞いて、はたと思い当たった。
だが、筆者が記憶している人物の名は、書首根摩呂(ふみのおびと・ねまろ)である。以前に『古代最大の内乱「壬申の乱」を追う 』で、大海人軍の戦いの軌跡を追ったたとき、『日本書紀』に記されたこの人物の名を知った。その彼が文祢麻呂と同一人物であると認識するのに、少し時間がかかった。それと同時に、正史に登場する著名な将軍の墓が、なぜ人里離れた八滝のような場所に築かれていたのか興味を持った。
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| 榛原駅前から出る曽爾村役場前行きバス |
文祢麻呂の墓は車でもアクセスできるそうだが、残念ながら橿原にはマイカーを持ってきていない。頼りにするのは、バスの便か、チャリンコか、己の足以外にない。調べてみると、近鉄榛原駅前から出ている奈良交通バスで最寄りの「八滝」まで行き、そこから徒歩30〜40分ほどで到達できるとのことだ。
ペットボトルと弁当は駅前のコンビニで調達することにし、使い古したリュックにとりあえず着替えと雨具と杖を放り込んで近鉄電車に飛び乗った。天気予報では絶好の行楽日とは行かない。昨日は太平洋側を通過した低気圧のおかげで、近畿地方は季節はずれの台風なみの風と雨に襲われた。その余波は残っていて、朝のニュースでは本日は曇り、所によってはにわか雨を予想していた。
榛原駅前から出ている曽爾村役場行きのバスは、決して便が良くない。10時15分発のバスに間に合うように榛原駅に到着した。平日ではこの便を逃すと、次は12時15分までない。発車直前にバスに乗車したが、乗客は筆者一人だったので一番前の席に座った。
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| 八滝集落の中の「八滝」バス停 |
運転手は定刻通りにバスを発車させた。榛原トンネルを抜けると、バスは内牧川に沿って国道369号線を走りながら、どんどん山間の谷の奥へ入っていく。途中で拾う乗客もいないため、運転手は運行表通りに進むのに苦慮しているようだ。ときどき一時停止をして後続の車両を先に行かせながら、のんびりと話しかけてくる。
「お客さんはどちらまでゆくんかね?」
「八滝で降ろしてくれないかね」
「ほう、八滝ですか。八滝に何があるんです?」
「集落からかなり奥まったところに、奈良時代の初めに死んだ人物の墓があると聞いて出かけてきたんだ」
「ほう、そんなに有名な人物なんですか?」
「いや、有名と言うよりその墓から出てきたものが凄いんだ。火葬した骨を入れた壺や銅の箱に入った墓誌が見つかっている。見つかったのは天保2年(1831)というから江戸時代の終わりころだけど、今ではこれらの出土品は国宝として東京の国立博物館に所蔵されている」
「へえ、こんな山奥から国宝が出てるんですか。で、何という人物の墓なんです?」
「宮城の警護を司った役所の長官で、名を”ふみのねまろ”という」
「そう言えば、バス停の手前に道案内の標識が立っていますね、それが、墓へ行く道しるべだったんですか・・・」
どうやら、毎日バスを運転していながら、運転手はあまり歴史に興味がなかったようだ。
榛原区の高井集落にかかると、国道369号線を走っていたバスが、集落の中の旧道に入っていく。なんとなく見慣れた集落だな、と古い記憶をたどっていると、突然「高井」バス停付近で「仏隆寺」に看板が目に入った。仏隆寺は春は桜、秋は彼岸花で有名な寺である。以前、バス停からテクテク歩いて彼岸花の写真を撮りに行ったことを思い出した(平成18年9月22日付け橿原日記参照)。
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| 要所要所に立てられた標識 |
10時30分にバスは、「八滝」停留所に着いた。気を付けて行ってらっしゃい、との運転手の声に送られてバスを降りると、少し来た道を戻った。バス通りから右に入る道があり、谷川に架かる橋のそばに、「国史跡 文祢麻呂墓」の標識が立っている。
道路脇の草刈りをしている男性がいたので、祢麻呂の墓までの所要時間を聞いてみた。普通の人の足で30分そこそこでしょうとのことだった。道の要所要所に標識が立っているから、迷うことはないですよと、その男性は付け加えるように教えてくれた。
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| 文祢麻呂の墓に掲げられた説明板 |
文祢麻呂の墓は、江戸時代の天保2年(1831)9月に発見された。場所は現在の宇陀市榛原区八滝の山奥である。どのような経緯で墓が発掘されたのかは分からない。墓の前に立てられた説明板には”偶然”発見されたと記すだけである。そのとき見つかったのは火葬された骨で、ガラスの壺に納められ、その壺は布でくるまれ、さらに金銅の壺(骨蔵器)に納められていた。
銅の箱に入った銅製の墓誌板も同時に見つかっている。それには、次のように2行の文字が刻印されていた。
壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻 呂忌寸慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒
この墓誌から、ここが慶雲4年(707)9月21日に亡くなった左衛士府の督(長官)で正四位上文祢麻呂忌寸の墓であることが明らかになった。
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| 火葬骨を納めたガラス壺(左)と金銅製の骨蔵器(*) | 墓誌板が入っていた銅箱(*) |
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| 墓の推定復元図 |
その後、墓は埋め戻され、出土した品は地元の龍泉寺に保管されていた。これらの品は明治11年(1878)に帝室博物館に移られ、昭和27年(1952)に国宝に指定され、現在は帝室博物館の後身である東京国立博物館に所蔵されている。なお、昭和57年(1982)に再調査がを実施したところ、一辺が約2.5mの穴とこれを埋めた粘土などが見つかった。その結果、墓は堅炭の上に銅箱や金銅壺などを置き、その周辺に木炭や砂質の土で埋め、最後に粘土で全体を覆う構造だったことが判明した。
この墓は奈良時代の上級官人の埋葬方法が明らかになった数少ない例であり、再調査から2年後の昭和59年(1984)4月に貴重な遺跡として国の史跡に指摘された。
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| 内牧川の支流に沿って谷奥へ続くアクセス道路 |
八滝バス停から文祢麻呂の墓へのアクセス道路は、内牧川の支流が流れる狭い谷に沿って南に延びていく。場所によっては猫の額ほどの棚田の早苗が植えられていたり、杉の植林の中を抜けていくところもある。
そ道の途中で小型トラックを止めて畑仕事をしている夫婦と立ち話をしている地元の住人がいたので、龍泉寺の所在を聞いてみた。寺はもう少し奥の集落の右側斜面に位置しているとのことだった。話し好きの運転手らしく、大きな声で龍泉寺の境内に記念の石碑を建てたときの苦労話を話してくれた。石が巨大で境内に引き上げるのに道を拡張しなければならず、国も県も面倒を見てくれず、村中で何とか工面したという。運転手は当事の自治会長だった。
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| 龍泉寺の境内に建つ文祢麻呂の碑 |
龍泉寺へ登る坂道まで来たとき、先ほどの小型トラックが追いついてきた。文祢麻呂の墓まで行くなら、車で送っていってやろうという。せっかくの好意だけど、自分の足を距離を確かめたいから、と断った。それもそうだな、と納得したようで車を発進させた。その間際に、指で自分の顔を指して、「どうだ、俺も親切だろ」と言って、ニタッと笑った。その仕草が可笑しかった。狭い龍泉寺の境内の真ん中に、場違いのように大きい碑が建っていて、「正四位上文祢麻呂忌寸之碑」と印刻されていた。
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| 道の分岐点に立つ道標 |
五社神社の参道 |
11時5分、谷の奥に向かって進んできた道が山にぶつかって、左右に分岐する地点に来た。道を右に取ると、すぐの所に五社神社の鳥居があった。鳥居の先に急な石の階段が続いている。参道を登ってみたが、境内は杉の枯葉が散乱しているだけだった。鎮守の森の左側の道を進むと、村のはずれで左方向への標識が出ていた。
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| 分岐点にある最後の標識 |
ここから左へ進む道は、林道である。幅員3mの八滝米山線である。杉の植林の中を勾配を増した坂道が続いている。あえぎながら杉の枯葉が散乱している道を登っていくと、前方に植林が切れて明るい空間が見えてきた。そこが文祢麻呂の墓だと思ったが、村の共同墓地だった。文祢麻呂の墓はさらに先にあった。時計を見ると11時28分だった。「八滝」バス停を出発したのが、10時半だったから、途中で龍泉寺に立ち寄ったため10分ほどロスしたが、約50分を要したことになる。
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| 山の南斜面に整備されている国史跡・文祢麻呂の墓 |
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| 国指定を記念して建てられた碑 |
文祢麻呂(ふみのねまろ)は、書首根摩呂(ふみのおびと・ねまろ)の名で『日本書紀』に登場する。西暦672年の陰暦6月24日、必死の思いで吉野を出奔した大海人(おおあま)皇子は3日後の6月27日、野上(関ヶ原町野上)の行宮(あんぐう)に入った。そして、7月2日、全軍に進撃命令をくだした。
大海人皇子は、全軍を2つに分け、紀臣阿閉麻呂(きのおみあへまろ)らに数万の兵を与えて鈴鹿越えで大和に向かわせるとともに、村国連男依(むらくにのむらじおより)にも数万の兵を与えて不破から琵琶湖東岸をまっすぐ近江に向かわせた。その村国連男依傘下の琵琶湖方面軍の中に、一軍を率いる将として文祢麻呂の名がある。
琵琶湖方面軍の活躍はめざましかった。7月7日に息長の横河で近江軍を破ったのを皮切りに、9日には鳥籠山で近江軍と戦い大勝した 。17日には安河(野洲川)で近江軍と戦い、これを追撃して22日に瀬田に到達した。この日、大友皇子が率いる近江朝廷軍と決戦し、これを大破し、翌日大友皇子は自殺し、内乱は終結した。
『日本書紀』には祢麻呂の具体的な活躍を示す記事はない。しかし、若き武将として獅子奮迅の活躍をしたであろうことは容易に想像できる。壬申の乱当事の彼の姓(かばね)は「首」(おびと)だった。しかし、天武12年(683)の改姓では「連」(むらじ)に進められ、2年後の天武14年には「忌寸」(いみき)の姓が与えられている。また、『続日本紀』によれば、大宝元年(701)7月21日、過去の論功で100戸の封が与えられている。
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| 国の史跡に指定されている文祢麻呂の墓 |
墓誌は、文祢麻呂の武功を後世に示すために「壬申年将軍」とし、慶雲4年(707)9月21日に死亡したと記している。死亡時の年齢はわかっていないが、彼の最終的な役職は、武官の要職である左衛士府の督(長官)で官位は従四位下だった。しかし、『続日本紀』によれば10月24日、元明天皇は使者を派遣して詔の述べさせ、正四位上を追贈するとともに、あわせて絹布の一種である■(あしぎぬ)や布を贈っている。
祢麻呂の墓は、山の南斜面に築かれている。今でこそ前方は植林された杉の木立で見通しは悪いが、当事は前方の山並みが見渡せる風光明媚な場所だったであろう。祢麻呂の出身は、応神天皇の時代に朝鮮半島から渡来したとされる王仁(わに)を始祖とする西文(かわちのふみ)氏ではないかと言われている。文筆業でヤマト朝廷に仕えた一族で、現在の大阪府藤井寺市付近を中心に栄えた。その一族の出世頭とも思える人物の墓が、なぜ河内ではなく現在でも人里離れた山中にあるのか?
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| 文祢麻呂の背後から南を望む |
その謎を解くヒントは史書にはない。しかし、空想をたくましくすれば思い当たることがある。史書に彼の名が最初に登場するは、琵琶湖方面軍の指揮官としてではない。大海人皇子が挙兵を決断して672年6月24日に吉野宮を出た日、皇子と行動を共にした舎人(とねり)の中に、文祢麻呂の名がある。ということは、前年の10月19日、皇位継承にからんで身の危険を感じた大海人皇子が、兄の病気治癒を祈願するために出家して吉野に逃れた時、皇子に従った40人あまりの舎人たちの中に彼はいた。
吉野宮に着いた皇子は随行してきた舎人に対して、
「自分と一緒に仏道の修行したいと思うものは留まってもよいが、朝廷に仕えて名をなそうと思うものは引き返せ」
と何度も諭した。その結果大半の舎人は帰っていったが、祢麻呂は留まった。大海人皇子にとって、祢麻呂は文字通り”股肱の臣”だった。
27年前の645年に兄の天智天皇が古人皇子に下した処遇を、大海人皇子は明日は我が身と受け取っていたにちがいない。吉野に隠遁した日から皇子の腹はすでに決まっていた。このまま座して死を待つわけにはいかない、たとえ逆賊と言われようと、皇太弟としての意地をかなわぬまでも示さなければならない・・・と。
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| 文祢麻呂の墓の前面 |
美濃国の安八磨郡(やはちまのこおり、現在の岐阜県安八郡全域と海津郡の一部)には、大海人皇子の私領である湯沐(ゆのう)があり、その管理者である湯沐令(ゆのうながし)は、多臣品治(おおのおみ・ほむち)が務めていた。決起を決意した皇子は吉野から美濃へ逃れるルートの確保と美濃以東の諸豪族を味方に引き込む手を次々と打ったことは想像に難くない。
その手足となって動いたのは10余名の舎人たちである。仮に宇陀方面の土地の有力者を手なずける役目を祢麻呂が引き受けたとしたら、そして、その工作の最中に有力者の娘と運命的な出会いを果たしたとするなら・・・。当事の祢麻呂はまだ20代の若き青年だったはずである。だが、歴史に「たら」「れば」はないというから、筆者の空想もこのあたりで留めておく。でも、そうしたシチュエーションを設定しないかぎり、この地に彼の墓が築かれた納得すべき理由が見つからない。
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| 文祢麻呂の子の馬養が詠んだ万葉歌碑 |
国の史跡に指定された文祢麻呂の墓の前面に、次の万葉歌を刻んだ碑が置かれている。
●さを鹿の 来立ち鳴く野の 秋(あき)萩(はぎ)は 露霜負(お)ひて 散りにしものを 巻8−1580
作者は文祢麻呂の子の馬養(うまかい)で、彼は、主税頭や筑後守を経て天平宝字元年(757)には鋳銭長官をつとめた人物である。この歌は橘諸兄(たちばなのもろえ)の邸宅で催された宴の席で馬養が詠んだ2首のうちの一つとされている。
年齢的に見て、馬養は祢麻呂の嫡子ではなく、相当年老いてからの子供のようだ。馬養は存命中にこの父の墓に詣でたことはあるだろうか。
(*)文化庁のHPより転写
2009/05/30作成 by pancho_de_ohsei
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